23.紅の姫は儚くなる
20/10/16 微修正
幼いころの吾は、帝国の後宮で隠されるように育てられた。
日常的に周囲にいたのは、『紅の姫』と呼ばれる母、身の回りの世話をする侍女たち、そして侍女たちを監督する女官たちだけ。
ほかには、ときおり吾のための教師や健康管理を行う医師が訪れるくらいだ。
そして、母のもとには皇帝エデュが頻繁に面会に来ていた。
「そういえば、娘はどうしておる?」
「今はお昼寝をしております」
「そうか」
たまにそんなやり取りがあるだけで、吾が直接エデュに会うことは数えるほどしかなかった。
エデュが訪れた際には、吾は物陰からこっそりとその様子を見ることがほとんどだった。
母が吾を皇帝から遠ざけていたのだ。
「あの人がベルのお父さん?」
吾が母にそう聞いたのは、皇帝の獅子の如き黄金の髪が、鏡に映る自分の髪色にあまりにも似ていたからだ。
そのときの母の顔は今でも忘れられぬ。
戸惑い、悲しみ、それを吾に見せまいとする、やるせない表情。
「いいえ、いいえ。私はあの人に生涯の愛を誓った。女神に『忘れない』と誓約した。だから、私の娘はあの人の娘よ。あなたの父はあの人よ」
「あの人?」
「紅の騎士様。この世で最も勇敢なお方」
「紅の騎士様?」
母が『紅の姫』であるならば、『紅の騎士』もまた、美しい真紅の髪を持っているに違いない。
だが、吾の髪は黄金だ。黄金なのだ。
その夜、吾は背中まで伸びていた髪に鋏を入れた。自らの髪の色を見ずに済むように。
「ごめんなさい。ごめんなさい」
肩の高さに切りそろえられた吾の髪を撫でながら、母は一晩中泣いていた。
母は吾にたくさんの本を読むように勧め、そして、自らも人や世界について吾に説いた。
後宮に閉じ込められた吾にとって、本と母の言葉だけが、広い世界を知る手がかりだった。
「ベル、よくお聞き。人は三種類に分けられるの。『恐れに支配される者』、『恐れを知らぬ者』、そして『恐れに立ち向かう者』よ」
「お母様はどれ? ベルはどれ?」
「私は、かつては『恐れに立ち向かう者』でした。でも今は『恐れに支配される者』よ。ベル、あなたは『恐れに立ち向かう者』であり続けなさい」
「『恐れに立ち向かう者』はどんな人? 誰が『恐れに立ち向かう者』?」
「この後宮には『恐れに支配される者』と『恐れを知らぬ者』しかいないわ。いえ、長年に渡る恐怖による支配で、王宮全体がそうなってしまった。『恐れに支配される者』はまだいい。『恐れに立ち向かう者』に変わることもできる。けれども『恐れを知らぬ者』になり果ててはだめよ」
幼かった吾は、後宮にいる侍女や女官たちを注意深く観察した。
おそらく『恐れに支配される者』とは、いつも何かに怯えた目で仕事に勤しむ侍女たちを指しているのだろう。
だが、『恐れを知らぬ者』とは?
母や侍女たちに傲慢な態度を取る、それどころか自分以外の全員を見下しているようにも見える、あの女官たちのことだろうか?
帝国の皇后にもかからわず、母は女官たちから軽んじられていた。明らかに不当な扱いを受けていた。
しかし、母は甘んじてそれに耐えていた。
「お話の中のお妃様はみんなに大切にされるのに、どうしてお母様はいじめられているの?」
「よいのです。これもまた、私への罰なのだと思えば、どうということはありません」
吾には母の態度が理解できなかった。
女官は基本的に貴族の娘たちだ。しかも後宮に出仕するとなれば、古くから帝国に仕えてきた譜代貴族の出身に限られる。
それでも、滅びた国の元王女であったとしても、今は皇后である母のほうが女官より地位ははるかに上だ。
母が抵抗しないから、女官たちは付け上がるのだと思った。
その証拠に、皇帝が後宮を訪れるときには、女官たちも大人しく母に従う。少なくとも表面上は。
「お母様に謝れ!」
女官たちが母に見せる態度に我慢できなくなった吾は、ある日、とある女官に食ってかかった。
そのころから吾は勝ち気だった。母を守れるのは自分だけだと信じていた。
その女官は顔を真っ赤に染めると、吾を殴り飛ばした。
さすがの母もこれには耐えられなかったのか、その女官のことを皇帝に訴えた。
翌日、その女官は姿を消した。
「ああ、またひとり。まさか……一族すべて? いえ、皇帝ならそうする。ごめんなさい、ごめんなさい。私は一体どれだけの人を……」
女官の身に何が起こったのか、母にはわかっているのだろう。
嘆く母を見て、母にとっては女官の無礼な態度に耐えるほうがよほど楽なことなのだと悟った。
不思議なことに、ひとりの人間が姿を消したにもかかわらず、女官たちの態度が改まることはなかった。
次は自分かもしれないと、恐ろしくはならないのだろうか。
吾は女官たちが『恐れを知らぬ者』なのだと理解した。
女官たちは普段、吾をいない者として扱う。吾に注意を払わない。
その分だけ、吾は女官の陰口を耳にする機会に恵まれていた。
「ふふ。母親が見ている前で子供に手を上げるなんて、馬鹿じゃないの? 見えないところでやればいいのに」
「皇后と言ったって所詮はよそ者。政務もさせてもらえない愛妾扱いじゃない。機嫌が悪いとすぐに嘘をつくのだって言えばいい。ほかの女官も喜んで口裏を合わせてくれるわ」
「忌々《いまいま》しい。滅んだ国の王族が、我ら譜代の家臣を差し置いて皇后などと。皇帝を誑かす女狐を懲らしめてやらなくちゃあね。あの女が死ねば、目を覚ました皇帝に褒めてもらえるんじゃないかしら」
女官たちの言い分は、吾に言わせれば愚か極まりないものだった。
どうして隠し事が明るみにでないと信じられるのだろうか。
嘘がばれないと思えるのだろうか。
世の中は自分の思いどおりにならないことのほうが多いことを、忘れていられるのだろうか。
そのことを母に尋ねると、母の顔色が一変した。
「忘れている? 『恐れを知らぬ者』ではなく、『恐れを忘れた者』なのだとしたら? 加護が反転している? まさか」
「加護?」
「忘却を司る女神様の加護よ。悲しい事実を忘れる加護。大切な思いを忘れない加護。……でも、どうして? 私が皇后の位にいるから? ベルが王女であるから?」
「お母様?」
「ああ、ベル。私の愛しい娘」
母は吾を抱きしめ、涙を流した。
「恐ろしいわ。帝国民はレウォトの民がどれだけ注意深く加護を扱って来たか知らない。死を恐れるなと自らを鼓舞すれば、本当に死を忘れて戦うこともできてしまう。帝国兵が全員そうなったら、戦が広がるばかりだわ」
このときの吾は、母が何を恐れていのか、正確には理解できていなかった。
「そう……そうよ。私たちが生きていることが罪。私たちは、生きていてはいけないだわ」
母の細い指が、吾の首に回される。
その指に、少しずつ力が入ってゆく。
「……お、かあ、さま」
絞り出された吾の声に、はっと我に返った母は、床に崩れ落ちた。
「ああ、私は……私はどうすればいい? 『生きろ』とあの人は言った。……もう忘れさせて! 女神様! あの人への愛も、何もかも、もういらないのに……」
その日から、母は生きる気力を失ったかのように、床にふせるようになった。
女官たちは相変わらず、表面上しか母の世話をしない。
医者も信用ならない。あれも譜代貴族の出身だ。
このままでは母の容態は悪化する一方だろう。
母は吾のすべてだ。世界のすべてだ。
母がいるから吾は生きている。母が死んでしまったら、もはや生きる意味もない。
幼い吾はどうすればよいかを必死で考えた。どうすれば母を救えるのか。
なぜ、この後宮ではあのような女官たちが幅を利かせているのだろうか。
母は言っていた。『長年に渡る恐怖による支配』のせいだと。
恐怖で人を支配すれば、『恐れに支配される者』は従うだろう。『恐れに立ち向かう者』は排除されるだろう。
では、『恐れを知らぬ者』は?
『恐れを知らぬ者』たちは、表面上はへつらい、裏では支配者さえもあざ笑って勝手をするのだ。
皇帝はたびたび母に会いに来る。母を嫌ってはいまい。もしかすると大事にしようとしているのかも知れない。
しかし、女官たちは皇帝の意向などお構いなしに、母に辛く当たる。
目の前で皇帝の意に背いた者が排除されようと、『自分だけは大丈夫』だと信じて疑わない。
そして『恐れに支配される者』である侍女たちは、目の前の女官に恐怖し、皇帝に実状を直訴することはない。
すべては恐怖による支配などという愚行を犯している皇帝のせいだ。
母を皇后の地位につけた皇帝のせいだ。
しかし今、利用すべきなのは、その皇帝だろう。
吾は現状を皇帝に訴えようと機会をうかがった。
しかし、ずる賢い女官たちに気取られ、皇帝から遠ざけられてしまった。
置き手紙を皇帝の目に留まる場所に置いても、女官たちに捨てられてしまう。終いには筆記用具のすべてを取り上げられた。
皇帝が母を見舞うおりに訴え出ようとしても、事前に手足を縛られ、猿ぐつわまでかまされてしまう。
吾は無力だ。なんと無力なのだろうか。
悔し涙を流すことしかできない自分が,本当に情けなかった。
その冬、吾の涙が枯れ果てたころ、母は儚くなった。
殺してやる。そう心に誓った。
母を貶めた女官たちも、それを傍観した侍女たちも、母をそんな境遇に放り込んだ皇帝も。
そして、何もできなかった自分も。
みんな、死んでしまえばいい。
こんな国など滅んでしまえ。
そして、吾は復讐者となった。




