第4章 なるほど…案外、そういうものかもしれない
「ところで、図書館の記帳…僕の名前は、あの不機嫌な侍従の人の名前なんだね」
帰りの馬車でニルが言ってきた。
友達だと宣言した彼は今までの警戒してきた口調から、ずっと親しみのあるものになった。
「ああ。身分証明に時間をかけたくない。私は図書館を利用する時はロキと行く。ロキはすで身分証明を済ませているからな」
それに…ニルの素性が判明するまでは、ニルは隠しておいた方が無難だろう。
「…ふーん…そんなんで図書館の警備は大丈夫なのかな?」
ニルは自分が図書館を利用出来る事よりも、図書の警備を気にした。やはり普通の視点では無い。
「王族が利用するのに、詳しく疑う者はいない」
「…王制の国の良し悪しだなぁ…」
ニルは窓の流れる街並みを眺めながら何気無く言った。その横顔はまるで心ここにあらずのような傍観だ。
「…王制の良し悪しとは何だと思う?」
「…さぁ…高貴な血ってのは…戦争時の指揮高揚や、同盟の時の要、民衆の誇りになるんじゃない?」
「 …悪い所は?」
ニルは窓に身を寄せながら外を茫洋と眺めている。
「んー…利用される所かなぁ…本人の意思とは関係無く、いかに王が優秀でも…人の欲までは管理出来ない」
「……」
「…それに…」
ニルが続けようとした時、街の鐘が鳴った。ハッと気付きニルの黒い目に光が戻る。
「あ、いや…ごめん。別な事考えてたからテキトーな事、言ってた」
気まずそうに笑い、ニルは「本を読み過ぎて疲れたかなぁー…」と目を揉んだ。
「…それに?」
私は続きを促した。
「…ええ?!…」
ニルは顔を引きつらせて、目を泳がせる。
「…変なこと聞いてこないでよ…。僕の主観なんて何の役にもたたない」
再び窓の外を眺めながら逃げ道を探しているようなニル。
「君の意見を聞きたいんだ」
私はニルをじっと観察した。
馬車の隅に身を寄せ窓に寄りかかるようにして外を眺めている横顔は、少年時期の中性的な輪郭だ。光を受けても漆黒の瞳は底の知れない神秘的な色だった。
所在無く窮屈そうにしていた彼は、限界を感じてハァ…とため息を吐いて嘆いた。
「…僕はそのうち不敬罪で死ぬんだろうか…」
「まさか!私が君にそんな事をするわけが無い!」
私の語気にニルは苦笑する。
「アイティールならそう言うと思ったよ」
「…では…」
「アイティールは僕の友達だ。…でも、殿下はそうじゃない。だから、僕は…殿下には言わない。でも、アイティールなら話すよ」
今後はニルが漆黒の目で私を見つけた。
…どういう事だ?…どちらも私だ。私には言わず、私には言う…?
「…あ。着いたよ」
馬車は屋敷に到着したようだ。ニルは馬車を降りると「僕、着替えてくる」と部屋に行ってしまった。
従者の装いから普段の男装に着替えると、ようやくほっとした。
はぁ、やれやれ。…買い物にでも行こうかなー…。
カバンの中を整理して、不足しそうな物を買いに行かないとな。
ゴソゴソと荷物をまとめて防塵マフラーを身につけると、部屋をノックする音がした。
「はーい」
メイドさんだろうと、気軽に開けたらこちらも着替え終わったアイティールだった。
もう、なんなんだ。
私の装いにアイティールは青い目を大きくして、不安そうに言う。
「ニル?どこへ?」
「あのね…いちいち、逃げられるみたいな顔をしないように。買い物だよ」
「…買い物…?なぜ?必要な物があれば人を呼べばいいのに」
あれー?これ、貴族発言ですかね?もー、殿下ー。下々の者は違うのですよー。
「いいかい?…普通は自分で買いに行くの」
「必要な物はこちらで揃える。遠慮なく言って欲しい」
「……」
「……」
扉の前を動く気配の無いアイティールに、私は一考した。
「…アイティール……。買い物に行かないかい?僕と。一緒に」
ニッコリと笑って誘えば…彼は一瞬驚きながら、素直にコクリと頷いた。
「ロキに見つかると面倒だ。急ごう」
…なぜに買い物に行くだけでこんなに隠密行動になったんだ…。
ザカザカと早足のアイティールは素早い動きで屋敷を移動する。私は早速、面倒くさかった。
厩舎の前に出ると、厩務員が馬房の前で白い馬にブラシをかけていた。
あの責任者の男とは違う男だったが、スレイプの騒動の時に周囲にいたのかもしれない。私を見ても不審な顔はしなかった。
男は作業の手を止めてアイティールに一礼した。
「スレイプ。元気か」
アイティールは愛馬の顔を撫でた。
「え…まさか…馬で…?」
嫌な予感的中。頷くアイティール。
「…僕は馬に乗った事はない。やはり、僕一人で…」
引き返そうとする私の手を掴み、アイティールは張り付いた笑顔で念を押した。
「今更、一人で行くとか…君は言わないよな」
ちょっ…怖…!
ズイッと影が出来たと思ったら白い馬、スレイプが私の前に近寄り鼻面を押し付ける。
「お、おぉ…。キミも行きたいのか…」
見よう見まねで鼻面を撫でると、スーハーと鼻息がかかり、器用に唇でハムハムと手や顔を挟んでくる。
ちょっ…!くすぐったいし!あ!髪はやめて!…のぉ!耳ィ!
「…スレイプ…?」
アイティールは目を丸くして、愛馬を見ている。
「ちょ!…耳…やめ…うわぁー!」
舐められた耳を押さえて後ろに下がれば、それを追うようにゆっくりついて来る。
「…スレイプ」
アイティールの制止にスレイプは素直に従い、その場で尾を振っていた。
「…すごい…スレイプが、殿下以外に…あんなに甘えるなんて…」
厩務員の男は、気難しい馬の様子に感嘆していた。
「…こ、こうしないか?僕は先に出るから、後から来てくれ」
スレイプから逃れ、少し離れた所で私はそう提案し、彼は頷いた。
「……やれやれ…なんだってあんなに懐かれるんだろ。馬にも飼い主にも…」
屋敷を出て、私はボヤいた。
さて、それにしても…馬、危険だな…。髪をかじられたら地毛が出て危ない…。
「…帽子も買おう…」
被って被る事になるけど…。私の頭皮は大丈夫か?
「…む…!!……あー……お腹すいた…」
昼ごはんはアレがいいなーと、考えながら歩いていると後ろから馬の足音が近付いた。
「…見付からずに済んだ?」
「ああ。…まずどこに行く?」
馬上からアイティールが聞いて来る。
「買う物は決まっているんだ。でも、お店がイマイチどこにあるかわからないから…先に昼食にしよう」
「…外で食べるのか?」
「うん。馬車から美味しそうなお店があったんだ」
それはチキンを塩で焼いて、パンと野菜で挟んだチキンサンドだ。人気があるのかさっき馬車から見た時は人が並んでいた。故郷のランゲルハンス島でも人気の軽食だ。
今はちょうど人波が引いたのか空いていてすぐに買えそうだ。
「ちょっと買って来る」
言い置いて、店に入りカウンターに注文をすれば店の主人は愛想よく出来立てを包んでくれた。
飲み物の店を聞くと2件先の果汁売りを勧めてくれたので、そこにも寄ってオレンジとりんごの果汁を絞ってもらう。竹筒のような入れ物は持ち帰りの定番だ。
「お待たせー」
包んでもらったチキンサンドがめちゃくちゃいい匂いがする。
「…他の店も寄ったのか?」
「まあね。さて、食べる場所はどこがいいかな?」
キョロキョロと見回すと、アイティールが「…では、こちらはどうだろうか」と、馬を進めた。
ほどなく、市民憩いの大きい公園に出た。公園と言っても遊具があるわけではなく、石畳みから芝生が広がる広場だ。生垣から様々な植物が花を咲かせ、木々も青々と枝を伸ばしている。点在する小さな屋根はベンチとテーブルだけの休憩所だ。見晴らしが良いように壁は無い。ガゼボというやつだ。
「へぇー…市民の庭園みたいな感じだね」
「そうだ。貴族と違い市民は庭園を持ちにくい。…ここでいいか?」
「いいね!…あ、水が出てる」
アイティールも馬を降りて歩く。
整備された公園らしく、竜の像の口から清浄な水が水路を通って石作りの水受けに流れ続けていた。水受けはご丁寧に人用とその下段に馬用と分かれていた。
「ここはスレイプも気に入っている」
「…そうみたいだね」
なんか、好きに水飲んでるし。
日除けのガゼボに入り、休憩用ベンチに座ると、包んでもらった温かいチキンサンドを出してアイティールに渡した。
油紙に包まれたチキンサンドは、大きめで固めのパンにシャキッとした葉野菜、レモンベースのスパイシーなタレを絡めた細かく刻まれた根野菜、皮がパリッとして焼き色も香ばしいジューシーな炭火塩焼きチキンがメインで挟まっている。
「いただきます。…う〜〜美味しい!!」
両手でかぶりつけば、チキンの香ばしさとシャキシャキ野菜がベストマッチ!
アイティールも私の見よう見まねで食べると、「美味い」と目を輝かせて呟いた。
「シンプルだけど、美味しいでしょ?故郷で食べたものよりスパイシーだけど…ここのも絶品だねぇ!」
ご機嫌で食べ進めると、飲み物を忘れていた。
「りんごとオレンジ、どっちがいい?」
「どちらも嫌いでは無い」
「じゃあ、オレンジあげる」
はい。と、竹筒を渡すと、私はりんごの竹筒を取った。
黙々と食べる昼食は、広場の風も心地よく平和だ。
外で食べるとそれだけで気分がいいよね。
「…ニルは…いつもこういうものを食べているのか?」
アイティールは感心しながら聞いてきた。
「えー?いや、いつもじゃないよ?お使いで街に出た時とか、友達と遊んだ日曜日とかかな…」
のどかに草を食むスレイプを眺めつつ、答える。
「…友達…」
「そう…ああ。アイティールは、今日が初めての買い食いだね」
私が笑うと、アイティールは満足そうに頷いた。
のどかで気持ちのいい昼食を食べ終えると、果汁を飲みながら一息つく。
「…ニル…君の過去を聞いてもいいだろうか…?」
アイティールが躊躇いがちに、こちらを見て聞いてきた。
「過去…まぁ…いいけど…」
「師匠についていたというが、両親は…」
「母は…私が小さい時に亡くなったんだけど…あんまり覚えてない。父は…」
思い出すと懐かしい…。けど…
「生きてるみたいだけど、もう7年も会ってない」
りんごの果汁を飲んで流し込んだ。
「どんな人だったんだ?仕事は?」
「どんな…。わからない。子煩悩な人だったよ…優しかったし…大げさだったけど。なんの仕事か知らないけど、いつも仕事から帰ってくると、嬉しそうに話を聞いてくれる…そんな人だったんだけどね…」
遠い記憶を思い返すと胸が切ない。
「でも、弟が養子に出た日から帰って来なくなった」
「…弟…。ニル、君、弟がいるのか」
アイティールの言葉に私は頷く。
「でも、弟も養子に出た日から7年、会ってない」
「弟も…魔法、いや、仕法が使えたのか…?」
「んー…まぁ…ちょっと…」
いや、かなり上手でしたけど。思い出した…仕法の練習での事を!
『…ヴィナには才能が無いんじゃない…?』
クッ…!!ロスめ!!絶対帰って来るとか言いながら!!…あ…でも…万が一、今帰って来てたら…。
デボラが石化してるし…家の鍵はかかってるし…置き手紙か、伝言でも頼めば良かったな…。
「…あの子、どうしてるんだろう…?」
ポツリと呟くと切ない。
「…ニル…」
「…でも、今は石化を何とかしないとな…」
ヒュプノスの本を読み始めたけど…どうにも、光が見えない…。
「…ニル、もし、図書館で石化についてわからなかったらどうするつもりだ?」
アイティールの言葉に、私は腕を組んで唸った。
「…うーん…そこだよねぇ…」
「…ヒュプノスにこだわらずに、魔法に詳しい者に聞いてはどうだろう?」
アイティールの提案に、私は目から鱗がボロッと落ちた。
「そ・れ・だ!!」
私の反応に、アイティールは圧されながらも冷静だ。
「…仕法というのと魔法というのが同じかはわからないが…」
「う、うーん…?」
「しかし、魔法に詳しい者ならば、君の師匠がなぜヒュプノスと言い残したか、ヒントを得られるかも知れない…」
「アイティール君!!キミ!いいカンしてるじゃないか!!」
私は一気に光が見えてきた。
「それで?!キミの幅広いであろう人脈に、凄い魔法使いはいるのかな?!」
「………」
アイティールはキレイな海のような青い目をじっと私に向けて無言だった。
ん?
「……んん?」
「…ニル…魔法を熟知する者はそう多くは無い…戦乱時代に亡くなった方も多い…」
という事は…
「だが、いる所にはいる」
アイティールの言葉に私は「…と、いうと…?」と首を傾げる。
「…その前に…さっきのことを聞いてもいいだろうか?」
「…さっきの事?」
「…王政の悪しき所だ」
「ああ。それか。うーんと…僕の考えだけど…王政ってのは世襲制でしょ?王が優秀でも、その子孫が優秀とは限らない。それに王位継承で揉める。必ずしも良い素質を持つ者が王になれるという確約も無い。素質なんて実際、なってみないとわからないし。それが政権を持つ国のトップにすると、よほど強固な決まり事か、王が飾りでも国が傾かない優秀で忠実な臣下を揃える必要があるよね」
世界史と日本史によく出てくるやつだ。
つらつらと語れば、アイティールは不意な返答に驚いている。
「…そうか…。優秀で忠実な臣下と、強固な決まり事…今のように…」
「臣下は優秀なだけでも謀反が起こりうるからね。王は愛される魅力がないと…でもそれって至難だよねぇ…」
あちらを立てればこちらがたたず。誰からも愛されるカリスマ性の素質なんてどんな無双だよ…。
「…なるほど…。参考になった」
アイティールは頷き、ふと疑問に問う。
「だが、なぜ容易く教えてくれたのだ?先程は私には教えないと言っていたのに…」
「それは今がアイティールだからだよ」
「?」
「アイティール…君は時々、人を従えようとする目をするだろ。それは殿下だからある程度は仕方が無いんだろうけど…僕は…苦手だ」
「…私が?君に?…そうなのか…?」
アイティールは思いがけない指摘に目を丸くしていた。
「そうさ。だから僕はアイティールには言うけど、殿下には黙秘する」
私は自分の口を押さえて主張した。
「そうか。どちらも私なんだが…。まぁ、いい。君は面白いな」
アイティールは苦笑した。
「そんなことより!!魔法使いってどこにいるのかな!?教えてくれるよね?!」
私は目を輝かせてアイティールの手をガシッと握って問う。アイティールはその勢いに、決意したように私を見た。
「ニル…私と共に士官学校に行かないか?」
は?なんで?
「……ええ?…学校…?」
アイティールは頷く。
「…学校…」
なぜに学校…てか、この世界にも学校があるのか…。士官学校っていうくらいだから…軍隊の?…なんか穏やかじゃないな…。
私はアイティールの手を離した。それを目で追いながらアイティールは続ける。
「士官学校は魔法師も育てる。そこには魔法に詳しい者…魔法の指導者がいる。その者なら石化についての情報を得られるかも知れない」
ほうほう。なるほど。
「…それなら、そこにお訪ねすればいいのでは…?」
「魔法は厳しく管理されているから、おいそれと誰でも簡単に会う事は出来ない」
う…そ、そうか。
「…じゃ、じゃあ…そこをなんとか、図書館みたいな感じで…」
「私は王族だ。だが、現政権に関わっている訳じゃない。そんな私が魔法使いに無理に会う事がどんな意味を持つか…」
「わーーーー!!いい!!ごめん!!なんでもないデス!!撤回します!」
とんでもない、そいつは謀反の疑いだ!
私は手を振って話を打ち切った。
ニルは話の途中でその意味に気付いた。そして慌てて否定し、私に詫びた。
そう、魔法はその危険性と有効性に厳重に管理されている。それを利用する者は同じく。
魔法の使用は登録と許可が必要だ。
魔法使いは全員この申請をする。そして、各自が適した属性の護符を授かる。
この護符が無いと魔法使いと言えど魔法は使えない。普通ならば。
だが、目の前の彼はその護符を必要としない。
ニルの問う、私の人脈にいる凄い魔法使いとは、まさにニルだ。
大魔法使いと言われるレベルで所在が明確にわかる者は、覇王ゼルディウスと、宰相モルフィネス、そして教皇だが…どれも私や今のニルが会うには現実的ではない。
だが、師範する魔法使いなら所在も面会も望みはある。
それには…ニルが共に士官学校に来るのが1番、都合がいい。
「…私は間もなく士官学校に入らなくてはならない。そうすると、君の手伝いも出来ないし…士官学校に君も来るなら自分で魔法の事も聞けるだろう?」
「………うううううーーんんん……」
ニルは腕を組んで苦悩している。
「何を悩む?」
「…いや…僕…素性が…ほら、色々…」
混血の事や出自の事…ああ、師匠への事だろうか?
「…それは心配いらない。私の伝手でその色々も、どうにでも出来る」
「そこはどうにでも出来ちゃうの?!」
ニルは驚愕して、私を見た。
「むしろそのつもりだ。名前も戸籍も別人として用意しよう」
その方がこちらも都合がいい。
「ええ?!」
ニルは何か困惑している。そして腕を組んで唸った。
「…で、でも、僕…卒業まで居られないと思う…」
「…なぜ?」
「なぜって、師匠の石化を解く方法がわかれば僕は師匠の元に戻る。師匠の石化が解けて罪が許されるまで、僕の旅は師匠の為だ」
「そうか…師匠の許しが必要だな」
「それに、僕が無事卒業出来るかもわからないだろ。落第しうる事だって…」
「それはやればいいだけだ」
アッサリ言うアイティールは、結果を出せる人種だろう。
「そ…ソウデスネ…」
私は遠くを見て同意した。
不意に、視界に馬の鼻面が入ってきた。
「わ!…な、なに?急に?」
馬は、私の顔から手元の匂いを嗅いでいる。
「スレイプ?」
その仕草から手に持って飲んでいたりんご果汁が気になるようだ。
「これかな…?」
アイティールを見ると、困惑しながらも「スレイプはりんごが好きだ」と言って頷いた。
私は竹筒から自分の手にりんご果汁を注いだ。スレイプは迷わずそれを舐める。
「おぉ…キミ、結構、イケる口だねぇ…」
注いでは舐め、注いでは舐め、残り少なかったりんご果汁はスレイプが全て味わった。
大きいからちょっと怖いけど…慣れれば、かわいいなー。
舐められた手を水路から出る水で洗い、ついでに飲み終わった竹筒もすすいだ。これは後で返却するとお金が少し返ってくる。
「……なぜスレイプは君に警戒しないんだろう?」
アイティールが不思議そうにスレイプを撫でて言った。
「さぁ?僕も聞きたいよ。君はどうして僕にこだわったのか」
すすいだ竹筒の水を切りながら、私が言うとアイティールはスレイプの顔を見て納得した。
「…なるほど…案外、そういうものなのかも知れない」
「なにが?」
竹筒をカバンに入れ、後始末をまとめるニルは動きに無駄が無い。一人でテキパキと片付ける彼の姿に、手持ちぶたさな私はスレイプを構いながら思案した。
「好ましいと思う事に理由をつけても、それは1番の理由じゃない。ただ、君が好きなんだ」
ビクリと体を震わせ、ニルは後ろ姿のまま固まった。
「……ニル?」
「…そ、それはその…馬の話だよね…?」
ぎこちない首の動きで振り返って言うニルは何とも言えない顔をしていた。微妙な空気にニルは私に疑惑の目を向ける。
「…?…私は友として、君を気に入っている」
その事に何を疑うというのか、胸を張って答えるとニルはホッとして答えた。
「…僕も、男として君はいい友達だと思う…」
「それは光栄だ」
友からの嬉しい言葉に頷けば、スレイプが鼻息と共に首を振った。
その後の買い物はつつがなく終わった。
竹筒を返却してから、いくつかの買い物を済ます。特に露店で、ひさしのついたキャスケット風の帽子を、お手頃価格で見つけた時は、これだ!と即買いした。被り心地といい、色といい、形といい、全て気に入った。
その時、さっきのアイティールの言葉を思い出して、微妙な気持ちになるが…。
…ただ好きで気に入ったから。お気に入りとはそういうもの。…まぁ、そうかも知れない…。
何を意識してるんだ!!私は!!
16才にして、初めての友達を得た彼は距離感が難しい。
たまに、とんでもなく遠い雰囲気をだしておきながら、いきなり家族よりもゼロ距離にくるのは、友達付き合いに不慣れなのだから仕方ない事なんだろうな…。その都度なんかバレたのかと、ビビるけど。
私は買い物に満足し、彼は友達と買い物をしたという事に満足していた。
お互いご機嫌で家に帰れば…眉間にくっきりとシワを刻んだロキさんに二人して説教された。
夕食を終え、アイティールが自室に戻ると見慣れた広い部屋で今日の事が思い出される。
図書館での事、行き帰りの馬車の事、昼食の事、買い物の事、帰宅してニルまで説教された事まで…どれも今日1日で起きた事とは思えないほど、密度が濃く、今まで経験した事のないものだった。
正直、友という存在がここまで楽しいとは思わなかった。
始めはただ、自分の夢を果たす上で必要だった存在だ。
だが、ニルはアイティールの理想以上に希望を叶えてくれる。
想像を超える人材にアイティールは不安になるくらいだ。
ニルを育てたのは誰なのか?こちら側の人間だというロキの主張は、まず間違いはないだろう。
10代で王政について語れる視点を持ち、読み書きを厭わない。かと言えば、買い物や片付けなどの市井の暮らしにも慣れている。
王族と聞いても、面倒そうな顔はすれど媚びる事なく堂々と相対する自尊心…。
「(…君は一体、何者なんだろう…ニル…)」
数日前に出会った友はその知識に反して、気さくでいて、外見は16才にしてはあどけない少年のようだ。
嬉しい時は笑い、嫌な時は顔をしかめ、悲しんだり、困ったり、戸惑ったり、照れたり…他にも色々、あれほど表情豊かな人間はアイティールの周りにはいない。
貴族とは常に作った微笑みの下に真意を隠すからだ。
「(…ニルに向かない事があるなら…それは間諜だろうな…)」
ニルのようなわかりやすい人間が出来る事では無い。しかも、彼はかなりのお人好しだ。
ロキの説教に、あれほどしょげるのも見ていて面白い。説教までも楽しく感じるとは初めてだ。
自分の利益にならない事まで被り、富にたからず、自活するニルの姿は多くの貴族には無いものだ。
その孤高の姿勢も好ましい。
そして今は、彼をいかに手元に留めるかが1番の課題となった。
「(…ニルの師匠には永劫に石化していてもらわなくてはならない…)」
そう、例え石化を解除する方法があったとしても、それをニルに知られてはならない。
おそらく、図書館の本にその情報はないだろう。具体的な魔法関連の本はそもそも図書館には置いてないのだ。
「(…ヒュプノスの本がたった6冊なのも、魔法に関わらない本があれだけという事だ)」
アイティールは知っている。図書館に行く事が無駄である事を。しかし、それをニルに教えるはずも無い。
「(…逃がさない…絶対に…)」
鳥籠の扉を開けていても、決して逃げない鳥になるように。常に自分のためにさえずっているように。
アイティールは、ニルが自分で選択したようにアイティールの都合のいい方向に誘導しなくてはならない。
「(ああ…明日も楽しみだな…)」
こんな風に思う日が来るとは思わなかった。
役職のための人生がまんざらでも無いと思えた初めての日かも知れない。
アイティールはベッドに横になりながらチェスの駒を動かすように、次に想定しうる手の先を考える。
私は、与えられた部屋の鍵をかけていつものように身繕いをする。
「(この桶のお湯もメイドさんは毎回、不思議そうな顔をするけど…)」
お風呂ー…そろそろ限界だー…。
この世界は夢の中の世界ほど湿度が無いから肌がベタベタする事は無いのだが…習慣になっている。
「…それにしても…」
買い物はしたけど…アイティールが一緒だったから買えないのもあったんだよなぁ…。
何に使うのかと聞かれたら、いい嘘が思いつかない。
「…これは…ちゃちゃっと、もう一度行く必要があるなぁ…」
今はアイティールの家でお世話になっているからご飯も宿代もかかっていないが…図書館でもヒントが無かった場合…次はどうしたものか…
アイティールの言うように魔法使いに聞くというのは確かに有益だ。だけど、会えないんじゃ意味が無い。
「…士官学校ねぇ…」
女とバレないか、アルカティア人とバレないか、が1番のネックだけど…
『その色々は私の伝手でどうにでもなるから大丈夫だ』
殿下のその《大丈夫》が何に対しての事か確認出来ないのだが。
学校行って授業を受ける間くらいなら…まぁ…いけるかなぁ…?
私は夢の中の学校を思い浮かべる。ああ、そろそろあちらも中間テストだ…。
「…ぐはっ…」
夢の中の人生と、現実の人生…ダブルキャストの人生はなかなかハードだ。
真白いシーツの広いベッドを見つめて、ため息を吐いた。
「(…寝たいけど…寝たくない…)」
せめて夢の中の物品を持ってこられたらいいのに…。ホントそれ。
「おはよう。ニル」
「…おはよう…アイティール…」
今日も麗しい殿下のさわやかな笑顔とは裏腹に…私は朝からグッタリだ。
「ニル…具合でも悪いのか?」
心配そうに問うアイティールに、私は否定した。
「いや、ちょっと…うん、そう、夢見が悪かったというか?…目覚めが悪かったというか?」
中間テスト近いのにー…まだ範囲やりきれてないー!
「?…何か足りないものはあるか?」
時間かなぁ?…いやいや、そうじゃない。
「ありがとう。アイティール。大丈夫だよ」
「…今日の図書館は休まなくて大丈夫か?」
「それは大丈夫!うん。寝不足みたいなものだから」
「…そうか。ならば今日は図書館の後は自由だ」
嬉しそうなアイティールに今度は私が訝しむ。
「…じ、自由って?」
「今日からロキが不在だ。うるさい見張りがいない」
アイティールは、大人びた顔にイタズラをしそうな少年の面影を浮かべて言った。
「へぇ。昨日、あんなに怒ってたのに…」
殿下の身に何かあっては従者失格だ。というか、クビどころか本当の意味で死罪。それに、あの人は普段は無表情だが、常にアイティールの身に不足が無いように気にかけているようだ。
仕事と言えばそれまでだが、使用人に対するアイティールへの指示はまるで過保護なお母さんだ。
「それでも出かけるなら、よっぽど大事な用事なんだねぇ…」
しみじみ呟けば、アイティールは青い目で微笑んだ。
「さあ、朝食にしよう。それから図書館だな」
アイティールはご機嫌だった。
図書館は神殿のような重厚感だが、その一室のこの部屋は図書館というよりも高級ラウンジだ。
今日もソファーに座りページをめくる。厚みのある本の文字を目で追いながら石化のヒントを探る…も、かれこれ昼が近付いても全くそれらしき単語すら出てこない。
…む〜…どうしよう…本当に手がかりないー…。
せめてかすってくれたらいいのに、そんな事すら皆無だ。焦りを感じながら固まった体を身動ぐと、ふと視線を感じて顔をあげる。
と、いつからかアイティールが本を置いて、ソファーにゆったりと座りながら私をじっと見ていた。
えぇ…なんか、苦手なんだよなぁ…この人を鑑別するような視線…。
「あ、アイティール…お腹すいたの?」
「…ん、いや?…ああ、もうそんな時間か?」
アイティールは瞬いて、窓を見た。私は本を閉じてソファーの机に本を戻す。
「今日はここまでだね。明日でここの本も読み終わるだろうから、それまで退屈だろうけど…」
「退屈?そんな事は無い」
アイティールは否定した。
「いいんだよ。普通なら退屈するもんさ。何か違う本でも借りたらいいのに」
私はアイティールを気遣ってそう言うと、アイティールは私の額に手を伸ばした。
「…?」
ゴミでも付いてたかな?
やや身を引いて避けたアイティールの指先が微かに前髪をかすめた。
「な、なに?」
身構える私に、アイティールは不服そうに言う。
「ニル…前髪、切った方が良いのではないか?」
親切心のアドバイスだった。
「…………大丈夫。僕はこれで満足してる」
静かに本を読むニルを眺めながら、色々思案する。その時間はなかなか充実していて心地よい。
さて、ニルは本に答えが無いとわかれば、どうするだろうか?きちんと用意した道へ進めばいいが、そうでなかった時を考えておかねばならない。
場合によっては、もう少しニルの興味をひく情報をそれとなく伝えたらいいだろう。
黒い目を輝かせて自分を頼る友の姿を想像しては、アイティールは口角が緩んだ。
それと、アイティールはニルの前髪が長いのが気になった。
せっかくの神秘的な黒い瞳を隠すのは惜しい。その瞳の色こそが、ニルの知性を象徴しているようなものなのに。
ふと、ニルが退屈かと聞いてくる。
退屈?この時間が退屈であったなら、こんなに充足感を感じる事は無いだろう。
違う本を読む事はいつでもいくらでも出来る。しかし、友と共有する時間は金品では買えない。それに…
ただ本を読む友を見るだけでも飽きない。いや、前髪が今より短ければなお、いい。
自然と手を伸ばせば、ニルは猫のように警戒して身を引いた。
その様子がなんとも不満だ。そんなに好かれていないという事か?
…いや、そもそも友との関係とはどういうものなのか…?
自分は一般的な同性の友達との馴れ合いがどこまでなのか、全くわからない事に気が付いた。
「ニル、今日も昼食を外でするか?」
屋敷に到着して、従者の服を着替えようとする私にアイティールが声をかけた。
「うーん?特別予定は無いけど…」
チャチャっと買いたい物はアイティールが一緒だと面倒だ。
「…そうか…」
あ。でも、なんか楽しみにしてたっぽい…。
「じゃ、じゃあ、今日は天気も良いし、庭で昼食にしよう?」
「庭で?」
「うん。そう。ここの庭、広そうだし。バラとか咲いてたみたいだし…見せてくれる?」
私の提案に、アイティールは「庭か…」と意外そうに呟いて頷いた。
「わぁー!さすがだねー!」
着替えて集合した屋敷の庭には、庭師が精魂込めて作り上げた庭園が広がっていた。
色取り取りのバラはセンスよく配置され、バラのアーチに、美しく刈られた鹿のトピアリー。水路が引かれた水場は池に流れ、白鳥が踊るような像が付いた噴水は水を潤沢に流れている。全てが揃った美しい広大な庭の緑の草木は全て人の手によってキレイに刈り込まれている。
「ニルは庭に興味があるのか?」
アイティールが首を傾げる。
「うん。僕も師匠の薬草の庭を手伝っていたし。…でも、こんな見事な観賞用じゃなくて、もっと実用的な植物ばかりだったけど」
そう言って私は笑った。
昼食はこれまた休憩用のガゼボに用意された。きちんと置かれた食器にアイティールは「チキンサンドでいいのだが…」と呟いた。
「あはは。気に入ったんだね。でも、ここで食べるのもきっと美味しいよ」
快晴に、木漏れ日が気持ちいい。庭の景観も見事だ。
用意された席に座り、メイドと使用人が給事する。
「…じゃあ、今日は僕がアイティールの事を聞いてもいい?」
私の問いに、アイティールは真顔で頷いた。
「アイティールは兄弟はいないの?」
「…妹がいる」
「へぇー!そうなんだ。君の妹ならきっとキレイな人なんだろうな」
濃い金の髪に、海のように青い瞳の麗しの殿下の妹ならば、きっと人形のようにキレイな女性じゃないかなぁ?
しかし、アイティールは庭を見た。
「…見た目など、花のようなものだ」
「花?」
「…どんな花でも、やがてしぼむ。どんなに美しいと言われる花でも、その価値は所詮はただ咲いてるだけの花でしか無い」
無表情に答えるアイティールには全く関心が無いようだ。
「ふーん…ずいぶん冷静なんだなぁ。でもさ、妹がかわいいとか思わない?」
「…アレが?…無いな」
アイティールの青い目が冷たく冷えた。
「そ、そうなのか…」
「同性の兄弟ならば違ったのだろうか…」
私を見てアイティールは思案する。
…ちょっと。その顔って私の事を弟として見えてるよね?!
「その…妹と話をしたりしないの?」
「妹と話す事など、無駄だ。流行の服がどうだとか、髪型がどうだとか、誰が何と言っていたとか、そんな事にしか話題が無いからな」
心底、辟易した様子のアイティールに私は苦笑した。
「そ、そうか…。女の子なんだね」
「全ての女がそうなのであれば、その話に付き合わねばならない未来は気が重い…」
アイティール殿下は艶っぽくため息を吐いた。
「そ…それは…アイティールに合ういい女性が現れたらいいね…」
やっぱり殿下は大変だな。
「伴侶を自分で選ぶ事は諦めている。花ならどれも同じだ。…だが、友だけは自分で選びたい。選ぶからには妥協はしたくない。…そして、理想の友を見つけたところだ」
「そ、それは…まぁ…よかった…ね…」
アイティールの満足そうな顔に、私はなんとも言えない顔になる。
殿下…友達選びを大事な所で間違えてませんか?!ダメだ!話を変えよう!
「と、ところで…どうして学校に行くの?」
「士官学校の事か?」
「うん。君なら学校に行かなくたって学べるだろう?」
「…ただ学ぶだけではだめだ。学ぶのは学問だけでは足りない。同じ年代の者と机を並べ、同じ時間と空間を共有する事で見えてくる事もあるはずだ」
そう言うアイティールの目は真剣だ。
「ああ。なるほどねー…確かにそうだね。色んな人と話す事って大事だしね」
「興味があるか?」
「え?!…興味というか…アイティールは偉いね」
「私が?」
私の言葉にアイティールが驚く。
「うん。必要だと思う物は迷わず取りに行くだろ?」
「それは君も同じだろう」
「僕?…いや、僕は…師匠がああなってしまったのは僕のせいだし…」
「それでも逃げずに取りに行くだろう」
「…それは!…師匠は僕の大事な…家族だから…」
私がデボラを石化させてしまった。それなのにそのままになんて出来る訳がない。
「…何に重きを置くかは人それぞれだ。ただ、目標に向かって本気になれるかは本人次第だ」
アイティールの金の髪は、木漏れ日を揺らす風にサラリと揺れた。
「…そうだね…」
「…ニル…不安でも、まずは試してみるのが最善だと思わないか?ダメならやり直せばいい」
「…アイティール…」
「…それでも、ニルが行きたく無いのを無理には誘わない。ただ、素性の事で気にしているのならそこは気にしなくていい。万が一、問題があったとしても、手違いだったとすれば良い」
「そ、そんなアッサリいくものかなぁ…?」
「私は王族だ。こういう所で権限を使えなくて、何の為にチキンサンドも満足に買い食い出来ない窮屈な思いをしているのか」
フン。とアイティールは吐き捨てた。
その拗ねた顔が大人びた彼には不釣り合いで、私は笑った。
「…アイティール…君、よほど気に入ったんだね。チキンサンド」
「そうだな…」
アイティールは木漏れ日の中、眩しそうに微笑んだ。
昼食を終え食後のお茶を飲むと、穏やかな時間に心が和む。
「…庭でも案外いいものだな」
意外だった。自分の敷地でここまで心穏やかになるとは。
「外で食べるご飯の美味しさは格別だよね。使用人には手間かけちゃうけど」
ニルはこの昼食スタイルに満足しながらも、使用人の仕事を気遣った。
「ニル…君は使用人にも気を遣うんだな」
「そりゃそうさ。彼らだって人間だよ?気持ちがあるんだから。気持ち良く仕事したいだろ?」
「…金を払っているのだから何をしても構わないと横柄な貴族も多い」
「…うわー…そんな事してたら、いつか自分の身に厄災が降りかかるね」
恐ろしそうに断言するニル。
「そういうのを見たことがあるのか?」
「いや。…でも、そういうものだよ」
木漏れ日の中で風を受け、庭の景色に目を細めるニル。
「…君の家の使用人は幸せだな」
ニルの考えなら厚遇されているだろう。
「僕の家?…僕の家に使用人はいないよ。師匠と二人きりだった」
「…本当に…?ずっと…?」
思いがけない言葉に、私は驚いた。
「そんなに驚く事かな?普通の家には使用人なんていないよ」
いや、ニルの育った環境で使用人がいないというのが驚きだ。
「幼少期にはいたとか…師匠の他にいないのか?」
「昨日言った通りさ。僕の家族は母が亡くなり、弟は養子、父は蒸発…師匠が親代わり」
師匠が親代わり…どんな男なのか…?
「…君の師匠って…どんな人なんだ?」
「どんな…うーん…。…なんで?」
ニルは、一考して問う。
「…君は…平民じゃないだろう?立ち振る舞いも、食事の仕方も、考え方も、平民とは違う」
その言葉に、ニルが驚いた。
「とんでもない!僕はフツーの平民さ。家は師匠と僕だけ。家事も自分達でやるし、薬草を育てたり薬を作ったり、地味な暮らしだよ!…すごく平和だったけど」
「ならば王政の事や普段の知識はどこで?師匠からか?」
ニルの知識の核心に迫れば、「それは授…」と答えかけて、ハッと私を見るとニルは自分の口を両手で押さえて沈黙した。
「……また私は君の言う殿下になっているのか?」
「…う、うーん…まぁね」
ニルは目をそらして、お茶を飲む。
「ねぇ…アイティール、君は僕を買いかぶり過ぎだよ。僕は本当にフツーの平民なんだ…」
「普通の?…ニルの言う普通の概念は、ずいぶん高みにあるだな」
笑顔で答えれば、ニルは途方に暮れた顔をする。
「…アイティール、意地悪なこと言わないでよ…。君はいつか僕にガッカリする事になる」
意地悪?私が?そしてニルに失望する事になる?
「さて、それはどうかな」
手を組んで、目の前の友を注視すれば、ニルは居心地の悪そうに身じろいだ。
…勘弁してよ…。
蛇に睨まれたカエルってこういう気持ちなんだろうか…。
私はアイティールの無言の圧力に耐えながら別の話題を探した。
アルカティア人関連の事は言わない方がいい。ただでさえ、アイティールには仕法に興味を持っている。普通の仕法は、もうバレちゃってしょうがないとしても、眠りの仕法と夢の事は言えない。
「…そ、そう言えば、ロキさんはいつ帰ってくるんだろうなー?」
「………」
アイティールは特別、気にもならないようで無言で青い目を向けたままだ。
あぁ!…話題の興味が弱いか!…じゃ、じゃあ…えーと…。
「す…スレイプって、かわいいよね」
「…スレイプが?…そう言われた事は無いが…」
アイティールは、話に乗ってきた。
よ、よーし!これでいこう!
「そうなの?賢そうだし、懐っこいよね」
「賢いのは賢いが…賢いがゆえに、人を選ぶ。下手に手を出したら蹴られるか、噛まれるか…スレイプに蹴られて骨を折った者もいる」
「えっ…そうなの?!」
あっぶな!それなら言ってよ!…噛まれてないけど。
「スレイプって…時々危険なんだね…」
「さぁ?私にはとても良い友人だが」
アイティールはサラリと否定した。
「…う、うん…そうみたいだね」
「…ニルは馬に乗った事が無いのか?」
ふと、思い出したようにアイティールが聞いてきた。
「え?…うん。乗る機会が無かったから」
「乗ってみるか?」
アイティールの誘いに、私は瞬いた。
「え?!そんなに簡単に乗れるものなの?!」
「ああ。大概はな。馬に乗らないのは女くらいだろう?」
うぐ。これは乗らないという選択肢は消えた…。
「そ、そうなの?それはまずいな…」
「決まりだな。厩舎に行こう」
アイティールは面白そうに立ち上がり私を誘った。
厩舎には、あの責任者の男がいた。
「これは、殿下…」
頭を下げる男は、少し困ったような顔をした。
「…何かあったんですか?」
私がアイティールの後ろから聞けば、男はさらに厄介そうな顔をする。
「…いや、なんかあったのは昨日だが…」
ボソリと呟いて私はピンときた。
「あー…ええっと。実は今日は乗馬を教えてもらいたいんですよ。ここで」
私の言葉に、アイティールが「ここで?」とつまらなそうな顔で言う。
「うん。ここで。ここなら馬の運動場もあるし、安心だよ。僕は全くの初心者だよ?僕に何かあったらどうするんだ」
言葉の最後は冗談っぽく言ったのだが、アイティールはそこに同意した。
「なるほど…。確かに。そうしよう」
その言葉に、責任者は明らかにホッとした様子だった。
やっぱり、昨日のロキさんのカミナリ…馬を出させた厩舎にもいったんだなぁ…お疲れ様デス…。
私は厩舎の責任者の苦労を思う。厩務員が殿下にダメとは言えないし、ロキさんのカミナリは落ちるしで…中間管理職の辛さだね…。
そんな私の気持ちに気付いてか、責任者の男は私を見て苦笑した。
「さて…ニルに合う馬はどれがいい?」
アイティールの問いに、責任者は「本当に乗ったことが事が無いんで?一度も?」と私に聞いた。
「無いです…」
「それならまずは引き馬に乗せましょう。大人しい牝馬がいいですね」
そうして、栗毛の馬が連れ出された。乗る前に、注意事項と馬具の各名称を説明される。そしていざ、背中にどうぞって所だが…
「…馬ってやっぱり大きいなぁ…」
あぶみという足をかけるところから背中に乗るのが…足掛ける位置が、腰の上くらいな位置なんだよね…ううむ…
「…おじさん、ちょっと背中向いてもらえます?」
「なんだ?」
責任者の男はなんの事かと眉をよせるが、アイティールが「…ジャック」と呼ぶと振り返った。
その隙に、仕法で風をまとうとフワリと馬の背中にまたがった。
「ああ、どうも」
責任者のおじさん、ジャックっていうのか。そういえば名前聞いてなかったな。
「おー…視界が高ーい」
「?…なんだ?乗ったのか。じゃあ、動くぞ」
馬はジャックに引かれてゆっくり歩きだす。前後に体が揺れると視界の高さもあってなかなかのスリルだ。
「…馬は人馬一体が大事だ。乗り手は馬の気持ちを察しながら、また馬に自分の気持ちを伝える。手綱は強く引きすぎるなよ。ハミが鈍る。視線は自分の行きたい場所に向けろ。そうすりゃ、自然と体の重心がそっちに向く。馬は背中の重心でそれを察する。背中の人間が鈍いと馬が混乱して苦労するからな」
馬を引きながらジャックが教えてくれた。そに口調に遠慮は一切無い。
「…な、なるほど…」
ハミってなんだっけ?…ああ、口にくわえてるやつか。
「……。お前、殿下を止めてくれたんだな」
ジャックが、ふと前を向いたまま言った。馬が運動場を進み、見守っていたアイティールには聞こえない距離だろう。
「あー…まぁ…なんというか…お察しします…」
「はっ!お察しします。か…。まぁ、俺たちはそれが仕事だからな。…だが、殿下も気の毒よ。生まれた時から自由が無いからな。どこへ行くにも、ちょいと気楽にっていうわけにはいかねぇ…。せっかくの駿馬も自由に走る事が出来なきゃ意味がねぇ…。スレイプなんか、朝晩、走らせないとすぐに苛立って柵をかじる」
「へぇ…」
「殿下もその辺の若者らしく楽しめたらいいんだがな…スレイプは仲間がいなくてもいいが、人間はそうはいかねぇからな…」
「…スレイプって気難しいんですね」
「あいつは血統がそうだからな。人間が、より足の早い血を、選んで選んで更に特別な血を入れて生まれた馬だ。走るために生まれたようなもんだが、それに加えて頭がいい。ボーとした馬なら幸せだが、頭が良い分、気位も高い。他の馬ともあんまり馴れ合わない」
「………こう言ったら、その…なんですが…飼い主に似るっていいますし…」
私の言いにくい言葉に、ジャックは豪快に笑った。
「ハッハッハッ!!そうだなぁ!そいつは俺も心の中じゃ思ってる事よ!お前みたいに口に出して言わないけどな!」
「ええ!?ちょ!!…聞かなかった事にして下さいよ?!」
「ハッハッハッ!!だが、お前は殿下にもスレイプにも気に入られたんだってな?どうやって取り入ったんだ?」
愉快そうに聞くジャックに、私は馬上で嘆いた。
「こっちが聞きたいくらいですよ…。僕は何もしてないのに…」
「まぁ、何もしないで気に入られたんなら、《馬が合った》って事だな!」
オヤジギャグはどこの世界でも共通なのか…。
「…。…おじさん……それ、面白くないですよ?」
「ハッハッハッ!!」
豪快に笑うジャック。
運動場を一周すると、アイティールがスレイプを引き出して待っていた。
「…あれ?スレイプ…」
私が馬に乗って…というか乗せられてスレイプの前に進むと、スレイプは馬上の私に鼻面を押し付けた。
「いやー、本当に珍しい…。スレイプが嫉妬してるぞ」
ジャックは食い入るようにスレイプを見て言った。
「ヤキモチなんですか?これ?」
馬語はわからない。
「厩舎から、出せと鳴いていたから出したんだが…」
アイティールは愛馬の態度に複雑な顔をしている。
「ニル。それでは一緒に歩かせるか。ジャック、離れていいぞ」
軽々とスレイプに乗り、運動場に入ってくるアイティール。
「え?僕、まだ一周しかしてないんだけど?!」
アイティールの言葉に私はギョッとして訴えるも、「問題ない。上達への道だ」と笑顔で押し切られた。
人が側で引いてくれる引き馬から、いきなりの一人だが、アイティールがスレイプをゆっくり歩き進めると、栗毛の馬もつられて歩き出した。
「ん?…これは…」
私、何もしてないんだけど…?
「スレイプに、その馬がついてきてるだけだな」
アイティールは苦笑した。つまり…引き馬となんら変わらない…。
ポクポクとゆっくり歩く2頭の馬。
「…こうしてみると、スレイプは大人しいのになぁ…」
スレイプはオスだから、私が乗って…いや、乗せてもらっている栗毛の馬より少し大きい。白い馬体は艶々していて、長いたてがみはサラサラだ。
アイティールはスレイプを栗毛の馬の横に付いて歩かせながら聞いてきた。
「それで?…さっきはジャックと何の話をしていたんだ?」
「え?!」
ギクリ!と顔が引きつった。まさか、飼い主と似てる発言を本人にするのは…
「楽しそうに話をしていただろう?」
「え?…いや…?そんな楽しい話じゃ無いんだけど…」
「楽しくないのにジャックがあんなに笑うのか?」
不満そうに文句を言うアイティール。
「…アイティール…君…暇だったんだね」
「ああ。全くもってつまらない。だから面白い話をしたなら教えてくれ」
「馬の話だよ」
「…馬の話であんなにジャックが…?」
「そうさ。《馬だけに馬があう》って、面白くないよね?」
「……それは…確かに…」
「ああ、よかった。…あのおじさん、本当に馬好きなんだねぇ」
「そうだな…ジャックが笑うのは馬の話ぐらいだろうな…」
アイティールはようやく腑に落ちたようだ。
「…アイティールはいつから馬に乗ったの?」
「6才だ」
「ええ?!…凄いね…」
「そうか?…父上がやれというからしたまでだ」
「…そ、それはまた…思い切ったね…怖く無かったの?」
「…私より…周囲が泣いてたな」
き!気の毒過ぎる!スタッフの皆さん!
「…きっとアイティールが馬を降りるまで生きた心地がしなかっただろうねぇ…」
「…さぁな。ところで、ニル、明日はどこに行く?」
「えっ?!…ロキさんが帰って来るまで自重した方が…」
「……。なるほど…そういう事か」
アイティールの言葉がスッと冷えた。
「え?」
「ニル…君も私を役職で縛るのか?」
「そんな…そんな事ないよ!」
「では、なぜ庭や屋敷にこだわる?」
「それは……」
「私は馬か?誰かに引き出されなければ外出も出来ないのか?」
「アイティール…」
そうか…。確かにそうかも知れない…。
「ごめん。そうだよね…。僕は君の気持ちがわかってなかった…」
アイティールは誰かのペットじゃない。自分の意思で決める権利がある。
「じゃあ、明日は出かけようか。君が行きたい所へ」
私の言葉に、アイティールは嬉々として答えた。
「それでこそ私の友だ」
さっきまでの雰囲気を一変させ、意気揚々とご機嫌だ。
なんか、こういう時はアイティールも同い年なんだなーって思える気がする。見た目が成熟している分、アイティールはずっと我慢をしているのかも知れない。
ポクポクと運動場を馬に揺られて周り、私は慣れた頃合いで終わりにした。栗毛の馬の首を撫でてお礼を言うと、手綱をジャックに引き渡す。
「どうだ?馬は」
ジャックの問いに私は「視野が広がって…不思議な心地よさでした」と答えると、ジャックは誇らしげに頷いた。
その時、後ろでドドッと音がしたので振り返ると、運動場でアイティールがスレイプを走らせていた。
「優雅なもんだろ?馬も人も」
ジャックが感心してその様子を称した。
「…ええ」
まさに人馬一体。スレイプの動きに馬上のアイティールは全くブレていない。
「あれでもまだ全然抑えてるからな。スレイプは先に行きたがるが、スレイプの速度じゃ、この広さは危ない。殿下はよくスレイプを御すもんだ」
「へぇ…」
恵まれた暮らしが窮屈なのは、スレイプもアイティールもきっと同じなんだろうなぁ…。
私はアイティールとスレイプが風を切って走るのを眺めながら、なんだかそう思えた。
「…ニル…何をしてるんだ?」
せっせと馬房掃除をしていると、後ろからアイティールの不思議そうな声がした。
「ん?…あ。アイティール、お疲れ様。もう終わったの?」
その後、スレイプの走り込み?を待っていると、暇だったので厩舎の手伝いをしていたのだ。
「なぜ君が馬房掃除をしている?」
「なぜって…手があいたから手伝ってたんだ。あ。これはね、庭の堆肥になるんだって」
チリトリに入った馬糞は庭のバラの良い堆肥になるそうだ。無駄がないね。
「……そうか」
「うん。…お。スレイプ。よかったね。楽しかったかい?」
走り終わり、鞍を外して手入れをされたスレイプがジャックに連れられて馬房に戻って来た。
「…う、うん。ありがとう、スレイプ」
私の首をすれ違い様に口でハムっとしながら、スレイプは素直に馬房に戻って行った。
「…お前さんも変わってるな。馬房の手伝いがしたいなんて」
ジャックがまんざらでもない様子で苦笑した。
「いえ、楽しかったです」
ジッと待つより、動いていた方が時間も早い。
「…楽しい…のか…?」
アイティールが戸惑いながら呟いた。
「うん。いい経験だよ。僕は馬の世話をした事が無かったし」
生き物の世話をするのは嫌いじゃない。むしろ掃除は好きな方だ。だから楽しい。
厩舎を出ると夕暮れだ。
「…うーん…」
私は自分の腕のにおいを嗅いで呻いた。
「どうした?」
「馬のにおいが付いちゃったみたいだ。洗濯しないとな」
「ああ、それは使用人に頼めばいい。ニルもシャワーを使うといい」
アイティールの何気無い言葉に私は食い付いた。
「!?…あるの!?」
「…無いわけが無い」
「いやったぁぁぁー!!お風呂じゃないけど、お風呂だー!!」
「…ニルの喜ぶ所は想像を超えているな…」
アイティールは戸惑いながら苦笑した。
「プハー!スッキリしたー!」
久しぶりの入浴にご機嫌で身支度を整える。
新しいシャツに腕を通すと生き返ったようだ。
夕飯時に会ったアイティールが、不思議そうに問う。
「?ニル、あれほど喜んでおきながら使わなかったのか?」
「え?シャワー?使ったよ?もう、すごい嬉しかったけど?」
そう答えた所で、アイティールの髪が濡れている事に気付き、「ああ」と理解した。
そして、アイティールをイスに座らせて、仕法で髪を乾かせた。
「!?」
アイティールは突如、室内で風が吹き付けた事に驚いたが、それが仕法だとわかると目を輝かせた。
「凄い…!」
「シャワーを借りたお礼だよ」
夢の中の超文明なら、ドライヤーがあればいい事だ。
「素晴らしい!私も仕法が使えたらいいのに…」
心底、羨ましそうに言うアイティール。
「仕法はアルカティアの血が無ければ使えないのだろうか…?」
「どうなんだろう…?僕も良くわからない」
「仕法を使うのはどういう感じなんだ?」
アイティールは興味津々で聞いてくる。
「えぇ?…うーん…どう言ったらいいか…」
感覚を説明するのって難しいなぁ。
「ずっと継続して使えるものなのか?」
「使ってると疲れるよ。そうだな…筋肉みたいなものかなぁ?」
「筋肉?」
「重いものをずっと持つと疲れるでしょ?持てる重さも限りがあるし。でも、練習すると長く持てたり、より重い物も持てるようになる」
「…なるほど…」
「仕法によって、疲れ具合も違うし。コントロールに集中力も遣うから精神的疲労もある。仕法をたくさん使うと眠くなるんだ」
「…そうなのか…」
アイティールはしきりに感心していた。
「やはりニル、君が羨ましいな…」
「僕が?…僕は師匠を石化した未熟で愚か者だよ…」
便利だからこそ、扱いには慎重でなければならない。それなのに私は…。
ああ、デボラ…早く戻してあげないと…。
「………ダメだ……無い!!」
翌日の図書館で、最後の本を閉じると私はソファーにパタリと横になった。
図書館の本にならヒュプノスや石化のヒントがあると思ったのに…かすりもしない。
う〜〜〜ん…困った……。
「……やっぱりアイティールの言うように、魔法使いに聞くしかないのかもなぁ…」
呻きながら身を起こして言えば、アイティールは目を細めて私を見ていた。
「…?…え。なに?どうかした?」
そのアイティールの姿が何か楽しそうに見える。
「いや。…すまない。午後はどこに行こうかと思ってね」
クッ!殿下はこの後の自由行動の事で、うっきうきか…!!
…まぁ、当事者は私であって、アイティールはむしろ付き合わせているだけだからな…。
「それはさておき、どうするニル?こうなれば、《魔法使いに接触するために》士官学校に行くか?」
アイティールは、仕方ないかと呟いて言う。
「……そうだね…虚偽入学になっちゃうけど…」
私はため息混じりに、同意した。
「構わないだろう?やる事に困って入学を希望する者もいるくらいだ」
な、なんだって?!
「そんな動機でもいいの?!」
「ああ」
「なんだ…僕はてっきり、熱い志を問われるものかと思ってたよ!」
「そういう者も、もちろんいるが…動機など人それぞれだ。それじゃあ、決まりだな」
アイティールは満足そうに笑った。
「…アイティール…君、なんだか…ご機嫌だね…?」
「…そうだろうか?…ニル。今日の昼食はもちろん、チキンサンドだろう?」
殿下…どんだけ、チキンサンドにハマったんですか…!!
私はアイティールのうっきうきな様子に、ため息を吐いた。