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眠りの神と夢見る子守唄  作者: 銀河 凛乎
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第29章 不公平の中で、何を得て、どう生きるかは、その人間次第だ

夕食の後アイティールを呼び止めて「先生と話をするから、いつもの時間に部屋にいけるかわからない」と伝えた。

「なにかあったのか?」

アイティールの問いに、真剣に答える。

「僕、治癒は未完成で…僕にはまだ治せないって思ってた…でも、さっきメルセデス先生が指摘したんだ。僕が…無詠唱で治癒出来るんじゃないかって」

「無詠唱で治癒…。出来たのか?」

「…メルセデス先生は自分の傷で確かめたけど…僕自身がよくわからない。傷は治ってたけど、なにか仕掛けがあるかもしれないし…?」

「……そうか…」

アイティールは頷いて、青い目を向け微笑んだ。

「…しかし…ニルならあり得なくないだろう。むしろ、おめでとう。と、言ったところか」

「え?…そ、そうかな…」

アイティールの思いがけない反応に戸惑った。

「ニルは治癒を習得したかったのだろう?それが…飛び越えて無詠唱で使えるのならば、それは喜ぶ事ではないか?」

……あ。ああ…。まぁ…そう…言われると…。

「う…うん…。そう…なんだけど…でも!これ…ふ、普通じゃないっぽいんだよ?大丈夫かな?」

メルセデス先生が見た事無いって言ってたし…。

「それは余計に素晴らしいじゃないか。さすが私の友だ。私も誇らしい」

自信を持って言われると、なんだか…そんなに気にしなくてても良いんだろうか…?

「え。あ、う、うん…ありがとう…」

ちょっと混乱してきた。

「ニルは凄いな。嬉しい反面、置いて行かれてばかりで少し寂しさもあるが…私も努力しなくてはならないな」

「…アイティール…」

えぇ…意識高い結果出すタイプの人がさみしいって…そんな切ない目しないで。私だって行きたくて行ってるわけじゃ…。

「スレイプニル」

あ。ローズ先生だ。

食堂の入り口で私を待っている。

「じゃあ、また」

「…ああ。また何かあったら教えてくれ」



さすがにこの時間の医務室は空いていた。治療を受けて安静にしていた生徒も、もう、皆それぞれの部屋で休んでいるんだろう。

私が先生に呼ばれて医務室に行く途中、タナトスが付いてきた。

「ぷにぷに…寝る…」

「タナトス。もうちょっとだよ」

「…食事終わった…寝る…」

「う、うん。そうだね。でも、タナトス、6時間もらったでしょ?明日は昼過ぎまで寝れるんじゃない?」

「………足りなかったか…」

ポツリと言ったタナトス。

え。…まさか水増ししようって言うの?ダメだよ。タナトス。まぁ、交渉したのは私じゃなくローズ先生だけど。

先生はタナトスが付いてきたのも構わずに、医務室のいつもの席に座った。

タナトスは勝手にベッドでゴロゴロしている。

座るのも…メンテナンス中だし、怒られっぱなしだから立ってようかと思っていたら、先生が「座れ」と言って来た。

「………はい」

な、なるべく、座るのもローブを下に敷かないようにしよう。万が一で。うん。

座っても、先生は机に頬杖をついてぼんやりしていた。

怒ってこないな…。いや、それも怖い…。これ、アレかな…もはや怒る気にさえなれない…みたいな…?

「……あ、あの…先生…」

沈黙が辛くて声をかけると、先生は我に返ったみたいだけど、「ああ。…それで…何だったか…」と、聞いてきた。怖い。

「………。あの、僕…自分で自分が、良くわかって無いんです…どうなっているのか…」

「…ああ。無詠唱で治した事か?」

先生はあっさりと言った。

「え、ええ…そ、そう…なん…でしょうか…?」

「そうだろう」

あっさり。

「え。あの…でも、僕…まだ治癒も出来ないし…」

「…………」

ローズ先生は黙って私の方に手を伸ばした。そして襟元からハートのキングを表す階級章を外す。

「…あ…」

それが外された事に…取り上げられた事にショックだった。

問題ばかり起こす私には…やっぱり不釣り合いだと言う事だろうか…。

先生はそれを片手に持ち、ピンの部分で自分の左手の平を引っ掻いた。

「え、先生!?」

えぇ?!ちょっ!!何してますか?!

ローズ先生の手の平に、引っ掻いた線の上を赤い血の玉が点々と並び、膨らんでいく。

その左手を差し出して

「同じようにやってみろ」

と、先生は言った。

戸惑いながらもその手を見れば、手のひらの傷は点在していた血が合流して赤い線を引いたようになって流れている。

血が…どうしたものか。この世界はテッシュが無い!そしてハンカチはメルセデス先生に…あ。と思って、予備をポケットに入れてた。

ハンカチいっぱい持ってないと間に合わないんだよね。えーと…確か…あ、あった。

取り出したのは洗いたてのハンカチ。それで先生の手を押さえると、おまじないをした。

痛みが取れますように。

ハンカチで血を拭って見れば、先生の手のひらには傷はなくなっていた。

「え?…なんで?…消えた…」

「これが無詠唱だ」

先生はそう言った。

「僕が…治癒したんですか?」

驚いて聞けば、先生は「そうだ」と肯定した。

「だが、無詠唱の治癒は傷跡が残る。見えるか?あの程度の傷ならば、ごくわずかにしか見えないかも知れないが…」

その言葉に、先生の大きくてしっかりした手を凝視すれば、なるほど確かに薄っすらと白い線が入っている。

「あ…これ…ですか?え…でも、なんで…?おまじないで…今までこんな事、無かったのに…」

デボラと暮らしていた時に、こんな事はなかった。

「おまえの法術が漏れ出た結果だろう」

「…僕の…?」

先生と比べて頼りない自分の手を見た。

見比べて改めて思うけど…先生はやっぱり女性じゃないんだなぁ…手だけでこれだけ違うとナタル先輩の言う性別の違いって、わかる気がする…。

こんな時にそんな事を考えるのも、なんかおかしいけど…。

そんな私の思考をよそに、先生は話を続けた。

「復活の法術を使える者は無詠唱で治癒が出来る。ただこれは法術師の中でも非公開だが。逆を言えば、無詠唱で治癒が出来た者は復活の法術が高い確率で使える」

復活の法術…

「あ、あの、その復活の法術について、詳しく聞きたいんですけど…人を生き返らせれるって…本当ですか?」

私の問いに、先生は一瞬、何言ってんだ?っていう顔をしたが、ああ。と思い出したように説明した。

「復活の法術は、死者を甦らせる法術の事だ」

「死者の復活…聞いたことがあります。この世界では一度死んじゃっても、生き返れるって」

「この世界?…そうだ。とは言え、ルールが無い訳じゃない。むしろ、甦りには制約がある」

「…制約…?」

「まず、神が定めた死は覆せない。つまり自然死…老衰や病死は甦らせ無い。そして一度、甦った者は2度目以降の甦りが成功する確率が下がる。問題無く甦る事が出来る者もいれば…別の存在に甦ってしまう事もある」

「別の存在?それって何ですか?」

「不死者だ」

「不死者?」

「人の形をした、人ならざる者だ。…それは闇に見出されれば闇の眷属になり、光に見出されれば神の使いになる。いずれにせよ、そうなればもう二度と…人の暮らしは出来ない」

な、なんという事でしょう…と言うか神の使いって?文字通り天使って事?それって死ぬのと変わらなくない?…あぁ、とにかく2度目はリスキーって…そういう事か。

「2つ目は身体が大きく欠損してしまった者も無理だ。手足ならまだしも復活後に生活出来ないレベルはダメだ。死後時間が経ち過ぎた者も同じくな」

死んでから時間が経ち過ぎた人…確かに…ゾンビになっちゃう…。

「そ、それは大変な事ですね…僕には無理っぽい…」

人の人生を変えちゃうなんて、さすがに怖すぎて…

「すーぷーちゃん。何言ってんだ。おまえ…それ、入学初日にしただろ」

「は?」

なに言っちゃてんの?先生、それは私の言葉ですよ?

「僕、そんな事してません」

「しただろうが。そして今も」

「はい?」

やだ。怖い。何の話?知らないうちに加害者認定ですか?言いがかりですよ!

「初めはネイロスに。そして2回目以降はタナトスに。お前は復活の法術をしている」

「ネイロス?…タナトスにも?」

「ネイロスの時は無意識だっただろうから…タナトスの浄化で説明する」

「は、はぁ…」

「お前は自分で気付いたな?浄化の粘度を上げて法術を圧縮する、と。そして、それを実際に行った」

「あ、ああ…はい」

そのヒントは光玉とお風呂ですけど。

「そもそも、浄化を圧縮しようと思いつく奴は稀だ。そして、法術の圧縮…それを実際に遂行出来る者は更に稀だ」

「…えぇっと…つまり…?」

「タナトスの浄化は通常の浄化で済まない。圧縮された法力を必要とするそれは、復活の法術だ。それくらいタナトスの状態は蝕まれている。普通なら生きていられないくらいに。おまえはタナトスを浄化しているつもりだろうが、圧縮した法術は復活の法術だ」

「…あ、あれが…?」

名を呼ばれ、タナトスがゴロゴロしていたベッドからこちらにやって来た。

「…ぷにぷに。遅い…」

「あ。ごめんね。タナトス。今、大事な話なんだ。タナトスは気付いていたの?浄化じゃ無いって」

「……ラクになるなら、どっちでも良い」

「あ…あぁ…そう」

タナトスは壁に置かれていた長イスを引きずって来ると、私のイスに付けてその上に寝転がった。そして私の膝に頭を乗せた。

「………。タナトス…君の、僕を枕にするという執念には感服するよ…」

「…寝たいだけだ」

タナトスはそう言って眠りに入ると、先生は話を続けた。

「おまえが初日…酒で昏睡したネイロスに無意識で復活の法術を行ったのを見て…俺は、おまえがその使い手になるだろうと思った」

先生は緋色の目を向けた。

「復活の法術は秘伝だ。教本は無い。自ら気付いて行えた者のみが有する法術だ。教会は法術に関して広く知識を解放しているが、復活の法術…これに関しては、多くを語らない。人の人生のみならず、自然の摂理にも反する事だ。多用していい事では無い。それに…誰しも、もし、死んでも2度目があると思えば気を抜いてしまうだろう?しかし、必ずしも全員に2度目があるとは限らない」

「……はい」

「教会としても誰がそれを出来るかを公表しない。公表しようものならば、大勢の遺族が押し寄せる事になる。それに…ただでさえ、使い手が少ない中で、全員は救えない。どうしても不公平がでるだろう。だから、《その時、幸運にも使い手がそこにいたから》という奇跡でしか復活の法術は使わない」

「……奇跡…」

それって…作られた奇跡も含まれるんだろうな…。

「おまえがタナトスを浄化する為に浄化の法術を圧縮すると言い出した時、俺は嬉しかった」

「…なぜですか?」

「…おまえは俺が受け持った生徒で初めて、それに自力で気付いて実行出来た。復活の法術は命を救う究極だ。自分以外で、それを初めて出来た者が現れた事が、単純に嬉しかった」

「…じゃあ…先生も…?」

「そうだ。俺は13歳の時に習得した。おまえと同じように無詠唱で治癒が出来る。だが、出来るがしない。傷跡も残るし、誇示して良い事なんて無いからな」

先生も同じ…。あ。そう言えば…

「先生、それって、僕が最初に先生にしてもらったのですか?」

「…なんだ?」

「僕、先生に打ち身を治してもらいました。クスト先輩に引きずられて…」

「……あぁ…そうだな。そう言えば」

先生は指摘されて初めて思い出したようだ。

「僕、ずっと不思議でした。白竜がどんな組でどんな役割があるのかも知らなかったけど…なんだか…とても…懐かしい感じがしました。ずっと昔にあったような…」

なんでなんだろう…本当にそう思った。

「…そうか…」

先生はそう言って微笑んだ。

「…僕…タナトスにしてるあれが復活の法術とは思いませんでした…」

知らないって恐ろしい…。知らずにいる事で、また何かしちゃうかも知れない…。

「本来なら、すぐに説明しておく必要がある事だが…あまりにも次から次へと異例なことが続いてタイミングを失っていた。それに、これは本当に稀有な事だ。お前が今のこの状態で登録票が発行されるほどに。だからこそ秘めておけ。もし、それが今、人の耳に入ったらどうなるかわかるか?」

「え、えーと…」

「あっという間に広がって連日、お前のもとに善人も悪人も構わず大量の人間が押し寄せる。稀有な力は富を生む。おまえを利用し、悪事を働こうとする者もいる。悪人じゃなくても危うい。おまえも経験しただろうが、復活の法術は法力を大きく必要とする。1日に何十人も復活出来るわけじゃない。しかも制約もある。だが、遺族は甦らせてくれとすがりついてくるだろう。救えない命に理由があっても遺族は納得しない。不公平だと罵り、おまえに恨みを持つだろう。恨みが募ればやがてそいつらはおまえの命を奪う。そうなる事で救える命すら救えなくなる事も構わずに」

「…あぁ…想像できます…」

「だから秘めておけ。本当に救える命をより多く救う為に。不公平だろうが、そもそも人生に公平は無い。誰しも自分が持っているものだけで生きていかなくてはならない。身一つで何も持たざる者、生まれながらに多くを持つ者、様々だ。それでも誰もが思い通りになる人生なんて存在しない。だが、不公平の中で、何を得て、どう生きるかは、その人間次第だ」

「……」

「復活の法術は人の生死に関わる。それだけに責任が伴う。一度に大勢の死者が出た時、身内や知人の死に、自身の判断力が必要になる。復活出来る死後の時間にも制限があるから、助けられる命と救えない命を選択する時もあるだろう」

「そんな…僕には選択は出来ません…目の前でその時があったら…どうしたらいいんですか?」

「……おまえが…1番後悔しないだろうという選択をすれば良い」

「後悔しない選択…でも、後になって後悔したら?」

「そうならないように、必死に考えろ。最善だという結果を想像して力を尽くせ。考えた上で、やるだけやれば後悔は少なくて済む」

「…………」

それが…出来るだろうか…。

「すーぷーちゃん。人は誰しも必ず失敗はする。出来ない事はたくさんあるんだ。しかし、失敗をしないでいると成長も無い。過度に失敗を避けていたら、肝心な所でつまずいた時に起き上がりづらくなる。大事な事は失敗を怖れる事では無く、失敗から学ぶ事だ。失敗をしたら怖れずチャンスだと思え。おまえが諦めずに続ける限り、それは決して無駄にはならない」

「…………」

…諦めずに続ける限り…。

先生は俯いた私の襟元にハートのキングのバッチを付け直した。

「失敗を怖れるな。失敗してもいい。おまえが失敗したり悩んだりしたら、俺がお前と共に解決する」

「でも、僕!…騒ぎばかり起こして…そんなつもりはないのに!迷惑ばかり…」

先生は私の言葉に堂々と答えた。

「それがどうした。俺はおまえの後見人だ。おまえが成長して迷いが消えるまで、必要とするまでは、お前の悩みや失敗は俺が一緒に持つ。いいか?何度でも言うぞ。おまえがわかるまでしつこく言うからな」

緋色の目が真っ直ぐ私を見て断言した。

「…わかりません。…どうして…?」

いくら生徒だからって、そこまで面倒見る必要は無いはずだ。

「俺がそう決めたからだ。…おまえは納得いく理由が欲しいのか?」

「…だって…そこまでする先生の利点は何ですか?」

「利点?そんなもの、後悔したくないからだ」

「…後悔?」

「俺がそうしたいと思った。それをあれこれ欠点やリスクを見付けてやらなければ、大きく後悔する。やって後悔する以上に、やらずにいた方が後悔は、はるかに大きいからな」

「…でも!」

「もう決めた。だから後見人になった事に後悔など無い。むしろ、少し楽になった」

「な、なんで…?」

戸惑う私に、先生は冷静に続ける。

「おまえは俺が後見人になる事を承諾したな?後見人は親と同義だ。おまえの生活態度にも干渉させてもらう」

「はい?!」

なんか、ドキリとした。

これ、ヤバくない?…え。これ、間違えたんじゃない?

「まず、さっさと王家とは離れろ。おまえ、週末あの性悪息子の屋敷になんか行くな」

半眼でそう言う先生の言葉には一切迷いが無い。

「え。あ…あの、先生…?」

えーと…今、なんて?性悪…?

「今まで俺も、王家には中立の気持ちでいたが…あれはダメだ」

「な、何がダメなんですか?」

「おまえは王家といたら望まない結果になるぞ。わかっているのか?おまえの言う、平凡な暮らしは夢のまた夢だ。奴はおまえのその力を自身の権力の強化に多いに利用する。富める者が更に力を付け、貧しい者は日々に喘ぐ」

「まさか。アイティールはそんな…」

「奴がどういう国を目指したいのか何か聞いたか?」

「い、いいえ」

「どんな国を目指そうが、あいつの主張は王政の堅持だ。その為におまえを利用する」

「そ、それは…僕には無理です」

「うん。すーぷーちゃん、無理とか言ってられないからな。どーせ、おまえの事だ。無理ですと言っている間に話が進んで、あれよあれよと言う間に自分じゃ降りられないところまで担がれて、降りられなくて泣く事になるだろ」

「えぇ?!ちょ!先生?!な、なんですか?!その未来が見えるような目は?!」

先生は私を見ながら遠い目をして断言した。机に頬杖をついて更に続ける。

「それとも何か?おまえはそういう政治的な話を、全てうまくかわして平凡な生活が出来る自信があるのか?王族はエゲツないぞ?おまえの弱みにつけ込んで、抜けられないように脅してくるからな」

「な、なんですか…そんな…事…」

「あるわけ無いと思うか?そう思っている時点で危険だ。とにかく、出来る限り王族に借りや恩を受けるな。もっと言うと、いくら親しいからって友達の家に居座るな。直ぐに出ろ」

うぐ。た、確かに。

「それは…そう…なんですけど…それについては、僕も自立しようと思っている所ですので…」

「ほう。良いじゃないか。では、こっちで用意しよう」

「ちょっ!先生?!お気遣い無く!僕、自分でやります!」

「何がお気遣いだ。おまえな。自分で勝手に決めて親に住んでる所を知らせないなんて、あると思うなよ?」

「だって!先生の言うのって教会ですよね?!僕、教会には関わりたく無いんです」

「………おまえが嫌なのは教会の何だ?」

緋色の目が私を凝視する。

「何って…」

「教皇様か?実父か?教会がおまえに何かしたのか?」

「…………」

「…おまえが、ナタルに言えて俺に言えないのは俺が教会に属するからか?」

「…そ、それは…」

「…それと…おまえ…」

先生が言葉を濁らせた。眉間を寄せてうかがうように沈黙した。

「な…なんですか?」

え。怖い。何?

「………。正直に言え。おまえ…何か…治らない病を患っているんだろ?」

真剣に聞く先生に、私は目が点になった。

「え?僕が?…いいえ」

なに?その重病説。どこから出たの?温室でサボってたから?…それにしても大げさじゃない?

「本当か?…すーぷーちゃん、隠さなくてもいいんだぞ?!」

そう言いながら先生の目は輝いて、私の肩を掴んだ。

な、なんなんですか?

「い、いや…隠すとかそういう事じゃなくて…別に…え。なんで僕が病気なんですか?」

タナトスが私の膝枕から聞いてきた。

「…ぷにぷに…あれは病気か?」

ちょおっと!?タナトス、まさか変な事言うんじゃ無いよ?!言わないでって言ったよね?!

「なんだ?!何かあるのか?それか?隠さずに言え!」

食いついてくる先生も何なの?!ほっといて下さい!!

「何もありません。僕はいたって健康ですので」

努めて冷静に否定した。タナトスが何か言いそうになったので、私はタナトスの背中を猫を撫でるように撫でた。

「…………」

すると、タナトスは口を閉じて満足そうに息を吐いた。

よし!!タナトスを黙らせるにはコレでいこう。

「そもそも、なんで僕が病気なんですか。僕が病気に見えますか?」

「……おまえ、温室で時間が無いとか言ってたな。あれはなんだ」

う。あ、あれか…。

「あれは…その…僕が問題ばかり起こすから…退学とかになるかも知れないし…?」

「…………すーぷーちゃん」

先生は前屈みに顔を覆って深い、深いため息を吐いた。

「…僕…いつかここを追い出されると思うし…」

ふと、先生が何かに気付いて足元に屈んだ。床から拾いあげたのは小さく折りたたんだ紙だ。

「……あ…」

そ、それは…ポケットに入れといたやつ!

先生は紙を開いて目を通すと、眉間にシワが寄った。

「…これは?」

それはナタル先輩が渡して来た紙だ。ハンカチを取り出す時に落ちたんだろう。

「…黒竜の教室に行った時に、ナタル先輩がそのメモでメルセデス先生が来るのを教えてくれました。間に合わなかったけど…」

その答えに、先生は納得したのか紙を机の上に置いた。

「…ナタルはおまえと話をしてから態度が変わったな?」

「え…そ、そうでしょうか…?」

こ、これは…また怒られる…?

「すーぷーちゃん…ナタルに言えて俺に言わない事があるのは、そんなに大事な事か?」

悲しそうにガッカリと落胆しながら言う先生に、申し訳なくて心が痛む。

「…先生…」

「おまえが何を隠しているのか、何を知られたくないと思っているのか、わからない…だがな、どんな事でもずっと隠し通してなんかいられない。そうだろ?それに…1人で抱えるよりも、相応の力を持つ人間が入った方が解決するだろ?」

「それは…無理です。…これは…《僕の問題》ですから…」

女を男に変えてくれます?無理でしょ?…無理なんですよ…。それに…デボラの件は、私の手で解決したい。…それが私の責任だから。

先生はガッカリしていた。どんなに聞いても答えない私に、きっと嫌気がさすだろう。

「……。俺はおまえに望まない未来を押し付ける気は無い。おまえが本気で平凡な生活を望むならば、俺が教会の間に入ってもいい。ただ将来、おまえの気が変わって望む道が変わってもいいように、可能性だけは残しておきたい。…それくらいはいいだろう?」

願うように言う先生は本気で心配してくれているのがわかる。先生自身が私に信じられなくても、先生が生徒を案じるその気持ちが、とても伝わってきた。

だからこそ嘘が辛かった。だって、先生が見ているのは白竜ハートのキングで混血の少年、スレイプニルだ。私じゃない。

「……先生…ごめんなさい…僕…」

お願い。親切にしないで…真実を言う事…それが…裏切る事になるのが辛くなる。

こんなお願いする方が酷い事だけど…。

「僕…その時が来たら…必ず先生に全部言います。だから…だから…待っていてくれませんか…?」

「……すーぷーちゃん…」

「…枕が湿る」

ムクリとタナトスが起き上がった。

「…湿ると寝づらい」

不満そうに訴えるタナトス。

「あ。…う、うん。わかったよ」

タナトスの我慢もそろそろ限界だろう。それを先生も感じたようだ。

「……。すーぷーちゃん。明日、タナトスへの時間が終わったらすぐに救護席に来なさい」

「え。…なぜですか?」

「おまえがなぜ治癒の法術が出来なかったのか、教えていなかっただろ。それを見せてやる」

「…ほ、ほんとですか?ありがとうございます!」

「それから、今後一切、黒竜の教室には灯り点けに行くな。他の奴を行かせろ。メルセデスには近付くな。話をするな。近寄って来たら逃げろ。あいつに無詠唱を見られたからには余計に気を付けろ」

「…は、はい…」

答える私の肩に手を置いて、先生は「…おまえが病で無いのが1番の朗報だ」と微笑んだ。

「…先生…」

その心底、ホッとした先生の様子に、心配をかけている事…気にかけてくれている事が嬉しかった。

「ぷにぷに…あの血は…」

タナトスの言葉に先生がすぐに反応した。

「血?なんだ?ケガか?どこだ?」

「ち、違うよね?タナトス?」

だから!余計な事は言うんじゃ無い!!

「すーぷーちゃん、おまえ…本当に…」

「全く問題ありません!!それについては全く!!タナトスが大げさなだけです」

「…枕、スペア無い」

「う、うん…だから、それをナタル先輩に調べてもらうからね。タナトス。…そろそろ寝ようか?」

私がそう言えば、タナトスはすっくと立ち上がり、私を脇に抱えた。

「え。ちょ…自分で歩くよ!」

「寝る。もう寝る」

ダメだ。こりゃ。タナトスも限界だ。

「せ、先生…すみません…今日はこれで失礼します」

タナトスに抱えられ、宙ぶらりんの態勢で断れば先生は頷いた。

「…イスを元に戻して行け。と言いたいところだが、その様子じゃ仕方無い…」

挨拶もそこそこに、私はタナトスに抱えられて医務室を後にした。



『僕…その時が来たら…必ず先生に全部言います。だから…だから…待っていてくれませんか…?』

辛そうに言った言葉に…待てと言われれば、待つしか無い。無理強いした所で好転はしないだろう。いやむしろ、より口を閉ざしかねない。

今は泳がせて様子をみよう…それに自ら言うと言っている以上…頭打ちになって困ったら、打ち明けてくるかも知れない。

しかし…気になるのは《その時》とはいつの事か?いつを目安にしてるんだ?

スレイプニルの知りたい事。それはナタルに頼むのだから魔法関連だろう。教会で言っていた自分は厄災だという言葉も重なれば…まず、間違いは無い。

推測するに…あいつは自らの魔法で、何か手痛い失敗をしている。それに実父が関わっているのかどうかだが…。

とりあえずは、大病を患っているわけでは無いのならば、それが一番何よりだ。

紛らわしい事を言いやがって!問題ばかり起こすから退学になるかもだと?そんなもの、せめてそうなってから言えよ!今、心配する事じゃないだろうが!

チラリと机の上に置いた紙に目をやった。ナタルの性格をそのまま示したようなキッチリとした筆跡で書かれたそれは『先生が来る 出直せ』の文言。

スレイプニルにあれだけ警戒して敵意を向けていたナタルが、たった一晩だけでスレイプニルを擁護するような言動と行動が見られるようになった。それは魔法が使えたからとか、白竜がどうという理由だけでは無い。アイツが気付いた何かがあるはずだ。それがわかれば…わかれば…。

「…………」

全然、わからん!!

「(…10代にわかって、なんで俺にわからないんだ…)」

その紙の言葉は、まるで10代だけが知り得る世界の文言のようで…悔しさに紙を握った。


「タナトス。ストーップ!」

私はタナトスに脇抱えで移動されていたが、部屋に着く前に声をかけた。

「僕、寝る前にトイレ行きたい!顔洗って、歯磨きもしたい。お願い!」

タナトスはため息を吐いた。それは「面倒くさい枕だ」と言わんばかりの。

「寝ると言った…」

「うん。スッキリ寝たいから」

「変わらない…」

「いや、変わるよ」

「もう、寝る…」

「…じゃあ、譲ってくれたら僕も寝る前にタナトスを浄化してあげる」

「………」

タナトスは少し考えて、私を降ろした。

「早くしろ…」

「うん。ありがとう」

えーと、先にトイレに行ってくるか…。

「…よし。じゃあ、いいかな?」

手早く寝る支度をしてベッドの上に座れば、同室のネイロスが何をするんだとばかりに胡乱な目を向けてきた。

タナトスは同じくベッドの上に座り、浄化を待っている。

「ぷにぷに…これを…浄化しろ…」

腕をめくり、塗りたてのような黒い模様を見せるタナトス。

「タナトス…それは魔法封じでしょ。今日封じられたばかりじゃん」

何言ってんのタナトス。

「窮屈…うざい…。秘密にするから、いらない」

えぇ?…秘密にするって…魔法を?

「えぇー…でも、僕、無理な気がするよ?…だってこれ、その道のプロの人が時間かけて封じたってメルセデス先生言ってたじゃん。ローズ先生だって、強い呪いは浄化出来ないって言ってたし…」

「やってみればいい…」

タナトスは腕を突き出して言った。

「えぇ?…いや…やるのは良いけどさ…。期待しないでよ…?」

私は渋々、引き受ける。

「おい。何をするんだ?」

側で見ていたネイロスが聞いてきた。

「今日タナトスが魔法封じをされたんだけど、それを浄化出来るのかって事」

タナトスの腕を見れば、手首から肘までびっしりと模様が刻まれている。

「…おい…それは…今日のあの範囲魔法を防ぐ為のものだろ?」

ネイロスがタナトスの腕を見て、眉をひそめて言った。

「大丈夫だよネイロス。僕が浄化出来るわけ無いじゃん」

いくらなんでも無理だよ。

私は笑って否定した。が、ネイロスは懐疑的だ。

「まぁ、でもダメ元でもやってみようかな」

どうせ、タナトスに6時間付き合わないといけないんだから、気力が切れて寝坊したっていい。

私はタナトスの腕の模様に触れて法術を高めていった。

「………うーん…」

あ。でも、やっぱり…この部分にいたっては、なんか…すんなり圧縮されていかない。なんか、跳ね返って力が逃げてる部分が多い感じがする…。

冷たくて固い金属のようなものに法術が阻止されているようなその感触は、圧縮を増せばそれが余計に強く反発する感じる。法力で力ずくで押そうにも、かたくななその感触に、私は即刻諦めた。

ふと、力を抜いたその時、少しだけ…ほんの少しだけ変化があったような気がして、気になった。

「(あ。もしかして…これ…そういうこと…?)」

ポツリと呟けば、説明を求める声がした。

「なんだ?どうかしたのか?」

いつのまにかネイロスが自分のベッドからすぐそばで見学していた。

「…タナトスのこれ…野良猫みたい」

「なに?猫?」

ネイロスは意味がわからない。と、眉をよせた。

私はタナトスの腕に刻まれた模様に沿って、法術を帯びた指で緩く撫でれば、黒い刻印は指に引き寄せられるようにわずかに浮いた。

これは…なんて言うか、警戒心のある野良猫を引き寄せるような感じだ。

焦って力押しで強引に行けば、逃げて強固に守りを固めるけれど、わずかな法術の温かさと光は、冷たくて固い刻印を引き寄せて…指で優しく撫でれば、わずかながら消しゴムで消すように薄くする事が出来た。

ただし、非常に根気がいる。イライラして法力を強めれば刻印は薄くなるどころかタナトスの腕に余計に張り付いていくだろうから、痛い所に軟膏を塗るみたいにわずかな力で少しずつ、浮かせて溶かす。

「…これ、精神的に地味に疲れる」

一気にバッと行きたくなる所を、抑えて抑えて細かく削る作業…嫌いじゃないけども!

「…しかし、確かに少し消えたな。全部消すのには相当な時間がかかりそうだが」

ネイロスの言葉にタナトスの腕を凝視する。確かに…このギッチリ刻まれた刻印を浮かして溶かす作業は、なかなか骨が折れるだろう。

するとタナトスは、パタリとベッドの横になった。

「タナトス?」

「…もう寝る…」

あ。タナトスが力尽きた。

「その辺でやめとけ。そいつは危険過ぎる。魔法封じは必要だ」

ネイロスもそう言って自分のベッドに戻って行った。

「……。もう少しだけやってもいい?」

むしろ、私の方がハマった。

「おまえ…馬鹿か?」

ネイロスが心底呆れたように言い放った。

「だって、中途半端で終わらせるのって気になるんだよ。しかも全然、キリのいいところじゃ無い!」

「馬鹿過ぎる。そんなチマチマしたもんにキリがいいも悪いも無いだろうが」

「いいや。あるの!特にこの部分!ここからここまではキリがいい!」

私はタナトスの腕を持ち上げて、部位を指で示してネイロスに力説した。

しかし、ネイロスは無言で光玉の照明受けの蓋を閉めた。部屋がまっ暗になる。

「あぁ!ネイロスー!」

「うるさい。寝ろ。見えなきゃ気にならないだろ」

う。確かに…いや、なんならオレンジの光玉を作って夜ふかししたっていいんだよね。そこまでして急ぐ必要は全く無いけど。

しかし、それを悩んだところで当のタナトスが私を抱えて眠りに入ったので、身動きが出来ない。仕方なく私も諦めて寝る事にした。



夢の中は、夢のようで夢じゃない。

身の周りは毎日平和だけど、世界は国が変われば紛争や理不尽が新聞やニュースを騒がしている。毎日同じようで全く違う1日。みんなが同じ制服を着て、授業を受けて…校庭には運動部の生徒が汗を流している。

不思議なもので、こっちで暮らしていると…どっちが夢か、わからなくなる。

魔法や仕法や法術は、おとぎ話の中の世界だ。

超文明はとても便利な生活。安全な社会。清潔で快適な暮らし。美味しい食べ物。多様な趣味。高度な文明…その全てが人間の理想だ。

けれど…電車の中で見る人々の顔は、どこか疲れている。

生活用品や便利な物はもとより、高価であってもある程度の欲しい物は望めば手に入る世界…それなのに…不自由なあちらの世界の住人の方が、活気のある暮らしをしている気がする…。

スマホや交通手段が充実してて、色んな人と簡単に繋がれて、会おうと思えば大抵はすぐに会える。話が出来る。そんな世界なのに…簡単な分、孤独な気がする…。

「(なんていうか…色んな物がたくさんあるだけに…目まぐるしく変わって、濃度が薄い…)」

物が無い世界では、不便で、色々足りなくて、色んな事一つとっても時間も労力も、いちいちたくさんかかる。

それに、庶民は貧しく無くても新しい物なんてなかなか手に入らないから、日常品でも何でも欠けたり破れたりしても何度も直して使う。

クタクタにくたびれた品物はカッコは悪い。それにあんまり使い古すと役不足にもなる。

でも、それでも手元にあるもの、持っている物、近くにいる人、出会った人を、長く、とても大事にする…。

「(…どっちがいいんだろう…)」

夕暮れの校舎。窓からオレンジ色の光を眺めながらそう思った。



カタリと音がして目を覚ませば、逆光に大きな背中が見えた。

「………ネイロス?」

声をかければ、短髪の薄金の髪が朝陽に光っていた。

「おまえ。今日も寝坊する気か?」

着替え終わったネイロスは、なぜか勝ち誇ったように言った。

「…残念でした。僕、今日は昼過ぎまでタナトスに付き合うって事で先生に許可もらってるんだ」

布団の中でまどろみながら答えれば、ネイロスはつまらなそうに言った。

「…チッ。なんだそれは」

「言っとくけど、僕だって、そんな時間まで自由じゃ無いから。お腹も減るし」

起きたいのに起きれない。動きたいのに動けないってのも、暇で辛いからね?

「そうかよ。せいぜい死神の枕に徹してる事だな」

ネイロスは言い捨ててあっさり部屋を出て行った。

「…………」

暇だ。

もそりと体を身じろぐと、タナトスが逃げないように抱えて来た。

「タナトス…逃げないから。離してくれない?」

「……断る」

な。なんだって?

「…あ。そうだ。タナトス、腕。腕貸して」

私の意図に気付いて、タナトスは素直に抱えていた腕を解いた。

「………」

タナトスの腕の袖をめくって、私は昨夜の続きをして暇を潰す事にした。

寝ながら本を読むように、タナトスの横に伸ばされた腕を浄化していく。

タナトスは寝てられるし、私の暇は潰せるし、良いんじゃない?

コツコツと淡い法術で模様を浮かせて溶かす作業は、手芸のような感覚だ。チマチマと進めていけば、その感触はタナトスも不快じゃ無いようで、ウトウトとまどろんでいる。

ひたすら浮かせて溶かす。温かい法術の淡い光はタナトスに張り付いた黒い刻印を少しずつ削り、やがて模様の一部…文字に例えたら1文を完全に消した。これでも10分の1くらいだけど。

その進捗にキリが良くホッとした時、タナトスの手がグッと握られた。

「わっ!」

すると、タナトスが再びしがみついてきたから私は支えきれなくて突っ伏した。

「な、なに?どうしたの?」

「…魔法…少し戻った…」

お気に入りのぬいぐるみを抱えるようにして呟いたタナトス。

「あ…そう。それは良かったね…」

抑揚無く言うタナトスだけど、もし、タナトスが本当に大型犬なら、尻尾を振っていたかも知れない。

しかし、犬と違うのは…自分より大きくて賢くて力があると言う所だ。

「タナトス…ちょっと…苦しいから、離して…?」

「…ぷにぷに。ウチに来い。望む物をやる…」

頭上で聞こえる声は、ごく普通の青年の声だ。誰もが恐れる死神では無くて、普通の。気だるい呟き。

えぇ?またリクルートなの?タナトス。

「タナトス…僕、ずっと側にいるわけにはいかないんだよ」

一日中、寝てろって言われたらツラい。

「……枕…スペア無い…」

「……。きっと見つかるよ…」

そう言って腕を伸ばして背中をさすればタナトスの力は抜けた。

さて…このまま昼過ぎまでじっとしてるのも辛いな…タナトスの魔法封じの浄化もちょっと飽きた。ちまちました法術をした後だし…ここはひとつ…

「タナトス、僕、君を浄化して寝るね。今からしたら多分、時間までに起きれると思うから」

言うが早いか私は寝転がったまま法術を圧縮して、ちまちまで溜まっていた法術の鬱憤を存分に発散した。

パンッと黄金の輝きが弾けてタナトスを包むと、私はストンと寝落ちした。



体の芯から温まり、全身を縛る倦怠感や、不快感がスーっと溶けていく感覚に頭の中の濃い霧が少しだけ和らいだ。

ラクになった身体で、枕を見れば予告通りに気力が切れて昏睡していた。

望む物をくれてやると言っても、枕はなかなか手に入らない。

スペアが見つかる?本当に?

浄化が出来て、魔法封じを消して、ぽてちを作って、心地よい眠気が訪れる良い匂いがする枕の代わりが?

『ずっと側にいるわけにはいかないんだよ』

その言葉に不安になる。枕が無くなったらどうする?死活問題だ。

また冷たい夜をあてもなく彷徨う。幻覚か現実か、アルカティアの亡霊がしつこく張り付いてくる。

薬で抑えた耐えられる程度の頭痛に、永劫に続くかのような虚無感。無為な時間…。

温められたはずの身体が冷えた気がした。

いつも冷たい指で枕の頬に触れれば、ためらうほどに温かくてやっぱりぷにぷにしていた。

「…スペアは無い」

ため息と共に呟いて枕を抱えると、良い匂いがしてその頬を舐めても甘い味はしなかった。

この匂いはなんだ?甘いようで甘いわけじゃない。どこからする匂いなのかもわからない。捉えどころがないのは、枕そのものなのかも知れない。

ただ、その温もりも匂いもそこにある。抱えて目を閉じれば闇に溶けるような心地良い自我の喪失が束の間、訪れる。心から望むのは深い深い闇。完全なる思考の停止。死に近い活動の停止。

ああ…でも、あと少し…何かが足らない…何か…もっと…。

足りない物を引き出すように枕のあちこちに触れても、枕はぷにぷにしてるという事実を確認して終わった。



再び目を開けた時、口に違和感があって手で拭えばタナトスの手があった。

「…………」

邪魔。何これ?…タナトス…狭いんだから…いや、私か?…寝ぼけた?でも、気力切れの時は普通の時と違って夢も違うし…

戸惑っていると、退かしたタナトスの手が再び私の口をぷにぷにとつまんだ。

「…タニャトフ…」

何すんの…あ。ちょっとまさか…!?

慌てて身を大きくよじると、ベッドからボロっと自ら落ちた。

「ちょっと!タナトス!」

立ち上がり横になったままのタナトスを見れば、「なにか?」と言ったような感じで動きを止めていた。

「まさかと思うけど…僕が気力切れだからって…好き勝手してないよね?!」

タナトスは寝ながら首を傾げた。

なに、これどっち?「何のこと?」って言うよりは「それが何か?」って事?!

「……。タナトスくん…僕が意識の無いうちに、あちこち触りませんでしたか…?」

丁寧に聞き直せばコクリと頷いた。

え。これもどっち?YESかNOかどっちなの?!ちゃんと言葉で言ってよ。

判断に迷っているとタナトスがムクリと起き上がって言った。その言葉は浄化の後のせいかハッキリしてる。

「別にどっちでも良いだろ。減るもんじゃ無い」

はぁ?!…はぁああ?!

「いや!減るから!!」

「減らない。ぷにぷには相変わらず、ぷにぷにだった」

やめろーーーーー!!

私は頭を抱えた。

「タナトスー!!だから!言ったよね?!触るんじゃないって!!」

「なぜ?」

「なぜって、そういうもんなの!普通は触らないの!触ったらダメなの!」

あ。顔が赤くなってきた。

「触ってる奴いる」

タナトスは平然と異議を申し立てた。

「は?!誰だよ!?それ誰の事?!」

「酒場やクラブに行くと平気で触ってる。それに、女も触ってくる」

「なっ?!」

ちょおっとー?!タナトス!君、ドコに出入りしてるのかな?!不良か?!不良なのか!?

「そ、それダメなお店でしょ?!なんでそんなトコ行ってるの?!」

「…枕の代わりになるのがあるかと思った」

え、えぇ…?なんでそんな所に…あ。まぁ…枕になるくらい至近距離じゃないとわからないって事…?

「…タナトス…そこは…風紀がよろしくない場所で…普通は…触らないもんなんだよ…?」

「なぜ?」

なっ?!なぜ?!なぜを今更?!聞く?それ。曲がりなりにも女子に対して聞く?

「あ、あのねぇ…わかるよね?恋人や夫婦じゃない限り、普通は好き勝手に触ったりしないもんなの!」

少しは遠慮しなさいよ!と言うか、わかるでしょーが!!

「……。別に契約しなくても男女で交わる奴なんて大勢いる」

「!!」

な!なんだって?

「相手を気に入ったならば勝手にやったらいい」

何を?!ちょ!!これ以上、この会話ムリ!!平然と言うタナトスに、なんでこっちばっかり焦ってんの?!

タナトスの言うように、なんて事ない。と言い捨てるのは、とてもじゃないがムリ。理解不能だった。

「僕は違う!!絶対に違う!!そんなのあり得ないから!!」

「ぷにぷには違う?…枕なのに?」

タナトスの呟きに、苛立った。と、同時にショックだった。

枕…そう、私はタナトスにとって眠気が来るってだけの枕だ。枕に個人の権利や配慮はいらないだろう。

「僕は…人間だよ!勝手に嫌な事をされたら不快になるんだ!」

タナトスは大人しく聞いている。

「…じゃあ、どうしたらいい?」

え。どうしたら?

「…なに?それ?どういうこと?」

「どうしたら好きに出来る?」

「………………」

あ。やだ。思考が止まっちゃった。あはは。

もー!!話にならない!!

「…タナトス。僕、着替えるから出てって」

大きくため息を吐いて指示すれば、タナトスはベッドの上で頷いた。

「それでいいのか?」

「は??そんなわけないでしょうが!!もういいよ!!僕が出るから!」

私は着替えを引っ掴むと、タナトスを置いて部屋を出た。



「…………」

枕に、同意を求めるためには何が必要か問えば、答えたものではダメだと言う。

そもそも、触るのはそんなにダメな事か?法術が失われるわけでもないのに…。

減ると言っていたのは何のことなのか。触られるのが嫌なのは痛いからか?しかし、全部が全部、痛いとは違うだろう。

枕が固ければ触らない。臭いなら嗅がない。そうじゃない物が近くにあれば…触るだろ。

望む物を与えると言っても、首を縦に振らない枕…。何が足りないのか…?

「…意味がわからない…」

タナトスはパタリとベッドに横になった。とは言え、枕が無い今、眠気が訪れる事など無かった。



信じらんない!以前から馴れ馴れしいと思っていたけど、減るもんじゃ無いって何それ?!「相手を気に入ったなら、勝手にやればいい」って何?!「枕なのに?」って何?!…枕の分際でって事?!

「(………それ…枕の分際で…って思ってるの…?)」

それはひどく…悲しかった。

友達だと思っていたのは私だけで…タナトスにとっては、ただの都合のいい枕だったんだ…。

沈鬱の気持ちでトイレで身支度すれば、昨日洗った白いローブがフワリとかすかにラベンダーの香りがした。

ああ。癒される…。やっぱり香り付けしといて良かった…メンテナンス中だから余計に気持ちが沈むんだろうか…。

「…ローズ先生んとこ行かなくちゃ」

タナトスへの時間が終わったら、救護席に来いって言っていた。法術が出来ない理由を教えてくれるって。

時間は昼過ぎた2時くらいだ。もうとっくに午後の模擬戦が始まっているだろう。

生徒は全員、模擬戦見学だ。ひと気のない校舎から模擬戦会場に向かえば今日も生徒の他、見学希望の市民がたくさん入っていて賑わっている。

…いや、心なしか…一般観覧席は昨日よりも多い気が…するけど…?

フィールドが見やすいようにすり鉢状の傾斜に設けられた一般観客席は満員の為、立ち見をしている市民も多い。

観客は皆、フィールドを注視している。その後ろや横を縫うように抜けて通れば、ズドン!!という大きな音と共に、ワッ!と大きな歓声がおこった。

びっくりした…。何だろう…全然、見えない。

救護席はフィールドと高低差は無いため、立ち見をしている観客に遮られこの身長じゃ全く見えない。

救護席に近付くと、そこは席と言いながらも実際には大きな天幕が張られた救護所だ。

大きく開かれた入り口から中を覗けば横たわる複数の生徒や、手当を受けている生徒。彼らに白い法衣を着た教会の法術師が付き添いながら、皆が慌ただしく動いていた。

…な、なんか…声かけにくい…。

入り口で戸惑っていると、

「退いて!重傷者入ります!」

と、大きな声がして目の前を担架に載せられた大きな体が通り過ぎていく。

その体は、グッタリと力なく全身が赤黒く焼けただれていた。そして、まるで火事の中から救出されたように人の体から煙まで立ち上っていた。人間の体から煙が立つのを見たのは衝撃的だった。焦げて焼けた服は上半身が大きく損なわれていて剥き出しの皮膚はペンキでも塗ったように真っ赤だ。

その煤けた顔に、薄金の短髪は…

「ネイロス?!」

運び込まれるその姿を追って入れば、遮る手に止められた。

「誰だ?…1年生か?何しに来た?」

顔を向ければ、知らない青年だった。

「あの!僕!ネイロスの…」

えっと…ネイロスの何だろう…同室ですって言うのも、それだけだしな…。

でも、ネイロスがもし弟のロスなら…いや、それだけじゃない!ネイロスは私を励ましてくれた。不器用で言葉や態度は悪いけど、すごく良い人なんだ!!…でも、どう言えばいいんだろう?

戸惑っていると、青年が私の階級章に気が付いた。

「おまえ…ハートのキングか」

そう言うと、その人は「こっちだ」と私を案内した。

慌ただしい大きな天幕の中で、一足先に運び込まれたネイロスの周りにはたくさんの法術師が取り囲んでいた。患部を水で流し、焼けた衣服をピンセットで丁寧に剥がしている。

「…先生。来ました。ハートのキングです」

その中で赤毛のゴージャスな美女…じゃなかった。ローズ先生は私を見て、苦笑した。

「あの…」

先生、な、なんですか?

「…どうにも、おまえとネイロスは縁があるんだな」

それは…私とネイロスがほぼ一緒に入って来たからだろうか。それともネイロスが倒れた時に居合わせるから?

「ネイロス、大丈夫ですか?!…うわ…」

恐る恐る近付けば、意識を失ったネイロスはやっぱりひどい状況だ。焼けただれた皮膚はあちこちで剥がれ真っ赤な肉が見えている。体のあちこちに張り付いてペラペラしているものは服の断片だと思ったら、ネイロスの剥がれかけた皮膚だ。

…これ…ヒドい…。

「おまえが治してやれ」

その言葉に驚いて、先生を見上げた。

「僕が!?でも…」

「ためらっている時間が惜しいだろ」

そう促され、ネイロスに向き合えば意識を失ってもなお、ネイロスは苦痛に顔を歪めていた。

ネイロス…今朝、朝陽に光っていた薄金の髪まで焦げてる…焼けて剥けた皮膚のこの傷に触れる事すら痛いだろうな…。

先生に教えてもらった治癒の法術。私はネイロスに向けて手をかざした。

本当に…本当に、出来る?

法術の高まりが手のひらに集まって…いつもなら霧散する時間を過ぎても、その輝きは煌々とネイロスに触れた所にとどまった。

光が…消えない。

それを見てナタル先輩におこなった浄化を思い出した。

悪夢の魔法の炎を手で払い、体を法術の光で包んだんだ。

私はネイロスのひどい火傷に触れていった。触れた場所に光を留めて、治したい場所に触れていく。

ネイロスの体全体が淡い光を放った所で私は言霊を紡いだ。

『願わくば…慈悲の心に癒しの力を与え給え』

淡く光っていた光が、言霊によって発動して膨張すると一転して染み込むようにネイロスの体に溶けていった。

お願い!効いて!

光が溶けた先でネイロスの皮膚は早送りするようにみるみるうちに再生し、きれいに復元されていく。

「…効いてる…」

これ、確かに効いてるよね?!

やがて横たわったネイロスの体は、全く遜色なく治りその痕跡すら見えない。苦痛に歪んでいた顔も眠っているように穏やかになった。

「…う…」

ネイロスの反応にその顔を覗き込んで声をかけた。

「ネイロス…?大丈夫…?」

ネイロスは薄っすらと目を開けると、眉をしかめた。

「……誰だ…?」

あれ。デジャブ。でも、ネイロス、ナタル先輩と違って目が悪くなかったよね?

「ネイロス…痛いとこある?」

ネイロスは横たわったまま瞬いた。

「…なんだ。おまえか……。…いや…。痛くは無い」

痛く無い?…と、言う事は…。

私は先生を振り返った。

「先生!出来ました!!」

浄化に続き、治癒も出来た!!出来たんだ!!

「…すーぷーちゃん…」

しかし、先生はイマイチ微妙な顔をしていた。それは困ったような嬉しいような?半笑いと言うか…。

何故に?!何が?!

「え…なんですか?」

え。何か?違う?…ダメだった?

「…おい。コレは…どうするんだ?」

ネイロスが身を起こして戸惑いながら言ってきた。目を向ければネイロスの体…1番ひどかった右腕にチカチカとした細かな光が残って、目立っている。

「え。あれ?…まだ残ってるの?」

なんで消えてないの?これ?

手で払っても、光は張り付いている。

「すーぷーちゃん…それは」

背後で先生が何かを言いかけていたけど、砂のような小さな無数の輝きにロウソクを吹き消すように息をかければ、光の粒はフワリと飛んで霧散した。

「…よし!」

消えた。

「よし。じゃない」

ゴスッと、頭に先生の拳が落ちた。

「いだ!」

いや、これは痛いというか単純に重い。振り下ろされた拳をそのままを頭に受けた感じだ。威力は低い。けど、重い。

「な、な、なんですか!?僕、間違えてますか?」

驚いて振り返れば、相変わらず微妙な顔の先生と、法衣を来た青年達が驚いた顔でこちらを凝視していた。

「まず、人の話はきちんと聞いてから行動しろ」

「え。あ。はい…なんでしたか?」

ローズ先生に今更に問えば、先生は軽く息を吐いて苦笑した。

「…まぁ、それはあとでキッチリ教えてやる。今は、おまえが治癒の法術が完成した事を祝おう。良かったな。スレイプニル。おまえは今日から法術師だ」

嬉しそうに笑う先生。その女神様スマイルを心に刻み脳内でその言葉を反芻した。

治癒の法術が…出来た…今日から…法術師…。

やっぱり、出来た。そう…そうだよね!治癒の法術が出来たって事はそうなんだ!私に、誰かを救う力が出来た!それって…それって…スゴイ!!

「本当に?!本当にそうですか?!」

何度でも確認しちゃう。やっぱりダメでしたとかにならない?!

「ああ。大丈夫だ。後は…力加減の調節だな」

うわぁ!うわぁ!本当に?!

背後でネイロスの意外そうな声がした。

「…なんだ。おまえが治したのか?」

ネイロスがそう言ったから、不満なのかと目を向ければ、ネイロスは…

「そうか。良くやった」

そう言って口端を上げて笑った。

ネイロスが…笑った!

爽やかじゃないけど、朗らかじゃないけど、でも確実に…ネイロスが笑った!

凄い!あのネイロスが!いつも怒ってるネイロスが!!

「うわぁ!!ネイロスー!ありがとー!!」

私は嬉しくなってネイロスにしがみついた。

「お、おい。やめろ。…離れろ」

「すーぷーちゃん…なんでそっちなんだ…」

迷惑そうなネイロスの声が頭上でして、不満そうなローズ先生の声が背後で聞こえた。

「先生!ネイロスが笑ったんです!凄くないですか?!」

これはもう記念すべき事だと思うんだけど!

私はネイロスから離れてローズ先生を仰ぎ見た。

「…いや…別に…」

しかし、先生は特別そうは思っていないようだ。むしろ、だからなんだ。と言わんばかり。

「これも先生のおかげです!僕、誰かを救う事が出来るようになりました!」

めちゃくちゃ、スゴーイ!!やったね!!

先生の白衣の裾を握り締めながら私は興奮して左右に振った。

「そうか。そうだな。うん。落ち着け、すーぷーちゃん」

「えへへー。僕、凄く嬉しいです!でも、なんでですか?!どうして急に出来るようになったんでしょうか?」



キッラキラに黒い目を輝かせて興奮するスレイプニルは、ボール遊びを楽しむ犬のようだ。服の裾をくわえて…(いや、コイツの場合は掴んでだが)興奮して引っ張る姿なんて特に。

やれやれ…全く…。夢中になると周りが見えなくなる奴だ。

スレイプニルの治癒は、一発で重症のネイロスを治癒させた。

普通ならばその手の平の範囲内を治癒するため、何度も必要になる言霊を…法力の光を、保留状態に留めておいて複数を同時に、一気に発動させたのだ。

これは…もう、誰が教えたというよりも本人のセンスだ。ナタルの悪夢の浄化をヒントにしたんだろう。

これが治癒が出来ないと悩んでいた奴だとは…本当にコイツは…極端だな。

ネイロスの腕に残った光の残渣は治癒してなお余った法力の光だ。それを吹き飛ばすとは…吹き飛ばせるのを初めて知った。

見ていた周りの法術師達も、学生…しかも1年生がそれをしたという事に、驚愕し、動揺していた。

これで目立ちたく無いって言うんだから、ことごとく性格と実力が合わさらない奴だな、おまえは。

「…ネイロス、大丈夫か?派手に魔法を食らったな。おまえは無理は禁物だと言っただろ」

身を起こしても、ややぼんやりしているネイロスに注意すれば、ネイロスは不服そうに目を背けた。

「……水をくれ」

ポツリと言うネイロスの言葉を聞いて、スレイプニルが「水ね!わかった!」と張り切ってその場を離れた。

「……子供(ガキ)か…あれは」

ネイロスは呆れたようにスレイプニルの背中を見送っていた。

「…ネイロス。模擬戦に張り切るのは良いが、命は粗末にするなよ?勇敢と無謀は違うだろ」

あのネイロスの様子では、炎の魔法の直撃を受けたのだろう。いくら護符で軽減出来るとは言え、あれほどの火傷はかなりの至近距離で受けたものだ。

「…あれでチームが勝てると思ったからこそ踏み込んだ。無謀では無い」

ネイロスは全く懲りていないようだ。

「おまえはすでに、二度目なんだぞ。少しは自重しろ」

「…俺の人生だ。俺が決める」

ネイロスのその口調では、他人の意見は求めていない。むしろ余計な事だ、という気配があった。

ローゼフォンはそんなネイロスから焦りのようなものを感じた。

ネイロスの家系は武人の家だ。親も兄弟も武に長けている。次男のネイロスには、長兄に早く追い付きたいのかも知れない。

そう思っていると、スレイプニルが水を持って戻って来た。

「ネイロス、水持って来たよ!」

ピッチャーで持って来た水と、コップ。コップに水を注いでネイロスに渡せば、カランと音がした。

「…氷…?」

コップを受け取ったネイロスは水に浮かんだ氷を眺めた。

「冷たくない方が良かった?常温が良ければ注ぎ直すよ?」

スレイプニルがネイロスの膝にご丁寧にも布巾を置きながら言った。

「…いや…」

戸惑うネイロス。それはそうだろう。

「…すーぷーちゃん。どこから氷を持って来たんだ?タナトスは魔法を封じられているだろ?」

というか、タナトスいないな。一緒じゃないのか?

「え?…えーと…そのっ…通りがかった…人に…?」

「…通りがかった…?」

模擬戦中に?誰だ。まさかメルセデスじゃないだろうな?

「大丈夫です。キレイな氷ですので!」

自信満々に言うスレイプニル。

いや、気になるのはそこじゃないんだが。

しかし、ネイロスは喉が渇いていたんだろう。構わず、すぐに飲み干すと、スレイプニルに無言でコップを突き出した。

「…あ、おかわり?」

察して手にしていたピッチャーから水を注ぐスレイプニル。

火傷で失われた水分を補うように冷えた水を飲み干すネイロスを見て、スレイプニルはピッチャーを置いた。

「ネイロス、水だけじゃ足りないんじゃない?…僕、塩と砂糖をもらってくるから待ってて」

なに?なんだって?

「すーぷーちゃん、塩と砂糖でどうする?」

今度は何だ。何をするって?

「脱水したら電解質が良いんです。僕、ちょっともらってきます。ネイロス、それまで水は待ってて」

言うが早いがスレイプニルは走って行った。

「…あいつは…なんだ?なに室だと?」

訝しむネイロスに、誰も答えられるわけもない…が、

「スレイプニルが何かを知っているらしい。毎度の事だが、さて、今度は何を持ってくるのか…」

本当にアイツは…見ていて飽きない。他の奴らもそうだろう。顔を見合わせては口々に何を持ってくるのかと、予想し合っている。

やがて急ぎ戻って来たスレイプニルに、皆が注目するのはその手に持って来たカゴの中身だ。

「ネイロス、今作るからね」

いそいそと、スレイプニルがカゴから取り出すのはオレンジだ。

「なんだ?何を作る気だ?すーぷーちゃん」

「本当はレモンが良かったんですけど、見当たらないからオレンジをもらいました」

言いながらスレイプニルは、机の上でオレンジを手の平で押しながら数回転がした。そしてカゴから小さいナイフを取り出して半分に切るとコップに絞り、砂糖と少量の塩、それに水を加えて混ぜた。

「はい」

渡されたそれをネイロスは眺めた。

「…なんだ?これは…」

「喉が渇いた時に補う塩分と糖分。あとビタミン」

「びたみん?」

「いいから。どうぞ。飲んでみて。ただの水より良いと思うよ?」

なんだ、ただ味を付けたかったのか?しかし、甘いなら甘いだけにした方が…

「…うまい。なんだこれ?…水より水だ」

ネイロスは意外そうにそう言うと、美味そうに飲んだ。

「水より水?…なんだ?どう言う事だ?」

「喉が渇いた時はほんの少しの塩気があった方が良いんです。でも塩っぱいだけじゃなくて、エネルギーとして砂糖も大事だし、疲れには酸っぱいのが良いんです。水だけだと、飲んでも飲んでも足りないと思うのは、そういう成分が足りないから…だと…本に…」

凝視された複数の視線に気付いてスレイプニルは語尾を濁した。

「…えっと…飲んでみます?」

周囲の空気を読んでスレイプニルがそう聞けば、周囲の方が「くれ」「どんなのだ?」と騒いだ。

その声に、スレイプニルが同じようにオレンジを机で転がす。

「それ、なんで転がすんだ?おまえのおまじないか?」

どうせ切って絞るんだろ?

「おまじない?いえ、えーと…これは、こうしてレモンやオレンジを転がすと中で繊維が崩れてより絞りやすくなるんです」

へぇ。と周囲も感心した。相変わらず、なにかと物知りな奴だな。

「塩が多過ぎると、逆に気持ち悪くなって吐いちゃうんで砂糖に対して塩はほんのりです。砂糖も甘過ぎると良くないです。サッパリして飲みやすくしたり、疲れに効果があるのはレモン汁ですが、今日は無かったのでオレンジで代用してます。しっかり味を付けるんじゃ無くて、基本は水って意識で加えるといいです。心配なら味見をしてから…はい。先生、出来ました」

簡単に手早く作ったそれをスレイプニルは手渡してきた。

一口、飲めばオレンジが薄っすら香り、甘くてわずかに塩っぱい。ぼやけていて、果汁を薄めた…いや、水に果汁を加えたような物足りなさだ。

「…これは…何というか…不思議な味だな」

周囲も同じ感想のようで意外そうに首を捻っている。

「元気な体には物足りないですけど、ネイロスみたいに喉が渇いた時には濃い味は不向きですから」

そう言ってスレイプニルは苦笑した。

「なるほど。確かに…」

そう言われれば的を得ている。濃い味では余計に口の中が重くなるだろう。

「ネイロス、まだ飲む?」

「いや。水は…飲んでも足りなかったのが、この一杯で落ち着いた。驚くほど染みる」

「ネイロスみたいに普段から運動して汗をかいた時にもいいんだよ。レモンがあれば試してみて」

そう微笑んで、スレイプニルは何かに気付いてネイロスの頭に手を伸ばした。

身構えるネイロスに「ちょっと、ジッとして」と頭に触れたスレイプニルはネイロスの短い髪を撫でた。

それは、無詠唱だ。

慌てて周囲を見れば、他の法術師はオレンジを転がして絞るのと、そうでない場合とを実証している者に注目していた。

おまえら…そこなのか?気になる所は。

さりげなくそいつらの視界を遮る場所に立てば騒がれることも無いだろう。

ネイロスの一部焦げて茶色くなった髪は、元の薄金に戻った。

「スレイプニル。無意識でもそれは気を付けろ」

すぐ背後で注意すれば、本当に無意識だったようだ。本人も意外そうだ。

「僕…汚れを払おうと思っただけなんですが…」

全く…。思った事がすぐに具現化してしまうというのは、無差別で困る。

ネイロスは自分の頭を撫で付けて、口端を上げた。

「…おまえの法術というのは、やはり他とは違うようだな。なるほど…確かにな。赤竜に来てデカイ事言うだけの程はある」

そして、立ち上がる。

「ネイロス?どこ行くの?」

「試合を見に行く」

「まだ安静にしていた方がいいぞ」

法術で治癒したとは言え、まだ体は安定していないだろう。

しかし、ネイロスは構わず去って行く。

「あ、ネイロス!まだ休んでなよ」

スレイプニルがネイロスの後を追おうとしたところで、そのローブのフードを掴んだ。

「すーぷーちゃん。おまえはここで治癒を復習しなさい」

「…え、あ…はい…」



それから、救護に来た生徒を治癒していけば問題なく治していく事が出来た。

ただ一つ。問題があるとすれば、どうしても患部に光が留まってしまう事…。

傷が癒えてもなお輝き続ける光は、まるで治癒が仕上がっても自信が無くてずっと居座っているようだ。

…これ…なんか…法術の力の加減と言うよりは…

「…まさか…癖が付いたんじゃないか…?」

ローズ先生が眉をしかめて呟いた。

「 クセ?」

先生は私を見て、眉を寄せる。

「…治癒法術を出来ないと思い込んだからか?それとも最初に媒介を使ったからか?」

先生が額を押さえ呟いた。

「…え。どうなんでしょうか?でも、僕、別に不満じゃないです」

最後にフッと吹き消せば消えるし、いいんじゃない?

私の言葉に先生は渋面だ。

「問題がありますか?」

「……………」

先生は言葉に詰まり、それから「まぁ、いい」と息を吐きながら諦めた。

「スレイプニル…おまえは治癒や浄化の法術が使えて嬉しいか?」

先生の質問は答えるまでも無い。

「はい!僕、すごく嬉しいです!先生、ありがとうございます!」

「おまえの法術のつまずきに答えを下さったのは、教皇様だ」

「…え…?」

「教皇様はおまえの法術の症状を知って、すぐに答えを下さった。おまえの法術は人よりも具現のプロセスが異常に早い。普通ならば、こうしたいという希望からイメージして、そのイメージにするにはどのくらいの法力で、どうしたらいいかを集中して練り上げて、法術を高めてそれから発動していく。だから途中でイメージが崩れれば法術は完成せずに霧散する。しかし、おまえの場合はイメージから具現が直に発動される。失敗してもキャンセルが間に合わないほどに早い。しかし治癒や浄化は目の前に患者がいて、それに対して治すイメージが必要だった。おまえの中で実際に患者がいないという事は、法術の具現に至らないという事だ」

「…それは…じゃあ…タナトスにだけ浄化が効いたのも…」

「実際にタナトスには浄化が必要だったからからだ。他の者に発動しなかったのは他の者が健康だったからだな」

「…はぁぁぁー…」

なるほどー。それは納得ー。

「だから…おまえは最初から出来ていたと言っていい」

「出来てた…あんなにうまくいかなかったのに…」

何度イメージしても霧散する光…それは目の前に必要な人がいないからなんて…。

「え。じゃあ…仮病にも効かないですしょうか?」

「………。知らん。こんな奴はおまえだけだからな」

先生は少し考えたけど、やがて考えても無駄だという感じで打ち切った。

「治癒の法術は一度習得すれば頻繁に使う事になる。だから余計な癖は無い方が良い。手間がその分増える事になるからな」

「へぇ…」

「だが、おまえはネイロスの広範囲の火傷を、法力を保留にしてから一気に発動する事で一度の言霊で済ませた」

「え…あ。あれもおかしな事ですか?」

「…保留で留めておく事が難しいと思うぞ。出来て二ヶ所までだろう」

「…そう…なんですか…僕…ナタル先輩でそうだったから…」

「だろうな。…すーぷーちゃん、浄化と治癒を完全に習得したな」

先生に真顔でそうお墨付きをもらえれば、ホッとして嬉しい。

次の言葉を聞くまでは。

「これでおまえは飛び級だ」

「…………え?はい?」

ドユコト?何?

「治癒も浄化も問題なく出来る。範囲回復も…おそらく同じ原理だろ。校舎丸ごとならその中で誰かケガをした奴がいたはずだ。それは後で検証しよう」

「え…あの…?」

「盗み見じゃなく、きちんと教えてやる。ただ、実際にケガ人が必要だから赤竜の訓練中が良いな」

「あの、先生…」

「範囲回復が成功すれば、2年の前期はクリアだ。あとは祓滅だな」

え。何それ?初めて聞いた。

「ふめつ…ってなんですか?」

「闇を祓う。法術師の法術は闇の眷属に対抗し得る。感覚としては光玉と、浄化が混ざった感じだ」

へぇぇぇーーー。どんなの?どんなの?

「先生…それ、ちょこっとだけ見せてくれませんか?」

「………」

先生は私を見て沈黙すると、

「全員、聞け!」

突然、救護席のテントで先生が周囲の法術師に呼びかけた。

何事かと、全員が手を止めて先生を注目する。

「コイツが祓滅を見せてくれと言ってきても、絶対に見せるな!以上」

えーーーーーー!?

「な!な!なんでですかぁ?!」

思わず先生の白衣の裾を掴んだ。

「すーぷーちゃん。おまえは実技が先行し過ぎて講義が追いついていない。本来、法術も魔法もきちんとした基礎を知ってから実技に入る。おまえのように一度他人のそれを見て真似る事がどれだけ危険か、わかるか?」

「…あ……はい」

そうだ…。確かにその通りだ。

「…焦るな。おまえはちゃんと出来るようになる」

確信を込めて言う先生に、私は素直に頷いた。


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