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眠りの神と夢見る子守唄  作者: 銀河 凛乎
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第3章 君に、頼みがあるんだ

彼を初めて見たのは、よくある街なかでの喧嘩だった。

ここ王都では毎日、喧嘩、窃盗、殺人がある。それも下町に比べたら表にでる殺人は多くないが、それでも喧嘩、窃盗は日常の事だ。日中でも起こりうる事ならば、それこそ夜の一人歩きはよほど腕に自信のある者でなければ、格好の獲物だろう。

ここにはあらゆる人種がひしめいている。富める者もいれば、貧しい者もいる。

いや、覇王と言われた王が倒れてから、その側近達がこれまで支えてきたが…この島は再び揺れている。

貧富の差は益々広がり、貧しい者は虐げられるか、他者から奪い生き長らえるか…いずれにせよ、王の不在は混迷を招き、貧しい人々の不満は、もはや再びの戦火までそう遠くでは無いだろう。

そんな、戦の種火の代表とも言えるのが少数民族の混血の者達だ。

彼らの多くが貧しく、持たざる者であり、彼らの祖先が持ち合わせていた不思議な能力も、今や失われる一方だった。

知的で神秘的な黒い色彩も、穏やかで成熟した思想も、他者に管理される事のない独自の魔法も、多民族の侵攻により瞬く間に純血は失われ、その能力もまた色彩同様にわずかながらの片鱗を残して泡沫と消えつつある。

だが、彼は違った。

頭髪こそレムリア人そのものの濃い茶色だが、長い前髪から覗く瞳は闇より深い漆黒の色。

小柄な少年は、殴りかかる黒と茶色のマダラ髪の男をヒラリとかわすと、その横に居た無髪の男の蹴りを、トーンと大きく後ろへ跳んだ避けた。

その跳躍は素晴らしく、大きく跳んでもなお余裕のある身のこなしに、街行く人々は思わず足を止めて目を向けた。

拳をあっさりかわされたマダラ髪の男は、逃げた獲物に執拗に殴りかかろうと距離を詰め、何度も拳を打ち込もうとするが、少年はその全てを器用に避けていた。

「おお!いいぞ!小さいの!」

見物していた通行人が、なかなか倒されない少年に、面白い!と檄を飛ばす。

「情けねぇな!全然当たらねぇじゃねぇか!」

野次馬のヤジを受け、マダラ髪の男が焦りと苛立ちに、懐からナイフを取り出した。それに続いて無髪の男も少年にナイフを向ける。

動じる少年に、男達がジリジリと間を詰める。

マダラ髪の合図に二人掛りで襲いかかり少年の姿が男の影に覆われた時、ゴウッ!という音とともに瞬間的な暴風が起こった。

見物人や通行人は突然の突風に驚き、捲き上がる砂塵に顔を背けたが、次に見えたのは一人立つ少年だった。暴風に吹き飛ばされ、体を外壁や石畳に激しく打ち付けられ、転がったのは男二人だ。

あの暴風の後に平然と佇む少年と転がり呻く男二人の対照的な姿を交互にみてざわついている。

…あれは…間違いない…!

魔法の護符を使ったわけではない。偶然の突風にしては不自然だ。それに…少年の様子から、明らかに彼がおこなった事だ。

魔法の護符なく操る魔法。あれこそ、アルカティア人が持つとされる不思議な力に違いない。

私は思わず顔が笑う。作ったものでない笑顔はいつ振りだろう。手綱を握った手に力が入っていた。

彼だ!彼に決めた!

目は、少年の挙動から目が離れない。

少年は気まずそうに周囲に集まった通行人を見渡すと、乱れた衣服を慌てて整え自身の荷物を倒れた無髪の男から取り返した。

身動ぐ男に、男達が少年に向けたナイフを拾うと、今後は少年がナイフを突き付けた。

「おい。人に刃を向ける時、自分もまた刃を向けられる事を知れ。それを覚悟する時は弱い者を挫く為ではなく、自分の大切な者を守るためだ」

怒りとともに言い捨てると、彼は防塵マフラーをカバンから取り出し身に付けると、足早にその場を去った。

集まった野次馬の中に潜り込み、人混みに紛れる少年の姿を目で追いながら彼の後を付けた。

「………」

「………一体、何の用ですか?」

警戒した声が少年から向けられる。あれから人の少ない海岸沿いに出た時だ。馬を降りて彼に相対した。

「君に、頼みがあるんだ」

「………頼み?」

警戒して後ずさる少年は怪訝そうに黒い目を向けた。


やたらと毛並みのいい白い馬に乗っていた男は、軽々と馬を降りて私に頼みがあると言ってきた。

見るからに上等な衣服も、輝くばかりの金の髪も、海のように濃い青い目も、見るからにオケアノス人の貴族だ。

年齢は…20代くらいであろう彼は、そのお育ち通りの優雅さで麗しくニコリと笑い、右手を自分の胸に当てフワリと軽く会釈した。

「私はアイティール。君に…私の友達になってもらいたい」

「…………」

トモダチ…?そう言った?なんか、やたら…馴れ馴れしい話じゃない…?

「…………」

「え?…は?」

この状況での思いがけない発言に、私はたっぷり数拍置いて思わず間の抜けた声をあげてしまった。

え?なんつった?今。まさか…トモダチって聞こえたけど?…え?ナニこの人、めちゃくちゃ怪しい…。

更に警戒する私に、彼は変わらず真っ直ぐとこちらを見て再度、言う。

「君に友達になってもらいたい」

「…意味がわからない。何で初対面の人にそんな事を…」

詐欺か。ははぁ、詐欺ですね。なるほど…さすが首都。さっきの親切装うチンピラに続いて、こういう貴族詐欺もあるわけか。恐ろし過ぎでしょ!都会!

私はいつでも逃走できるように身構えた。

「初めて見た時に君だと思ったから」

「………はい?」

胡散臭い!!…あれ?大丈夫かな?私、ちゃんと男の子に見えてる?なに、この結婚詐欺みたいなフレーズ!おかしいでしょ!うわわ…通報案件発生!!

思わず防塵マフラーを更に深く直して顔半分を隠す。

「君に、決めたんだ」

さも、あなただけの当選おめでとう!みたいな詐欺フレーズ。

はいはい。引っかからないから。

「断る」

私の、にべもない返事に、青い瞳が丸くなった。思いがけない返答だったのか、瞬いて真剣に問う。

「…なぜ?」

「そんなもの、自分で考えるんだな」

そうして私は風をまとい、ピョーンとひとっ飛びに民家の屋根に飛んだ。

背後で「待ってくれ!」と、慌てた青年の声を置き去りに、私はそのまま屋根伝いに移動した。


「あー。ヤダヤダ恐ろしい…。はぁ、もう今日はお風呂に入って休みたい…」

この世界で湯に浸かるのは一般には贅沢だ。デボラの家では仕法で全て準備をするので苦のない事だが、仕法無しならその水量を汲むのも、沸かす為の薪や燃料を用意するにも重労働だ。

もともとアルカティア人には仕法があるため頻繁な入浴の風習は珍しく無いらしいけど、ここ王都の宿屋にはあるはずが無い…が、せめて体を流したい…。

それに洗濯もしたいけど…服を買い足さないとならないな…。

宿に帰ったらアレしてこうしてと考えつつ、何件めかの屋根伝いから道に戻るために、風をまとって飛び降りた。

風の仕法により自然落下よりも緩やかに石畳みが近付く。

と、突然、馬が駆け寄り着地予定地に割り込んだ。

「えぇッ?!」

慌てて避けようにも、未だ滞空地点だ。とっさに馬の首を蹴らないように足を引くだけしか出来なかった。

石畳みに尻で着地…それは風をまとっていてもこの速度ではかなり痛いだろう。

ヒィ!と身を固くして衝撃を覚悟した。

ああ、こういう時間ってやたら長い。打ち身だけで済んだらいいけど、最悪折れたらどうしよう…

そんな覚悟が一瞬で頭を巡ると、ドサッ!という落下の衝撃と、馬のいななき…そして

「…スレイプ!…どうどう…!」

馬をなだめる男の声…

…は…?

予想していた痛みは無く、驚いて目を開けば、さっきの貴族詐欺師が私を馬上で抱えていた。

「… うぇ?!」

変な声出た。

なんだコイツ!なんなの?しつこ過ぎでしょ?!

馬上は未だ興奮の残る馬で揺れている。青年は手綱を操りながら器用に私が落ちないように支えていた。

「ちょ!離せ!!」

私が叫んで身を起こそうとすると、貴族詐欺の青年は冷静に答える。

「今、君を離すと君は石畳に派手に落馬する」

「お前!ふざけるな!」

「ふざけてなどいない。君が理由を言わないからだ」

「 なにを…!」

と、言いかけた時に馬が大きく揺れた。とっさに、青年の服にしがみ付く。

「…。すまないが、突然ひと一人を馬上で受け止めたからスレイプが…」

申し訳なさそうな青年の表情に、目線を馬に移せば馬の首がしきりに上下して何かに耐えている。

「!!…離せ!降りる!」

反射的に彼の腕を振り切って馬から飛び降りた。 もちろん、仕法でほんの少しの風をまとえば、難なく着地できた。

石畳みから馬を振り返ると、右前足を痛そうに挙げて、かばっていた。そして道には馬の血も滴っている。

「うわ…大丈夫…?…痛そうだな…」

青年も、私に続き馬を降り、その様子に痛ましい顔をしている。

「…スレイプ…すまない…」

痛みに鼻息の荒い馬を撫でて慰める青年。

…あれ、これ、私のせいじゃないよね?!

「…言っておくが、着地点に割り込んで来たのはそっちだからな」

「…仕方ない…スレイプは私のだから…」

…なんだ?なんか、含みのある言い方だな…まさか…!これが貴族詐欺のやり方か?!

「…そうか…。なら、早く治してやるんだな」

「…折れていたら、治せない」

やだ!怖い!いくら請求する気?!

「おい…僕が望んだわけじゃないぞ!」

「わかっている。私が君を望んだ。スレイプは私の意に応えただけだ」

馬を見ながら青年はアッサリと自分の有責を認めた。

「………そ、そうか」

それじゃあ、お大事に。と、立ち去ろうと目線を外し足先を動かした時、ガシッと手首を掴まれた。

「ゆえに、スレイプの犠牲を無駄にはしたくない」

青い目が、逃がさない。と私を凝視した。

ヒィ!ほら、やっぱり詐欺だった!誰かー!あ、ちょ!手首、痛いから!

周りを見渡して助けを求めようにも、この世界じゃ通行人は遠巻きに見て、知らぬ振りで去っていく。

そりゃね、明らかに貴族風の男と混血少年のトラブルならば、関わらず。が普通なんでしょうね!

「…何が言いたい?…僕に弁償する責任は無いはずだ!」

私の言葉に、青年は眉を寄せた。

「そんな事は頼んでいない。私が君に頼んだ事はそんな事じゃない」

言葉こそ静かだが、彼から苛立ちが見えた。

その苛立ちを、馬は敏感に感じ取り興奮しだす。痛いはずの足を振り上げ、首をイヤイヤと振り回す。

道に馬の血が飛んだ。

私はその馬の様子と、一向に手を離す気のない青年の現状にため息を吐き、取り敢えず彼の馬に付き合う事にした。

「…わかったよ。ひとまず馬が気の毒だ。馬を診てくれる人の所に連れて行かないと…」

馬に罪は無い。飼い主がそうしろと言えば、従わざるを得ないのだから。

馬がかわいそうだろ!

「…では、私の家に行こう」

青年は頷き、左手で手綱を引くと、もう片方の手で掴んだままの私の手も引く

「…いや、ちょっと!」

「なんだ?」

「手首。離して」

「…断る」

フッと鼻で笑って構わず歩き出す彼に、私は、あ、コイツ…意地が悪いな…。と、理解した。

馬は健気にも、ヒョコヒョコと体を大きく揺らしながら3本の足で歩く。

ゆっくり馬に合わせて歩きながら、青年に手首を掴まれて歩いている私まで馬になったような気持ちになる。

「………」

「………」

いや、沈黙が辛いんだけど。

「…なんだって、割り込んで来たんだ…こんなに馬に無理させて」

現状に不満な私は、彼に文句を言った。

「……それには答えたはずだ」

振り向きもせずに言う青年。

「僕が聞きたいのは、馬を痛めてまで僕に構う事があるのかって事だよ!」

私の言葉に彼は立ち止まって、青い目でこちらを見た。

「ある」

その躊躇いの無い答えに、私の方が躊躇う。

「…えぇ…?こっちは全く無いんだけど…」

「私も聞きたい。なぜ、私ではだめなのか」

神妙な顔の青年にますます困惑する。

「見ず知らずの奴に、いきなり〈お友達になりましょう〉と言われて、はいそうですね。なんて子供ぐらいだろ!それに!友達は頼まれてなるものじゃない」

「……。そうなのか?」

一瞬の間のあとに、真顔で聞かれると自信が無くなるが…

いや、さっきのチンピラだって親切風に声をかけてきたんだ!油断するな!私!

「では、どういう風にしてなるものなんだ?友達というのは…」

「………」

…さては、お前、友達いないだろ?

口を開いて言いかけた言葉を私はゴクリと飲み込んだ。

こういうのはデリカシーだ。さすがにそこまでは失礼だろう。

「…そもそも、お前は僕を信用できるのか?何者か知らないが、僕がお前を怪しく思うのと同じで、お前だって僕が悪い奴だったら困るだろ?!」

「…なるほど、信用できるかどうかが友達の始まりなのだな」

あのー?もしもし?

「私が君に信用されたら友達か…」

いやいやいや、それもなんか違うような…?

「では、行こう」

一人で納得した青年は、再び歩き始める。手綱と、私の手を引いて…

「お、おい!手!いい加減、放せって」

「私達はまだ友達でないらしい。私もまた、君が逃走するのを信じる事が出来ないから」

「うっ…疑う所はそこじゃないだろ…」

図星を刺されながらも、反論する。

「君は、自分が悪い奴だったら私が困ると言っていたな」

歩きながら言う青年に、私は素っ気なく促す。

「…それが?」

「真に悪い奴は相手の心配をしたりはしない。…自分を殺そうとした者に、あのように訓戒する事もない」

「…くんかい…?僕が?」

はて?何か言ったっけ?

「人に刃を向ける時、自分もまた刃を向けられる事を知れ。それを覚悟する時は、弱い者を挫く為ではなく、自分の大切な者を守るためだ…と」

「ああ…それか…」

あれは小さい頃、弟が刃物を持った時に父さんが言った言葉だ。要するに、《刃物は人に向けちゃいけません》みたいな。

「心に響いた…」

ゴホッ!!ゲホッ!!

「…そ、そうか…。忘れてくれ」

「それは無理だ」

そこをなんとか。

「私は…君と共に夢を叶えたい」

えぇ…なんか…叶えたい夢とか言っちゃって…今日中には終わらない感じ満載の話だなー…。

「そ、その…夢って…?」

恐々と問う私の言葉は、別の男の声でかき消えた。

「殿下!!」

茶髪に茶色い目の30代くらいの男が、慌てて駆け寄って来た。

ん?…デンカ?

「お一人での外出はおやめ頂きたいと申しているではありませんか!」

身なりのいい、そのレムリア人は深刻な顔で青年に訴えている。

「…そうだな。迷惑をかけてすまないな。ロキ」

大して悪びれた様子もなく、答える青年にロキと呼ばれた男は、私を不審に見下ろす。その目は明らかに嫌悪の色が伺えた。そして、すぐに馬に視線を移す。

「スレイプはどうしたのですか?」

「無理をさせたら足を痛めてしまった。法師に診せてやってくれ。折れてないといいんだが…」

そう言い手綱を渡すと、彼は私の手を引き歩き始める。

「お待ち下さい!その者は?」

毅然と問う男に、彼は一拍考えて

「…これから私の友になる者だ」

と、事もなく答えた。

思いがけない答えに、男は面食らい硬直した。それに構う事無く、ズンズンと歩みを進める青年に、男が慌てて後を追おうとするが、手綱を急に引かれ馬が神経質に暴れた。

「…スレイプにそれ以上、深手を負わすな。わかっているな。ロキ」

青年の青い目がゾッとするほど冷たく向けられ、放たれた言葉に、男は身を硬くして無言で頭を下げた。

「…お、おい…」

戸惑う私に、青年は何事も無かったような顔で私に聞いた。

「…スレイプの様子がわかるまで、まだ時間がかかる。お茶をしながら話をしないか?」

「…お茶って……ここは…?」

青年がズンズンと進んで来た場所は、豪奢で頑強な明らかに大きな屋敷だ。

「私の家だ」

あっさり答える青年。

「…お前…さっき、殿下って…」

「私の役職だ」

…は?

呆然とする私に、淡々と説明する青年。

「この家は父から授かった。さっきの男は従者のロキだ。従者だが年上ゆえに色々と言ってくる」

「で、殿下って役職なのか…?」

「私の父は、現王の妻の弟だ」

え、えーと…つまり…?昏睡してる王の…義理の甥…?…王様が…身内の…。

「………お邪魔しました」

身を翻し、帰ろうとする私の手首をさらに強く握り、青年は笑顔で手を引いた。

「どこへ行くのかな。入口はこちらだ」

勘弁してよ…。トラブルは避けたいんだ…。

私の顔を見て、彼は悲しそうに問う。

「私は君が何者であろうとも出自は構わない。君は、人を生まれで判断するのか?」

「そ!…それは…そうは思わない…けど…」

「けど?」

濃い青がジッと見つめてくる。

まずい…。なんか、ずっとこの人のペースに乗せられている気がする…。

「あ、…あのねぇ!僕にだって都合があるんだ!旅行で王都に来た訳じゃない!」

負けないぞ!と、訴えれば、彼の青い目は瞬いて、掴んでいた手首の力を緩めた。

「なるほど。…確かに、一方的だったかも知れない…」

うんうん。わかってくれたかい。

「では、理由を聞こう。君がここに来た理由を!」

青年は嬉々として私の手首から両手に掴み直して、目をキラキラさせていた。

ああー…これ、全然、だめなやつじゃん…。

私は、ガックリとうなだれて溜息を吐いた。


外見もさる事ながら…内装もまぁ、推して知るべしな豪華さだった。

ふかふかの絨毯が敷き詰められ、玄関と言うかすでに広間なくらいの吹き抜けの空間に、2階へ続く階段…かしずく使用人達…なんか、毎回違う人とすれ違うけど、何人いるの?ここ。

そして、いくらするのか未知数の調度品、なんだか偉そうな肖像画の人々…誰コレ?

そんな屋敷の一室で、殿下と呼ばれるオケアノス人の青年はゆったりと、この世界では市民には一般的でないソファーに座り、非常に絵になる姿で思案した。

「…なるほど…その師匠の最後の言葉、ヒュプノスを調べたいわけか…」

結局、青年のペースのまま、私は簡単に事情を説明するはめになった。

けど、まぁ、ここまで来たらしょうがない。どうせなら貴族様に情報提供を願おう。

「…王都に図書館はあるのか?」

「ある」

ああ、良かった!

ホッとしたのも束の間、彼は私を絶望させる。

「…だが、利用出来るのは貴族だけだ」

なッ!!なんだってぇ?!

「図書館は貴族のみが入る事が出来る場所だ」

「そ、それは…何とかならないものなのか…?」

「ならない。本は貴重だ。物にもよるが1冊で馬が買える。場合によってはそれ以上も」

はぁぁぁぁ!?なにその価格設定?!

「……そんな…」

ここまで来て振り出しに戻ってしまった…。

「……」

不意に部屋にノックの音がし、彼が応じると使用人が入って来て、言いにくそうに告げた。

「スレイプですが…暴れてしまい、法師が治療できません…」

「どう言う事だ?」

「…申し訳ありません。法師が近付くだけで、暴れて手に負えないのです」

「治療が出来ないと言うことか?」

「……ただ今、ほかに方法が無いか探している状態です」

青年は、目を伏せると思案して

「…見に行こう」

と、席を立った。私も馬が気掛かりでここに来たわけだし、後に続いた。


屋敷の敷地には馬の為の家、厩舎が建てられていた。

十数頭いる馬の中で、その馬はやはり特別なのだろう。ひときわ良い場所に広い馬房がある。

近くに来ると、すでに馬の神経質ないななきと鼻息、関係者達のなだめる声がした。

「…スレイプ、どうどう!!…大丈夫だ!大丈夫だから!」

責任者なのか馬に一番近い場所で男がなだめている。数人の者は馬に蹴られないように距離をとり、何かあれば責任者を手伝える位置で心配そうに様子をうかがっていた。

そして1番後ろに、フードの付いたゆったりとした白いローブを着た男が戸惑いながら佇んでいる。

なだめるその声も虚しく、馬は口から泡を吹きながら荒れていた。

「スレイプ、私だ」

青年が房の入り口で声をかけた。その声に馬は青年を見るが、苛立たしく後ろ足を蹴っている。

「殿下、申し訳ありません。今は危険ですので、それ以上は近付かれないで下さい」

厩務員の男が青年をやんわりと制した。

「…折れているのか?」

「蹄の裂傷がメインで、折れてはいないと思うのですが…スレイプは非常に神経質ですので…法師が近付こうとするたびに、ひどく興奮してしまいまして…」

「…治療には近付かなくてはならないのか」

「…今は痛みもありますから、余計に興奮してまして…」

「…折れてないだけでも幸運だな」

「ですが、このままですと、蹄が膿んでしまいます。蹄の膿が骨まで進んだら骨折と大して変わりません」

「………」

青年と厩務員の沈黙に、私は疑問を口にする。

「…つまり…どうなんです…?」

厩務員は部外者の私に、怪訝な顔をするが青年の連れて来た者に「お前誰だ?」とは聞けないようだ。

「…馬は、足を折ったら死ぬしか無い。3本足では自重を支えられん。生かそうにも、馬が苦しい時間が増えるだけだ。だが、法師が治癒の魔法をかけるには患部を触らなくてはならない。このまま治癒出来なくては、いずれ膿んでそれが骨までいく。そうしたらもう、助けられん」

「……つまり法士って人が馬に近付いて患部に触る必要があるんですね?」

私は、馬を見た。口から泡を出し、目を充血させながら、荒々しく尾を振り、時々、後ろ足を蹴っている。これはなかなか受け入れられそうにない…。

青年が重い口を開いた。

「……最善を尽くして…それでも無理ならば…その時は…」

青年の顔から感情が消えていた。

「…なぁ、それなら僕に任せてみないか…?」

私の申し出に、青年も厩務員も、その場にいた人間達が私を無言で注目した。

「…どう言うことだ?」

青年が私に問う。

「…僕が、この馬を眠らせたら、寝てる間に治療が出来るだろう?」

「…出来るのか?」

青年の問いに答える前に厩務員が聞いてくる。

「どうやって?この馬はひときわ神経質で、知らない人間は近付くのも嫌がるぞ」

「……もし、僕がうまく眠らせたら、僕の頼みを聞いてくれるか?」

「…ああ。構わない」

青年の同意に、厩務員は驚き青年に問う。

「殿下?!…よろしいのですか?!スレイプに万が一があっては…!」

「構わない。このままでは、いずれその万が一が訪れるだろう?…それに…」

青年は私を見下ろして言った。

「私は君を信じよう」

「…僕の名前はニルだ。信じてくれるなら協力してもらいたい」

私の言葉に青年は満足そうに頷いた。

「…ニル…。協力とは?」

「僕が眠らせるまで、ここから全員出ていてもらいたい」

私の注文に、厩務員が不審感を見せる。

「何をするつもりだ?」

「眠らせる方法を見せたく無い。別にやましいことじゃ無い。秘伝って事で」

「…いいだろう。非常に興味はあるが…」

青年の同意に他の者が意を唱える事は出来ず、それぞれが馬房を出た。


思いがけない申し出に馬房を出たが、どのくらいかかるものなのか確認するべきだったかと思った。

皆が皆、納得出来ないような不安顔で厩舎を見ている。

「…殿下…あの者は何者なのですか?」

いてもたってもいられない様子で厩務員の責任者…ジャックが聞いて来た。彼は馬を何よりも愛するが故に突然の成り行きに1番、解せないでいるだろう。

「…ジャック…お前の仕事を奪ってすまないな。私はあの者の能力を試したい」

「し、しかし、スレイプに何をするか、わかったものではないのでは?!」

「あの者は自分を殺そうとする悪漢を殺さず訓戒する奴だ。むやみに命を奪う事はないだろう…」

つい今しがた会ったばかりなのに、そう思えるのはあの少年のもつ雰囲気がある。

「(…混血の見た目なのに…全くスレていない…王都出身ではないせいか?…いや、どこの場所でも混血の者は苦難が多いはず…)」

それと…何というか…平民でない。が、貴族でもない…不思議な物腰が感じられた。

それをなんと表現したものか考えていると、馬房から少年が出て来た。

「…どうした?何か足りない物でもあるのか?」

まだ10分も経ってない。

「いえ、寝たので、治療を…」

少年の言葉に一同が驚愕した。

ジャックが馬房に確認に急ぐと、他の者も半信半疑で後を追った。

「スレイプ…?!…信じられん…」

馬のような臆病な生き物は、熟睡したとしても誰かが近付けば身を起こす。しかし、スレイプは息絶えているかのように身を横たえていた。

「寝ているのか?…馬が寝てる所を初めて見た」

青年の言葉に、厩務員は驚愕しながらも馬の状態に異常が無いか見ながら答えた。

「スレイプがこんなに眠っている所は私も滅多に見れません。特に神経質なスレイプが…どうやって…?」

一同が目線で少年に答えを求めるが、少年は

「早く治療してあげた方がいいですよ」

と、平然と言い、何かに気付くと片手で馬の尻をぺチッと叩いた。

「…あ。えっと…蚊です。…ほら、叩いても起きない今がチャンスですよ?」

少年に促され、白いローブを着た法師は恐々と馬に近付き、パックリ割れていた蹄に触れると、何度もさすりながら何事かを呟いた。すると、法師の手から白銀の輝きが発せられ患部は光に包まれる。

そして、法師がかざしていた手を離すと光は消え、蹄は元どおり綺麗に治っていた。


すごーい!治ってるー!

私は法師って人の治療に目を見張った。と、同時にこれで骨折も治せないのかな?とも思った。でもまぁ、きっと治るなら治すだろうから、骨折はだめなんだろうな…。

「…それで?スレイプはいつ起きるんだ?」

厩務員の責任者が、少しホッとしたように聞いて来た。

「…さぁ?」

私が首を傾げると、途端に男が表情を硬くする。

「何だと?…まさか、寝かせる事は出来ても起こせないのか?!」

「…満足したら目が醒めると思いますよ?」

弟がそうだったから。

「そんな無責任な!下手に寝違えになったらどうする!」

「…寝違え?」

馬が?

「…!!…馬の事も知らないのかッ!」

今にも掴みかかりそうな責任者に圧倒されていると、騒ぎに馬の耳が揺れムクリと首が起き上がった。

法師がワッ!と驚いて尻餅を着くと、馬も驚き急いで立ち上がる。

「スレイプ!…大丈夫か?」

その様子に私から馬に関心が移る責任者の男。

ブルルッ!と身震いして、しっかりと4本足で立つ馬は尻尾を大きく揺らしながらブルルルルッ…と大きく鼻息を吐いた。

その様子に、責任者もホッと息をついた。

「…問題無さそうだな」

青年は、馬の様子に目を細めてそう言った。


「スレイプも無事に治った。君の頼みというのを聞こう」

青年…アイティールは、好奇心に口角を上げて優雅に微笑んだ。

「……………」

だが、しかし、私はそれよりも目の前に並べられた無数の銀食器に、顔が引きつる。

結局、馬…スレイプの一連の騒動で、日も暮れて…彼が有無を言わさず、屋敷での夕食と宿泊を決定した。

案内された部屋はこれまた豪奢な調度品に、大きいダイニングテーブルが鎮座した部屋だ。

「話がしやすいように、朝の間にした」という彼の言葉から…これでも小規模らしいのだが…。

その、10人は余裕で囲めるダイニングテーブルに座り、目の前に整然と並べられた銀食器が、私に圧力をかけてくる。

…えーーーと…テーブルマナーって…外側から使うんだっけ?内側からだっけ?ん?あの水の入ったお皿って、飲むやつじゃなかったよな…何用…?

夢の中で見たTVで、マナーのやってたんだよなぁ…真剣に見とけばよかった…。

「…ニル?気分でも悪いのか?」

「へ?!…い、いや…その…こういう場での食事は…慣れてなくて…」

彼の問いに私は正直に答えた。

殿下と呼ばれる人を前に、張れる見栄など持ち合わせてはいない。

「…ああ、そうか…。すまない。普段、君がどんな食事をしているかわからないが…今日は君が1番のゲストだ。君の好きに食べてくれ」

アイティールは些細な事だと言わんばかりにそう言った。

「…それは助かる」

給仕が始まると使用人がスマートに料理の乗った皿を運び、ワインを注ごうとしたので「すみません。水を下さい」と断った。

家の主人のお許しも出た事だ。私は開き直って端からフォークを取ると料理を口にする。

「…酒は飲まないのか?」

アイティールがワインを飲みながら聞く。

「今まで飲んでないから」

「…そうか。飲んでみるといい」

「いや。…飲みたいと思った時にする」

どうも、アルコールには抵抗がある。まだ16だし。こっちでは合法でもね。

「そうか。ニル、君は堅実だな。私は君のくらいの歳には飲んだものだが…」

「……え?」

……ん?……あれ、これ…まさか……

「…僕は…16才だって言っただろうか…?」

私の言葉に、彼はさすが貴族。吹き出しこそしなかったが、目を丸くした。

「………それは…聞いていなかった…が、失礼した。君…成人してたんだな…」

そんな幼く見えるだろうか…。

「だが、それなら良かった。むしろ」

は?今、なんか言った?

「ああ、その前に君の頼みをきかなくてはならないな」

頼み…そうだ。図書館に入れるすべを…いや、でも、入れたとしても本が読めなかったり、また貴族だけとか制約がつけば、進まない…。

「………それじゃあ…」

彼に頼っていいものかどうか…いや、他にツテもない…

「…僕の師匠を助けるのを手伝ってもらいたい」

「師匠?亡くなったという?」

アイティールの青い目が、私を見る。

そうだった。船員に話した内容をそのまま使っていたが、訂正しなくちゃな…。

「…正確には…石化した師匠を助けたい」

「…石化?!…コカトリスにでもやられたのか?」

そう、石化と言ったらコカトリス。吐く息で人を石化してしまう恐ろしい獣だが、デボラは…

「…僕のせいなんだ…」

そうして私は、全ての真相を明かすのではなく、ニルとして、自分の未熟さから暴発した術に師匠が身代わりになった。と説明した。

「…師匠の石化する最後の言葉がヒュプノスって事は、師匠は何かを知っていて…石化を解除する方法がそこにあるんじゃないかと思う…」

「…………ヒュプノスか…」

「…図書館なら何かヒントがあるんじゃないかと思ったんだけど…」

「……いいだろう。明日、行ってみよう」

「本当に?!」

「ああ。ヒュプノスが石化と、どう関係があるのか気になる所だ。…しかし、ニル、君はやはり魔法を使えるんだな」

「…魔法じゃない。仕法って言うんだ。師匠は、仕法は滅多に見せちゃいけないって言っていた…」

「ああ、そうだろうな。魔法ですら、扱いは厳重だ。今は君のように自由にその…仕法…?を使える者は少ない」

「……」

「…スレイプを眠らせたのもその仕法なのか?」

アイティールは目を輝かせて聞いた。

「そ、それは…」

その時、デボラの顔が浮かんだ。

『お前の母親はその特別な力を大事にしていた…』

まだ子供だった時に聞いた事だが、デボラがひどく真剣に言っていたから覚えている。

馬の尻にそのカケラが残っていた時は慌てて隠したが…何よりも見せてはいけない仕法だ。

「それは…師匠からもらった薬草…みたいなやつだ…けど、詳しい事は言えない」

私は、自分の言葉に動揺した。

嘘なんて、得意じゃない…けど…こんなに何度も言うことになるなんて…。

「…そうか。君の師匠は凄い人なんだな」

アイティールは私の様子に特別気にする様子もなく微笑んだ。

「その、スレイプって…あの馬、よほど大事にしてるんだね」

話題をそらすために言った言葉だったが、返ってきた答えに私はむせた。

「スレイプは私が幼少の時に、王から頂いた馬で…私の宝物であり、友だ」

「ゴホッ!ゴホッ!…お、王からだって?!」

「ああ。王の愛馬の孫だ」

……伝説の覇王の愛馬の孫…それは…神経使うわ…。

「そ、そうなんだ…いや、うん…本当に良かった…」

知ってたら、もっと慎重に…。いや、それよりも目の前のこの青年、ホンモノの殿下なんですねー…あはは…。

……ど、どうしよう…なんか、不安になってきた…。

食べ切っといてなんだけど、もう、食事どころじゃないんだけど…。

「…ところで、ニル」

ふと、彼が真剣に聞いて来た。

「君と私が同じ年だとは思わなかったが、これも奇遇。私達はもう友かな…?」

はっ?!

「……え?…同じ…年…?」

聞き間違いかと尋ねれば、コクリと頷いた彼は…少なくとも、20才くらいだと思っていた。

ええええええ…??!!

「…いや、16才…なの…?」

「そうだ」

頷く彼は落ち着いた大人の雰囲気だ。

えー?!ちょっ…見た目でわかんない!!絶対見た目より大人びてるでしょ!!

「…僕は…成長が遅いんだろうか…」

ガックリとうなだれた私に、彼は珍しく返答に窮していた。

「…ニル、その…」

「…明日、図書館には行けるんだよね…?」

うなだれたまま、確認する私に彼は同意した。

「…あ、ああ」

「それじゃあ、そろそろ休んでいいかな」

こう言う言い方になったけど、本音はトイレに行きたい。あと、色々、緊張したせいか疲れた。食事も終わったし、もういいだろう。

「…ああ。ゆっくり休んでくれ」

彼はそう言って、使用人が案内する私を見送った。


私が使って良いとされた部屋は、屋敷の客間だ。どこもかしこも大きくて立派な…広すぎるベッドに、対に置かれた2脚のソファー、飾りが彫られた机とイス…同じ飾りの揃いのクローゼット…複数の大きな窓には全てに厚くて滑らかな青いカーテン…照明はふんだんに瀟洒なランプに光を放つ玉の明かりが灯っている。

火では無い明かりは消したい時は照明にカバーが掛かる仕掛けを動かす。

ランゲルハンス島ではメジャーなんだけど…ここではどうなんだろ?

「…うわー…」

なんか、この部屋もまた…掃除が大変だろうな…。

あの大きなベッドのシーツとかを手洗いすると思うだけで、ちょっとゲッソリする。水を絞るの大変なんだよね…。

…宿屋に先払いしておいて良かった…。

先払い分の宿泊費用が無駄になったが、踏み倒してお尋ね者になるよりマシだ。

…香油のにおいが消えてるといいけど…。

そんなにキツく無いだろうけど…やはり、わずかでも付いたものは過失だし…。

そんな事を考えていると部屋をノックする音がした。

「…ご依頼の物が用意出来ました」

出ると、使用人が桶に湯を持って来てくれていた。

「あ。どうもありがとうございます」

「本当に、このような物でよろしいのですか?」

依頼とは言え、優雅さもカケラもない桶に使用人は戸惑っていた。

「ええ、充分です。ありがとう」

桶を慎重に受け取り、私は機嫌よく答えると扉を閉めて鍵を掛けた。

はー…やっと、一息つけるわー…!

お湯が冷めないうちに、布を浸すと顔から拭いていく。

締め付けていたサラシ状の布を解き、体を拭きながら思うのは…

……やっぱり、同い年の男の子はしっかり男性なんだなぁ……。

いや、それにしても、彼は大人びている気がする…故郷の薬屋の息子は彼より全然、見た目も子供だもの!

「………実年齢より低く言えば良かったなぁ…」

それも、今更だけど…。

……いい加減、サラシだけも不安になってきたし…何か考えないとなぁ…。

図書館に行って…買い物にも行かないとな…。

「…図書館に…答えがあるといいんだけど…」

期待と不安は私の気持ちを大きく揺さぶる。

いや、まだ家を出て2日目だし!ここまで順調なんだから!明日の図書館!頑張るぞ!

体を拭いて髪を解いた。

いや、待て…ここはよその家。宿屋とは違うから念のため。

焦げ茶のカツラのお手入れをして、髪は梳かしてすぐに使えるように整えた。

「…お風呂入りたいなぁ…」

うう、我慢、我慢…デボラを早く戻してあげないと!

用意してくれた男性用の白い夜着はダボダボだけど、まあ寝るだけだし…汚さないように気をつけて…気を使うわー…。やたらと広いベッドもさー…こんなに広くなくても良いのにねぇ…。

くそー…気を使わずに使える日なら存分にゴロゴロするものを…!

広すぎて落ち着かないかも……

そんな不安はベッドに入って目を閉じれば、おやすみ3秒で霧散した。


翌朝、やや早く目が覚めた。二度寝をしても良いが、寝坊は避けたい。

…宿屋と違って…よその家だし…。

あくびをして、もそもそと着替える。身繕いを念入りにして整えると、昨夜借りた桶を持って部屋を出た。

まだ朝も早いせいか、厨房は別として廊下にはひと気が少ない。

桶の中の水を捨てるのにも、とりあえずトイレ行こう。

いやー、お金持ちのトイレはさすが違いますよねー。部屋だよ、部屋。広さが。落ち着かないよ!

と、思いつつ用を足して、桶の水を流した。

とりあえず部屋に戻ろうかと思ったら、廊下の窓から昨日の厩務員の責任者が通りかかるのが見えて、顔を出した。

「おお。あんたは…」

私の顔に、朝で薄くヒゲの生えた男が足を止めた。

「おはようございます。様子はどうですか?」

馬の、と付けなくても彼には通じたようだ。

「何ともない。朝の運動も問題無い」

「それは良かった」

自然と顔がほころぶ。

「…なぁ、…あ、いや、いい。秘伝だもんな」

男は、聞きたそうだったが、手を振って質問を変えた。

「あんたは馬には素人だな?」

「…ええ。そうですね」

「なら、何が得意だ?」

「…得意な事ですか…?」

はて…?何だろう…。

「…仕事は何をしてたんだ?」

ああ、仕事かぁ…。

「えー…と…お恥ずかしいですが…僕はきちんと雇われた事は無いんです。師匠に付いていたので」

「…へぇ。職人かい?」

「…うーん…?職人…なのかなぁ?」

仕法は職人なんだろうか…?

私の煮え切らない言葉に、厩務員の男は何者なんだと不審な様子になる。

「…薬草の栽培と管理とか…」

デボラに習った知識の一つだ。

「…ああ、薬師かい」

ホッとしたように男が納得した。

薬師とは薬剤師みたいな感じだ。どちらかと言うとその薬師に薬草を卸す方なのだが…まぁ、薬師の息子とも薬草についてあれこれ話したりはしていたし。厳しい審査があるわけでも無い。

「それならわからなくも無い…。一晩、様子を見ていたが疝痛も無いから、いい薬だったんだな」

「…せん、つう?」

「馬の腹下しだ」

「…へぇ…。せんつう。…まぁ、そうでしょうね。え?一晩中、見てたんですか?!」

仕法で腹痛にはならないだろう。それよりも、この人、徹夜なの?!

「ずっとじゃない。様子が落ち着いてりゃ、夜中にちょくちょく見るだけだ。この仕事じゃ珍しくも無い」

「…そ、そうですか…お疲れ様です…」

私なら夜中にちょくちょく起きて寝てをしてたら寝不足だ。しかし、目の前のこの人はケロっとしている。

「…あんた、殿下にその秘伝で雇われたのか?」

「ええ?…まさか。僕は雇われたわけじゃないです」

「…そうか…あんたのその秘伝があれば、仕事がやりやすいと思ったんだがな…」

残念そうに男は笑う。

「どうだ…見にくるか?」

不意に、男がそう言った。一瞬、何の話かと思ったが、すぐに馬の事だと思い至る。

「いいんですか?」

「ああ。ちょうど、運動と朝の給餌も終わったからな」

今の時間でひと段落とは…馬の朝は早いなぁ。


せっかくのお誘いだったので、私は見学させてもらう事にした。

朝の厩舎は馬達も心なしか、まったりしていた。

見かけない人間に興味津々に首を伸ばす馬もいれば、馬房の奥にいて無関心な馬もいる。

その中で、純白のその馬は…やはりやたらと毛並みがいい…。たてがみ?だっけ?長くてサラサラ。

…はぁ、言われてみれば王族の馬…なんでしょうねぇ…白馬って所もイメージ通りというか…。

なんか、他の馬と違って落ち着きがあるというか…威厳があるというか。

恐れ多いので、あんまり近付かずに眺めると意外にも馬の方から寄って来た。

「…お、おお…」

やっぱり、近くで見る馬は大きいなぁ…。鼻が…鼻息が…ん、なんか嗅がれてるな…。く、口、馬の口、めっちゃ動く!くすぐったい!それにあったかい!

馬の鼻面が近付けば、フンスふんす!と鼻息がかかり、やがて思いのほかよく動く唇がハムハムと手を甘噛みして来た。

「…へぇ、あんた…スレイプが気に入ったそうだ」

厩務員の男がヒゲの伸びた顎を撫でながら関心したように言った。

「…そ、そうなんですか?なんか…近いんですが…」

「スレイプは賢くて神経質だから人を選ぶ。嫌ってたらなおさらだが、初対面なら近寄らないさ。それがまさか気に入るとはな…」

「…は、はぁ…」

馬の鼻がスーハーと色んな所を嗅いでは、飽きずに手を口先で優しくハムハムしてくる。

「これは、殿下が知ったら嫉妬だな」

ハハハと笑う男は「こいつは、オスで…男よりも女に懐きやすいんだがな」と言った。

「…!?…」

動物…侮れん…!!

驚愕して馬を見れば、その馬は黒い大きな瞳でジッと私を見ていた。


厩舎から部屋に戻れば、使用人のメイドが扉の前で戸惑っていた。使用人揃いの黒い脛丈のワンピースに白いエプロンをしたレムリア人の女性だ。

「あ、何か用ですか?」

声をかければ、驚きながらも安堵していた。仕事が進まないと困るのだろう。

「起きていらしたんですね。洗顔をお持ちしました」

見るとワゴンに銀の洗面器と上質な布、水差しがのせられていた。

…うわぁ…桶でいいのにぃ…。と言うか、これが貴族さまの日常かぁ…。

「…あ、ありがとう」

「殿下より、8時に朝の間でお待ちする。と仰せです」

テキパキと洗顔の準備をするメイド。介添えするつもりか布を手に控えている。

「わかりました。伺います。あ、自分で出来ます。ありがとう…」

メイドは瞬いたが、腰を一瞬わずかにちょんと落とすと、布を置き部屋を出て行った。

はぁ、あれがメイド流挨拶か…。なんとも可愛らしい。


銀製の洗面器に張られた水に手を入れ、水面を乱すと両手ですくって顔を洗う。

「…お客様が朝食をご一緒なさるそうです」

真白い上質な布を丁寧に差し出し、男は事務的に告げた。

「そうか」

顔を拭いながら、青年は素っ気なく答える。

「…いつまで、あの者を屋敷に置くおつもりですか?」

キチッとした佇まいの男が、無表情で青年に問う。

「それをお前にいちいち報告する義務が私にあるか?」

顔を拭った布で前髪も拭うとサラリと金の髪が揺れた。その問いに、淡々と答える。

「…街で拾った混血と関わっていると噂がたてば、殿下のお立場が…」

「そんな事で私の立場が揺らぐのならば、私はよほど能無しという事か」

話の途中で遮れば、男は相変わらずの無表情だ。

「殿下、そのような事ではございません」

すぐさま否定した男に、青年…アイティールは持っていた布を無造作に投げ渡した。

「不満ならば言いつけるがいい。お前のお得意だからな。だが、これは譲る気はない」

「…殿下…」

無表情な男の顔が、憂う。

「私に見る目がないと思っているのか?ロキ」

アイティールはシャツを着替えながら冷静に問う。

「…いえ…」

「見え透いた否定はやめろ」

黙々とボタンをとめながら言う青年に、レムリア人の男は意を決してキッパリと言った。

「殿下…犬猫を街で拾うような決め方は賛成致しかねます。焦らずとも、じきに殿下に相応しいご友人と出会えますでしょうに」

「私に相応しい…?」

ハッと短く笑ってアイティールは青い瞳を剣呑にした。

「私の役職に群がる上辺だけの犬か?それとも能無しどもか?私が求めているのは、私の役職を見る者でなく、私自身を見る者だ。あの方のように…役職ではなく、私という人間を支えてくれる者達を必要としているのだ」

「…ですが、賤しい者は何でも金にします」

袖口のボタンをとめながら、青年は問う。

「…ロキ、お前は彼が賤しい者の振る舞いに見えたのか?」

「………」

「口調は粗野だが、立ち振る舞いも、食事の仕方も、他者の…使用人に対する気遣いも、なんの遜色があった?彼の見た目だけで判断しているのなら、それこそお前は見る目が無いな」

嫌味を言う青年に、ロキは近付きカフスボタンをとめるのを手伝った。

「だから逆に心配しているのです。混血であれほど躾けられている事自体が違和感であるという事を。殿下は混血の者がどういう生き方をするかご存じない。まともな大人がおらず、生まれてすぐ、数年しか違わない兄弟や他の子供に世話をされ、教育の受けられない人間がどういう育ちをするのか。彼に我々が違和感を感じない事が、そもそもおかしいのです」

ロキの焦げ茶の目が、青い目を真っ直ぐに見つめて警告する。彼の手首を持つ手に力が入った。

「いかにランゲルハンス島が出身とは言え、彼を育てた者は明らかに《こちら側》の者です。その意図がわからない限り、決して油断されてはなりません」

「………フン、なるほどな」

ロキの言葉にアイティールは苦笑した。

ロキは従者としてアイティールが生まれた時から仕えている。年齢は倍近く違うが、アイティールにとっては1番身近な存在だ。

「…いいだろう。私も興味がある。彼について調べて来てくれ」

「…かしこまりました」

ロキは右手を腹の前に折り一礼した。


朝の間に続く廊下で、ちょうど彼とその従者に会った。

「あ、おはよう。…ございます、殿下…」

挨拶の途中で、彼の背後に控える従者の無言の圧力に、私は笑顔が引きつりながら言葉を足した。

「おはよう。ニル。ゆっくり休めたかい?」

「…ええ…はい。ありがとうございます」

よそよそしい態度に、アイティールはニコリと笑ってから背後を振り返った。

「ロキ、すまないがスレイプの様子を見てきてくれないか」

「…スレイプのですか」

「ああ。頼む」

従者は一礼して、厩舎に向かった。

「…元気そうだったけど」

その後ろ姿を見送りながら呟く私に、彼は微笑んだ。

「邪魔だったから追い払ったのさ。…ニル、私の名は覚えているか?」

「………あ、アイティール?」

呼び捨てた私に、彼は微笑み頷いた。

「私を役職で呼ぶのはやめてくれ」

「…はぁ、まぁ…本人がそう言うなら…」

「ああ、嫌だ。皆が私を役職で呼ぶと、私の名前の存在意味がないだろう?」

…名前の存在意義…。

「それと、ニル…」

アイティールは、真剣な顔で改まった。

「…な、なに…?」

思わず身構える私。アイティールは詰め寄りながら熱弁した。

「…君には伸び代があるって事だ。まだまだ私達は成長する。悲観しなくたっていい」

な、なに?なんの事…?

「…つ、つまり…?」

顔を引きつらせながら問う私に、彼は見下ろしながら自身の拳を握った。

「背はこれから伸びる」

…えーと…

「……………ぷっ」

「?」

「あはははは!なんだ、その事か!あはははは!」

彼は私が昨夜、言った事を気にしていたのだ。

「…ニル…?」

キョトンとしている彼に、私はなんだか彼を憎めなかった。

「…おかしなことだっただろうか…?」

憮然とする彼に、私は笑いを落ち着かせながら答える。

「いいや。そうじゃないんだ。ありがとう。ただ急に熱弁されたから、ふふ…なるほどー、伸び代かぁ」

「…君があまりにも気にしていたから」

照れ臭そうに青い目を伏せる彼は今でこそ同い年に見える。微笑ましくて私は礼を言った。

「ありがとう。アイティール。嬉しいよ」

「………」

「…?…アイティール?」。

「…朝食にしよう」

アイティールは固まっていたが、ふと立ち話だった事に気付いて、朝の間に入った。

なんというか…友達慣れしてない所が…大人びて見えるけど、まだ同じ年なんだなぁ…。

私は殿下と呼ばれて育った彼の身の上を慮った。


図書館へは彼の馬車が用意された。馬車には家紋が金で刻印されている。

鷲の頭に獅子の体、その体には大きな翼の生えた獣…

「…グリフォンだ」

背後から貴族然とした麗しい格好のアイティールが私の視線に答えた。

「…グリフォン…これが」

なんとも雄々しく神々しい紋章は、アイティールの家の紋章だそうだ。

その王族に連なる殿下は図書館に行くのに錦糸で刺繍されたジャケットを着込んでいる。

そして、私もなぜか用意された上質な従者の装いに着替えを要求された。

慣れない襟のタイがちょっと息苦しい…。

「…本を読むのに、大掛かりなんだな…」

私のいたたまれない気持ちに、アイティールは言葉通りに同意した。

「もっと知識は身近であるべきだな」

身なりの整った御者が馬車の扉を開けると、アイティールは「行こう」と乗り込んだ。

馬車の中も豪華だ。その嫌味のない豪華さに感心した。座席はソファー仕様でフカフカだ。

馬車の窓から流れる街並みの風景は、なんだか違う雰囲気がある。

「……アイティールは、大変だな…」

ボソリと呟いた言葉に、私はしまった…と思った。

聞こえていないとよかったが、それは馬車のような限られた空間では無理がある。

案の定、彼は青い目で私を見てこちらの話の続きを待っている。

「…いや…何でもない。僕の勝手な思い込みだ」

「構わない。聞かせてくれないか」

話を逸らしたかったが、それも出来ないアイティールの雰囲気に、私は彼の王族としての気質をみた気がして…諦めて口を開いた。

「…その…君が生きてきた世界は…周囲が望んだ君の姿だろ…?一見したら、なに不自由ない暮らしなんだろうけど…その裏には対価が付く…それに見合う努力は…結構、大変だよな…と思ったんだ」

もちろん、貧しくて明日をも知れない暮らしに比べたら、大変の意味が違うけど…。

「……………」

アイティールは一点を見つめて、何も言わなかった。

「…ほら、僕の勝手な思い込みだろ?」

苦笑して笑う私に、アイティールは瞬く。無言のまま、彼の目からポトっと何かが落ちた。

「…えぇッ?…お、おい…」

ギョッとして私は腰を浮かした。

な、泣きますか?!…殿下…真顔で。

私が泣かしたって知れたら文字通り首が飛ぶ。

な、なにか持ってたっけ?ああ、カバンはこの服には合わないから置いて来ちゃったんだよな…。

わたわたしてたら、アイティールが私の肩に突っ伏してきた。

……これは…肩を貸すというやつ…?

なるほど…。って、私はハンカチかい!

「……すまない…」

かすかに聞こえた声に、私は瞬いて躊躇いながら彼の背中を撫でた。


「…さて、これがヒュプノス関連の書籍だな」

涼しい顔で積まれた本を見るアイティールは、さすが殿下の呼び名に恥じないほどの切り替えで、図書館に到着し御者が扉を開けた時には、何事もない様相で馬車を降りた。

名を記帳し、王族専用の豪奢な部屋に通されれば、希望した書籍はすでに用意されていた。

「凄いなー…専用個室まであるのか…しかも、すでに本まで用意されてるし…」

訪問から、個室までほとんど人に会って無い。案内した司書はいた。

…が、女性だったせいか、VIPな来訪に緊張していたせいか、彼女は見た目の麗しい殿下…アイティールしか目に入っていなかった。

「欲しい本があれば準備させるし、呼べば持ってくる」

アイティールはさも当然とばかりに言ってソファーに腰掛けた。

あらまぁ、殿下。何気なくされる一挙手一投足が優雅ですね!

そりゃ、目を引くわ…。

私はアイティールの向かいのソファーに座り、準備された本を1冊手に取り眺めた。

「…思ったより多く無いんだな…」

1冊ずつは厚いが5〜6冊といったところか。

「とりあえず、ここにヒントがあればいいんだが…」

アイティールも、本を手に取ると私達は早速、読み進めた。


ページをめくる音だけがする室内で、アイティールはかれこれ2時間は集中して読み続けているニルを見た。

小柄で声変わりもしていない未だ少年のままの者だが、漆黒の瞳は2時間前と同じ流れるような速さで文字を追っている。本が貴重な世でここまで文字を読み続ける事に慣れている者は多くない。

ふと、今朝のロキの言葉が思い出された。

貴族の暮らしに違和感が出ない事の方がおかしい。と。

…確かに…何者なんだろうか…?

努力もせず、自分に与えられる物全てが特別な人間に与えられる当然の結果だと、何の疑いもなく贅に耽る者も多い。

ニルは、貧しい暮らしに喘ぐ混血の者とも、恵まれた暮らしを当然とする考えの貴族とも、違うようだ。

彼がどのような生活をしてきたのか、アイティールには目の前の男の生い立ちが気になった。

…出自は気にしないと言っておきながら…。

自ら言った言葉を思い出し、アイティールは自嘲した。

近日、ニルについての調査が出るだろう。ニルが隠している事も知る事になる。

当初の説明で師匠の死亡が、後に石化へと変更したのは、こうして真剣にヒュプノスについて調べるニルの様子から本当のことなのかも知れない。

…ニルの師匠というのも、ただの薬師では無いだろう…。

アイティールは目の前の少年を凝視する。

「…………」

ふと、ニルが気付いて視線を上げ、漆黒の目と合った。

「…どうしたの?」

「…いや…ずいぶん、熱心に読んでいると思って」

感心して言った言葉に、ニルは息を吐いた。

「…早く手がかりが欲しいんだ。ああ、でもちょっと疲れたな…」

集中が切れたのか、ニルは背中と腕を伸ばした。

「…アイティールにも付き合わせてすまないね。今日中に読めたらいいんだけど…」

そういうニルの読む本は、あとわずかで読み終わりそうだ。

「今日中に読むつもりだったのか?」

師匠の為とは言え、ずいぶんと性急だ。

「うん。いくら条件とは言え、そんなに迷惑をかけられないだろ。ここで情報を得られたら、それで済むし」

そのニルの言葉が、聞き捨てならない。

迷惑をかけられない?

「…ニル、まさか…この本を読み終わったら去るつもりでは…」

「え?それは、まぁ…いくらなんでも、あんまりお世話になったら返せそうにないから…」

そう言って再び本のページに視線を落とすニルに、私は立ち上がった。

「…アイティール?」

不思議そうに見上げるニルに、私は憤った。

「ニル…私はそんなに頼りにならないだろうか」

ニルの元々大きい漆黒の目が丸くなった。

「私には、何が足りないのか、教えてくれないだろうか?」

「…え?…ええ?…何?」

何度も瞬きするニルは、戸惑い身を引いた。

「私が君の信用を得るにはどうしたらいい?どうしたら君の友になれる?」

どうしても手に入れたい。

今までのように周囲の者に当たり前のように与えられたものではなく、自分自身で手に入れたい。

唯一無二の友を。親友という存在を。

初めて見かけた時から目を引いた。魔法の護符がなくても、自在に使える魔法。立場にとらわれない思慮深い成熟した思想。自由で生き生きとした姿に、彼だと決めた。

紅茶に溶けるミルクのように言葉を交わせばジワリと染みる温かさに、人間の友の素晴らしさを知った。

今更、彼を諦めきれない。

「足りないというのなら努力する。だが何が足りないのかがわからないんだ」

本を両手で持ち長イスから身を退いていくニルの手を、逃げないように引いて問い詰めた。

「おおおおお、落ち着け!アイティール…ちょっと、その!…落ち着いてくれないか!」

切迫したその声に推し黙れば、ニルに覆い被さるような体勢だった。

ニルは本を盾にソファーに横倒しになってプルプルと震えている。

答えが知りたくて逃げるニルを追い詰めてしまったようだ。

「…すまない」

身を引くと、ニルが弱々しく起き上がった。

「ニル、顔が赤いが…」

「お、お前のせいで腹筋使ったんだよ!」

眉根をよせて文句を言うニル。

「…すまなかった」

なぜ、自分を抑えられなかったのか…。

彼には誰の制限も受けない魔法…仕法が使えるからだ。彼が本気で逃げれば再び捕まえるには骨が折れるだろう。いや、空を飛ぶ鳥のように再び捕まえられるかはわからない。

一度、逃げられているし…。

それでも、しつこくしたら再び逃げてしまうかも知れない…。

「…アイティール、とりあえず座れ」

ニルは向かいのソファーを指差した。指示通り座りなおすと、ニルは咳払いをして言う。

「…お前の、友達が欲しいという熱意は、わかった。しかしな、押し倒すのはヤメろ。お前はただでさえ見た目がズルい」

「……?」

体格差の事か?ニルが気にしていたからな…。

確かに、ニルは小柄だから単純に力比べをしたら、負ける気がしない。

「…それと、友達っていうのは、宣言してなるものじゃない」

「では…?」

私の問いにニルは右手をあげて制した。

「友達とは、心が通いあったら、それでもう友達だ」

「……心が…」

「そうだ。だから、僕と君は、もうとっくに友達だ」

「!!…ニル」

「はい。ストップ。そのままで。いいか?君と僕はトモダチだ。これで安心したか?」

「……質問が」

「…はい、どうぞ。アイティール君」

「それで、ニルは私に迷惑をかけられないから、去るというのか?」

私の問いにニルは「んん?」と口だけ笑みを作った顔で首を傾げた。

「友達というのは…利害関係を介さないものだと認識している」

ソファーに座ったまま、前傾で手を組んでニルに問う。

「し、親しき仲にも礼儀ありという言葉がある」

「?…どこの言葉だろうか…?」

ニルの言葉に更に問えば、ニルが怯んだ。

「友達であるならば…自分の気が済むまで力になりたいと思うのは悪い事では無いはず」

「……ん、んんー?」

「…ニル…再度、問う。私達は《友達》だよな」

言葉の語尾に疑問符は付けない。穿つように相手を見れば、ニルは「…持つべきものは王族の友ですねー…」と力無く乾いた笑いを浮かべた。

…こんな脅しでもいいのだろうか…。

従者と友は違う…。脅しで従うようになってしまっては本懐では無いのだが…。

「…あー!もー!疲れたなー!」

ニルは突然声をあげると、脱力して天井を見上げた。

「お前のせいですっかり集中切れちゃったじゃないかー!」

恨めしく文句を言うニル。その気安さと素直さに驚いたが、同時に口元が緩む。ニルは眉間にシワを寄せて言った。

「いいか!?言っておくが、僕は師匠を助けるまで諦めない。その僕を手伝うって事は、明日も明後日も…下手したら数ヶ月…もしかしたら数年とか…とにかく、ずーと付き合う事になるんだぞ?!」

「明日も明後日も、何年でも何十年でも、ずっと付き合ってやる。友達だからな」

望むところだ。と頷けば、ニルは大げさにため息を吐いた。

「………はぁー……」

「…嫌なのか?」

「…嫌だなんて言って無い。ただ、君の懐の深さに脱帽だよ…ありがたいよ。ほんとに」

ニルは礼を述べると、こちらを見て笑った。その笑顔はなんの偽りも無かった。

それからニルは、私の初めてで特別な友達になった。

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