第38章 年齢はあまりあてにならない。それに…こいつの場合、早すぎるのも問題だ
ソファーで刺繍しながら思い出されるのは昔の記憶。
パーティシア…物静かな娘だった。
多くを語らず、深い神秘的な漆黒の目はまるでこちらの心を見透かすようで…それでいて静かに寄り添うような…。
未来さえ見透かすような知的な雰囲気は、あくまでその色と物静かな性格からのイメージで…側にいれば実際は想い人の一挙手一投足に一喜一憂する普通の娘だった。
思い出に自然と笑顔になる。あの時のパティは、一生懸命で微笑ましくて切なくて健気だった。
パティ…あなたは結局、違う人を選んだのね…。さて…その相手は誰だろう…?
穏やかな気持ちのまま、自分の記憶の中でパティの周囲にいた男共の顔を思い返してみて…それぞれ彼女との距離感を思い出す。
「…………」
隣でボジャーが、カッカッカッと寝ながら腹を後ろ足で掻いている。
「…………」
浮かばない。いや、誰だ?!全員、ありそうでなんか違う!!落ち着いて?マリー。すーぷーちゃんを良く見てみなさい。半分は父親の血なんだから。ね?
言い聞かせて、心を静める。静かなリビング。
「…………」
チチチッと外を小鳥が鳴きながら飛んで行った。
「…………」
いっや、わっかんない!!あんなにパティの血が濃いなんてありえるわけ?!
うわぁぁ。気になるぅぅ。誰だー!しかも産ませといて子供に顔見せないなんてありえる??
いや、無いでしょ。少なくとも、そんなゲスい男達じゃ無かったはずよ?…多分。
悶々とする。犯人は誰だ…。
もしかして妊娠したのに気が付かなかったとか…?
えぇ…そんな関係、ありかしら…。いや、パティの性格から無しだと思うんだけどなぁ…。
それを言ったら、全ての男が無しだ。ただ1人を除いて。…しかし、その男は…あり得ない。
「…ダメだ。謎は深まった…」
マリーは息を吐いた。隣でボジャーがあくびをする。
「…あの子はあの子で…同じ過ちをしないと良いんだけど…」
親を見ていて、それはなくは無いんじゃなかろうか?と密かに考えると…万が一、その時は…。
何が何でも退かない決意をしたマリーだった。
「ボジャー…いい流木をもらえると良いわね」
一向に進まない刺繍を置いて愛犬を撫でると、外で馬車が止まる音がした。
あら。さて。どうだったかしら?
馬車がマリーさんの家の前に到着すると、ちょっとホッとした。
だって先生、ひとっ言も話さないんだもん。
話しかけても、「ああ」とか「そうだな」とか…気の無い返事って言うか…。
お腹減った。いや、その前にシャワー借りよう!靴もさー、砂だらけだし、実は乾き切って無いんだよね。
「ただいま…」
帰りました。と玄関を開けたら黒かった。そして捕獲された。
「え?えぇ?!何?」
「…枕。あった」
ボソリと呟くその声は…
「…タナトス」
背後で先生がその名を呼んだ。
確かに。これはタナトスだ。至近距離過ぎて顔どころか全体像も見えないけど。
あれ?なんでここにいるの?
「おかえり。って、えぇ?!ちょい、ちょいと!」
出て来たマリーさんが、慌てて声をあげた。
まぁ、私…今、カマキリに捕獲されたバッタみたいになってますもんね…。
「あのー…マリーさん、なぜにここにタナトスがいるんでしょうか…?」
ぐいーとタナトスを引き剥がそうと、もがきながら問えば、申し訳なさそうな青年の声…。
「先生…すみません…」
「あ。シェダル先生だ。え?あれ?不思議な組み合わせ…」
「シェダル…ああ、そうだな。コイツのことを忘れてた」
ローズ先生はすぐに理解したようだ。
「ねぇ!教えてくれる?!最初から!」
マリーさんがローズ先生に詰め寄った。
「…聞いて無いのか?」
ローズ先生が問えば、シェダル先生が「我々も今さっき到着したところでして…」と答えた。
「枕…寝る」
「えぇ?僕、海水かぶって砂まみれなんだよ。放してくれない?」
「どこかに行くからダメだ」
相変わらず捕獲したまま放してくれないタナトス。
「ちょっと!ドユコト?!ドユコト?!叔母さん、動揺と興奮を禁じ得ない」
マリーさんは自身の説明の通り、動揺と興奮していた。グイグイくる。
「なんで白竜が黒竜を連れてくるの?いや、まぁ、なくは無いんだろうけど、それよりも!随分とその…仲良しなんだけど?!…すーちゃん?叔母さん、コレ…聞いてないナー?」
え…えぇ?マリーさん、目が怖いんですが…。
「叔母さん、お茶入れてやって。シェダルもここまで生きた心地がしなかっただろうから」
ローズ先生はマリーさんの挙動に呆れながらシェダル先生を家の中に招いた。
「…タナトス。放して?」
「…………」
タナトスは動かない。仕方ない。交渉か。
「…1時間」
「…………」
「…2時間?」
「…………」
えぇ?!もっとなわけ?
「…枕。いなくなると困る」
ボソリと言うタナトス。
「あー…いや、その…ごめんね。僕も、突然の事で…」
「…………」
タナトスは無言だ。
「タナトス…怒ってる?」
見上げれば、タナトスの顔は無表情だ。
抱えられた腕にギュッと力が入って何となくわかった。眠れなくなるのが怖かったんだ。
「うんうん。支度したらお昼寝しようか。僕、付き合うよ」
抱えられたままタナトスの背中をさすれば、ようやくタナトスは私を放した。
「そんな…神さま……」
マリーさんは顔を覆って嘆いていた。
「え。マリーさん?」
どうしたの?
「すまないな。たまに挙動がおかしくなる叔母なんだが…大体は普通なんだ」
ダイニングテーブルに座ってシェダルに詫びれば、シェダルはそれよりもチラチラと黒い影を見ている。
「いえ…。こちらこそ、突然すみません…ここに来るつもりは無かったのですが…」
その黒い影はスレイプニルがシャワーから出てくるのをウロウロと廊下で待ち構えている。
「アレに睨まれたら仕方ない。浄化もここ数日してなかったし…」
「他の生徒も騒いだんですけど、さすがに置いて来ました」
「すまないな。シェダル。まぁ、あいつらも心配なんだろ。キングの進退だからな…」
「白竜だけじゃありません。スペード、ダイヤ、クラブのキングにそれぞれの顧問にも、ハートのキングは戻るのか?としつこく聞かれまして…」
「そうか…」
「特にメルセデスのしつこさはもう本当に…」
辟易とシェダルは額を押さえた。
「あ、ああ…そうか…そうだろうな」
わかるぞ。あいつ、しつこいだろ?
「そこに来て、あのジョーカーに、枕が無いと殺気を向けられ…どうしようも無かったんです…すみません…」
あ、ああ…わかる。わかるから。シェダル。そうだよな。泣くなよ?
「シェダル、本当にすまなかったな。だが、そのおかげで…」
「はい。お茶。ねぇ、あの子、ずっと廊下だけどいいの?」
叔母さん…話の腰折るの、流石だよね。
「…いいんだ。あいつは言って聞くような奴じゃないから」
「話の途中で申し訳無いんだけど、あの人、誰?」
叔母さん、聞いて無いのか?
「黒竜のジョーカー。タナトス・モルセウス。家紋はケルベロスって言えばわかるだろ?」
叔母の目が見開いた。
「モルセウス様の所?!あの人が?!」
「そうだ」
「え。でも、え?なんで?」
叔母、混乱してるな。
「元々、パンタソス様からの依頼でもあるんだ。あいつ、giraffe病だから眠れなくて薬を飲むんだが、薬効には強い害毒も含まれる。それを一定間隔で浄化するように言われている」
「へぇ…へぇー!」
叔母、二度驚いた。
「…え。でもなんで、すーちゃんに?」
「スレイプニルはその能力に黒竜が目を付けてるんだ。最初はハートのキングだって理由だったが…あいつ…黒竜顧問のメルセデスの前でポンポンと興味をひくような事するから、もう危なくて…あれを番犬にしたんだ」
叔母は廊下を見た。
「ばん…けん…?」
「あいつにとっては黒竜も白竜も関係無い。スレイプニルとは波長が合って、あいつがいると眠れるんだそうだ。浄化の事もあったし、スレイプニルを黒竜から守るって交換条件で」
「はぁ?!はぁぁ?!ダメよ!なんでよ?」
叔母さん…どうした。今日は輪をかけて挙動がおかしいぞ。
「いや…別に、害は無いだろ。むしろタナトスにとっては唯一、仲がいいのがスレイプニルなんだ。ああ見えてスレイプニルには害が無いから」
「害があるかないかと言えば、非常によろしく無いぃ…」
叔母は頭を抱えた。
「だ、大丈夫ですか…?」
シェダルが心配して声をかけた。
「ローズよ…叔母は涙が出ました。非常に心配しています」
「いや、大丈夫だから。ちゃんと番犬してるから。叔母さん、ちょっと黙っててくれる?」
「……。良いでしょう。邪魔して悪かったわ。どうぞ。続けて?」
半眼になった叔母はフイと目をそらして黙った。
拗ねたな。全く…なんなんだ。それで、なんだったか…ああ、そう、学校の…
「シェダル、スレイプニルは学校に戻る意思がある。その旨を理事長に伝えておいてくれないか?」
「先生はどうされるんですか?一緒に戻られますよね?」
「ああ。それで…少し猶予をもらいたい」
「休暇ですか?」
「まぁ、そうだな。…叔母さん、ボジャーの光玉、出してくれない?」
叔母はチラリとこちらを見ると、黙って引き出しから光玉を出してきた。
「それは?」
「これはここに来てあいつと作った光玉だ。シェダル。これはまだ口外して欲しく無いんだが、いいか?」
「え…あ、はい。わかりました」
それは、犬が水を飲む映像がおさめられた光玉だ。
「こ、これは…?!」
シェダルは目を丸くした。光玉の裏を見たり中を覗き込んだりしている。
「そこにいる犬の一場面を光玉に取り込んだんだ」
シェダルは光玉とボジャーを見比べて驚いていた。
「これは…信じられない!凄いですね!どうやって?!」
「スレイプニルが最初に作った。それを、俺も今、習得している最中だ」
「えぇ?!…凄い…」
「最初、スレイプニルは教会でそれを作った。ある助祭の横暴を記録し、暴くためにな。だが、司祭はそれを受け取りながらも、翌日には光玉だけを無かった事にした」
「…え…?」
「詳細はわからん。…だが、なんとなくはわかる。それは異端だ。法術と言えるか?」
「あ…ああ…確かに…こんなの…まず思い付きもしなかったです」
「司祭だけじゃ無い。おそらくもっと上が、そう判断した」
「…先生は詳細を聞いて無いんですか?」
「問い合わせても上は知らぬ存ぜぬだ。だが、おそらく教皇様までは上がって無い」
「…あぁ…え。でも、そんな事…良いんでしょうか」
シェダルは光玉を眺めながら言った。
「本来なら誰だろうと、独断は許されないだろうな。こんな物を作れる法術師がいると報告すべきだ。…だが、こちらも今、スレイプニルの能力に見極めをしたい。あいつは悪意無く、思い付いた物は何でも具現化してしまう。こちらがその危険性と制限を奴に教えないと教会から誤解されかねない」
「……あー…そう…ですね…」」
シェダルは光玉を手に、ため息を吐いた。
「それに、俺はこの光玉をもう少しモノにしたい。来週には戻ると伝えてくれないか?」
「スレイプニルもですか?」
「そうだ」
頷き答えた所で廊下から声した。
「はーサッパリした…うわぁ!」
あ。スレイプニルが廊下でタナトスに捕まったな。
「すーちゃん?!」
ガタリ!とイスを蹴って立つ叔母。
「ちょっと…タナトス…僕、お腹減ったんだけど」
捕獲されたスレイプニルが廊下でタナトスに文句を言っていた。
「…枕…海臭くない。寝る」
「ロズ!あれ!あれどうにかして!」
「叔母さん、騒がない」
悔しそうに捕獲されたスレイプニルを見て声をあげる叔母はなんなんだ?黒竜がそんなに気になるか?まぁ、見慣れないのはわかるけど…それに奴は、見るからに不吉だよな…それか。
「タナトス。スレイプニルはここから動かない。浄化してやるからこっち来い」
タナトスはこちらに黒ローブを目深に被った顔を向けた。しかし、動かなかった。
「あ。僕がやります。先生にはさっき対抗防御法陣を見せて頂いたので」
「は?!」
シェダルが声をあげた。
「せ、先生!それ、いつやったんですか?!」
「さっき海岸でだが…?」
「さ…えぇ…!!」
シェダルはガックリと肩を落とした。
「…見たかった…」
「そうか…すまないな。シェダル」
今まで披露する場も無かったしな。
「タナトス、座って?」
スレイプニルに促されてようやく、タナトスはスレイプニルを放して座った。
「すーちゃん…大丈夫?叔母さんに出来る事ある?!」
「マリーさん…すみません、僕、お腹減りました」
「オッケー。任して!全員分用意してくるわ。あなたも、いいでしょ?」
「あ、私は…」
「シェダル、ついでだから食べて行け」
せめてもの罪滅ぼしに。
ペタペタと歩く音に、気付けばスレイプニルは裸足だった。
「なんだ?靴はどうした?」
「海に沈んだんです。乾かなくて。ついでに洗おうと思います」
ああ、そう…。
イスを並べてタナトスと向かい合うように座るスレイプニル。
「…浄化ですか?」
シェダルが顔を向ける。
「まぁ…その…タナトス用だな」
スレイプニルがタナトスに対して、手をかざすと浄化の光をガンガン圧縮していく。
慣れてきたなー…こいつも。遠慮なく圧縮するようになった。
白銀の光が次第に黄金に熟す。膨らんだ輝きが圧縮に耐えられなくなった時、パチン!と弾けて黄金の光がタナトスを包んだ。
「!!…え……先生……これって…」
シェダルが驚愕して目を丸くしていた。
「…言っただろ…タナトス用。《復活の法術》だ」
シェダルは絶句した。
「どんどん食べて頂戴!」
ドドン!と出されたのはベーコンと黒胡椒のカルボナーラだ。
「わー。いただきまーす」
お腹空いてたから、もう堪らない。
「すーちゃん。洗濯物、あったら出しておいてね」
テーブルを皆で囲む遅めの昼食。
「あ、はい。でも、僕、自分でやります」
カルボナーラも絶品!!濃厚なのにクドくない!胡椒も効いてる。ベーコン厚切り。ゴロゴロだ。
「ローブ、砂かぶったでしょ?靴も。あとで叔母さんと一緒に洗いましょう。手分けした方が早いわ」
「はい。ありがとうございます」
モグモグとパスタを夢中で食べる。
「あ、叔母さん、ボジャーの流木、濡れてるから庭に乾かしてる」
ローズ先生が思い出したように伝えた。
「あら。良かったわね。ボジャー」
名前を呼ばれ、ボジャーはソファーの上で寝たまま尻尾だけを振った。
「タナトス、マリーさんのご飯は美味しいんだよ。少しは浄化で楽になった?」
食卓を囲みながらもタナトスは積極的に食べようとはしない。
「飯より寝たい」
浄化の後のため口調はハッキリしていた。
「あー、ごめん。洗濯終わったらね。少しは食べておきなよ」
「シェダル、どうした?」
無言で固まっていたシェダル先生に、ローズ先生が声をかけた。
「…先生…彼は…いつからアレを出来るようになっていたんですか?!」
シェダル先生は私を見てそう言った。
「…いつから…でしたっけ…?」
タナトスの浄化の事だよね?
「…マグレを除いて…浄化を覚えて割りとすぐだったか」
「マグレ…?いや、しかし!…浄化、治癒すら出来ないってめちゃくちゃ落ち込んでませんでしたか!?」
「言ってたなぁ。ビービー泣いてたもんなぁ…?」
ローズ先生は勝ち誇ったようにこちらを見て笑った。
「す、すみませんでした…」
やめてくれないかなぁ…その話するの。しかもご飯時に…食欲失せちゃうんだけど…。
「なんで…それなのに…」
シェダル先生は愕然としていた。
「…シェダル…コイツは本当に変わってるんだ。俺も、もう、いちいち驚いていたら身がもたないから諦めてる」
「えぇぇ?!なんですか?その話!」
「すーぷーちゃん、静かに。騒がない」
うっ。もーーー。さっさと食べちゃおう。
「……スレイプニルに登録票が発行された理由がわかりました。しかし…こんなに早く習得するなんて…」
「年齢はあまりあてにならない。それに…こいつの場合、早すぎるのも問題だ…」
先生はそう言ってパスタを口にした。
それから少しして、裏口の洗濯場。
「(すーちゃん!!)」
袖をまくり、桶に水を張って砂だらけのローブと靴を洗う時、マリーさんが隣に並んで声をかけてきた。食事の後、私は洗濯を済ませる事にした。先生達はまだダイニングで話をしている。
「はい?」
「(すーちゃぁん!!)」
半泣きのマリーさん。
「な、なんですか?どうしました?」
マリーさん、わかりませんって!それ、声を潜めている意味あります?!
ザブザブとローブを洗いながらマリーさんは、いじけているようだ。
「…マリーさん?教えて下さい。どうしたんですか?」
「(…叔母さん、聞いてない。聞いてないのよ?アレ)」
アレ?
マリーさんがチラリと後ろに目配せした。
その先には少し離れた場所でタナトスがこちらを見張るように座り込んでいる。
「…ああ。タナトスは友達です」
「(すーちゃん…。アレはすーちゃんの事…気付いてるわよね?)」
気付いてるって…男子じゃ無いって事?
「…えーと…まぁ…そうですね」
「(すーちゃぁぁん!!)」
「な、なんですか??」
ちょっ…マリーさん、手、泡だらけだから!掴まれると泡が!
「(そもそもよ?会っていきなり抱擁ってそれ、友達以上じゃないぃ?)」
えぇ…。でたぁ…マリーさんの女子トーーク。
「い、いや…誤解です。それについては説明させて下さい」
「説明?…ほぅ。いいでしょう。さぁ、話しなさい。私に!全てを!」
マリーさん…世界を手に入れる勢いだな…。いいな。いつも楽しそうで。
「タナトスにとって、僕は枕なだけですよ」
「やだ!ちょっと!そんなッ!!」
もしもし?マリーさん。落ち着いて?まだ出だしです。
「子供が1人じゃ寝れない。とか、クマの人形が無いと眠れない。とか、この枕じゃないと寝付けないって人と同じです。だから、別に白でも黒でも、老若男女…言えました?今?はい…要するに眠れたら、誰だろうと構わないんです。たまたま僕がそれに合うとかで丁度良かっただけ。隣で添い寝するだけです」
「それなら別に、すーちゃんじゃなくても他にいるかも知れないじゃない」
「僕もそう言ったんですよ。でも、タナトスが他の人じゃ無理だったって言うから…」
「気のせいじゃないの?!もしくは絶対数が足りないんじゃないの?!千人単位で試したんでしょうね?!」
ま、マリーさん…ローブに穴開けないで下さいね…?すんごい擦ってるけど…。
「それで…その、僕としても、さすがにこのままでは…問題がありますので、代用品が何か無いかと探しているんです」
「うんうん。そうね!」
「枕に代わりは無い」
「キャアッ!!」
不意に入ってきた声に、マリーさんが悲鳴をあげた。
「…タナトス…いきなり背後から声をかけたらダメだよ…」
私達のすぐ至近距離で黒いローブのタナトスが佇んでいた。
「い、い、い、いつ来たの?!全然分からなかった…」
マリーさんは身構えながら聞いた。
「すみませんマリーさん。タナトスは気配無く移動するんです」
それでいて人の背後に立つような事するからな。これワザとじゃないかな?
「ぽてちが作れて、ぷにぷにで、浄化が出来る、いい匂いの枕は無い」
「ポテチはレシピがあれば誰でも作れるし、浄化は先生に頼めば良いし、ハーブオイルをあげるって言ってるでしょうが」
タナトスは大きくため息を吐いた。
え。何?その「はー。やれやれ、頭の悪い奴はこれだから」って感じ。感じ悪ッ。
「タナトス。洗濯の邪魔だから。あっち行ってて」
ほらほら、行った行った。泡飛ばすよ?
「そ、それで…えーと…彼はトモダチって事…?」
マリーさんはタナトスが下がるのを見届けると、気をとり直して桶の中の水を変えた。
「はい。さすがに眠れないで苦しんでいるのを見過ごすわけにはいきませんから…タナトスには穏やかでいてもらいたいですし…ナタル先輩に調べてもらえるようにお願いしたんです」
「ん?はい、ちょっと待って?」
「はい?」
「聞き覚えのある名前ね?」
「ああ、はい。黒竜の3年生の先輩です。クスト先輩と因縁の…」
「やっぱり同一人物か。…はぁー…そうなのね…え。でもさ?彼、モルフィネス様のトコの子でしょ?」
「?」
「あー、えーと、魔導協会の協会長で、しかも宰相家でしょ?」
「ああ…そうですね」
「モルフィネス様はそれこそ、その道じゃ知らない事、無いくらいの権威よ?」
「へぇー…」
「それでいて、めちゃくちゃクール!!」
「え?あ。そうなんですか?」
お会いした事はございませんが…。
「うん。そう。みんなで付けた彼の愛称は氷河…魚も住めない極寒の死の川。対岸に渡ろうものなら凍って死ぬ」
ローブをザブザブすすぎながら、マリーさんはケロリと言った。
「え?え…?」
それ、愛称なのかなぁ…?
「あの人の魔法の才能は飛び抜けてたわねぇ…人外なくらいに」
「マリーさん、会ったことあるんですか?」
「……。っていう話を聞いたわね!」
あ。…そうですか…。聞いた話なのか。胸張って言いますね。
「まぁ…そういうわけで…ナタル先輩にはタナトスの事や、魔法の事を何かと教えてもらえる事になりまして」
「…ふーん。クッピーのライバルも何気にいい奴なのね」
「そうですよ!毒舌でイジワルな所もありますが、本当は優しい先輩なんです」
「おっと〜?これはどうなのかしら〜?…すーちゃん?気になるの!?」
マリーさん…どうしてそうなっちゃうんですか?着地点のブレなさが凄いですね。
「皆、僕の大事な友達と先輩です。それ以上でも以下でもありません」
すすぎ終わった服を絞って、次は靴を洗った。
「すーちゃん…」
マリーさんがキラキラとした目で私を見た。
「叔母さん、ちょっと安心したわ。あなたが男子の中で苦労しているんじゃないかと思ってたし、いきなり陰鬱な謎の男が現れたもんだから、イジメられたり酷い目にあってるんじゃ無いかと…」
マリーさん…
「でも、すーちゃん。万が一、辛い事があったら遠慮なくここにくるのよ?叔母さん、これでもどんな英雄にだって負けないんだから!」
すすいだローブをギュムー!と絞り、マリーさんはフンス!と鼻息を吐いたから、嬉しくて可笑しかった。
遅めの昼食後、ひとしきり学校や教会での事をシェダルと話をし、学校へ戻る彼を見送ると、改めて部屋に戻った。
叔母はダイニングの席で頬杖をついて指輪を眺めていた。
「あれ?それ…ああ、さっき拾ったやつか」
叔母はチラリとこちらを見て再び指輪を眺めながら言った。
「すーちゃんが、見慣れない指輪してたのを見てね。驚いてどうしたのか聞いたのよ」
「海で拾ったんだ。落とし主はさぞ探しているだろう」
「…そうとも限らないじゃない」
…叔母さんまで。そんなこと。
「そうに決まってるだろ。結婚指輪だぞ?」
「だと良いけどねぇ。…男って鈍感だから。…この指輪の相手は…ジェームスって男か…ふぅん」
女性用の指輪に彫られた伴侶の名前をしげしげと眺めながら叔母はため息を吐いた。
「それって…些細な行き違いから溝が広がり破局を迎えて、女性が海に捨てた指輪だっていいたいの?」
叔母は驚いてこっちを見た。
「…あんた…そう思うの?」
「いや。スレイプニルがそう言ったから」
「あら。なんだ」
叔母は苦笑した。
「あんまりじゃないか?結婚指輪を捨てるなんてないよ」
「そうねぇ。でも、万が一、縁が切れてしまったら吹っ切りたい気持ちもわからなくは無いわね」
「あいつ、売れなかったのか、なんて言ったんだ」
叔母は指輪を落とした。そして慌てて拾いあげる。
「…そ、それは…さすがに…えぇ?」
叔母は指輪を片手に額を抑えた。
「あの年でなんでそんなにドライなんだか…母親の影響か」
「いや、それは違う」
え?
「…なんで断言出来るの?」
「い、いえ、…えーと…すーぷーちゃんは…その…お師匠様に育てられたんでしょう?言わば、母親の記憶だって満足に無いわよ?きっと」
「あぁ…そうか…。思えばそれも…不憫だな…」
母親もいなかったんだな…。それなら、そもそも女性に対して、どんなものかもわかって無いのかも知れない。やたらと知ったような事を言ったりするわりには、そもそも女性に興味がなさそうだし…見ためからわかるように成長が未熟ってのもあるんだろうが…女性から愛情を受けなかったんだろう。
「その師匠って人には奥さんがいなかったんだろうな…」
どんな男だったんだろう?
「え?…………あ、あぁー…」
「?…叔母さん?今日はおかしくない?」
「……そうね。まぁ…あえて言わせて頂くならね…」
叔母は指輪をテーブルの上に置いて遠い目をした。
「男が失った事に気付いてからじゃ…もう遅いって事ね」
……は?何を?
「それって、何の事?」
指輪の話?…スレイプニルの両親か?スレイプニルが母親を失ったって事か?…女性観がかなり達観してるからな。
「……ところで、あの陰鬱な彼は帰らないの?」
なんだ。話題変えるのか。叔母さんも相変わらずマイペースだな。
シェダルは学校へ戻って行ったが、タナトスは一緒には帰らなかった。
「あの2人はセットだからな。タナトスをこのまま学校に残せば奴の振りまく絶望感に、学校全体が墓場になってしまう…それに、シェダルが病む」
タナトスの出すあの不吉で不快な重圧は、受ける者を死の淵に追いやる。さっきも、『ここに来るまでの馬車内で、どんどん絶望感と不安感に包まれて突発的に死にたくなった』と、謎の自殺願望に襲われた事を言っていた。
「タナトスには本当に…不穏な空気と言うか、禍々しい気配と言うか…そんなのがあるからな」
「そんなの、私達だってそうなっちゃうんじゃ無いの?」
「いや。タナトス単身ならそうでも、スレイプニルがいると、それがすっかり気にならなくなるんだ。まるであいつの影みたいに。不思議だろ?」
「………不思議って言うか、不気味。縁起が悪い。それじゃ、まるですーぷーちゃんの死神みたいじゃ無い。そんなのと、あんなに仲が良くてさ!」
叔母は渋面になった。
タナトスが来てから不機嫌だな。叔母さん、息子みたいなアイツを取られた嫉妬か?全く。大人げない。
「実際、仲が良いんだからいいじゃ無いか。黒と白は表裏一体だが白が黒を嫌がる事が多い。アイツはその点、全然平気だからな」
『僕は白でも黒でも無い…こんな半端な者が法術師や白竜に相応しいでしょうか…?』
…そうか。アイツが気にして気に病んでいたのは、魔法が使えるのに法術も使えるという事もあるんだな。
確かに…そんなのあり得なくて不安にもなるだろう。
そうだ…あんなんじゃ、ますますメルセデスが興味をひくだろう。危険だ。学校に戻すのも考えものだな…。
「(…手遅れになってから嘆いたって、慰める言葉も無いわよ)」
叔母がボソリと言った言葉に、ギクリとした。
なんだ。叔母さんは白竜としてのあいつを心配してるのか。確かに、ナタルの二の舞は避けたい。法術よりも魔法に興味を持ったら…いや、それでも…両方使えるなら…そもそも魔法なんか使ってたら法術が消えたりしないだろうか?前例が無いから全くの未知だ。
「アイツは自分から法術を手放す事は無い。その必要も無いし…目を離さなければ大丈夫だよ」
よくよく観察して法術師として間違いの無いものにしなければ。万が一があっては悔やまれる。
「…………」
叔母は胡乱な目で俺を見た。
なんなんだ?八つ当たりは勘弁してくれ。
「…それで?その2人はどこ行ったんだ?」
さっきから姿が見えない。2階か?
「…寝るって言って2人で裏庭で転がってる…。見るに耐えない!」
叔母はワッと顔を覆った。
大げさだな…。男2人で庭に転がるのを見るに耐えない。だなんて…こりゃ完全に息子を取られた母親だ。タナトスは嫁じゃないんだぞ。叔母さん。
たかだか3日…。今までを鑑みればわずかな時…しかし、眠りを得られるのを知った今では耐え難い時間。
徹夜した後でようやくベッドに潜り込むように、大きく息をついた。
枕の使い馴染んだ感触と匂いにようやく眠れる。
この数日、一向に訪れない眠気に手を伸ばして探しても枕は無く、冷たいシーツが触れるだけ。
枕が手元に無い夜は長い。眠れない夜にも慣れたと思っていたのは錯覚だったと認めざるを得ない。
士官学校など、うるさくて、うざくて全く興味がない場所だった。行けと言ったあのジジィにどうにかして呪いの魔法でもかけてやろうかと思ったほどに。
しかし、枕を見つけてから、今度は枕の無い週末の方が憂鬱になった。
家に帰っても…気が付けば無意識に探している事が何度もある。そしてその度に失望する。
いずれ去ると言っていた枕が本当に現れなかった時、後悔した。
枕がどこに行ってもわかるように呪いをかけておけば良かったのに。
…だが、わかりやすい呪いは白竜が消してしまうだろう。
魔法が封じられている今では強固な呪いが出来ないが…名前を書く程度なら出来る。
枕には勝手にバッジやら首輪が付いた。それなら名前を書いておかなければ。
消されないように、わかりにくい場所がいいだろう。
マリーさんの家の中庭の芝生に転がれば、陽に当たった草の匂いがする。
タナトスと並んで寝転がる昼寝。ポカポカとした陽気が丁度良い。
私もタナトスの浄化に慣れて来たなー。なにせ、すぐに寝落ちしなくなったもんね。
でも、こうして芝生に横になれば食後もあって気持ち良くてウトウトする。
あー…あの対抗防御法陣…どうやったら光玉に収められるかなー…
そんな事を考えたら、ポカポカした陽気に意識は眠りに遠のいていく。寝返りをうってタナトスに背を向けた。
「…………」
それなのに、寝たい寝たい言ってたタナトスは私の襟を引っ張ったり、めくったり、ちょっかいを出して来た。
なんなの?…何?…嫌がらせか。
「…ちょっと…寝るんじゃ無かったの…タナトス…」
「寝る。首がキツイ」
…は?いや…それ、私のセリフだよ。それに今、君が引っ張ってるからでしょ?何言ってんの?
「……そう思うんなら、手を離してくれない…?襟、引っ張らないで」
さっき、シャワーを浴びて予備のシャツに着替えたけど、キツイのは襟じゃなくてサラシのほうだ。
「首、キツイ。眠れない」
いや、あんたが引っ張らなければキツく無いっての。
「タナトスー…ふざけてないで…僕、眠くなってきたんだから…」
睡魔が入り口で呼び鈴押しまくってる。そのうちドアを乱暴に叩くだろう。
「…………」
……タナトス、しつこいな…首が苦しいんですけど…ああ、もう、眠らせて。
私は睡魔の呼び鈴連打からドアを叩かれまくったため、息苦しさに襟のボタンを開けて気道を確保した。
はぁー…睡魔さん、おまたせしました…どうぞ、お入りくだ…
「?!…いったッ!!」
な、な、なんだ?!なんだ?!なんか虫にでも刺された?!
寝落ちする直前、首というか背中というか…とにかく背後に痛みを感じて睡魔が裸足で逃げ出した。
反射的に手を痛みのある場所に持っていけば、タナトスの頭があった。
「な、なに?なにぃ?何してんの?!」
起き上がろうとすれど、すでにガッチリ抱え込まれている。
イダダダダ…!地味に痛いし!
「ちょ!何すんの?!…って言うか何してんの?!」
これは、つねられているんだろうか?!なんで?!
やがて、気が済んだのかタナトスが離れれば、私は起き上がって痛い延髄の所を抑えた。
いたぁ…え?…濡れ…噛んだ?…噛んだの?!なんでよ!
「ちょ!!タナトス!!僕、なんもしてないじゃん!!」
血が出てないのを確認して、タナトスに抗議する。
「勝手にいなくなるから」
タナトスは、さも当然だとばかりに答えた。
「いや、だからそれは…イッタ。もー…まだ痛いんだけど…」
延髄部分をさすって抗議すれば、タナトスは「寝る」と言って訴えを棄却した。
「…えぇ…」
なんてわがままなんだ…。
私は延髄をさすりながら思いがけず大きく開いていた襟元のボタンをとめた。
また噛まれたら堪らない。タナトスから身を離し、芝生に横になれば、抱き寄せられて捕まった。
シャワー浴びたばかりなんだから…引きずらないでよ。
不満は募ったが、こんな時にも裸足で逃げ出した睡魔が靴を取りに来て、そのまま寝落ちした。
面倒くさい表彰式の後、結果に安堵したチームの奴らが飽きずにつるんでいるのを横目に、黒竜の自分の研究室に戻った。
黒竜では成績優秀者に専用の研究室を用意する。そこで、自分の課題を集中して研究出来るようにだ。
それも、もう3年目となると使い慣れて、最初は広く感じたこの部屋も今ではやや手狭に思えるほどだ。
当たり前だが休み前と何一つ変わらない部屋に入り、扉を閉めようとした時…その扉を押さえる手があった。
「ナタル。少し良いですか?」
メルセデス先生…なんだ?わざわざ。
「はい。なんでしょうか?」
先生は相変わらずの張り付いた笑顔で1枚の紙を見せてきた。
「これを知っていますか?」
そこに書かれていたのは文字だ。それもアルカティア語。
「……。時間を頂ければ調べてお伝えします」
ああ、アイツどこ行ったんだ!勝手に消えるんじゃ無いって言ったのに!見つけたら麻痺させてやる!
「今、読み方だけでもわかりますか?」
「……りく…?…いや、すみません。勉強不足です」
素直に認めれば、メルセデス先生は満足そうに頷いた。
「いえいえ。良いんです。良いんですよ。ナタル。…今期の模擬戦も無敗となりましたね」
メルセデス先生は紙を懐にしまうと、そう言った。
「…はい…」
「ですが、どうです?初めて首に剣を突きつけられた時は」
「…………」
それは週末の試合だ。激しい閃光に視界が白くなり、気が付いた時には防衛拠点を制圧され、相手に王手を決められていた。
「あなたの攻撃魔法は充分ですが、あの場合は焦り過ぎましたね。相手の思惑がわからないうちは、慎重に出方を見極めるべきでした」
「……はい」
「とは言え、あんな戦法は私も始めてです。あなただけじゃなく、他の者でも面食らいましたから。光玉を主要で持って来るなんて…ああ、なんて面白いんでしょう!」
メルセデス先生が歪んだ笑みを浮かべた。この人の本当の笑みはこっちが本当だ。思い出される記憶。
ああ、何度、隠れて穴を彫ったか知れない…。
魔法の検証で、治癒すら出来ない生き物の死骸が焼却炉の周囲に無数に埋まっている。
こんなの白竜の奴ら…アイツに受け入れられるわけがない。断言出来る。あいつは白竜にいるべきだ。覚悟もなく黒竜に来た奴に居心地の良い居場所なんて無い。
「おや…?giraffe病ですか?」
不意に先生が聞いて来た。
「え…?」
なんだ?
「その本です。giraffe病についてまとめた本でしょう?」
先生が見つけたのは研究室に今朝置いたばかりの魔導協会から借りて来たgiraffe病の本だ。
チッ!すげー目ざといな…。入り口から背表紙だけで見つけるなんて。
「…はい。興味を持ったので」
「なるほど。タナトスですね。サンプルが近くにいたら研究したくなるのは常ですよね。…ですが、タナトスに協力を求めるのは難しいでしょう。それどころか、すれ違いざまに切られるくらいです」
……先生、切られたのか。
だが、この先生が、アルカティア人の生態サンプルが存在するなんて知ったら…間違いなく、切られようが焼かれようが、構わず本気で取りに行くだろう。
「先生、…先生はgiraffe病をどうお考えですか?」
なにせ元々治療法が見つかって無い病だ。
「……ナタル、本を読む前に意見を聞きますか」
メルセデス先生は張り付いた笑顔を少し困ったようにした。
「あの本はもう読みました。本によれば、患者は主に大人が多く、仕事に重圧のかかる者、不安や恐怖心を強く感じたり、過労の者ではかなりの確率で罹患しています。それなのに主婦や老人も男女を問わず一定数、罹患している」
「…どうでしょうねぇ…著者のデータは、やや偏りがあるのかも知れませんよ?」
メルセデス先生は張り付いた笑顔のまま言った。
「…偏り…ですか?」
「その著者は魔導協会の役員…疾病衛生省の幹部職員がまとめた物ですね」
しまった。裏書きを見るのを忘れていた。
「ナタル…いけませんね。著書と言うものは、書き手の立場を差し引いて読まなくては」
メルセデス先生が俺のわずかな表情を見て苦笑した。油断ならない。
「どう偏りが生まれますか?」
「…giraffe病は、約20年くらい前に突然現れた疾病です。症状は様々ですが、1番の症状は不眠ですね。当時、優秀な兵士や魔法師、法術師が次々と発症していきました。国としては治療法を探る為にかなり力を入れましたし、教会の法術師もかなり研究したようです。ですが、未だに治癒に至っていません。データはおそらく当時の物…治癒対象の兵士や魔法師などがメインに使われているでしょう。本は結局、giraffe病は仕事に重圧のかかる者の恐怖心や心配事、過労や挫折など様々な精神的負荷が引き金であろうと結論付けていますが…その著者は改革派の者です。無意識でも作為的な結論を求めたがるものですからね…」
「裏書きか…以後、気をつけます」
「…まぁ、でも、その著者の主張も仮説も、全ては否定出来ませんよ」
「では、先生もgiraffe病の原因は重圧や恐怖心、過労にあるとお思いですか?」
メルセデス先生は首を傾げた。
「…それはどうでしょうね?主婦が恐怖を感じますか?老人は何に過労します?もっと言うと、タナトスは挫折しますか?」
……あいつが挫折?するのか?いや、俺達が知らないだけで…
「それに、仕事の重圧がかかる役職にいる者は、それこそ何度も挫折や心配事との戦いだったでしょう」
「本には、過労の疲弊した精神状態から不眠を発症とありました」
「それも、私からすればどっちが先だか疑わしいですね。20年前から急に出る事ですか?では30年前の人間にはそう言う重圧や心配事、過労が無かったのでしょうか?恐怖心は?」
「…確かにそうですね」
無いわけがない。
「giraffe病は死に至る病です。症状の重い者は発症して3日で死にます。一時は感染するとも噂されましたが、国は否定しています。確かに、必ずしも周囲で世話をしていた者が発症するとは限りませんからね。そしてその本の1番の問題は…」
メルセデス先生は言いかけてやめた。
「わかりますか?ナタル」
問題…著者に関係する事か?
「…先生がよく言われる《不都合な真実》ですか?」
人は時に望まぬ真実を隠す事がある。故意にせよ無意識にせよそんな不都合な真実こそ、最もな理由を付けて隠したり、目をそらさせて終わらせようとする。
「…そうですね。それもあるかも知れない。でもまぁ、と言うよりも…眠れずに朦朧としている人間に聞き取りを行なった所で、どこまで正確な情報と言えますかね」
「………根本じゃ無いですか」
なんだそれ。あてにならない本だったか。
「それがgiraffe病の難しいところですねぇ…。罹患すれば1年も保たずにいずれ死んでしまうし、人間、頭の中の物体は切り開いて覗けても、何を考え、どう感じていたかまでは他者には見えません。それに、自分の気持ちなど…時に自分ですらも、わからないものですよ」
「……………」
意外だな。先生がそんな事を言うなんて。
「ですが、大いに研究して下さい。幸いここにはタナトスと言うgiraffe病に罹患しているのに5年以上も生き延びている唯一の検体がいます。ああ、ただ…タナトスを観察する時には注意して下さい。距離を取っているつもりでも、油断しない事です。剣以外に、物も正確に飛んで来ます。ペンですら弓矢のように射抜いてきますので」
…さすが先生…試したんだな…。
「それよりもナタル。最近、ハートのキングと親しいそうじゃないですか」
来た。…落ち着け。想定していた質問だろ?
「奴はタナトスと距離が近いですから。giraffe病で知らない話が聞けないかと思っただけです」
「なるほど。それでも親しいのでしょう?」
「親しい?…いいえ。あんな甘ったれの世間知らずとは話をするだけでイライラして疲れます」
「ですが、向こうはそうでは無いでしょう?」
「どうでしょうかね?向こうは白ですよ?しかも俺の経歴からクストや白は俺を特に警戒しています。現に奴と2〜3、話をしただけでも目ざとく見つけて噛み付いて来ますから。本人だって、よくよく言い聞かされているようで、黒は意地が悪い。と言って剣呑です」
「…ふむ。そうですか…残念ですね。ナタルにハートのキングへ取り次いでもらおうと思ったのですが…」
「取り次ぐ?…それどころか噂じゃ、あいつ退学するんですよね?」
「そうですねぇ。しかし、ローゼフォンが後を追いましたから、まぁ、まず戻って来るでしょう」
「そうですか…。お役に立てずに済みません」
「いえいえ。しかし、ナタル。卒業論文は進んでいますか?詰めの時期にgiraffe病研究も加えるとは、なかなか手を広げますね」
「俺の研究は悪夢の研究ですから…逆に、giraffe病の眠れ無いと言う状態が気になっただけです」
「なるほどなるほど。いい着眼点ですね。…では、私はこれで。邪魔しましたね」
メルセデス先生はそう言って廊下を去って行った。
その背中を見送ってから扉を閉めて鍵をかける。研究室の座り慣れたイスに座り息を吐いた。
「…………」
机の上の瓶の蓋を開けて中身を取り出す。白い塊を口に入れればカリッと軽い音を立てて優しい甘さが広がり、それを堪能する時間も余韻も無くシュワッと溶けて消えた。
何度食べても衝撃の菓子は強烈な存在感と優しい甘さを与えておいて、次の瞬間、まるで存在しないかのように溶けて消える。
「……アホが。必ず報告しろって言っただろうが」
怒りを抑えて呟いて、瓶の中でカラリと転がった白い菓子を摘めば、最後の1つだった。
「くあぁ…あふ…」
夕食を終え、食器を下げると裸足を理由にマリーさんには手伝いを断られた。
あくびをしながらダイニングに戻れば、ペタペタとした足音にローズ先生も気になったようだ。
「…おまえはいつまで裸足でいる気だ?」
「それはー…靴が乾くまでですね」
魔法で乾かそうかとも思ったが、靴を乾かすには時間がかかりそうだからある程度自然乾燥させてからが良い。
「全く…波をかぶるからだ」
呆れたように言う先生。
「好きでかぶった訳じゃ無いです」
ダイニングテーブルのイスに座って膝を抱えた。
「寒いのか?」
「?…あぁ、いいえ。これ、落ち着くんです」
こっちの世界じゃ床に座る風習は無い。同じく裸足でいる事も。でも、夢の中の世界では室内で裸足でいる事も、床や畳に座る事だってアリだ。
イスの上で膝を抱えると床に座っている感覚になる。
「………。おまえ…それ、救護席でもしていただろ」
「え?…そうでした?」
指摘されて思い出そうとするけど、無意識でやっているから記憶に無い。
「そうだ。教会の法術師達がお前にあだ名を付けてたぞ」
「は?…え。な…なんて?《すーぷー》じゃ無いんですか?」
嘘?変なあだ名だったらどうしよう…?
「さぁな。雪だるま(スノーマン)じゃないか?」
先生は笑って言った。
「ええ?!」
雪だるまなんて嫌なんだけど!
私は慌てて普通に座り直した。
「いや、違ったかな?」
先生は、からかっているようだ。
「…別に…くつろぐ時に、どんな座り方したって良くないですか…」
不満を口にすれば、先生は一考した。
「それにしても靴は予備があった方がいいだろうな」
「侍従用のはあります」
「おまえは侍従じゃ無い」
先生は眉を寄せた。
「明日には乾いていると思いますから」
ローブも早く乾いて欲しい。なんか…頼りないっていうか物足りないって言うか…。
隣に座るタナトスの黒ローブが羨ましい。黒だけど。
「…先生、僕、いつ頃学校に戻れますか?」
何気なく聞けば、ちょうど食後のお茶を入れて来たマリーさんが息を飲んだ。
「すーちゃん!…行っちゃうの?!」
「え?えぇ?…えーと…はい。すみません。復学出来るなら…」
マリーさんはポットとカップを載せたトレーをテーブルに置くと、私の手を取った。潤んだ目で訴える。
「えぇー…叔母さん、寂しい!学校は危ないじゃない。無理に行く事も無いのよ?」
「い、いえ…そう言うわけにもいかなくて…」
戸惑う私に、ローズ先生がマリーさんをたしなめた。
「叔母さん。学校は危なく無いから。ずっとここに留めておくわけにはいかないだろ?それに週末は帰ってくるんだから」
え?そうなの?決定事項なんですか?それ。
「ホント?本当ね?叔母さん、待ってるからね?!」
ギュ!と両手を握られ熱心に迫られれば、いいえ。と言える感じじゃない。
「あ…あ、はい…」
しまった…アイティールに何て言おう…。
週末の1日どころか、アイティールのお屋敷に宿泊する理由が無くなった。
『いくら仲が良いからと、友達の家に居座るな』
『王族に借りを作るな』
『依存は切っておけ』
…あぁ、先生の思惑としてはそうなんだろうな…。
その先生は、腕を組んで言った。
「それと…戻るのは来週あたりだな…」
…え。結構かかるんだな。
「明日ってわけには、いかないんですね」
「いつ教会から指摘されてもいいように、今のうちにドーガ光玉の精度をあげておきたい。今週は練習にあてる」
あ、ああ…そうですか。そうですね。先生にはバリバリ頑張ってマスターしてもらわないとな。
「あ。そーだ。ねぇ、すーちゃん」
マリーさんは気を取り直してお茶を注いでいたけど、何かを思い付いたのか聞いてきた。
「あの、ボジャーの光玉、ずっととっておきたいんだけど…消えないように出来る?」
「…消えないように…ですか?」
「叔母さん。無茶言うな。保管箱でも無い限り、光玉はいつか消えるんだから」
「試してみましょうか?」
私の言葉にマリーさんの顔はパッと明るくなり、ローズ先生の顔は真顔になった。
「ホント?!」
「待て。何をする気だ?」
「…光玉に追加で法術を送って補給させようかと」
「…補給…」
ローズ先生が眉をひそめる傍で、マリーさんがいそいそと動画光玉を3つ出して来た。
「…あれ?…ボジャーの動画、3つもありましたっけ?」
「そう予備。練習も必要かと思って?」
そ、それは…準備が良いなぁ。
光玉の1つを手に取り、充電のイメージで法力を流せば光玉は応えるようにポワッと光った。
「…うん。多分、いけた…と思います」
「やったー」
「おい…おまえ…またそんな…」
先生はため息を吐いた。
「じゃあ、すーちゃん。これもついでに、ね?」
残りの2つの補給を希望するマリーさん。ローズ先生も何だかんだ興味があるようで黙って見守っている。
「補給」
ポワッ。
うん。これこれ。
「すーぷーちゃん。どうやるんだ?それは?」
先生がたまらず声をかけてきた。
「あ、ちょっと!ロズの練習なら他のでやって?これは私がもらった奴だから」
マリーさんは真顔で動画光玉を取り上げた。
「…すーぷーちゃん…」
先生、そんな目で見ないで下さい。
「マリーさん…大丈夫です。消えないように補給するだけですから」
「えぇ…ホントに?…これ、お気に入りなのよ」
心配そうに光玉を握るマリーさん。
「大丈夫です。(たぶん)むしろ、先生と補給すれば間違いないです」
ダメならもう一回、ボジャーを撮れば良いじゃないですか。モデルはそこのソファーで寝てますよ?
マリーさんは自信満々の私の言葉に動画光玉を差し出した。
私は先生の隣に移動して光玉を渡すと、光玉を持つ先生の手を下から補助した。
「イメージはそうですね…ああ、カップにお茶が注がれる感じでいきましょう」
先生は注がれてお茶が満たされたカップを見て頷いた。
「じゃ、いきますね…補給」
私の法術が道しるべになって進めば、先生の潤沢な法術が続く。
あはは。楽チン。…おっと!
「先生、その辺で」
声をかけて打ち切る。
「…なるほど。容量があるんだな」
先生は面白そうに頷いた。
あ。さすが、わかりましたか。
光玉に法術が満たされていく感覚的にわかる。もともと、そう作られていないし、過充電は破損の元だ。
「割れてないですか?…大丈夫そうですね」
光玉の表面を見て破損の無いのを確認した。
「はい。いいですよ」
それをマリーさんに渡せば、マリーさんは満足そうに受け取った。
「面白い。なるほど、ああやるのか」
ローズ先生は法力の道順を確かめるようにイメージしていた。
マリーさんは再び残りのお茶を注いで配った。
「…あなた、夕飯もあまり食べなかったけど、大丈夫?」
マリーさんはタナトスにお茶を配る時、少食を気にかけて声をかけた。
「…………」
「あ。すみません。タナトスって愛想が無くて。普段から偏食の少食なんです」
「あらやだ。そうなの?…まぁ、愛想は期待してないわ。見た目と家柄から」
「えぇ…」
それってどんな家柄?!
マリーさんはそう言うと、棚からガラスの容器を取り出した。透けて見えるそれは、ちょっと焦げたステンドグラスクッキーの不出来なやつだ。
熱が通り過ぎて見栄えが茶色く、飴の色の発色も抜けてしまい全体的に茶色とべっ甲色だから、家で消費する用。
「あ。それ、ぼくとマリーさんで作ったやつ…ちょっと色は濃いけど、味と香ばしさでは悪くないよ」
色は単色だけど飴の風味も残ってるし、むしろ、見た目より香ばしいのが好き人ならこれだ。
難点は口に入れるまで飴部分が何味かわからない。
「…………」
タナトスは「いる」とも「いらない」とも言わず目の前に置かれたクッキーの入った容器を見ていた。
「すーぷーちゃん」
ローズ先生に呼ばれて振り返る。
「はい?」
「明日もドーガ光玉の練習をするからな」
「ああ。はい。じゃあ海ですね!」
「……ちょっと待て。なんでわざわざ海に行く必要がある?」
「え。だって…広い場所が必要ですから!」
キリッ。と答えれば、先生は胡乱な目になった。
「対抗防御法陣は諦めろ。無理だ」
「無理じゃないです。やり方次第だと僕は思うんです」
「ダメだ。吹っ飛ばされて何言ってんだ」
「やれば出来ます!」
拳を握って熱意をアピールした。
「危ないからダメだ」
にべもない。
「えーーー!先生ー!僕、先生に付き合って動画光玉のレクチャーしてるじゃないですかー!」
「それとこれとは違う。誰の発端でこうなってると思ってるんだ」
「…………」
私です。…ええ。私ですが。
いじけて再びイスの上で膝を抱えた。
少しの沈黙。そこにポリポリと音がして、見るとタナトスがクッキーを食べていた。
「…タナトス。美味しい?」
「……ぽてちの方が…良い」
あ。そう…。のわりには、結構、進むね。これは…気に入ったんじゃ無いのかな?
「ポテチには及ばないかも知れないけど…気に入ったなら好きに食べてよ」
手持ち無沙汰にイスの座面で足の指をピコピコさせると、先生はこちらを見ながら頬杖をついて考え事をしていた。
「すーちゃん。すーちゃんの靴、明日には乾いていると良いんだけど…」
マリーさんが刺繍をさしながら言った。
「そうですねー…でも、裸足嫌いじゃ無いです」
これで芝生でも歩くと気持ちが良い。
「とりあえず、明日は靴の予備を購入した方がいいな。裸足じゃ危ない。見ていて不安だ」
先生は眉を潜めた。
「…え?…そうかなぁ…」
「それで足の指でも角にぶつけてみろ。勧めないがな」
ヒィ!悶絶!
「ぼ、僕、自分で用意してきます」
痛みを想像して足の指をさすって答えれば、先生は呆れた。
「おまえな…裸足で買いに行くのか?」
「別に履けない訳じゃないですから」
乾いてなくてもこの際、仕方ない。
「そうか。じゃあついでについて来い」
「え。どこにですか?」
「おまえが拾った指輪を届けなければ、持ち主に悪いだろ」
「ああ!アレ。…探してる物だと良いですねー」
膝を抱えたまま言えば、先生は「探してるんだよ。今。持ち主が泣いて気の毒だ」と断言した。
「そ、そっ…ですね」
なんか、すごい力強く断言したなぁ…。
「……。そうだな…持ち主が必死で探している所を行き違いになっても悪い。明日も海岸に様子を見に行くか」
かい…がん?それって…海岸?!
「海ですか?海の海岸ですか?!って事は、海岸ですよね?!」
空耳じゃ無いですよね?!
予想通り、食い付いたな。
しかし、なんでこうも入れ食いなんだコイツは。法術に対しては、投げたら食い付いてくるな。
ちょうどいい、このまま毎日教会に日参させてコイツの教会嫌いを慣らしてみよう。海岸には行く前に通るし、宝珠のある今なら毎日教会に行っても不自然じゃない。
海岸に行くとしても…対抗防御法陣をやるとは一言も言ってないぞ?すーぷーちゃん。
ご機嫌で体を揺らしている奴には社会の厳しさを教えてやらねば。
マリーさんがタナトス用に2階の一室を用意してくれた。
が、まぁ…タナトスが大人しくそっちで1人で寝るわけがないって言うか…当然のように私の部屋に居座っている。さすがに夜着に着替える時は追い出したけどね。
ちなみにマリーさんは1階に自室があり、先生も1階に部屋を持っている。マリーさんいわく、「2階はほとんど使わないで済むのよ。1人でこれだけのスペースの家はいらないわねぇ…」だそうだ。
…旦那さんが生きていたら…子供達と暮らす予定だったんだろうな。って思うと、寂しかった。
私は壁との距離が丁度いい場所に机を移動させた。
そこの壁にプロジェクター光玉を投影出来るようにだ。
部屋の光玉入れに蓋をすれば、暗くなった部屋にプロジェクター光玉は対抗防御法陣の見開き1ページを壁に映す。
「…ぷよぷよ…また新しいの作ったのか?」
タナトスが画面が映し出された壁と光玉を見て言った。この光玉の事だろう。
「うん。だって貸し出し不可な本なんだもん」
「…覚えれば良い」
はい。出た。ミスター天才の事もなげない発言。一度読んだだけで、出来るかっちゅーの。
「はいはい。…タナトス…ちょっと邪魔しないでね」
手元に小さな光玉を作ると、ノート代わりの日誌に図形と概要を書き写していく。
タナトスはベッドに横になり大人しくゴロゴロしていた。
読んではノートに要点をまとめる。
先生が言っていた。『対抗防御法陣は圧縮しながら編んでいく』と。確かに。感覚としては…よって束ねた法術を、編み物みたいに編み込んでいく感じかなぁ…同じ作業を反復して一定の感覚で詰めてを繰り返して、図案に導いていく。
これを収納出来る光玉…うーん…やっぱり悩ましい。大きかったら持ち運び出来ないし。
カリカリと書き写しながら、知れば知る程、困難に思えた。
それから2〜3時間した深夜、1冊が終わる頃に部屋の扉が開いた。
「まだ起きてたのか?」
突然、声をかけられた。そこには呆れた様子のローズ先生…しかもスッピンだ。まぁ、そうか。
「あれ?先生…どうしました?」
「…いや…」
先生は壁に目をやった。それは対抗防御法陣の図案だ。
ヤッバ。またなんか言われたら面倒くさい。終わらせよう。
「…え、えーと…その…僕ももう寝る所です!」
慌てて筆記用具と日誌を片付けた。
「これは上巻か」
部屋に入って来て壁の図案を見て先生が言った。
「そ、そうです…」
と、取り上げないでよー…とは言え、もう要点は書き写したけど。2、3巻は死守しよう。
「…すーぷーちゃん。おまえ…」
先生は改まって言いかけて沈黙した。
「は、はい?」
「…………」
なに?薄暗い中、沈黙されると気まずいなぁ。
「…な、なにか?」
「……。おまえ、母親はどんな人だったか覚えて無いのか?」
先生は言いづらそうに意外な事を聞いてきた。
「え…お母さん…母ですか…?」
そ、それはその…おそらくアルカティア人であろうと思うのですが…私よりも先生の叔母さんの方が詳しいかと…。とは、言えない。
「…えーと…どんな?…どんな人だったのかなぁ…僕、随分、小さかったから…」
正直、あんまり覚えていない。
「亡くなったのは病か?」
「………それが、すごい不思議なんですよね…亡くなったのは確かなんでしょうけど…お墓参りした記憶も無いし…」
すごくショックだったはずなのに…いないのが当たり前になるのが早かった気がする。デボラがいてくれたおかげで孤児にはならなかった。
「墓が無い?」
先生は意外だったようだ。
「…だと思うんですよねぇ…。そんな話題になった事無いし…」
「…親戚とかは?本当に聞いた事無いのか?」
「…無いですねぇ。お客さんが訪ねてくるのもほとんどありませんでしたから」
デボラは人の来訪を避けていた。懇意の薬屋さんでさえ、こちらからしか赴かない。何度かデボラに家に友達を呼んでもいいかと聞いたら、薬剤がたくさんあるから危なくてダメだとか、大人に家の場所がわかると面倒な注文をされるからダメだと、ことごとく却下された。
そんなわけで、コソッと呼ぼうにも、すぐにバレた。本当にデボラってすごくカンが良い。今、思えば不自然なくらいに。だから、それは仕法を使っていたのかとも思う。
「…おまえ…アストロズという名も聞いたことが無いか?」
先生が突然、聞きなれない単語を聞いて来た。
「アストロズ?」
なにそれ?誰かの名前?
「…すみません。わかりません。何ですか?」
「…そうか…」
先生は少し、ガッカリしたような、諦めたような様子で言った。
「……寝たい」
当然、ボソリと聞こえた声に先生は驚いた。
「なんだ。いつからいたんだタナトス」
闇に紛れてましたもんね。先生、ずっといましたよ。彼。
「僕も寝るんだけど、タナトス…自分の部屋で寝る気は無いの?」
「枕が無いと眠れない。何度も言っている」
タナトスは何度も言わせるな。と言わんばかりに私の腕を引いた。
「えー…また狭いじゃん…」
文句を言って不満な私に、ローズ先生は面倒そうに
「おまえら、夜更かししてないでさっさと寝ろ」
と、夢の中であった修学旅行の先生あるあるなセリフを言って出て行った。




