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眠りの神と夢見る子守唄  作者: 銀河 凛乎
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第18章 お前がどんなに願っても、人は知らないところで傷付くものだ。人ってのは勝手に期待して、勝手に失望する

「僕は…争いは嫌いです。ですが、赤竜には面子があるそうなので…僕が勝ったら今後、僕や白竜に争いをしないで欲しいとお願いしました」

あっさりと言うスレイプニルに、クストや白竜の3年生は眉を寄せた。

「それで…おまえ…まさか…」

「はい。勝ちました」

ケロリと言う少年にクストは耳を疑った。

「俺、確認してくる!」

アレクが動いた。運動場には赤竜が残っているだろう。

「すーぷー…おまえ…ケガはないのか?」

昨日と打って変わって、スレイプニルの身なりは整っている。ローブも汚れ1つ付いていない。

「はい。秒で勝ちましたので」

「…………は?」

勝った?しかも、無傷で?さらに瞬殺?…この目の前の未成熟な少年が?

「それよりも!!僕、今朝、ローズ先生に治癒の法術を3年生から習っていいって言われたんです!という訳でラング先輩!よろしくお願いします!!」

目を輝かせてラグの手を取るスレイプニル。

「…え。なんで俺?」

当のラグも困惑している。

「はい。クスト先輩だと、習得前に僕の首がもげそうなので」

「すーぷー…おまえ…俺がいつお前の首をもいだ…?」

コイツは…毎回、散々人に気を揉ませといて…。

「うわぁ!そういう所です!先輩!すぐ僕の首締めるからぁ!」

スレイプニルは涙目でラグの後ろに隠れた。

「…おまえなぁ…」

締めるつもりは無い。 そんな細い首でよくあのネイロスに勝てたな…。本当か知らんが。

「…クスト!!マジだ!!」

アレクが慌てて戻って来た。

「赤竜が詫び入れてきた!!」

その言葉に全員が驚愕し、ラグの後ろに隠れていた少年を見た。

「誰もケガはしてませんよ?僕は争いは嫌いです。和睦協調。共存共栄ですよね」

エヘ。と笑うコイツは…本当に何者だ?

スレイプニルがラグのローブを引いた。

「先輩。という事で、赤竜はもうこちらに構いませんので、法術教えてくれません?」

ワクワクした顔でラグにお願いする姿は、ほぼ女子供だ。

「え…まぁ…」

断る理由は無い…はずだったのだが、次の言葉で一変した。

「タナトスも法術に興味があるんで、一緒に勉強していいですか?!」

「は?!」

あ。ラグが固まった。珍しい。

「ダメですかー?先輩、タナトスも興味があるなんて珍しくないですか?ここはぜひ!親睦を」

ラグは青くなって首を振った。

あーあー。あんなラグ、見たことねぇ。

「では、他の先輩…」

スレイプニルが視線を向ければ、そこにいた3年全員が身を引いて首を振った。

無理もない。黒竜で、しかもあのタナトスだろ?近寄るのもごめんだ。

「…クスト先輩…」

「おまえ…俺が教えると首がもげるんだろ。それに…おまえはともかく、黒竜に教える道理は無い。タナトスは断れ。そしたら親切丁寧に教えてやる」

ショボーーーンとスレイプニルの顔が沈んだ。

「…じゃあ…改めます…」

スレイプニルはラグのローブを離すと几帳面にそのシワを払って、足早にデッキブラシを取りに行く。

デッキブラシのその側にはタナトスが待っていた。

ブラシを拾い上げ、スレイプニルはこちらを振り返らずにタナトスと去って行く。

並んで歩く白と黒に違和感を覚えるのは俺だけじゃない。ラグが危機感を持って声をかけてきた。

「……クスト…あいつ…」

「ああ…。黒に懐き過ぎだ…」

白と黒は表裏一体だが…同時に存在はしない。

後輩1人、面倒をみるのはやぶさかじゃ無い。しかもハートのキングだ。タナトスを諦めたらハートのキングに関わりたい奴らばかりなのに、いくら番犬とは言え、あいつは何だかんだ言ってタナトスにいつも最も近い。


「ねぇ、タナトス。タナトスは学校出たらどうするの?」

「……どうもしない……」

デッキブラシを手に厨房を目指す。その途中、隣を歩くタナトスに何気なく聞いてみた。

「え?どうもしないって…やりたい事とか、やらなきゃいけない事はないの?」

「………眠りたい……」

「あ、ああ…そうだね。そうだったね…」

万年寝不足って…すごく辛いだろうな…。

「じゃあ、もし、もしさ、熟睡出来たらどう?」

「……そんな事は…あり得ない…」

「わからないよ?…そのうち、熟睡出来る日があるかもしれない」

タナトスは、鼻で笑った。

「僕は…治癒と浄化の法術を覚えて…調べ物の目星がついたら…もう、ここにはいないかも知れない…」

「…………」

タナトスは黙っていた。

「元々、このスレイプニルっていう存在は…偽物だから…いつかは正される事になる…それが、明日か明後日かその先か…わからないけど…でも、その前に君を熟睡させてあげれたらいいなぁ」

「……ぷにぷに…」

「ちょっと!!人がせっかく力になるって言ってんのに!!悪口言うんじゃないの!」

私はデッキブラシでタナトスを狙った。

「…悪口違う…」

タナトスは私のデッキブラシを全て余裕で避けている。

…寝不足なのに…なんでこんなに身軽なんだ…。


「なんだ。返しに来たのか?」

厨房にデッキブラシを戻しに行ったら、意外そうにそう言われた。

「はい。お借りしただけなので…」

「もともと、間違えて買ったやつなんだ。本当はモップが必要でな」

「モップ…ああ。まぁ、似てますしね」

「柄も短めだから腰が疲れるんだ」

「…そうですか?僕にはちょうどいいんですけど」

「気に入ったなら持って行っていいぞ」

「え…あ。じゃあ…頂きます。ありがとうございます」

いいのかな?ほぼ新品みたいなんだけど…。

「(…まぁ…良いっていうなら)」

うん。じゃあ、名前を付けてあげよう。何がいいかな…うーーん…じゃあ、和睦の記念で…

「うん。決めた。君は今日から和睦のむつみちゃんだね」

後日、私はデッキブラシに日本語で《和睦》と彫り込んだ。

「…?…」

タナトスは物に名前を付ける私を不思議そうにみていた。

「あー…お腹減った…」

昨日は補習と果たし状で食欲が無かったけど、いざ終わってみれば何とかなって良かった。

昼休みの時間はもうあんまりないけど、食べ損ねなくて良かった。

適当につまんでいた昼ごはん。隣のタナトスも無言で食べている。

「……ニル。おーい。…」

「ん?」

少し離れた所で、ニックとロンがこちらを見ている。

「どしたの?」

その場で聞いても、ニックとロンは顔を見合わせている。

私はタナトスとは反対の隣のイスを引いて、どうぞ?と笑顔で進めた。

「ぇぇ…マジで?…」

うん。マジで。

それでもためらう2人にデッキブラシをチラつかせる。

「え?何それ?」

好奇心に負けてニックとロンはタナトスを警戒しながらも近付いて、勧めた席では無いがタナトスと離れた反対側の斜め向かいの席に座った。

「厨房に借りに行ったらもらえた。すごく使いやすいから名前も付けたよ。和睦のむつみちゃん」

「は?」

ニックは瞬いている。

「…なんで借りに行ったの?」

ロンが聞くので、「うん。果たし合いに」と答えれば、二人の目は驚き見開かれた。

「え?!本当に?!」

「マジで?!行ったのか?!」

「うん。食堂で先輩探してたら、赤竜のお迎えが来ちゃってさー」

「そ、それで!おまえ!大丈夫だったのかよ?!」

ニックがテーブルに身を乗り出して聞いて来た。食事の終わったタナトスは懐から薬を出して雑に口に放り込んでいる。

「うん。ちゃんと和睦結んできたよ」

「えええ?!どうやって?!」

ロンが青くなって聞く。

「お願いしてきたんだ。僕が勝ったら仲良くしようって」

「おま…そ、それで…?!」

「うん。勝ってきた」

「はぁぁぁぁ?!」

ニックは驚愕していた。ロンは絶句している。

「それよりさー…僕、3年生の先輩に治癒の法術、習おうと思ったら断られちゃったんだよね…」

「え。そうなのか?」

「うん。だから、ちょっと違うところで勉強しようかと思って…」

「違うところ…?」

「うん。2年生の先輩のところ」

「…はぁ…でも、邪魔にならないか?」

「うん。だからコソッと見て来る」



「スレイプニル!」

ローゼフォンは白竜の教室の扉を乱暴に開けた。

授業前の教室で、ロンとニックがニルの果たし合い話で大盛り上がりだった1年生は、ローゼフォンの剣幕に一様に驚き、沈黙して固まっている。しかし、その中に呼ばれたその者はいない。

「ニ、ニルなら…3年生が教えてくれなかったから別の所に行くって…」

ニックの言葉に、ローゼフォンは苛立った。

「どこだ?!」

「そ、その…2年生の授業を、コソっと見てくるって…」

ニックの言葉が終わらないうちに、ローゼフォンは2年生の教室に急いだ。


その少し前、クストがローゼフォンの元に駆け込んで来た。

「先生!あいつ、さっき赤竜のキング、ネイロス・ウィンナイトと果たし合いしたって知ってました?!」

クストの言葉は完全に寝耳に水だ。

「しかも、一人で赤竜全員と対峙して、デッキブラシでネイロスに勝って来たんです!」

目眩がする。どういう状況でそうなる?

「ケガ人は?スレイプニルの様子は?」

「いません。当事者も」

「当事者も?果たし合いで?」

「はい。アイツ…開始早々、ネイロスの後ろを取ったそうです」

「……。事実なのか…?」

「はい。赤竜の方から、今後、スレイプニル及び白竜には敬意を表する。と」

ため息が出た。結果が良かったからいいものを…なんて無謀な…。

「……それで?スレイプニルは今どこにいる?3年の自習室か?昼にはお前たちを探していたんじゃないのか?」

治癒の法術を習いたくて一目散に出て行ったくらいだ。

「それが…」

言いよどむクストにローゼフォンは次は何だ?と身構える。

「あいつ…法術をタナトスにも教えて欲しいっていうんですよ」

「…タナトスに?それは…」

無理だ。彼は白竜でない。

「はい。わかって言ってたと思います。あいつ、タナトスを白竜になじませようとしてる気がします。親睦とか言ってましたし…」

親睦…いや、生徒間での親睦は大事だが…タナトスを白竜に持ってくるのは真逆過ぎて強引だ…。

「先生、いくら黒竜対策でもアイツ、タナトスに偏ってきてませんか?」

「…なに?」

「俺たちが、タナトスがいるなら法術は教えられないって言ったら…あいつ、タナトスじゃなくて俺たちを諦めましたよ」

馬鹿な。タナトスは黒竜だろうが。なんでタナトスに合わせる?

「先生…俺…なんか…アイツがタナトスと仲良くしてんの不安なんだよな…引っ張られたら嫌だなって…」

「……黒竜にか?」

「いえ…そうじゃなくて…もっと…こう…帰って来れない所に…」

『……死にたいか…?』

あの地獄の底からの呼び声を聞いた者には、足元の下にすぐ死が待っているような既視感が容易くよみがえった。

「……そうか…」

ローゼフォンはクストの言葉を重く受け止めた。


ニックやクストの言葉にローゼフォンは、スレイプニルが治癒を教えて欲しいと言って来た時に、素直に引き受け無かった事を後悔していた。

もったいぶって先延ばしにすれば時間が稼げるかと思った。

そもそも…何のためにの時間稼ぎだ…そんな必要は無いのに…。

雛が空を飛びたがるならば、飛び方を教えるのが親の務めだ。羽毛で飛びたがれば、まだ早いと巣にとどめるのも必要だが、羽が揃っているのなら巣にとどめて何になる。

成長の度合いはそれぞれだが、雛はいずれ巣立っていく。ずっと手元に置いておくことなど出来ない。


2年生の授業は応用だ。1年の基礎で習った法術や知識をさらに発展させる。

光玉で言ったらより長持ちさせたり、大きさを変えたり、出せる数を増やす。治癒の法術で言ったら単体を複数に広げる。広げた分だけ回復値は劣るが戦況によっては範囲回復が役に立つ。もちろん、回復値や範囲は法術師の力量によって個人差が出るが。

今日の2年の授業は何だった?…光玉ならいいんだが…。

光玉の応用授業ならスレイプニルには今更で必要無い。いわば無害だ。問題は下手に治癒の法術の応用を最初に知った場合だ。

基礎も知らずに応用が効くはずも無い…しかし…アイツの事だ…。

何が起こるか検討もつかない。ローゼフォンは2年生の教室が微妙に遠い事を呪った。


昼休みが終わり、午後の授業が始まると私はタナトスと2年生の教室をそっと覗いた。

講師の先生は若いが普通のレムリア人だ。ローズ先生のように白衣を着ている。そう言えば、名前は知らないが白衣を着た大人は見たことがあった。あと1人か2人はいた気がする。

「では、午後からは午前中に説明した範囲回復を実践してみよう。最初の回復では、成功して2人以上回復させたら及第だ」

「(…タナトス、聞いた?範囲回復だって。まとめて治癒出来ちゃうなんてすごくない?)」

私はワクワクした。タナトスは無言で見ている。

2年生の先生は、机をどかした教室の真ん中へ生徒を数人呼ぶと午前中に説明したのであろう理論と法術の組み立てをザッと通しで説明する。

「…見本は、こうだ」

先生が集中すると、法力が高まる。

『願わくば我に…傷付きし者達を癒す慈雨を与え給え』

イメージの発動を合図する言霊を発すれば、教室の中央に集められた生徒に光の雨が降りかかった。

「わぁ…」

「(お〜…スゴイ!なるほど、なるほど!)」

光の雨は生徒を濡らす事なく、触れればスッと溶け込んだ。

「では、やってみよう。最初は形だけでいい。流れを掴んでから法力を乗せるように意識しなさい」

「はい。先生」

「(はい!先生!)」

私はうずうずして、タナトスを見た。

「(ちょっと、やってみる!)」

「…範囲回復と…治癒は同じなのか…?」

タナトスは微妙な質問をした。

「(…わかんない。けど、治せるなら同じじゃない?とりあえず、やってみたい)」

タナトスはコクリと頷いた。

今、見た講師の先生の通り、トレースしてみる。今はデッキブラシ…和睦のむつみちゃんが手元にあるからやりやすい。

法力を集中させる。

『…願わくば我に…傷付きし者達を癒す慈雨を与え給え…』

デッキブラシのむつみちゃんの柄でカン…カン…と、うち鳴らせば、私の足元から白い光が、水をこぼしたようにサーッと広がっていく。その広がりは…

あれ…ちょっと…え…どこまでいくの…?


その日、校舎で午後の授業を受けていた生徒と講師は突然、光の雨に降られた。

講師と2、3年生はそれが範囲回復だとわかった。しかし、廊下を見ても外を見ても術者が見当たらない。

1年生は室内に降り注ぐ光の雨に驚き、触れても濡れない現象に戸惑いながらも面白がった。

光の雨は、触れればささくれや切り傷、かすり傷というわずかな傷を消した。そして、何より、触れた後から穏やかな気持ちになった。新しい事にワクワクするような少しの高揚を残して。


ローゼフォンはあと少しの所で、廊下に広がっていく光のさざ波を見た瞬間、泣きたくなった。

それは楽しみに、大事に取っておいたものが、自分に関わる事なくあっさり終わってしまったような…そんな感覚だった。

その微弱ながらどこまで広がったかわからない光の雨に打たれながら階段を登りきり、2年生の教室の前で黒い番犬に白の雛がピーピー鳴いているのを発見した。

「…スレイプニル…」

呻くように名を呼べば…白いローブはビクリと体を揺らし、そろそろと青い顔を向けてきた。その手にはデッキブラシを抱えて、その柄を握りしめている。

「…ここで…何を…したのかな…」

いや、それはわかっている。わかっていても身の内の特別感の消失に、怒りと後悔が禁じ得ない。

「そ…それは…その…ちょっと…先輩達の授業の見学を…」

黒い目が泳ぎ、しどろもどろに答える少年。

「…ちょっと…?」

ちょっと見ただけで、これか?じゃあ、キチンと教えたらどうなるんだ?

法術師に限らず、術者にとって初めて術式が完成し発動することは、その後の成長に影響が出る。うまく基本通りに出来ればいいが、変にクセが残ると直すのは一生難しい。

その手に握っている異物はなんだ?!まさか最初から媒介を付けた訳じゃないだろうな?!治癒すら習得してないうちから範囲回復を発動させて、治癒の法術は大丈夫なんだろうな?!と言うか、媒介を付けるのをどこで習った!そんなのは習得して実戦からだろうが!しかも掃除道具だと?!こんだけ広範囲の無差別な範囲回復で法力はどれくらい消耗したんだ!

「…………」

言いたい事は山ほどあるが、山ほどあると逆に何から言うか言葉につまる。

スレイプニルは、デッキブラシを握ったまま涙目でうろたえている。

すると、2年生の教室の扉が開いて講師のシェダル・ツィーが顔を出した。まだ若いが、この学校のOBで元ダイヤのキングだ。

「…ローズ先生…先生でしたか。突然、教室に範囲回復が…」

不可思議な現象の原因がわかり、ホッとしたようなシェダルの顔に再び疑問が浮かんだ。

そもそもなぜ、ここに?授業は?なんで?え?黒竜?うわ!ジョーカー!…等々、シェダルが聞きたい事は手に取るようにわかる。すまん。

「邪魔をしたな。シェダル。説明は後でする」


ローズ先生はそう言うと不機嫌な様子でチラリと小さくなっている白竜の生徒を見た。

ああ。ハートのキングだ。すぐにわかった。入学初日から何かと騒ぎの絶えない生徒だ。あの青白い上に鳴く光玉を見た時は、震えた。その後のジョーカーの殺気にも文字通り震えたが。

ローズ先生は、ハートのキングからデッキブラシを奪うと、問答無用で彼を小脇に抱えてそのまま去って行った。それは、撤去という感じだった。その後を黒竜ジョーカーが、左右にウロウロとついて行く。

その死神の背中が「…あ。返して…枕…」と言っているようで、改めてローゼフォンその人の指導者の器を感じた。


突如、室内に降り注いだ光の雨が止むと…白竜の生徒達は何となく…いや、確実にそれが誰の仕業か、わかった。

3年生は慈雨の光がどこまで広がったか確認しに走り、2年生はワクワクとした気持ちになり、1年生は先生がえらい剣幕で探していたアイツに間に合わなかったんだな。と笑った。

そして、黒竜の教室では、メルセデスが興奮して授業は中断された。


やがて1年生白竜の教室の扉が開くと、ローズ先生だった。

「お!ニル!さっきのアレ、おまえだろ?!」

アッシュが嬉々として声をかければ、「それがさー…」と、ニルは合流するために教室の中に足を踏み入れる。

「おまえは別だ」

先生はそんなニルの襟首を掴んで、まるでタナトスのようにスレイプニルを小脇に抱えた。

皆が驚いた。あれは…奴の持ち運び方なのか?…まるで犬、猫…いや、枕のような…。

「問題が発生したため、自習とする」

そう言うと、先生は再び扉を閉めて枕…もとい、スレイプニルを抱えたまま去った。

「……あーあー…ありゃ、説教だな」

アッシュが苦笑した。

「どうして怒られるんだ?ニルは別に悪い事はしてないだろ?」

ロンの言葉に、アッシュは考える。

「…そうだな?…まぁ…強いて言うなら、授業妨害か?」

「ああ。なるほど」

「ってか、どこでやったんだ?2年生の教室って3階じゃなかったか?ここまで届くもんか?廊下にも降ってたし」

「そんなん知るか。俺はアイツじゃねぇ」

「ハートのキングって…改めてすげぇんだなぁー…ニルがあんなんだから俺、全然、そんな気がしないけど…」

ニックが改めてしみじみと呟いた。

「…ああ、認めるよ。…アイツは…スゲェ」

もう、すでに張り合う気にすらならないほどに。

「でもさー…俺、気付いたけど…ローズ先生見てると、面白いぞ」

ニックが笑いを堪えた。ロンがキョトンとして聞く。

「え?…何が?」

ニックは面白くて仕方ないと言わんばかりに答えた。

「ニルが新しいもの見つけて夢中になってるのを見る先生、完全にフラれた男になってるぞ」

揶揄したその言葉に、アッシュも、他の1年の生徒も何度か瞬き、次第に各自が思い当たるのか、「ああー…」と頷いた。

「確かに…夜を作ってた時は、つまらなそうにしてたな…」

「俺たちと光玉作ってる時、さみしそうじゃなかったか?」

「赤竜のキングと格闘してた時は、あんなに面白い試合だったのにショック受けてたなー」

「午前中、授業が終わってニルが即刻3年生の先輩探しに行った時なんか、先生めちゃくちゃ不機嫌そうな顔だったけど、あれ、嫉妬だよな?!」

1年の教室は爆笑に包まれた。


自習となった教室は得てして騒がしい。だが、進みの早い今年の1年生よりも、まずはコイツだ。

医務室でスレイプニルを降ろすと、座れと指示した。タナトスは医務室に来る前に諦めてどこかに行ってしまった。

スレイプニルはトボトボとイスに行き、座った。

デッキブラシを立てかけて、相対して座れば眉間のシワが深くなる。

「スレイプニル…」

「…はい…」

「お前、赤竜に果たし合いを申し込まれたのはいつだ?」

「……昨日、屋根から降りて…アイティールと話した後です…」

なに?じゃあ、昨日、ここで言えただろうが!

「……なぜ黙っていた?」

「それは…その時とは関係無い話でしたので…」

「関係無くないだろうが!!」

イラついて大声を上げれば、少年はビクリと震えた。

「…………はい」

消え入るような声で返事をする。

「あの赤竜と、しかもキングのネイロスと対峙して勝てる自信があったんだな?お前はいつも不安そうにしているくせに、酒を飲んで覚えていないと言いながら、ネイロスと戦うのが楽しみだったわけか!」

「それは…違います…僕は…誰とも…争いたくない…」

身を縮め、俯き答える少年の顔からポタリと水が落ちた。

「じゃあ、なぜ黙っていた?」

「…それは…あれは僕の責任だから…だから…誰かに迷惑はかけられないし…争わなくていい方法を考えたら…いいんじゃないかって…」

誰かに迷惑だと?…自分の責任だから1人で何とかする?…ああ、全く!なんでそうなんだ!

『…僕は…1人でも…大丈夫です…』

『…僕に…親切に…しないで…』

イラつく。コイツは本当に、白竜を、法術師をわかっていない。

「…スレイプニル…いいか、お前、問題が起こるとそうやって人を遠ざけようとするだろ?その癖は直せ」

ため息混じりに言えば、スレイプニルはうつむいたままだ。

「…でも…」

「でも、じゃない。じゃあ、聞くが、おまえには大事にしたい人や守りたい人はいるか?」

コクリと頷いた。

そうか、それは良かった。いないと言われたら続かないからな。

「逆の立場だったらどう思う?おまえに何も言わずにそいつが自分一人で思い悩んで危険な事をしたら?」

「…困ります…」

そうだ。わかったか。わかってるか…?

「困った上でどうする?なぜ言ってくれないのか?と思うだろ?一緒に解決したいのにって」

スレイプニルの顔が上がった。

「僕…アイティールにも同じ事、言われました…」

涙で濡れた黒い目が瞬いて、思い出したように言う。

「……そうか……」

そうだろうな!!いつも涼しい顔したアイツの苦労が少しばかりわかるぞ!今なら!…クソ!おまえら、思ってたより仲良いな!

「僕は…誰にも傷付いて欲しくない…」

無垢な少年の願いは甘い。甘過ぎだ。

「それは無理だ。お前がどんなに願っても、人は知らないところで傷付くものだ。人ってのは勝手に期待して、勝手に失望する」

「そんな…!!」

「だがな、人は傷付きながら強くなるんだ。痛みを知って優しくなれる。痛みを恐れていたら何も獲られない」

「…………」

「おまえが、何に怯えているのかは知らないが…少なくとも、お前が逆の立場になった時にどうだ?」

「…………」

スレイプニルは漆黒の目を伏せて真剣に考えている。

「…僕なら…驚くけど…気にしません。それは…選べるものじゃないから…。でも、そう思わない人が多いと思う…」

なんだ?なんの話だ?問題解決のための協力の話だっただろ。生い立ちか?

「…おまえは…仲間が、大事な人が、信じられないか?クストが最初に言っただろう?白竜は、仲間のために、相手のために力を使うんだ。おまえは、自分だけか?」

「いいえ!…いいえ、そうじゃないんです…ただ…僕は…」

「………」

「………」

沈黙が部屋に広がった。スレイプニルは口を開こうとしない。

「…タナトスだが…」

ふと、話を変えてみた。

「おまえはタナトスが怖くないのか?」

今さら聞くのもなんだが。一度聞いてみたかった。

「最初だけ…今は全然。…みんな、彼を怖がりますけど…彼だって人間です。学びたいという気持ちも同じです。黒竜は法術を使えないからとか、関係無いと思います…。魔法は…危険かも知れないけど…法術は人を傷付けるものでは無いでしょう…?」

…それは確かにそうだが…タナトスはそれ以前の問題があるんだが…

「…おまえはタナトスに敵意を向けられた事が無いな?」

「……最近は悪意は感じますけど」

「そうなのか?」

「…寝ててお腹触ってくるのって嫌がらせですよね?しかも、ぷよぷよとか、ぷにぷにとか…悪口まで言うし」

「………」

タナトス…意外なくらい懐いてるな…これは、今は別に放っておいても問題無いな。

「…おまえ、別に太ってないだろ。気にするな」

むしろ、鍛えてあってそれも意外だった。

「あの赤竜に…どう勝算があったんだ?…本気で戦ったのか?」

今日の果たし合いを見ていないから、詳しい事がわからない。

「…インチキをしたんです…」

「何?」

スレイプニルは、うつむいて身じろいだ。

「…僕…本当は、強く無い…戦うのは嫌なんです。人がケガするのも見たくない」

ああ。だろうな。そうだよな。

「…でも、赤竜にはメンツがあるから、無視し続けるわけにもいかないでしょう…いつか決着を付けないといけない…」

「…それで?」

「それには…僕が勝たないと…だから…その…」

「…何をした?」

「…。…補助魔法を使ったんです…」

「………………なんだって?」

何だ?…今、何言った?聞き間違いか?違うよな?

「すみません!!インチキだって思います!でも、魔法はダメとか聞いてないし!悪い事には使わないし、もうこれで戦わなくていいならって…」

「待て。…待て…スレイプニル。落ち着け…いや、ちょっと…俺が、追いついてない」

頭が混乱してきた。…落ち着け、俺。

「…………」

スレイプニルはショボンとうなだれて沈黙している。

「…つまり…果たし合いで…赤竜に勝ったのは…?」

「…あれは…超速移動の魔法…だと…思います」

「………………」

伝説の魔女デボラの得意魔法だろ…それ…なんでお前が?!

「なんで、おまえがそれを使えるんだ?!」

「一度、見たことがあったので…それで…試したら、出来たので…」

一度、見た?…一度見ただけで?…嘘だろ…どうやって?なんで魔法を?…いや、いや、待て…コイツ…魔法石が無くても魔法を使えるって…本当だったのか?

そもそも、補助魔法って…魔法なのか?法術…じゃないよな?…どういう分類なんだ?使い手が少なすぎてわからない。

「…一度見て…出来る…のか…?」

「…真似しただけですから…」

いやいやいや、真似して出来る物でも無いだろうが!!あ。いや…しかし…

「さっきの…範囲回復も…?」

スレイプニルは、コクリと頷いた。

「………」

ああぁー…こういう事なんだなぁ…。

自分が周囲から言われた事を思い出した。

『生まれ持ったセンスのある奴に、常識とか通常とか普通とかないよな。いわば存在自体が非常識だ』

そう口にした者には嫉妬がありありと感じられたが、耳にして嬉しい物じゃ無い。

……普通……あぁ…普通……

そうか…そうだった…。周りからしたら非常識で普通じゃない事…それが、コイツを傷付けて自己評価や自己肯定を阻んでいる…。

「…………」

スレイプニルは身の置き所がない様子で不安そうにこちらを伺っている。

「先生…僕は…やっぱり…普通じゃ…」

まるで自身の呪いを怖れるかのように怯えて問う少年に、それだけは反射的に否定出来る。

「だからなんだ。お前はお前だ。それでいい」

良いとか言ってしまった俺も相当、困惑してる。だが、これ以上、自己評価を下げるのはやめてくれ。

「だが、それは危険だ。魔法も法術も、きちんと基礎を知った上で…緊張感がないと間違いを起こす。それに…なんでも魔法に頼って解決というわけにもいかない」

スレイプニルは、ハッとして顔色を失った。

「先生…僕、僕…自分が…怖い…僕の失敗で…また…」

なんだ?どうした?

スレイプニルは落ち着かず、ソワソワしだした。

「…落ち着け。いいか。今、お前はまだ何もしてない。状況は30分前と変わってないぞ」

「……あぁ…そ、そう…そうですね…」

多少は落ち着いたか?…しかし、この様子だと過去にやはり何かしたな…。

「…しかし…一度見ただけでか…そのセンスも凄いな…」

努めて冷静に言えば、スレイプニルはうなだれた。

「僕は…失敗してばかりです…今回も不安だったから…デッキブラシを借りて…」

ああ、それだ。

「スレイプニル。その媒介は誰の入れ知恵だ?」

「ばいかい…?え。誰?…誰でもありません。ただ何となく…棒があった方がやりやすいなって…」

「……。そう言う所だ。法術や魔法は基礎が固まるまで、媒介は使うな」

感覚的に気が付いたのか…全く…。

「媒介ってなんですか…?」

「魔法も法術も、最初は何も持たずに練習する。そして、基礎を習得してから次に応用に入る。応用をするにあたり杖や道具を用いて、より細かく複雑にイメージを具現化していく。その道具を媒介と言う」

「へぇ…確かに…なんかやりやすかったんです」

「媒介は補助として効果を発揮するが…最初から癖にすると、逆にそれが無いと出来なくなる」

「…そうなんですか?それは…気をつけます…」

キョトンとした後、素直に頷く。

「それから…今後、おまえの法術の指導は俺がする。だから3年生や2年生の所には、行かなくていい」

下手に法術に変な癖が付いたら困る。それに…自分の知らぬ間に生徒が成長していたあのガッカリ感は教師として癪だ。

スレイプニルは、今までの影のあった顔から、陽光を浴びた植物のように見る見る喜色に染まった。

「ほ、ホントですか?!先生が教えてくれるんですか?!」

お、おう…。そんなに食い付くのか…?

「ああ。おまえは出来すぎて、見てないと逆に危ないからな…」

「あ、あの…タナトスも見たいって言ったら…良いですか…?」

ためらいながら聞くスレイプニルには、タナトスをもう友達なんだろう。

「ああ。もう何回か授業にいるし。今更だろ」

その言葉にスレイプニルの目は輝いて、顔が高揚した。

「やったー!!うわぁ!先生ー!約束ですからね?!」

落ち着け、ドギー。じゃ、なかった…すーぷーちゃん。そんなに良い餌だったか…やっぱり出し惜しむのはやめよう。

…それとすーぷーちゃん、その両手で握ってるのは白衣の裾であって手じゃないからな?わかってるのか?…そうか。

「いつですか?!いつから教えて頂けますか?!」

白衣の裾を引いてねだるスレイプニルは、どんだけ飢えてんだ。って話だが。

「別に、いつでもいい。おまえの事だ。そんなに時間はかからないだろう?」

一度見ただけで、真似出来るならなおのこと。

「じゃ、じゃあ、今。今でも良いですか?!」

白衣を握り締め迫るスレイプニルは、ジャーキーをおあずけされてる犬だ。

「…おまえ…今、タナトスいないぞ…?」

近い。すーぷーちゃん、お座り。お座りしなさい。

「……。でしたら!タナトスがいる時にもう一度、お願いしますので!」

…あ、そう。…まぁ、いいが。


「…という所が治癒の法術の基本理論と構築方法だ。わかるか?」

コクコクと、スレイプは嬉しそうに頷いた。

「発動の言霊は、『願わくば我が祈りに癒しの力を与え給え』だ。…では、やってみろ」

「はい!先生!」

スレイプニルは気合い十分で返事をすると、集中した。

法力が高まる気配に、スレイプニルが言霊を紡ぐ。

「願わくば我が祈りに癒しの力を与え給え」

スレイプニルの手に集った光は言霊と共に…霧散した。

「…………」

なんだ?キャンセルしたのか?

スレイプニルは瞬いた。そして、数拍置いてこちらを見た。

「先生…」

「なんだ?どうした?」

「僕…出来ませんでした…」

は?…出来ない?途中まで出来ていただろ?

「………なぜだ?」

「…わかりません…」

呆然と自分の両手を見ている。

「…キャンセルしたんじゃないのか?」

「違います。僕は望みました。法力の高まりも感じました。でも、…出来なかった…」

スレイプニルは何がなんだかわからないようだった。

嫌な予感がする…。

「スレイプニル。光玉は?…光玉は作れるか?」

その言葉に、スレイプニルは造作もなく光玉を作った。

光玉は出来る。それは変わりない。…なのに何故?

「もう一度、治癒をやってみろ」

「………願わくば我が祈りに癒しの力を与え給え」

同じように光は途中で霧散する。まるで、拒否するように。

「手を」

スレイプニルの取り、数値を見ても…減ってはいたが、治癒の法術に足りない程では無い。

本人としても、気力の問題では無い事はわかっているようだ。

「…………」

これは、参った…。

「なんで?…出来ないんだろう…」

スレイプニルは信じられないように呟いた。

基礎を吹っ飛ばして応用を真似たからか?それとも、初回で媒介を使ったからか?

「先生…まさか…僕は…治癒が出来ないんでしょうか…」

泣きそうな顔でスレイプニルが言った。

「そんなわけあるか。落ち着け。いいか?…一般的には…法術はそんなに簡単にホイホイとすぐに出来るもんじゃ無いんだ」

「でも、…でも、僕は…失敗の原因がわかりません…何が違うんでしょうか…?」

涙目でスレイプニルは聞いた。

確かに。間違いを指摘出来ない。スレイプニルの治癒の法術の流れに間違いは無いからだ。

「……何が原因か…」

これは難しいな…。

「…願わくば我が祈りに癒しの力を与え給え…」

霧散。

スレイプニルはショックだったようだ。まるで、仲の良かった友達から手酷く嫌われたような…衝撃と落胆に打ちのめされている。

「……すーぷーちゃん。思い詰めるのは良くない。今日はこれまでにしておきなさい。また明日、時間をとろう」

「………僕は……治癒が出来ない法術師だったんだ…」

スレイプニルは肩を震わせ絶望に打ちひしがれている。

普通なら、初日に出来ないのは当たり前だ。だが、今のコイツの場合は、望んで出来ない事は永劫に出来ないと思い込んでる節がある。

「すーぷーちゃん…あのな」

「先生…治癒が出来ないなんて…そもそも法術師じゃ無いですよね…」

「スレイプニル。たかが初日で出来ないからと諦めた事を言うんじゃ無い。いいか?絶対に出来るようになる」

「…その根拠…どのくらいですか…?」

涙目で聞いてくるスレイプニルには、断言しよう。

「もちろん。100%だ。今まで俺が教えて来た生徒で、出来なかった奴はいない」

時間のかかった奴はいたが。それでも、全員、出来るようになって巣立って行った。

「……僕が…それを99%にしちゃうんですね…」

「おまえ…ネガティブだな。初日でそこまで落ち込む奴も他にいないぞ」

スレイプニルは我慢していた涙がぼろぼろと大粒で溢れた。

「うわぁぁぁーん!!先生ー!!僕はやっぱりダメダメだー!!」

そう言って、しがみついてきてワンワン泣いた。

お、おおぅ…。

「…お前がダメダメなら、他の奴の立つ瀬がないから、よそで言うなよ。それ」

「僕はぁ!元々そんなに出来る人間じゃあ!無いんですー!!」

ムキになって泣いてんな。

「って言うか、おまえ…超高速移動の魔法をどこで誰がやるのを見たんだ?」

「もぉーーーーダメだぁぁぁぁあーーー!!」

おい。聞いてんのか?聞いてないな。



「あ!先生!!」

医務室を出ると、廊下を走ってくるクストが声をかけて来た。

「…なんだ?」

クストは興奮しながら報告する。

「あの範囲回復!校舎丸ごとでした!3階から1階まで丸ごと!アイツ、マジで半端無い!」

ピクリ…と、隣の白ローブのフードが揺れた。

「…そうか…」

「あれ?反応薄いですね?どうかしました?…ん?」

クストは隣にいる白いローブを目深に被った生徒を見た。

「なんだ?誰だ?…すーぷー?」

「…………」

フードを目深に被り俯いている小柄な生徒は答えない。クストは遠慮無く、そのフードを剥いだ。

「うわぁ!!」

悲鳴のような声をあげるスレイプニル。

「なんだ。やっぱりすーぷーじゃないか!あれ?すーぷー?どうした、おまえ」

黒い目を真っ赤に腫らしたスレイプニルは、まだ赤い顔を背けて隠し、再びフードを被り直して更に両手でフードを押さえた。

「……僕は……です…」

かすかに呟く声は弱々しくて言葉にならない。

「は?なんだって?」

「僕はぁぁぁー……」

震える声で息を吐くように肩を震わせるスレイプニル。

「…クスト…ようやく落ち着いたのを掻き回さんでくれ」

ため息混じりに言えば、クストは「え?なんですか?なんで?」と、連呼している。

お前…それ、スレイプニルの様子に察するとか無いのか?無いか。無いな。

クストの追求に、スレイプニルはフラフラと廊下を歩き出した。

「……死にたい……」

こらこら。

「すーぷーちゃん、どこに行く」

「…僕は…価値が無い…」

ズーーーーーンと重い空気で絶望を口にするスレイプニル。

「おまえは、本当に極端だな」

ここまでくると、いっそ面白い。

「先生…まさか!コイツ、ついにタナトスに感化されちゃったんですか?!」

クストが青い顔で焦り出した。

「…バカ言え。タナトスは2人も要らない。ほら、すーぷーちゃん、夕飯の時間だ」

夜は組ごとに食堂に全員が集まる。それは決まりだ。

「……食べたくありません…」

フードを両手で握りしめたまま呟くスレイプニルをさっくり捕獲すると、脇抱えにして食堂まで強制連行だ。

「ダメだ。明日も練習するからしっかり食べなさい」

「僕はぁぁぁぁー…食べたくないぃぃーーーー…」



「せ、先生?」

クストは混乱した。

あれは何だ?昼間の様子と真逆な後輩もそうだが、その後輩を小脇に抱えてそこそこ機嫌のいい先生は、何がどうしてそうなったんだろうか?

クストは呆然と、赤毛の講師と運ばれていく後輩の後ろ姿を見ては、慌てて後を追った。



夕食時、1人葬式のような空気のスレイプニルの姿に1年生は、ローズ先生の説教はマジでヤバイのかとドン引いた。

「ニル。大丈夫か…?」

ロンが声をかければ、フードの少年は「僕は…やっぱり…ダメダメなんだ…」と、かすかに呟いていた。

「あのニルが…ここまで精神崩壊するなんて…」

アッシュは驚愕している。

「スレイプニル。昼間は悪かったな。法術指導を断って」

3年生のラングがわざわざ1年の席までやって来て声をかけた。

スレイプニルはユラリと揺れると、フードを被ったままラングに顔を向けた。

「先輩…僕は…僕は…ダメダメだったんです…」

フードの奥のスレイプニルの黒目からぼろぼろと涙が溢れたのが見えて、ラングは動揺した。

「え?え?な、なんだ?どうした?!」

「あー…ラング。すまないが、すーぷーちゃんは今、不安定だからあんまり刺激しないでくれ」

「先生?ど、どういう事ですか?」

ラングの質問に、白竜全員が答えを求めてこちらを見た。

「…あー…まぁ…いかにもコイツらしい悩みだから…気にしなくていい」

これ言うのも、なんだかな…

「悩み…?」

「悩みならどうして教えてくれないんですか!」

「先生!ウチは白竜ですよ?」

「1年が悩んでるなら!しかも他ならぬキングの事じゃ無いですか!」

途端に3年生から非難の声が上がった。2年生も頷いている。

お前ら…普段なら褒める所だが、今回はお前らのためにも黙っておきたいんだぞ?

「……お前達の気持ちは重々わかるが…おそらく、言った所で理解出来ないと思うぞ…?」

いいのか?聞いたら結構、切なくなるからな?

「先生!どういう事ですか!後輩が辛い時に放っておけっていうんですか!?」

「俺たちじゃ、力になれない事ですか…?それでも…悩みは共有したほうが楽になりますから」

熱いクストと、冷静に心配するラング。

ああ…まぁ…いいか。もう。どうせしばらくスレイプニルはこの状態だろうし。こいつら聞くまで納得しないだろ。

「…わかった…。いいな?すーぷーちゃん。こいつら心配してるから」

チラリと確認すると、スレイプニルはテーブルに突っ伏して灰になる一歩手前だ。

「…あー…その、スレイプニルだけどな…」

全員が真剣な顔で耳をすませた。

「今日教えた治癒の法術が、出来なかったんだ」

「……………」

全員が全員、うん?っていう顔をしている。まぁ、そうだよな。

「補足するとだな…さっき教えた治癒の法術が出来なかった事に落ち込んでいるんだ」

「………はぁ?」

クストが全員を代表して声をあげた。

「…ちょっと、なに言ってるのかわからないんだけど…これ、俺だけか?」

クストが困惑して周りを見て聞けば、全員が首を振っている。そしてこちらに更なる説明を求める目を向けた。

「あのな…これは、本当にコイツだからであって、本人にとっては本気で悩んでる事なのは前置きしておくぞ?」

全員が固唾をのんで頷いた。

「コイツは…一度見た法術は、そっくり真似出来るんだ。だから、午後の範囲回復はシェダル先生の講義を真似てコイツがやった。だが、さっき、治癒の法術を習得しようとしたら、出来なかった。それでコレだ」

「………………」

全員が全員、呆然として脳内で反芻している。

「…つ、つまり…初めての範囲回復はあんなにバカみたいな広範囲で成功させといて、基礎の治癒の法術が今日の今日で出来なかった事に落ち込んでんですか…?」

クストがまとめれば、事実に頷く他ない。

「はぁ?…はあぁ?!…なんだそれ?そんなアホな事あるかよ?!」

クストが頭を抱えた。

「…悩みも規格外だな…と言うか、一度見て出来る方がおかしい」

ラングが嘆息した。

ザワザワと白竜の生徒が一様に顔を見合わせては驚いている。

「皆思う所はあると思うが…本人からしたら、出来ない事は一生出来ないってくらいの勢いで落ち込んで、アレだ」

1年のテーブルの一角で灰になっているスレイプニルに、クストが呆れたように言った。

「すーぷー!おまえ、そんな一回で出来るわけねぇだろが!」

「そもそも…あれだけの範囲回復が初見で出来てるわけだろ?…それすらあり得ない事だが…むしろ、それでなぜ基礎でつまずくんだ?普通、逆だろ」

クストの言葉にラングが意味がわからないと首を振っている。

あ。ラング…普通という言葉はコイツには禁句なんだが。

スレイプニルがゆらりと身を起こした。

「…足りない所があって出来ないならわかります…でも、僕は、何が足りないのかわからない…原因が無いのに出来ないのは…それは…僕に…僕に…法術師になる素質が無いから…あぁぁぁぁ…」

再び、ゴンと音を立ててテーブルに沈没するスレイプニル。

「アホか。先生…こいつ、アホです」

クスト。うん。知っている。改めて言わなくてもいいぞ?

「なんだよ。超普通な悩みじゃねぇか」

「まぁ、これは誰もが通る道だからな」

「むしろ、コイツにもそういう事があるのが安心するわ」

3年生は口々にそう言って各自、納得していた。

しかし、当の本人だけは相変わらず灰になっている。

「すーぷーちゃん。出来るまで特訓するからな」

さて。この天才は、どうやってこれを乗り越えるのか。ああ、面白い。

やはり教育者はやりがいがある。


結局、灰になったスレイプニルは夕食中、シクシクと泣いたり魂の抜けるようなため息を吐いたりで、とても食事は喉を通らなかったようだ。

「…ぷにぷに、行くぞ…」

いつのまにか、タナトスがスレイプニルを迎えに来ていた。

「僕はぁー…ぷにぷにじゃないぃー」

もう、何にでもこんな調子だな。と言うか、タナトス。それ、コイツの呼び名か?スレイプニルのプニだけとったのか…なるほど。悪意だな。

「うああぁぁー……いっそ………死にたい…」

テーブルに突っ伏したままのスレイプニルがそう呟くと、タナトスがピクリと反応した。

「…死にたいのか…?」

「?!」

ガタタッ!!

タナトスのその問いかけに、過去の脅威が蘇り、その場にいた白竜全員が青い顔で立ち上がった。

「タナトス!違うぞ?コイツは本気で言ったわけじゃない!スレイプニル!タナトスに下手なことは言うな!」

やめてくれ。そんな事を言った日にはタナトスはあっさり殺してしまいそうじゃ無いか!

タナトスは、落ち込み無気力なスレイプニルを見下ろした。

「……。ダメだ。お前は殺らない」

拒否するタナトスに、スレイプニルは無気力に呟いた。

「僕には…価値が無い…」

「枕。寝るぞ…」

タナトスはそのままスレイプニルを小脇に抱えて去って行った。

「…………」

全員が息を吐いた。

「あーーーー!俺、マジで終わったと思ったわ…」

クストがイスに座って安堵した。

「…タナトスでも無差別ってわけじゃないんだな…」

それぞれがイスに座りなおす中で、ラングが言った。それは正解だが、間違いだ。

「いや…あれは…あいつだからだ。giraffe病の奴がアイツといると波長が合うのかわずかに眠れる。それは奴にとって貴重な人間なんだろう…」

「…ああ…だから枕…」

白竜の誰かが不思議そうに呟いた。

「そうだ。だから、殺さない。殺したら自分が更に眠れないだけだからな。油断して真似はするなよ?」

全員が頷いた。真似しようなんて気には到底ならないだろうが。

「マジか…スレイプニル、最強だな…」

白竜の誰かがそう呟けば、全員が同意した。



夕食は組ごとで摂る決まりだ。それでも各自が好きに同じクラスの打ち解けた相手と談笑する。しかし、今日の白竜のテーブルは珍しくミーティングのような整合性のある空気だった。

あの光の雨を降らせた人物は、白竜以外の組でももちろん噂になっていた。

だが気になるのは、珍しくニルの顔が見えない事だ。席の場所からそこに座る者は突っ伏して具合が良さそうでも無い。

…ここ最近…いや、入学してからあまりニルと話しが出来ていない…。

アイティールは仕方がないとは思いながらも、物足りなかった。せめて同じクラスか、同室だったら良かったのだが…とは言え、ニルはしょっちゅう倒れて医務室で寝ている事も多いが。

ニルの様子も気になるが、その程度によっては、今日は話がしたかった。

だが、白竜の生徒が急に立ち上がり騒然とした時は青竜だけでなく他の組も注目した。

「タナトス!違うぞ?コイツは本気で言ったわけじゃない!スレイプニル!タナトスに下手なことは言うな!」

白竜顧問の慌てた様子で制していた。

黒竜ジョーカーのタナトスだ。テーブルに突っ伏したニルを見下ろしている。

「……。ダメだ。お前は殺らない」

拒否するタナトスに、ニルは無気力に何事か呟いた。

「枕。寝るぞ…」

タナトスはそのままスレイプニルを小脇に抱えて去って行った。

また。だ。

タナトスはニルを私物のように扱っている。枕にすると眠れるというふざけた理由で。そして、それをニルは許容している。

白竜の生徒は黒竜が苦手になるのでは無いのか?いや、白竜で無くても、あの怨嗟や怨念をまとっているような死の気配がする者を、そうそう近くに置けるものか?いくら番犬だとは言え、アイツと一緒にいて、ニルは大丈夫なのだろうか?

アイティールは席を立つと、タナトスの後を追った。


「ニル!!」

タナトスに運ばれていると、後ろからアイティールの呼ぶ声がした。

「ニル、どうした?具合が悪いのか?」

モゾモゾと動くと、タナトスが私を下ろした。

フードを被っているからアイティールの顔は見えない。

というか、こんな顔では誰とも顔を合わせたく無いけど。

「……僕…自分が法術師に向いて無いって知ったんだ…」

何という現実…。ここに来るまではそんな存在に自分がなれるなんて夢にも思ってなかった。

けど、光玉を作り、白竜としてみんなと勉強をしていくと…その事に密かに期待があったんだ。

デボラの命を奪った自分に、誰かを助ける事の出来る明確な力があるんだと思えたら、とても嬉しかった。

でも…マドラスが当初沈黙したように、そもそも私にはその資質がなかったのだ。

アイティールは私の様子に沈黙し、私の手を取って「部屋に行こう」とその手を引いた。

アイティール(と、タナトス)の部屋に付くと彼は侍童に何事か指示していた。

促されるまま私とアイティールはイスに座ると、タナトスはほとんど使わない自分のベッドにゴロンと転がった。

「…ニル、そのフードはどうした?」

アイティールは目深にかぶったままの私のフードを指摘した。

「…僕…今日…先生から治癒の法術習ったんだけど…それが…出来なかったんだ…」

「そうか。それで?」

あっさりと流すアイティールに、言葉に詰まる。

「それで…その…僕…多分、治癒の法術が出来ないんじゃ無いかって…思う…」

「なぜ?」

淡々と問うアイティールの声に感情は感じられない。

「その…出来ない理由に、間違いとか…足りないものがわかれば…それを改善すれば良いんだろうけど…僕…それがわからないんだ…先生に聞いても、間違えてはいないって言うし…」

アイティールは私の言葉に少し沈黙した。

「……今日、あの光の雨を降らせたのはニルだろう?」

「それはっ…そうなんだけど…あれは、道具を使ってやったから、まぐれで出来たのかも知れない…。媒介って言うらしくて、棒を持つとやりやすいんだ。でも…最初からそういうのを使うと、それ無しには出来なくなるからダメだって…」

「…そうか」

不意に、部屋をノックする音がしてそれから侍童の少年が、トレーにポットと人数分のカップを持って来てお茶を入れてくれた。

「あ、ありがとう…」

「いいえ。ご指示に従ったまでです。お役に立てれば幸いです」

そう言うと侍童の子は一礼し、退出した。

「………」

なんて出来た子なんだ…。というか、アイティール…侍童にお茶もお願いするんだね…こんな事もお願い出来るとは知らなかったな。

「…あの光の雨を降らせたのがニルだと言うのは、すぐにわかった」

アイティールがそう話し出した。

「私はその時、基礎魔法の練習中で…ニル、君は簡単そうに魔法を使っていたから、とてもうらやましかった。…だが、練習を始めてみて知った。…今まで使った事のない感覚の制御はとても難しく、ひとつもうまくいかない。もどかしいばかりで…正直、面白く無かった」

お茶のカップの温かさで手を温めながら、私はアイティールの話を黙って聞いた。

「だが、今日のあの光の雨にうたれて…とても穏やかな気持ちになった。それに、新しいものに触れる期待感というか…高揚感というか…そんな感情も出てきて…」

アイティールは手元から私を見て続けた。

「君に励まされた気がした。気負わず楽しんでみて。と、言われた気がした」

「アイティール…」

「そうしたら、出来たんだ。初めて魔法を成功した」

顔をあげれば、アイティールは誇らしげに微笑んでいた。

「ほ、本当に…?」

「ああ。授業以外では魔法石を持てないから、見せられないが…初めて水を凍らせる事が出来た」

「え…。へぇ…凄い!…あれ結構、難しいよ!」

水系は気難しい。慣れれば意外なほど使い勝手がいいが、最初のとっかかりが難関だ。

「そうなのか?」

アイティールは瞬いた。

「うん。水系は僕も最初は全然、言う事聞いてくれなかった」

何度、失敗してずぶ濡れになった事か。

「そうか…」

「でもどうして最初に水なの?」

どうせなら地系の方が素直なのに。いきなり水系?…水は最後じゃない?

「…さぁ?課題がそうだったから」

「ふぅん。まぁ、でも相性もあるし、アイティールは水と合ってるのかもね」

気難しいけど、一度仲良くなるとその汎用性と活躍は頼もしい。

「合う、合わないと言うのがあるのか?」

「うん。僕は風と仲が良いよ。だから、他の属性ともそんなにケンカしないけど…」

「?…どう言うことだ?」

「えーと…例えば性格の違う4人がいてさ…それぞれが極端な性格をしているとするじゃない?そんな中で風の性格は自由なんだよね。冷静な水とも合わせるし、熱血な火を煽る事もあるし、ああ、でもマイペースの地に対して風はちょっとイラついてる感じがある。でも、地は風が嫌いじゃないんだ。地は器が大きいんだよね」

「…面白い例えだな」

アイティールが感心していた。

例えと言うか、精霊を見てて感じた事なんだけど…

「相性のいい属性によって、行使する時にちょっと影響が出るんだ」

「…では、水と相性のいい私は火とはそれなりなのか?」

「…うん。多分。水ほど力が出ないかも。でも、そう思い込まないほうがいいよ」

「…なぜ?」

「イメージが大事なんだ。最初からそう思うと良くないから」

アイティールは面白そうに頷いて、言葉を発した。

「では、今のニルにも同じ事が言えるな?」

「え?」

「最初から、法術師になれないと思わない方が良い。そうだろう?」

「そ、それは…」

そう、かもしれないけどーーーー!!今回の件では原因がわからないんだもん!!

「…ぷにぷにには才能が無いからな…」

突然、タナトスがボソリと言った。

「ちょっと!!そこ!!ぷにぷに言うな!」

私は、寝転がっているタナトスに文句を言った。

「それに!誰だって最初はあるの!!タナトスだって最初は出来なかったでしょ?!」

反論すれば、タナトスは平然と答える。

「…最初から出来た。だから、出来ない奴の理由がわからない…」

はぁ?!なんだとー?!

「タ、タナトスだって得意な魔法とイマイチな魔法があるでしょ?!」

「無い。全部出来る…」

先生ーーーー!!!!こう言うのを天才って言うんですよ?!良いですか?!私は凡才ですからね!!

「…あー…お茶、美味しいなぁー…」

私は散々手を温めてぬるくなってきたお茶の感想を言うことでスルーした。

アイティールはそれを満足そうに見つめていた。


部屋に戻ると、ジャイアントネイロスが私を見た。

「…チッ…来るの遅ぇ…」

ヒィ!…な、なんか、待ち構えていたっぽいけど…まさか…インチキがバレたのか?!

「オイ。お前…」

睨みをきかせて部屋に入った私に近寄ってくる。

ま、まさか…また首絞められるんじゃ?!

私は後退り、後ろ手で扉に手をかけた。

「散々、待たせやがって…」

「な…なんですか?!僕は勝ったんだから!もう、赤竜や君とは戦わないよ?!」

ピクリと、ネイロスの指が動いた。

「………」

そして動きが止まった。

あ。マズイ…余計怒らせちゃったかな…?!

ネイロスは、ため息を吐くと重々しく認めた。

「……そうだ。お前の勝ちだ…俺は…勝てなかった…」

その言葉は、とても辛そうだ。不本意だったというか、悔しさというか…理解出来ぬまま、あっという間に勝敗が付いた事に対する悲しさだ。

あ……。

その時、私は…誰も傷付けたく無いという自分の希望や都合で…彼の勝負事に対する真剣な気持ちを裏切った事に気付いた。

『魔法も法術も、きちんと基礎を知った上で…緊張感がないと間違いを起こす。それに…なんでも魔法で解決というわけにもいかない』

『無理だ。どんなにお前が願っても、人は知らないところで傷付くものだ』

先生の言葉が蘇る。

私は…正々堂々、公平に勝負を望んだネイロスに…なんて卑怯な事をしたんだろう…!!


そいつは、相変わらずビクビクとしながら逃げ腰だ。

あの自信に溢れた野生の獣のような目もなく、隙のない気配でもなく、ヒリつく心地よい交戦意識も全く無い。

それでも、勝ちを主張されれば、納得するしかない。この状態のコイツでも背後をとられた事は事実だ。

戦いならば死んでいる。

油断はしていなかった。本気で向き合った。それでも、勝てないのは自分の実力不足に他ならない。

ネイロスは自分が不甲斐なかった。

だがなぜか…ネイロスが負けを認めてショックを受けたのは、そいつの方だった。

「ね、ネイロスさん…僕…ごめんなさい…」

なに?…なんだと?

「…なんでお前が謝るんだ…」

奴は帽子を脱いで頭を下げている。

「僕…僕…。ネイロスさんは戦いたかったのに…僕はそれを…」

絞り出すような謝罪の声を聞き、不快感で寒気がした。

「やめろ!!」

ハッキリとした拒否を示せば、そいつの体はビクリと震えた。

「お前が俺に謝るというのは、俺をバカにしているのか?!もっと手加減して遊んでやれば良かったと、俺を見くびっているのか!?」

奴は黒い目を見開き、思っても見なかったと驚愕した顔をした。そして、首をゆるゆると振った。

「違います…僕は、そんなッ!!」

泣き腫らしたような目で、青白い顔が否定した。

「俺は、お前に負けた。それが事実だ。お前の言う通り、今の赤竜じゃ、お前を捉えられる奴はいない」

「………」

叱られたように俯いた。

コイツはなんなんだ?誇っていい事で、どうしてそんなに落ち込むんだ!

「…赤竜の皆さんは…きっと、派手に戦った上で、ネイロスさんの勝ちを疑わなかった…」

「それが何だ?…戦いにおいて、迅速で無傷に終えるほど圧倒的な力の差を示すものは無い。俺は…全く動けなかった…」

力が拮抗すれば、時間も長くなる。強者ほど…その力に差があるほど勝敗は早い。

「でも…それは!」

「僕が強くてすみません。って言うのか?…ずいぶん、言うじゃねぇか…」

コイツは下手に出ながら優位性を示すタイプか?

「僕は!そんなつもりは全くありません!!僕は!赤竜みたいに、誰が誰より強いとか!上だとか下だとか!そんな事には興味が無い!」

「…そうかよ」

珍しく感情を荒げる奴に、俺は薄く笑った。

「それで…?お前は何が言いたいんだ?俺に何を望む?」

黒い目が瞬いた。

「僕が?…僕は何も…僕はただ…争いたくない…」

争いたくない?コイツ、ここがどこだかわかってんのか?…まぁ、いい。どうせ白竜とは争う必要が無い。

いや、むしろ…

「そうか。俺はあるぞ。お前に望む事が」

本来、敗者が言う事では無い。だが、コイツならそのルールすら知らなそうだ。

「僕に?望む事?」

「そうだ。おまえは白竜だ。おまえも言ったな?友好を示せばそれ相応の恩恵を与えると」

黒い目は素直にコクリと頷いた。

「じゃあ、お前のハートのキングとしての力を、俺に使え」

今日の午後、コイツは校舎丸ごと範囲回復したそうじゃ無いか。そんなバカみたいな能力を優先して使えるならば、様々な面で有利だ。

黒い目は、キョトンとしてこちらを見ている。

「…僕は、誰かの指示で動いているわけじゃありません」

「なんだと?…何が言いたい?」

「ネイロスさんが必要な時は、僕は僕の出来る事をします。それは頼まれたからする事じゃない」

さも、当然だとばかり首を傾げた。

「…………」

そうだった。コイツは初日に散々脅した俺を……チッ…白竜はどうもやりにくい。

「…ですが…今の僕では…それも…出来ないかも知れない…」

俯き、力なく呟く奴に訝しむ。

「…どう言う事だ?」

「…僕…僕…。治癒の法術が出来なかったんです…僕は…法術師になれないかも知れない…」

眉間にシワを寄せ、拳を握る。

「…嘘言うな。校舎にいた全員が範囲回復を受けたんだぞ。お前の他にそんなバカな事をする奴がいるか」

言い逃れにしてもバレバレだ。

「それは…媒介あってのもので…今ではそれも出来るかどうか…わかりません…」

沈鬱しながら答える奴は、あながち言い逃れだけとも言えなそうだった。

「……おまえ、どのくらい練習したんだ?」

「…3回です。3回やって…1回も成功しなかった…」

「バカか?」

いや、すでに馬鹿馬鹿しい。たかだか3回だと?なんだ、クソムカつく奴だな。

「違うんです!大事なのは回数じゃなくて!手順は何にも間違えて無いのに出来ない事なんです!」

「そんなもん…それがおまえのモノになってないからだろ。型だけ出来ても、中身が入らないなら、それは間違えて無いとはいえない」

「…中身…」

「おまえの言う法術師ってのは、たかだか3回出来なかっただけで諦める世界なのか?ずいぶん根性の無い世界だな?」

「いいえ!……みんな…毎日、練習してます…」

「それでおまえは?たかだか3回で出来ないって投げ出すのか?」

黒い目が、即座に首を振った。

「…そんな事…」

「技の習得には毎日、何時間でも何日でも何百日でも練習して当たり前だ。自分のものにするために努力して、出来なくても足掻いて、やり直して、必死こいて練習するんだ。そうして身につけた技は、そのうち自分に少しずつ馴染む。目をつぶっていても、感覚がなくなっても、出来るようになるまで。それがモノにしたって言える事だ」

「………」

そいつは素直にコクリと頷いた。

今なら…言えるか?…さっさと言ってスッキリしたいんだ。こっちは。

それが散々、待たされた上にこんな話のせいでため息が出た。

「…おまえが…酒で倒れた俺の命を助けた。その礼が何だかんだでずっと言えていなかった。…スレイプニル…おまえに感謝する」

その言葉に、黒い目は驚いた。耳を疑うみたいな表情で俺を見た。

「…なんだよ。…俺は、礼も知らない恩義に薄い男じゃない」

「…い、いえ…そうじゃなくて…僕、忘れてました…」

「ああ?忘れてただと…?俺の命はそんなに軽いのか?」

「ち、違います!あの時は本当に必死で…!僕自身、何がなんだか…」

瞬いて、思い出そうとしている。

「…悪かった」

そう呟けば、奴は自身の回想からこちらに意識が戻る。目を丸くして俺を見ている。

「おまえを散々脅してここから追い出そうとしたのは…おまえがなんの力もない非力なガキだと思っていたからだ。俺は…ガキが無駄死にするのは許せない」

『…寒い…ねぇ…僕…死んじゃうのかな…いやだ…怖いよ…ネイロス…たすけ…て…』

脳裏に蘇った少年の言葉に奥歯を噛み締めた。

「…ネイロスさん…?」

驚いた顔でこちらを伺う奴に、今度はこっちが意識を戻す。

「…おまえは、俺に勝った。そんな奴は、見た目はどうあれ非力なガキじゃねぇ。だから、俺はもう、おまえを脅して追い出そうとはしない」

「…ネイロスさん…」

「その、さん付けもヤメろ。おまえに負けたのに未だに下手に出られたら、バカにされているようでムカつく」

「え。そ、そうなの…?」

戸惑う奴は上下関係が全くわかっていない。

「え、じゃあ…ネイ…ロス…?」

「…。そうだ」

「…ん?…ネイ…ロス…。ネイロス…」

何かに引っかかって名前を連呼する奴は、首を傾げて反芻している。しかも、じーっとこちらを黒い目でしげしげと観察してきた。

…クソ…なんで、俺、おまえに勝てなかったんだ。自分に腹が立つ。

「おい。おまえ…」

「え?なに?」

「ちょうどいい。おまえに戦利品をやる」

「せんりひん?…なにそれ?」

さっきまでと打って変わって、キョトンと警戒なく聞いてくるコイツの変わり身の早さもなんなんだ。

収納から、はち切れんばかりの布袋を取り出すと、奴に押し付けた。

「え?なに?これ?」

戸惑いながらも、中身を見た奴は「わ。お菓子だ。これ全部そう?」と布袋を掲げて量に驚いている。

「…どうしたの?これ」

聞くな。

「処分に困っていた。おまえならピッタリだろ」

戦利品として出す事になるとは思わなかったが…いや、少なくともそんなものが戦利品になるような戦いでは無かった。だが、これを押し付ける事が出来る他のタイミングが思い付かない。

「仲間で食うなり、好きにしろ」

「……あ。なら、僕…これ、侍童に配りたいんだけど、いい?」

「………」

「ネイロス?」

「…好きにしろ。それはもう、おまえのもんだ。どうしようとお前の勝手だ」

「…うん。そうする。ありがとう。ネイロス」

そう言って、菓子袋を抱えて嬉しそうに微笑む奴は、まるで全て知っているような顔をしていて…ムカつく。



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