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眠りの神と夢見る子守唄  作者: 銀河 凛乎
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第6章 起きろ!!こんな所で埋もれる前に、消えた私のヴィナを探すんだ!

帰りたい…と常に心は訴える。

もうずっと、帰りたい。と…漠然と願う気持ちは渇望に近い。

が、次にはどこへ?と自問する。帰る場所など無い。居場所は他に、どこにも無い。

それでも、帰りたいと訴える心は、まるで、ここでは無いどこかへ…夢に見た国か、ありもしない楽園か…そんな存在しないような場所へ帰りたいとでも言うようだった。

例えどこに行こうとも…楽園のような風光明媚な場所へ行ったとしても、この病がおさまることは無いのに。

もう何年も日常となった頭が割れるほどのひどい頭痛と、激しい吐き気、そして不眠。

約20年前に世間に発現し始めたこの病は、不治の病だ。

愛情は無くとも、財力のある父は息子の病を興味深そうに観察し、あらゆる薬草や法師…最新の医術と言うのさえも試したが、そのどれもが成果をあげる事はなかった。

1日たりとて解放される事の無い苦痛は、毎日、毎晩、毎分、毎秒、何年も続いた。

苦痛に苛立ち、絶望に悲しみ、悲観に無気力になっても、それでも生きている。

どこへとも知れない場所に、帰りたい…そう切に思うのは、現実があまりに辛いからなのか…。

そんな時、父が持って来た薬は、苦しい時間を消した。

それは苦しみを消したのではなく、苦しみにあえぐ時間を消したのだ。

その薬は、強制的に意識を失うようだった。眠れた実感は全く無かったが、頭痛はだいぶ楽になった。

立っていられないほどの強烈な頭痛は、我慢出来るくらいにおさまった。

だが、目覚めた時の倦怠感と虚無感は酷かった。それでも、使わないわけにはいかない苦痛に、使い続けていると、記憶が曖昧になった。

思考はまとまらず、前後もわからない深い霧の中を常にさまよっているような感覚だった。

自分が何者で、どこにいるのか、全てを曖昧にし、自分自身がドロドロに溶けてしまう気がした。

それでも、強烈な頭痛が来ると飲まずにはいられなかった…。

そして、いつからか、脳裏に同じ光景が浮かぶようになった。

現実なのか、幻覚なのか…それすらも曖昧だが、繰り返しみるそれは、流れる鮮血のニオイも、女の冷たくなっていく手も、あまりにリアルで自分の中では確かにあった事実になった。


「…俺は…女を…アルカティア人を…殺した…」


長い黒い髪の女は、繰り返し凶刃に倒れる。赤い鮮血が流れて、女の泣き声がいつまでも続く。

言いようのない喪失感と恐怖が毎晩続くようになった。

夜な夜な、女の責める声が聞こえるようになった。

心は次第に、帰りたい。ではなく、消えたい。と思うようになった。

消えたい…ただ、何もない所へ…痛みも苦しみも、光も何も無い闇へ、ただただ、消えたい…。

これほど病に苛まれても、死ねない体を呪った。そして、おそらく、自ら命を絶ったとしても、父はそれを認めてはくれないだろう。首尾よく死ねたとしても、1日も経たずに蘇生されれば意味はない…。

それに…何か…引っかかるものがあった。思い出す事も出来ないそれが、死ぬ事すら拒絶する。


「……消えたい……」


心からの渇望を声に出した時、部屋の外が騒がしかった。

見張りを兼ねた屈強な使用人が止める声に、誰かが訪れたらしいが…思考はボンヤリとし、まるで水の中にいるかのような遠い感覚だった。

光が入り、刺激となって脳内を刺すように響く。不快に眉を寄せる。男がズカズカと踏み込んで来たが、何を言っているのか、喚いている声は水中にいるかのようなくぐもった雑音にしか聞こえなかった。



パンタソスが、その宿を訪れたのは部下が王都の宿屋を、しらみ潰しに探したからだ。

ランゲルハンス島で、船乗りが黒い目の少年を船に乗せ首都で降ろしたという。他の情報以外を聞き出そうにも、船員は、それ以外の情報は知らない。としか言わなかったのだ。

船員もなぜ聞くのかと知りたがったが、情報が情報だけに…まして、あらゆる港を行き来する船乗りに打ち明けられるはずもない。

王都で降ろしたのが確かならば、宿を探せばいずれ見つかるだろうとパンタソスは思っていた。

…しかし…

「ええ、確かに、黒い目の10代の少年がウチにきましたよ。16だって言ってたけど、もっと若く見えました。…でもね、3日分の宿代を前払いしたのに1泊だけして、2日目の夜には帰って来なかったんですよ」

宿の女将はそう言って、眉を下げた。

「ウチの宿を気に入ってたみたいだし、宿を変えたわけじゃ無いだろうけど…」

「何か行き先を言っていませんでしたか?」

見るからにオケアノス人のアダムが物腰柔らかく女将に問えば、女将も警戒なく答えた。

「さてねぇ…なにか探していたみたいだって店の子が言ってたけど…」

「…探していた?」

「ええ…だけど、私は詳しくなくて…」

「その人と直接話しをさせて頂けますか?」

アダムが熱心に聞くにつれ、女将は眉を寄せる。

「…お尋ね者だったのかい?」

女将が小声で聞いて来た。

「…い、いえ!決して」

アダムが否定し、同行していたパンタソスは静かに問う。

「…お尋ね者というのは、罪人という意味かね?」

「…え、ええ。…混血はろくな奴がいないでしょう?」

女将の言葉に、アダムは肝が冷えた。背後から殺気を感じるのは気のせいでありたい。

「…そうですか。ですが、我々が探している黒い瞳の子は罪人ではありません。決してぞんざいにしてはなりません」

パンタソスの笑顔の奥にある威圧が、女将を動揺させる。

「…どういうことか、あたしにはサッパリ…。あ、あの、ここじゃ、なんですし…奥にどうぞ」

ちょうど、宿に客が現れた事で女将は、奥の部屋をすすめた。

「…その者が泊まった部屋は空いてますか。そこで伺いたい」

パンタソスの問いに、女将は黙って頷いて鍵をアダムに渡した。

3階のその部屋の鍵を開け、アダムが扉を開くとパンタソスは足を止めた。

決して広く無いその部屋に、確かにあの子の痕跡を感じたのだ。

さっきまで部屋に居たかのような、デボラの家の香りにパンタソスはいたたまれない気持ちで目を覆った。

「…パンタソス様…」

アダムは良く出来た従者だ。敬称もその場で使い分ける。

「…もっと簡単に見つかると思っていた私が浅はかだった…」

パンタソスの心は、日を追って焦りが滲んでいた。

ランゲルハンス島に留まっていてくれていたなら、捜索は難なく終わっていただろう。

しかし、ここはランゲルハンス島よりもずっと広く、人種も住居もずっと雑多な王都だ。

治安のいいランゲルハンス島ならまだしも、ここ王都では女将の認識がまさに正しい。

あからさまな差別と、あらゆる犯罪が日常のこの場所で…箱庭で育った少女がどうなるか…パンタソスは考えたくも無いあらゆる現実が次々と浮かんでは苦悩した。

パンタソスは部屋に入り、窓の外を眺めた。同じ景色を見て、故郷を出た娘が何を思ったか…親心は切なく涙が滲む。

「…ああ、やっぱりこの部屋はいい香りがするわね」

若い女の声がして、パンタソスが振り返ると店の娘が女将に連れ立って部屋に現れた。

「…お待たせしました」

女将が不安げに言うのとは対照的に、娘は興味津々な顔でこちらを見ている。

「…黒い瞳の少…年の事を聞きたいのだが、何か言っていなったかね?」

パンタソスは温和に問いかける。

「ああ、彼ね。なんだっけ…なにかん?…本がある所を探していたわ」

本?

アダムもパンタソスも意外な言葉に、沈黙した。

「彼、最初は混血だったから近寄らないようにしてたんだけど、女将さんが愛想良くしてたし、年も若かったし…何より、なんていうのかなぁ…かわいいのよね」

娘の最後の言葉にパンタソスは反応した。

「…かわいい…」

「うん、そう。食べる時とか美味しそうに食べるし、食べ方キレイなのよね。だから思い切って話しかけたら、お行儀いいし、ランゲルハンス島から来たって言うし、きちんとした家の子なのかなって思ったの」

アダムは娘の分析に、なるほど、と頷いた。

「…そうか…。元気そうにしていたんだね…」

パンタソスは脳裏に浮かぶ娘の姿を思い出して微笑した。

「…おじさん、あの人の親戚?」

娘の問いに、パンタソスは微笑み穏やかに問う。

「そう見えるかい…?」

「…うーん…雰囲気が似てると思って。違った?」

娘が首をひねると、パンタソスは嬉しそうに微笑んだ。

「いいや。そうだよ。…だから、すごく心配して探しているんだ。幸いここでは良くしてくれたみたいだから、また戻ってくるかもしれない。そうしたら、連絡してくれるかい?」

優しく言うパンタソスに、女将はホッと息を吐き、娘は頬を染めて頷いた。

「その者が現れた時は引き止めて、直ぐにこちらに連絡して頂きたい」

アダムが女将に渡した連絡先を記した小さな上質の紙には、立派な一角を額に生やした神馬、ユニコーンの紋章が印されていた。

女将は驚き慌てて胸で両手を重ねて膝を折った。この国の拝礼だ。

パンタソスは宿を出ると、待たせていた馬車に乗った。

アダムも続き御者に行き先を告げた。

「…まさか本とは…図書館を知っていたのですね」

走り出す馬車の中で、アダムが言うとパンタソスも頷いた。

「…意外だった…」

王都を目指したのは、デボラから聞いた知己を訪ねてかと思ったが、そうでは無いようだ。

「…デボラが石化する前に何を伝えたのかが、わからないが…」

何かを伝えようとした姿のまま石化したデボラに、パンタソスはずっとデボラならなんと言うか考えているが…そもそもデボラも、長く隠居した暮らしをしていた事だし、こちらの事情をそんなに詳しくは知らないだろう。

「自ら調べるつもりなのかも知れませんね…」

アダムの言葉に、パンタソスも同意見だ。

「…しかし…図書館は利用に厳しい制限がある。何の伝手もないあの子が行った所で、入る事は出来ないだろう…」

『…でもね、3日分の宿代を前払いしたのに1泊だけして、2日目の夜には帰って来なかったんですよ』

女将の言葉を思い出して気持ちが焦る。

支払いをして戻るはずだった場所に戻らなかった…。戻れなかったのか?

パンタソスは図書館に向かいながら娘の細い痕跡が消えない事を願った。


案の定、図書館の利用記録を遡っても記録には不審な名前は無い。

警備の兵や図書を管理する司書に聞いても、それらしい者は該当しなかった。

外を警備する者には念入りに確認したにも関わらず、騒ぎどころか入館の問い合わせすら無かったという。

「…ここにたどり着けなかったという事か…?」

パンタソスは何かトラブルにあったのでは無いかと推測して、額を押さえた。

「……騎士団直轄よりも、末端を当たった方がいいかも知れん…」

すでに、治安を司る騎士団長には捜索を依頼しているが、実際に現場で動いている衛兵の詰所を当たった方が、糸口があるかもしれない。

「…では、そちらもすぐに行います」

王都の詰所は無数にある。パンタソスはアダムの言葉に頷いた。そして、重々しい気持ちで指示した。

「…遺体の安置所も…確認しよう…」

「そちらは、すでに部下を付けております。それらしい遺体が出れば、すぐに連絡があります」

パンタソスはアダムの言葉に、渋面になった。

「…死後1日くらいなら、問題無いですよね」

ニッコリと微笑む従者は、それがやぶさかでは無いくらいの物言いをし、本当に気に食わない。

「そういう問題じゃない!」

誰が最愛の娘の死体を見たいものか!

それに、遺体の損壊が酷かったら蘇生は出来ない。それよりも精神面で復活出来るか定かではない。

死者の復活は秘法中の秘法だ。おいそれと出来る事では無いし、条件も厳しい。復活が不完全がったり、条件が悪いと不死者として魂ごと暗黒世界に堕ちる危険もある。

だが、アダムは自身の好奇心と向上心でパンタソスがその秘法を行うのを見たがっている節がある。

パンタソスは苛立ちながら足早にアダムを置いて馬車に戻る。が、彼はいつだってパンタソスの後を付いて行った。


「お前はここにいろ」

パンタソスが素っ気なくアダムに命じたのは、宰相モルフィネス邸の応接間での事だ。

「…どちらへいかれるのですか?」

アダムが問うと、パンタソスは「知人に会ってくる」と言う。他所の邸宅で、しかも世間的には政敵と言われている家で、主人に断りも無く家をうろつくと言うパンタソスに、アダムは耳を疑った。

「…どういう事ですか?モルフィネス様のお宅でそんな…」

「構わん。どうせ、待たされるんだ。お前はここで待て」

「それならばご一緒します」

席を立とうとするアダムに、パンタソスは「ダメだ」と拒否した。

「…先程の件は、謝罪致します…。御心に配慮の無い物言いでした…」

アダムが深々と頭を下げると、パンタソスはフンと息をはいた。

「それはお前の心根次第だ。どういう生き方をしたいかは自分次第だからな。今回の事はそんな狭量な嫌がらせではない」

パンタソスは言い捨てると、自らに浄化の法術をかけて応接間の扉を開けた。

「…アイツは怒らせると面倒くさいから、お前はここにいろ」

アイツとは誰の事なのかアダムには分からなかったが、知人に会うのになぜ浄化の法術が必要なのか…全く理解出来ぬまま、アダムはパンタソスに置いて行かれてしまった。


勝手知ったる他人の家。パンタソスは迷う事なく邸宅を闊歩する。時々、使用人に会うが使用人達はパンタソスが仕事着を着ていなくても、顔を覚えている。気が付けば驚くが拝礼して、引き止める者はいない。

だが、しかし、奴の部屋の一角は、やはり警備の男がパンタソスを引き止めた。

「恐れ入りますが、旦那様とお越しください」

家主が居ないと通せないと言う男に、パンタソスは素っ気なく答える。

「後から来るだろう」

「それではなおのこと、お待ち下さい」

譲らない警備にパンタソスは口角をあげる。

「…なるほど。いい仕事だ」

「…恐れ入ります」

「だが、すまん。非常時だ。押し通る」

パンタソスは言うが早いが、麻痺の魔法の護符を発動させた。

「な!!」

バチンッ!!と音がして、屈強な警備の男は仲間を呼ぶ前に失神して倒れた。

「…私が法術しか使えないと思う所が思い込みだったなぁ…」

確かに、パンタソスは「魔法は」使えない。だが、魔法が練り込まれた護符は使える。そもそもは護身用だが。パンタソスは魔法の護符をしまうと、倒れた警備の男を見下ろした。

「…話が済んだら治すから、寝ていてくれ」

実際、寝ていたほうが危険も無いだろうし?

その廊下の奥の部屋の扉は、両開きの立派なものだ。マスタールームと同じ作りかも知れないが、どうにも禍々しい雰囲気を感じるのはパンタソスだけでは無いだろう。

扉を開けると真っ暗だった。と、共に濃厚な催眠の香が焚かれているようで、香というよりも煙としてムワッと溢れ出てくる。

パンタソスは浄化の法術をかけていたので効果は無いが、一般人がなんの備えも無く嗅いだら倒れているだろう。

多少なりとも部屋の主を気遣って法術の光を控えめに部屋に灯せば、男の呻き声がする。

パンタソスは躊躇無く踏み込むと、ベッドで人の気配がした。

枕を腰に当て身は起こしてはいたが、グッタリと力なく身を投げ出し、夜着の上着は羽織っただけの、だらし無い着こなしだった。

その男は虚ろな目を眩しそうにしかめ、青白い顔で「…消えたい…」と、うわ言のように何度も呟いていた。目に生気は無く、黒いクマが両目の下にハッキリと見える。痩けた頰に、青白い肌。痩せた体でもまだ骨が浮かんでいないのは、元々の頑丈さがあるのかもしれないが…体調はひどい状態だった。

パンタソスは、愕然とした。

こんなにも酷い有り様になっていたとは…知っていたならもっと早く手を出したのに…!

いや、これも全てパンタソスの歪んだ望みのせいだ。

他人を気遣うフリをして、全ては自分のワガママを通した結果なのだ。

パンタソスは神を裏切った。それは、どんな罪にも勝る大罪だった…その罰が今、こうして具現化している。

「(…だが…それでも…)」

パンタソスは諦めるわけにはいかない。

「タナトス…お前を救えるあの子がいなくなった…」

パンタソスの言葉に男は答えず、うわ言のように「…消えたい…」と呟いている。

「聞こえないのか?!あの、ニルヴィーナがいなくなったんだ!!」

パンタソスがベッドの男に近付くと、男はパンタソスの気配を嫌がり目を背ける。

「…消えたい…俺は…女を殺した…」

「…何?…」

パンタソスが訝しんで、聞き返す。

「…俺が…殺した…アルカティア人の女が…俺を…」

パンタソスは男の異常な言動に背筋が冷たくなった。

「…タナトス…お前…どうした?…お前がどうやってアルカティア人を殺したって言うんだ?」

タナトスと呼ばれた男は、パンタソスの問いに頭を抱えた。黒い髪に一部、金のメッシュが入った髪だった。

「ああ…また頭痛がする…薬をくれ…」

「…お前…何か…薬を…?」

パンタソスはハッとした。男の青白い手首を掴むと、法術師として《見えた数値》そのあまりにひどい状態に、絶句した。それはとても生きている人間が持つ数値では無かった。

モルフィネスが息子の病を治すのに、研究したそれは…法術が使えない者も、痛みを消したり、数時間も意識を失ってしまうような凄い薬だという…。

パンタソスが久しぶりに会う度に、モルフィネスが自慢していたのは…魔法を使わずに、感覚が麻痺してしまう薬だ…。

パンタソスは無性に腹が立った。それは、モルフィネスに対してというよりは自分自身に対してだ。

なぜ疑わなかったのか?なぜ自ら確認しなかったのか?

タナトスの病がモルフィネスの薬で緩和できていると信じた方がパンタソスがラクだったからだ!

パンタソスはタナトスのむき出しの腹に浄化の法術をMAXで叩き込んだ。

パンタソスの生み出した光で、薄明かりの部屋が金の眩い光で部屋の隅まで浮かび上がる。

「起きろ!!こんな所で埋もれる前に、消えた私のヴィナを探すんだ!」

浄化の法術を叩き込まれた男は意識を失ったが、パンタソスが夜着の襟を掴んで呼びかけた。

「…う…せぇ…」

意識を失ってうなだれていた男から、わずかな声がした。

「……ん?」

パンタソスが耳をすますと、男の体からパリッパリッと雷のような火花が散りだす。

「(…これは…マズイやつ…)」

パンタソスは、つぅっと汗をかいた。

「(…足りるかなぁ…)」

パンタソスは浄化の法術をもう少しケチれば良かったかなと不安になった。

「…この俺に向かって…起きろ…だと…?」

凶悪な顔をした男は、黒に金のメッシュの髪をザワザワと逆立てながら、パリパリ!と火花をまとった。

パンタソスはパッと掴んでいた夜着の襟を離すと、飛び退いて複雑な防御の法術を展開した。

「ふざけんな!!寝言なら殺してやるッ!!」

怒号と共に、ズドンッ!!バーン!!と激しい落雷が部屋の中に落ちた。

ビリビリビリビリ!!と激しい鳴動が窓を揺らし、部屋の分厚いカーテンで締め切られていた窓が、振動に耐えられず一斉に全てが割れた。

割れた窓から風が吹き込むと、カーテンも舞い上がり、陽光が部屋に差し込む。

「…クソッ…光が入るじゃないか…」

心底、不快な口調で黒に金のメッシュの男が吐き捨てた。

「…タナトス…」

パンタソスは、ふー…と息を吐いて呼びかけた。

足りて良かった…流石に屋敷を灰にしたら使用人達も一緒に昇天してしまう。

「…なんだ…。…あんたか…」

眩しさに目を凝らしてパンタソスを見た男は、パンタソスを認識して興味無さそうに言い捨てると、陽光を遮る物を探している。

「…ヴィナがいなくなった」

パンタソスが改めて伝えると、タナトスと呼ばれる男は動きを止めて、パンタソスを見た。

「………」

タナトスはパンタソスを見つめて…やがて、眉間にシワを寄せて気怠そうに口を開いた。

「…ヴィナって…誰だ?…お前の女か?」

その素の問いに、驚愕と絶望と疲労の入り混じりのパンタソスは膝から崩れた。

「……パンタソス…貴様、人の家で何をしている…」

突如、冷たい声が扉から室内に響く。

「…オヤジ…」

タナトスが気まずそうに扉に佇む声の主を見た。

「…やってくれたな…」

その男は、女性のように線の細い眉目は整っているが、その顔は常に無表情で感情が読み取れない。

今では加齢により落ち着いたが、その中性的な美しい雰囲気は若い時には彼の能力と共に男女の眉目を集めた。

だが、薄い金色の髪の色も冬の空のような薄い青い目の色も、近寄りがたい冷たい印象を持ち、またその見た目通りにモルフィネスという人間は他人との交流に熱を持たない。

「…風通しが良くなっただろ」

パンタソスは家主の登場に、力なく笑って言った。

防御の法術で屋敷の崩壊は防いだものの、この部屋の窓ガラスは全て振動で割れているし、壁紙は所々焦げている。部屋が散らかっているのは元々なので、これはパンタソスのせいではないが。

ガラスが割れて部屋が換気されたお陰で濃厚な催眠の香はだいぶ薄まっている。

ベッドから上掛けを剥ぎ、フードのように目深に被って陽光を遮ると、黒に金のメッシュの髪の青年は

「…俺のせいじゃない」

と、不満気に言った。

怜悧な印象の薄金色の髪の男は水色の目を、部屋で座り込んでいる男に向けた。

「………」

ただでさえ冷たく見えるが、この男の無言の眼差しは氷のように冷たい。

「…モルフィネス…このままではタナトスは間違いなく、壊れるぞ」

その視線を物ともせずパンタソスは立ち上がり、モルフィネスに向かって言った。

「……。それをわざわざ言いに来たのか?」

返答によっては制裁を覚悟しろと言わんばかりのモルフィネスの問いに、パンタソスは短く答えた。

「…こいつの病を治す者がいる」

「…………」

その言葉にタナトスは耳を疑った。が、どうせ、また無駄に終わるんじゃないかという猜疑心が、顔を不機嫌にする。

「……。その根拠は?」

モルフィネスはただじっと、パンタソスを見て問う。

「…私の…秘蔵の子だ。デボラに育てさせた…」

デボラという名に、モルフィネスが眉をピクリと動かした。

「…なるほど…。お前のアルカティア人に対する執着は時に役に立つ…聞こうか」

モルフィネスはそう言うと、立派な衣服の裾を翻し部屋を出た。場所を変えるようだ。

パンタソスが続いて部屋を出ると、アダムが心配そうに廊下で待っていた。おそらくモルフィネスに連れて来られたのだろう。

「…聖下…凄い落雷がありましたが、ご無事ですか?!」

アダムがパンタソスの身に変わりが無いのに安堵しながらも確認に問えば、パンタソスは苦笑して答える。

「ああ。癇癪持ちの八つ当たりだからな。しかし…これで死人が出たらモルフィネスも痛いなぁ?」

「…危険だから警備を付けて立ち入りを制限している。そこへ許可なく踏み込む愚か者にまで責任をとるつもりは無い」

モルフィネスは振り返りもせず、パンタソスの言葉を切り捨てた。

「…ああ、そうだ。アダム」

パンタソスは何かを思い出し、アダムに問う。

「警備の男が転がっていなかったか?」

「あ、はい。治癒をかけて念のため、安静にと…」

パンタソスがアダムを置いて応接間から出て、ほどなく現れたモルフィネスはパンタソスが従者を置いてどこかに行ったと聞いて、すぐにここへ案内した。

途中で凄い落雷の音がしてアダムは驚いたが、モルフィネスは冷静に「…死んだか?」と呟いた気がして物騒な言葉に耳を疑った。

そして警備の男が倒れていたので治癒の法術をかけたのだ。

警備の男はモルフィネスに失態を詫びていたが、モルフィネスはただ、「下がっていろ」と言い、男を下がらせた。

「そうか。まぁ、私もさすがにさっきので疲れたから、お前が治したならそれでいい」

パンタソスは自分で治して謝りたかったが、浄化の法術MAXと防御の法術MAXは、さすがにちょっと疲れる。

アダムは何気なく言ったパンタソスの言葉に、一瞬、言葉に詰まった。

…あの聖下が…法術で疲れた…?

この中年の法術の容量は一般的に見たら底無しだ。朝から晩までぶっ続けで法術をかけて治療して回っていたのを見た時、アダムは尊敬を通り越して畏怖した。とても自分には追いつける気がしない。

とは言え、そんなパンタソスも人間なので限界があるのだろうが…とにかくタフだ。

…一体、何が…?

アダムは気になったが、従者として主人が会談中に出過ぎた質問は不適切だ。

案内された部屋は先ほど応接間だ。モルフィネスとパンタソスがソファーに座ると、アダムはパンタソスの背後にあたる部屋の一角のイスに座る。ここは従者用のイスだ。

「…それで?」

モルフィネスが単刀直入に聞いた。今更、お決まりの挨拶などは時間の無駄と言わんばかりの雰囲気だ。

「その前に…お前がアイツに与えている薬…作用に望ましくない結果も出ているな」

パンタソスが苦々しく問うと、モルフィネスは無表情で答える。

「…何を持って望ましくない結果とするかにもよる。法術を必要とせずに苦痛を取り除き、魔法を必要とせずにいかなる刺激にも目覚めないという事は、苦痛なく病変の切除や処置を行え、回復までの疼痛から救う事が出来る。giraffe病においても、緩和は出来る」

「記憶を失ったり、妄想や幻覚まで現れているんだぞ?!生来、頑丈なアイツでああなんだから、他の人間なら…!」

パンタソスは言葉を詰まらせた。

「…普通なら…常用は脳を犯し、狂い、廃人となり、やがて死に至る。今や、あれが使う量も回数も、それで何人殺せるか知れん」

モルフィネスの無表情の言葉にアダムはゾッとした。つまり、狂い死ぬとわかっていて息子に薬を与えているのか?

「…だが、他にあいつの苦痛を取り除く方法が無い。鈍器で頭を殴られ続けるような激しい頭痛に転がり、胃液すら吐き切って、血を吐きながら殺してくれと悶える者に、耐えろと言う方が酷では無いのか」

冷たい青い目が、パンタソスに向けられる。

「…あのデボラですら治せないと言った病を、治す事ができると言う者がいるとするなら…それは何者で、どう治すというのか、非常に興味がある」

「………」

パンタソスは沈黙の後、口を開いた。

「…その者は…特殊だ。アルカティア人の中でも変わった仕法の資質を持つ」

「………。パーティシアのように?」

モルフィネスの口から出た名前に、パンタソスは瞑目し答えた。

「…そうだ」

モルフィネスの氷のような無表情が、わずかに揺れた。

「なぜ隠していた?本当にパーティシアのような資質を持つならば、それはこの国にとってどういう意味を持つか、お前がわからぬ筈が無い。…お前、何を考えている…」

モルフィネスの冬の目がパンタソスを探るように見つめてくる。

「…だからこそ保護した。デボラなら間違いはない」

パンタソスの言葉に、モルフィネスはため息を吐いた。

「…お前はアルカティア人に傾倒し過ぎだ。デボラと言えど完璧では無い。パーティシアの件でもそうだったように」

モルフィネスの言葉に、パンタソスは古傷をえぐられてさらに塩を塗りたくられたような気持ちになる。

パンタソスはそれでも間違いだったとは思わない。

「…だが、それはお前が息子に薬を与えるのと同じだ。他に手立てがない」

そう、パンタソスは常に最善を考えて来た。アルカティア人にはアルカティア人の生き方がある。他の民族に任せたとしたら、それこそ完全に失いかねない。

「…それで?その者は今、どこにいる?」

仕方なし、とモルフィネスが問えば、パンタソスは目をそらした。

モルフィネスは嫌な予感がした。パンタソスという男は、まぁ仕事は出来る方だと思うが、感情に流されて時々、やらかす。アルカティア人関連については特に。

「…パンタソス…」

側で聞いていたアダムが身震いを覚える冷たい声が、パンタソスの名を呼んだ。

「…もう一度、聞く。その者は…今、どこにいる?」

噛みしめるように問うモルフィネスにパンタソスは、開き直って言った。

「行方不明になった。探すの手伝ってくれ」

ウチの子、いなくなっちゃって!毎日毎晩必死に探し回ってます!…と、我が子を探すような悲壮感で言うパンタソス。

「!?…デボラはどうした?!」

珍しく声をあげてパンタソスに問い詰めるモルフィネスに、パンタソスは努めて冷静に…

「石化しちゃった」

「……………」

しちゃった…?仮にも教皇の立場にいる者が、旧知の仲間…それも、戦場の功労者が石化して…その言いよう…。

…モルフィネスは、パンタソスの戯言に倒れそうになった。だが、幸か不幸かそこまで神経は細くない。

「…………」

沈黙の後、モルフィネスは1つ1つ確認する。

「…お前が言う石化というのは、コカトリスか?魔法か?その程度ならお前が騒ぐわけが無いな」

「禁忌の呪いだ」

モルフィネスは予想通りの答えに目をしかめる。

「……。それはデボラが犯したのか?」

「わからん。だが、おそらく違う」

「…じゃあ、その者か?」

「…おそらく」

「それで、罪を逃れるために逃走か」

「それは違う!」

「…何が違う?」

「あの子はデボラの石化を戻す方法を一人で探している」

「…お前に聞かずにか?」

「……。私は、もう7年は直接会ってない…」

「…なんだと…?」

訝しむモルフィネスに、パンタソスは悔恨の念で呟いた。

「…私はあの子から家族を奪った…その贖罪が…」

「バカか!!ああ、バカだったな。そんな、くだらん事で職務放棄したのか!!」

心底、侮蔑を込めた眼差しと周囲を氷尽くす物言いにパンタソスは噛み付いた。

「うるさい!お前にわかってたまるか!」

「ああ、一生わからん。家族を奪った贖罪?そんなお前のどうでもいい身勝手な感傷で、国の重要案件が危機に瀕してるんだぞ?今後、家族を奪われる大勢の者になんて詫びるつもりだ?」

「そんな事にはならない!」

「…ほう、大した自信だな。なぜそう言い切れる?」

「あの子は…!」

パンタソスは推し黙った。

「…貴様…この後に及んで、まだ隠してる事があるんじゃ無かろうな…」

氷のような冷たい眼差しを細めてモルフィネスがパンタソスを問い詰める。

「…あの子は、賢く優しい子だ。デボラの石化に戸惑い、誰にも聞けず、身一つで助ける方法を探している…」

「…そんな貴様の主観的な感情論がなんの保証になる?」

「石化を解くために、自分でこの王都の図書館を目指して来た」

「…ここまで来ているのか?」

「…そうだ」

「そこまでわかっていて、貴様は何をしにここへ来た?目的は何だ?」

「…本来ならば、近日、私がその者を連れ立ってここを訪れるはずだった。言った通り、病を治す力を持つのだから。しかし、デボラの石化によってその者が行方不明になってしまった今、捜索が難航している…探すのを手伝ってもらいたい。ついでだからアイツの様子も見に来たら、思いのほか衰弱していてガッカリしたぞ?」

モルフィネスはパンタソスのふざけた態度が昔から気に食わない。が、パンタソスがふざけた態度をする時は、何かを隠したり守ろうとしたりしている時が多い事も分かっている。

論理的で合理的なモルフィネスとは違い、パンタソスは常に周囲の人間を見極め、味方に引き込むのが上手い。

パンタソスが、ふと、扉をチラッと見た。モルフィネスも気付いている。

「…このまま、アイツが衰弱死か発狂死しても困るだろう?復活の法術にも制限がある」

パンタソスの言い方には、含みがある。

「…何が言いたい…?」

「…お前の薬で苦痛を抑える。それは、仕方ない。だが、薬の作用が残り過ぎると特殊な浄化が必要だ」

「…つまり、お前がいちいち浄化するというのか」

「そうしたいのは山々だが、私はあの子を探さねばならん」

「…それで?」

「年齢的にフレッシュな時期なのに、アイツときたらカビたパンみたいになってたから士官学校にでも行って鍛えた方がいいぞ」

また、だ。パンタソスがふざけている。

モルフィネスはパンタソスを凝視した。パンタソスは苦笑して付け足した。

「…あそこには、法術に長けた部下を置いている。場所が場所だけにな。それに、いくらなんでも屋敷を潰すくらいの雷撃を人に食らわすのはダメだ。あれ、結構、重いんだぞ?…アイツの癇癪で殺人なんて、為政者という以前に人としてどうかと思うぞ?同じ年の若者と青春して素養を磨く方が良い。…ゼルダは誰とでも仲良くなっていただろ?」

パンタソスからでた王の字名に、モルフィネスは食えない男だと苦々しく思った。

「………いいだろう。お前の手に乗ってやる。お前もそれでいいだろう。タナトス」

モルフィネスがその名を呼べば、夜着から簡素な私服にフードを目深に被った青年が扉を開けて入って来た。

「(…いつの間に…)」

アダムは青年がいつからいたのか気付かなかった。

その青年の、生気が無く怨念や呪いを背負ったような雰囲気にウッと引いた。

昼間の室内で目深にかぶるフードも異様だが、存在がなんというか…異質だ。

「断る」

青白い青年が短く拒否する。

「拒否権は無い。行くのを条件に薬をやる」

モルフィネスの言葉にタナトスと呼ばれた青年はチッと舌打ちした。

「浄化してずいぶんラクだろう?健全な青春をして来い」

パンタソスが苦笑して言った。普通の人間が見たら曲がりなりに笑顔でも、タナトスから見たら非常に腹黒い悪魔のような笑いだ。

「…うぜぇ…」

人でも殺しそうな声で青年は呟いた。

ただの10代の青年の悪態なのに、アダムはゾクリと背筋が冷えた。



それから数日後…

アイティールはジャケットを羽織り、厩舎の前で愛馬の鼻を撫でた。

今日はいよいよ、士官学校へ行く日だ。寮生活のため、しばらくは愛馬と気ままに会う事は出来にないだろう。

「ジャック。私がいない間、スレイプが退屈しないようにしてやってくれ」

尾を振りながら、遠出はしないのか?と足踏みをして誘うスレイプをなだめてアイティールが頼めば、ジャックは苦笑した。

「…退屈しないようにってのはまた…難問ですな」

犬のように散歩に連れ出せればまだいいが、スレイプは走りたがるだろう。

「殿下は週末はお戻りになれるので?」

ジャックの言葉に、アイティールは頷いた。

「あのボウズも…あ、いや、ニル様もお戻りに?」

ジャックはどうにも言いにくそうな様子で言い直した。ニルがいなくなった日から捜索するにあたり、何となくあの少年が自分達と違う身分である事が薄々、噂になっていた。そして、それは捜索騒ぎの翌日から正式に使用人に伝えられた。混血と言えど、主人の要人として扱うように。しかし、家の外へは決してその存在を漏らさぬようにと厳命された。

ニルは、ジャックが自分を様付けで呼ぶ事に動揺して固辞したが、他の者へはそうはいかない。

「ジャック…ニルについての経緯は、吹聴すれば厳罰だと部下にはくれぐれも伝えておくように」

アイティールは、ジャックからニルの名前が出ると、ピリピリした空気をまとい釘をさした。

「え、ええ!それはもう!」

それは数日前に使用人の全員に周知された事だ。

「それと…彼の名は、スレイプニルだ」

スレイプの大きな黒い目を見つめながらアイティールが薄く笑った。

「え?…そいつは一体…?」

ジャックは飲み込めず戸惑うと、当の本人が暗い顔でやって来た。

「アイティール…やっぱり、僕…」

ニルは帽子と同系色の質のいいシンプルなロングコートを身にまとい、見た目は完全に従僕だ。

「残念ながら今更、変更は効かないな。スレイプニル」

アイティールがその名を呼べば、ニルは渋面になる。

「その名前も、僕はちょっと、どうかと思うんだけど…」

「なぜ?とてもいい名だろう。スレイプとニル…どちらも私の大事な友だ」

「いや、だからってくっつけなくても…もっと簡単な名前でいいのに…」

「完全な別物になれば私が呼びにくい」

断言するアイティールに、ニルは肩を落とした。

「そ、そうデスカ…」

「ジャックにも改めて紹介しよう。ニルは今後、スレイプニルだ。私の友だが、時に従者としても私を手伝ってくれる」

ご満悦で言うアイティールに、ニルは再度、肩を落とした。

「…なんだか知らんが…大層な名前になったもんですな」

ジャックはアイティールとニルのその対比に笑う。

「それじゃあ、私たちは殿下とスレイプニル殿のお戻りを心よりお待ちいたします」

ジャックの、うやうやしい見送りの態度にニルはため息が出た。


「殿下…くれぐれもお気を付け下さい」

ロキさんが、馬車に乗り込むアイティールに声をかけた。士官学校へは従者は連れて行けないらしいのでロキさんは留守番だ。ゆえに、ニルが生徒兼見習い従者として丁度いいのだろう。

なんか、本当に息子の上京を心配するお母さんみたいだな…。

ロキのその様子に夢の中のドラマで見た、大学生になる息子を送り出す母親の図が重なって微笑ましい。

「…スレイプニル殿…この数日でしか、あなたに従者としての役割をご教授出来なかった事が、無念でなりません」

ジロリと見下ろされ、ロキさんが呻くように言った。

「え?!じゅ!…充分じゃないですか?!」

そう、従者は形だけのもの、と言われたにも関わらず、ロキさんとしては殿下の従者を語るならば、それ相応の従者としての役割を!と、急に従者教育が、この6日間と言うもの…おはようからおやすみまでみっちり行われたのだ。乗馬の訓練は免除されたが、これなら乗馬の方が…いや、うーん…。

ロキさんの私への敬称も、従者であるなら「オマエ」でも「ニル様」でもなく「スレイプニル殿」となった。

ちなみにアイティールとしては、自分も忙しいようで面白そうに私の様子を見る事はあっても、止める事なく淡々と雑務をこなしていた。

「…充分…?」

ロキさんの目が底光りしたのを見て、私は訂正した。

「そ、その!ロキさんの指導のたまもので、まだまだ充分じゃないですが!…なんとか頑張ります…」

「……いいでしょう…足りない所は、別の日に行います」

まだやるのぉ?!

「スレイプニル殿。表情に気を付けなさい。あなたは顔が何よりも雄弁だ」

「…う。…は、はい…」

「では、殿下をお待たせしてはいけない。行きなさい」

一礼し、馬車に乗り込めば御者はすぐに馬を進める。馬車の中で、アイティールは微笑んだ。

「ニル。ずいぶんロキにしごかれたようだな」

「おかげさまで。今や僕はあなたの従者ですよ…殿下」

「ニル」

殿下という役職で呼べば、アイティールの顔は曇る。

「至らない所は多々あるかと思いますが、従者として御前の影に控えさせて頂きます事をお許しください」

なかば自棄(やけ)になってロキさんからの指導を披露すれば、アイティールは目を伏せて悔やんだ。

「君がフラリとどこかへ行かないようにロキに見てもらっていたんだが…やり過ぎだったようだ…」

「とんでもございません。全ては殿下のお望みのままに」

心のこもっていない形通りの定型文を言えば、アイティールは顔を上げた。

「ニル!」

その海のような青い目を真っ直ぐにこちらに向け、強い口調で名を呼んだ。

「私は…君に私の従者になって欲しいわけじゃない」

ずいぶんと勝手な言い分だな。とアイティールを見ればアイティールはため息を吐いた。

「…怒っているのか?」

「いいえ」

短く答えれば、アイティールは整った眉目をしかめた。

「怒っているな」

「とんでもありません。殿下」

「ニル…私は君が心配なんだ。フラリと出かけて帰って来れなくなったら困るだろう?従者としてロキが君に過剰な期待をかけたことには申し訳なく思う…」

「殿下…私は子供やペットではありませんが?」

「…そうだ。だが、教会が君を探している。不測の事態があれば事だ」

「………」

むぅ…そこを言われると…いや、それだけじゃ無いからね!

私の顔色を伺いながら、アイティールは探るように思考をめぐらす。

「それだけでもなさそうだな…だとしたら、寮の事か?」

「…。学校に入るのに、寮だとは聞いておりません」

そうだ。まさかの寮で寝起きだなんて聞いていない!ただでさえ身バレの危機がより高まるのは必須じゃないか!

アイティールに抗議すれば、彼は解せない顔で答えた。

「ニル。君が寮にどのようなイメージを持っているか知れないが…それほど不便は無いと思うのだが」

「見ず知らずの者と寝起きを共にするわけですよね?僕は御免です」

「…ルームメイトが不安という事か?ニルらしくないな…君は、ジャックや使用人にもとても親しげで、それでいて彼らを、ことさら尊重するのに…」

アイティールが何となくトゲのある言い方をした。

「僕は、1人の時間も大事にしたいんです。そこに使用人とか知人は関係ありません。寝る時まで誰かに気を遣いたくないんです」

不満を口にすれば、アイティールは顎に手を当て意外なほど納得していた。

「…なるほど。確かに。言われてみれば君は誰彼構わず気を遣っているようだ。それならばその心情も頷ける」

「……」

「ならば私も出来うる限り配慮しよう」

アイティールの言葉に私は首を傾げる。

「…と、言いますと…?」

「君が一人でいられる時間が取れるように努力する」

「……それは…その、毎日、と考えていいですか?」

大事なトコなので確認する。

「ああ」

アイティールは同意する。

「10分とか30分じゃダメですよ?」

「無論。…どのくらいならば良いか?」

アイティールの問いに、今度は私が考える。身支度の時間を考えると…

「2時間は頂きたいですが」

「わかった。約束しよう」

アイティールは頷いた。

あ。もうちょっと水増ししとけば良かったかな!?

そんな事を考えていると、アイティールは微笑し

「では、これで君の気がかりも楽になっただろうか?」

と、悠然と確認する。

「……まあ…」

いまいち割り切れない私だったが、こうなった以上、なるようにしかならない。

「そうだ、ニル。君に渡しておきたい物がある」

アイティールは立派なジャケットの内側から何かを取り出すと、それを私に渡した。

「…何?…これ、アイティールの家の紋章じゃない?」

普段通りの気安さで言えば、アイティールは頷いた。

それは、鷲の頭と大きな翼を持ちライオンの体をしたグリフォンの紋章だ。

黄金色の金属ということは…純金ですか?うわ、このコインサイズでいくらになるんだろ…こっわ。

「それを君に」

「ええ?!いいよ!」

面食らって突き返せば、アイティールは紋章を手に、その裏のピンを外すと

「そう言うと思っていたが…そう言うわけにはいかない。君の身元を証明するものだから」

と、腰をあげて向かい合って座っていた私の隣へ片膝をかけて近付いた。

「な、な!なに?」

いきなりの至近距離に身を引くが、馬車の中では逃げ場は無い。

「危ないから動かないでくれ」

黄金色の髪と海のような青い目が間近に影を落とすと、なんだかビビる。ただでさえ、アイティールは同い年に見えないし、異性の体格差のせいかもしれない。

ヒイッ!と、身を縮めると帽子をいじる感覚が…

やがて、アイティールが身を引いて元の位置に座る気配がしたので恐る恐る目を開ける。

帽子に手をやれば、金属の感触が触れた。

お気に入りの帽子に、黄金のグリフォンの紋章が付けられたのだ。

「うん。やはり、帽子がいい。君の目は黒いから黄金が良く合う」

アイティールは至極満足そうに微笑んだ。

「……な、な、ななな…!」

私はその破壊力のあるある笑顔に赤面し、言葉にならなかった。

「王家の紋章はそれだけである程度の身は守れるだろう。君に害なす事は王家を害なす事。だから、それは外す事無く常に付けておくように」

アイティールの説明はつまり、私が混血である事で厄介事に巻き込まれないように、という事だろう。

…それならそうと最初に言ってよ…自分で付けるから…無駄に心拍数を上げる事も無かっただろうに…。

私はアイティールの無駄に見栄えのいい外見を呪った。



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