嘘吐きたちの幸福
一ノ瀬ミライは、とんでもない奴だ。彼の名前を出すと、皆が皆、頼まれてもいないのに彼について知っていることを語りだす。
例えば、髪が白くなってきた中学の担任に訊くと、
「すごい生徒です。筆記試験をやらせれば、どんなに難しいものでも必ず満点を取る。教師は皆、いったいどんな問題を出せば一ノ瀬に満点をとらせないのか、テストを作るときに考えてますよ」
と、嬉しそうに、少し悔しそうに語っている。
例えば、クラスメイトの女子に訊くと、
「優しくて、頭がよくて、クラスでも目立ってる。乱暴な男子がケンカしても、ミライ君が仲裁に入ると嘘みたいに解決しちゃうの。すごくない? 少女漫画に出てくる王子様って感じだよね!」
と、やや黄色い声で語っている。
例えば、ミライのかかりつけの医師に訊くと、
「大変珍しい症例です。彼の脳は、一度見聞きしたことを絶対に忘れないんですね。普通に物覚えがいいのとは違う。きっかり十年前の夕食について訊けば、献立はもちろん、何時何分何秒に食べたか、その時父親が割ったシャンパングラスの欠片がいくつ床にあったか、そんなことまで淀みなく答えるのですから」
と、眉根を寄せて、豊かなひげを蓄えた顎に手をあてている。
一ノ瀬ミライは、特別な人間だ。彼の名前を出せば、誰もがそう語っていた。まるで、生ける伝説を目撃したとでも言うように。またミライ自身もそれらの評判を、なんでもないような顔をして受け流していた。それが自然なことだった。そうするものだと、暗黙のうちに決まっていたのだ。
だが、そんな日常を唐突に打ち破った人間がいた。彼女は、嬉しそうにするでも、悔しげにでもなく、ただ淡々と、薄い表情でミライを語った。
「彼は、特別ではありません。天才でもありません。ごく一般的な、私たちと同じ人間です」
帳カゲノ。彼女はそれまでクラスでも一番目立たない、他人にものを言うことなどまるでない少女だった。
俺は、凡人だ。何度目かの呟きをこらえて、自分の胸の内に押しとどめた。いや、何度目か、というのは言葉の綾に過ぎない。自分が生まれてからの十五年と三十六日で、この言葉を使った回数をきちんと記憶している。今回で丁度四千三百回目である。初めの頃こそ、思うだけでなく口に出して人に訴えていたが、どうも俺にその気がなくても、人にはこれが嫌味たらしく聞こえるらしい。そう気づいてからは、口に出すのは止めにした。余計な敵は作らないに限る。
クラスの女子、もとい綾瀬川がノートを広げた俺の机に手をついて、長く茶色い髪を耳に掛ける。ふわりと甘ったるい香りがするのは、シャンプーなのか、それとも香水でもつけているのか。
「ありがとうー、ミライ君教え方上手だから助かるー」
「いや、そうでもないって。先生の言ってるのそのまま言ってるだけだし」
「それでも、全部それ覚えてるんでしょ? 流石って感じ」
四千三百一回目の呟きが、胸に去来した。流石って、なんだ。胸で小さな虫がもぞもぞ動くような感覚を無視して、彼女に笑いかけた。
「はいはい、ありがとさん。廊下で森さん待ってるよ。早く帰った方がいいんじゃないの」
「そうだった。じゃあ明日ね。わかんないとこ、また訊いてもいい?」
「はいはい」
綾瀬川が、チャームやマスコットがごてごて付いた学生鞄を肩にかけて、教室を出ていくのを見送ってからネクタイを緩めた。
時計を見れば、普段学校を出る時間を既に一時間過ぎている。そういえば、夕べ準備したアオミドロの細胞分裂は上手くいっただろうか。
教室を出ると、もう学校に普段の人気はなかった。いつもならこの時間でも部活で残っている生徒がいるけれど、今は試験の準備期間である。固い廊下を靴で蹴る些細な音が、誰もいない空間に小刻みに鳴り響いた。
それほど静かであったから、螺旋階段の手前にある女子トイレから聞こえてきた声に、俺はすぐに気が付いた。どうして女子って生き物は、トイレで話すのが好きなんだろう。そのまま通り過ぎるつもりだったけれど、トイレに近づくにつれて俺の歩みは静かで遅いものになった。ただの世間話という訳でもなさそうだ。
「ほんとあんたってナイわ。なんでわざわざ先生にチクるわけ」
「ありえないー。トバリって見た目もダサいけど、性格も悪いよねー」
ああ、もう、面倒くさい。やるならせめて、もっと人目につかない場所でやれ。うんざりしつつも、反射的に「トバリ」という名前で脳内検索をする。トバリ……帳カゲノか。
ぴんと来るのに、少しだけ時間を要した。同じクラスではあるのだが、俺は彼女に大した印象を持っていない。肩よりも少し下で切りそろえられた、真っ黒い髪。着ているものは変わり映えのしない、学校指定の黒のセーターだ。はっきり言って地味で、他の色を選ぶ奴が多い中彼女は決まってこれを着ている。夏場でも長い袖で肌が見えない。服が暗くてもせめておでこでも出していればまだ明るく映るんだろうが、長い前髪のせいで、どんな顔立ちなのかもあまりよく分からない。おまけに無口ときているから、いじめの標的にもなりやすいのかもしれない。
バシャンと激しい水音がして、我に返る。まさか、バケツで水でもかけられたのだろうか。見つからないように、息を潜めてそっとトイレの様子をうかがった。狭いトイレの通路の入り口側に、背を向けて三人の女子が立ちふさがっている。あまり話したことはないけど、綾瀬川と同じグループの子だ。その隙間から、案の定ずぶ濡れの帳が見える。ふと、帳がこちらを見たような気がした。
気づかれた? 一瞬体が硬直したが、帳は助けを求めるどころか何の反応も示さずに、ただ足が地に根付いているかのようにぼんやりと立ちすくんでいた。
「……なあ。そういうの、やめた方がいいと思うよ」
ただ声を掛けるだけ、それ以上の干渉はしない。そう決めていたのに、俺の声は喉の奥で引っかかったように通りが悪かった。それでも、明らかに見られてはまずい現場を目撃された女子たちはびくりと肩を跳ねさせた。
「い、一ノ瀬」
振り返った顔ぶれには、やっぱり見覚えがある。真ん中にいた、サイドポニーテールにした黒髪をシュシュでまとめている女子が、こちらをじっと睨み付けた。
「あたしらが悪いって、決めつけないでよね。そもそもは帳が、くだらないことで告げ口したのが原因なんだから。ここで見たこと言いふらしたら、許さないからね」
捨て台詞のように吐いて、彼女たちは俺の横を通り過ぎて足音荒く出ていった。
(……人に言うなって言う時点で、ろくなことしてないのは自覚してるんじゃないか)
ひとまず逆上した相手と暴力沙汰、なんて展開にならなくて良かった。いくら女子が相手とは言え、俺は運動神経にはあまり自信はないし、万一怪我でもさせようものならどちらが悪者か分かったものじゃない。小さく息を吐いて、俺は未だに棒立ちの帳に向き直った。彼女の髪や制服の生地は水を吸ってどっしりと垂れていて、その先からぽたぽたと大きな滴が落ちている。足元のタイルは当然水浸しだ。
「えーと……大丈夫か」
こんな状態で大丈夫だったらどうかしている。言った直後にそう思ったものの、ろくに話したこともない相手に、こんな特殊な状況でかける言葉なんてすぐには見つからない。
帳は、分厚い遮光カーテンのような前髪の奥から静かに俺を見つめる。
「なぜ、助けたの」
おとなしそうなイメージと違う、凛とした張りのある声に一瞬怯んだ。彼女の声を聞いたのは、何だかんだでこれが初めてだ。
「助けてほしくなかったの? 余計なことしちゃったかな」
「そうじゃありません」
場を少しでも和ませようと笑顔を作ったけれど、ぴしゃりと言う彼女の表情には拒絶の色が見えた。
「あなたが状況に気づいてから実際に声をかけるまでには、一分近く間がありました。気づいてすぐ、あなたは慌てるのでも怒るのでもなく、どことなく嫌そうな顔をしました」
気づかれていた。予想はしていたものの、正面から指摘されて思わず笑顔がひきつる。
「もしあなたが正義感から私を助けた勇敢な人なら、あんな妙な間は存在しませんし、もっと怒った様子で声をかけるのが自然です。仮に勇敢でなく、恐れのために間が空いたのだとしても、表情が合いません。なけなしの勇気を振り絞ったのなら、多少なり声も震えているはずでしょう」
「あなたは、表情も声も行動もとても冷静だった。理由は簡単、あなたは正義感や善意からではなく、計算で私を助けたから。本当なら通り過ぎたかったけれど、私に気づかれたから仕方なく声をかけた。周囲からの自分のイメージが崩れることを恐れて」
一方的にそこまで言って、彼女は俺を置いてトイレを出ようとした。
「ち、ちょっと!」
咄嗟に大きな声で帳を引き留めると、彼女は首だけくるりとこちらを向いて、水の滴る前髪を厭わしげに耳にかけた。
「心配しなくても誰にも言いません。動機がどうであれ、助けてもらったのは事実だから……でも、気を付けて。あなたは自分で思っているほど演技が上手くない」
彼女はこれだけ言って、今度こそ俺のもとから去って行った。
「嘘つきは泥棒の始まり、ですよ」
水浸しの女子トイレに、俺は茫然と立ちすくんでいた。衝撃のあまり、瞬きすら忘れていた。彼女に、自分の考えを見抜かれたから? 前髪から覗いた彼女の瞳や顔立ちが、想像を絶するくらい綺麗だったから? いや、違う。
初めて見たはずの黒い瞳に、強い口調に、強い既視感を覚えたからだ。でも“思い出せない”。彼女と以前会ったことがあるのか、それはいつ、どこでなのか。人生で初めてのこの感覚が、こんなにもどかしくて不安で、自分の根底がぐらりと揺れるように苦しいなんて知らなかった。何度人に聞いても分からなかったこの感覚が、自分の身にしっくりと染みわたっていく。
はっと、我にかえって腕時計を見る。アオミドロを確認しなければならない時刻を、もう大幅に過ぎていた。
「時間も押してるし、さっさと配役決めちゃうぞ。とりあえず、立候補でも推薦でもいいから、好きに名前挙げてって」
目の前で騒がしく起こる、役の押しつけ合戦を眺めながら、耳に飛び込んでくる名前の数々を「ネズミ」だとか「カボチャ」だとか、既に書かれている役名の下にチョークで記す。 テストも終わって学園祭の準備に入り、俺たちのクラスでは演劇をやることになった。演目は、王道中の王道、シンデレラ。流石に絵本の内容そのままだと退屈だから、ところどころ面白おかしくアレンジしてる。「タコ」とか「ホビット」とか、どこで出てくるのかよく分からないイロモノの役もあるのはそのせいだ。果たしてこれは吉と出るか、凶と出るか。
「綾瀬川さんがー、シンデレラがいいとおもいまーす」
端役の下ばかり名前で埋まっていく中で、突如主役候補の名前が挙がり、クラスの注目が集まる。当の綾瀬川はと言えば、恥ずかしそうに俯いている。
(……ま、予想通りかな)
予定調和な展開を黒板に書き残していると、今まで傍観者であった俺自身にも白羽の矢が飛んできた。
「綾瀬川さんシンデレラなら、王子は一ノ瀬くんでどう?」
その提案に黄色い声が上がるけれど、正直気は進まなかった。綾瀬川が、俺に気があるらしいことは周りの話で知ってるし、クラスのマドンナの恋を成就させようと皆が気を回して、こんな風に推薦してきたのも理解はできる。でも、俺からしてみればはっきり言って余計なお世話だ。勝手に恋人のレッテルを貼られても困る。
何というか、女性として魅力的なのは否定しないけど、どうもあの甘ったるい匂いや仕草が肌に合わない。同じ甘い、と言っても白砂糖じゃなくて、どことなく人工甘味料を連想する。
「いやあ、俺は演技もアレだし、ネズミか町の人辺りでいいよ」
「えー、ずるーい。人のは全部書いてるのに」
「じゃあ、一ノ瀬くんは誰か推薦はしないの?」
今度は、俺に視線が集まる。綾瀬川ほどではないにしろ、俺の発言もそれなりに影響はある。ごくりと唾を飲み込んだ。
「そうだな、王子役は運動部で人望もある二川を推してみる。で、シンデレラ候補も一人で即決定だと面白くないから……」
教室全体をゆっくりと見渡し、人差し指を泳がせる。ふと、一番後ろの席で我関せずと頬杖をつき窓の外を見ている帳が目に入った。
「対抗は、帳で」
自分の声が、必要以上に大きく響いたような気がした。まごついたり、苦笑いしたりする者もいた。誰にとっても予期しない名前だっただろうが、一番唖然としていたのは帳自身だった。言葉には出さないけれど、抗議するような視線がひしひしと伝わる。
誰もがどう反応するか扱いに迷っている中で、すっと手を上げたのは綾瀬川だった。
「ミライ君の人選を疑う訳じゃないけど、一応理由を聞かせてもらってもいい?」
彼女の言葉に頷いて、遠くの席にもはっきりと通る声色で語り始める。
「勘違いしないでほしいのは、何も綾瀬川が不適任だと感じて他の候補を出した訳じゃないってこと。綾瀬川は華やかだし、お姫様っていう花形を演じるには申し分ない。でも、劇は見た目だけで成り立つものじゃない。いい演技があってこそだ。シンデレラは華やかなだけじゃなくいじめられるシーンもあるし、明るい綾瀬川にそういう場面が演じられるかはまだわからないだろ」
「対抗を出した理由は分かったけど、それが帳さんなのは?」
「単純に、イメージが綾瀬川と対照的だったから。比較対象として分かりやすい」
ざわざわとしていた教室の空気が落ち着いてきた。一応、言い分には納得してもらえたらしい。他の女子が、小さく手を上げた。
「じゃあ、どうやって決める? 投票?」
「いや、それじゃあ日頃おとなしい帳は不利だし、肝心の演技が見られない。可能なら、二人に台本の一部を演じてもらって、オーディションにしよう」
「……そうだね。私はそれでいいよ?」
綾瀬川からは了承をもらえたので、今度は帳に向き直り笑いかける。多少ぎこちなくなってしまったのは仕方がない。
「…………分かりました。やります」
言葉とは裏腹な帳の鋭い目が直視できなくて、俺はそっと視線をそらした。
「一ノ瀬さん、先日失礼な言い方をしたことは謝ります。でも、あんなやり方で仕返しするなんて、卑怯だと思います」
案の定、ホームルームが終わったと同時に俺は問答無用で彼女に袖を引かれ、廊下に連れ出された。
「仕返しなんて人聞きが悪い。君が俺の演技が下手だって言うから、そういう君の演技はどうなのか気になっただけだよ」
「あんなの、言葉の綾じゃないですか。私のことは放っておいて」
「こうでもしないと、君みたいなタイプは俺なんか相手にしてくれないだろ」
帳の表情は、少し戸惑いを帯びたものに変わる。
「俺なんか、なんて言葉は不釣合いです。あなたみたいな、周りから評価されてて才能もある人が、私のような人間に今更関わらなくたっていいじゃないですか。私を笑いものにしたいだけならやめて。馬鹿にしないでください」
帳が怒ったまま去ろうとしたので、今度は俺が帳の袖を掴んだ。
「待って。帳の気持ちを無視して、勝手に巻き込んだのは悪かったよ。でも、悪気があった訳でも、嫌味を言うつもりもないんだ。ただ本当に、帳の……カゲノのことを知りたいだけで」
「どうして。今までろくに話したこともなかったくせに。私がクラスで孤立してることへの気遣いのつもりなら、結構です」
「そうじゃない。……カゲノ、俺たち、前に会ったことないか。この学校で会うよりも以前に」
カゲノは怪訝な顔をして、少しの間黙り込んだ後、首を振った。
「……いいえ、覚えがありません。同じ街ですし、もしかしたら道端ですれ違ったことくらいはあるかもしれませんけど」
そう言われて、即座にそれは違うと感じた。そうじゃない。いつ、どこでかは分からないけど、確実に言葉を交わしたはずだ。でも、他でもない俺自身の記憶が曖昧な以上、反論しても意味がない。
「そっか……ありがと」
彼女は俺が掴んで皺にしてしまった袖を細く白い指先でちょいちょいと直す。深い闇色の生地の上に、彼女の肌の白さがまるで夜の雪のように浮かび上がっている。
「一ノ瀬さん。私、演技は嫌いなんです。だから、してあげるのは今度きり。あなたに付き合ってあげるのも、今回だけです」
「……分かった」
「それでも、あなたが私を知りたいと思うなら」
カゲノは、くるりとこちらに背を向けた。膝丈のスカートの裾が、風を吸い込んでふわりと持ち上がる。
「私を観察して。表情を、声を、言葉を、仕草の一つ一つを。例え上っ面や嘘で塗りたくっていていても、そうすれば必ず本当のその人が見えてくるものだから」
意味ありげな台詞を言われた後であったからか。オーディションの日、俺は自分が演技をする訳でもないのに、妙に胸がざわついて居心地が悪かった。
「シンデレラ役のオーディション始めます。範囲は台本の十一ページ、三行目の台詞から、ページまたがって十二ページの一番最後まで。二人に演じてもらった後、自分がいいと思う方に手をあげて。先に、どっちがやる?」
「私、やるよー」
元気よく手を上げた綾瀬川に、クラスメイトからはおお、と声が漏れる。綾瀬川の宣言を聞いて、俺とカゲノは教室入り口の掲示板の傍に身を寄せた。教室は普段と違って掃除の時みたいに机を後ろに寄せ、前方に空間を空けている。真ん中を役者のスペースとして、半円を縁どる形でクラスメイトが綾瀬川を遠巻きに見ている。役者選考のための即興のステージとしては十分だろう。
綾瀬川が、朗々と台詞を読み上げる。台本を片手に持ちながらだけど、アドリブで身振り手振りをつけてきた辺り、手を抜かずに練習してきた感じがする。
「どうして、私ばっかり舞踏会に行くことができないの。お母さまもお姉さまも、意地悪だわ」
悲痛な面持ちで、哀れっぽい声のトーンで演じる綾瀬川は、可憐な容姿も相まって絵になっている。普段のイメージと差があったからどうなるかと思っていたけど、流石と言うべきか、これなら文句なく主役を演じることができるだろう。何といっても、華がある。
綾瀬川が台詞を読み終わり、ぺこりとお辞儀をすると観客から大きな拍手が湧いた。かわいかったよ、と仲の良い女子が笑顔で綾瀬川を迎える。
まだカゲノの演技が始まってもいないのに、もうほとんどこれで決まったかのような空気が流れている。この後演じるのは、ちょっとプレッシャーだろう。無口で暗い印象のあるカゲノに、綾瀬川のような華やかさを出すのは難しい。
巻き込んでしまった負い目もあり、心配になってカゲノの様子をうかがう。周りの雰囲気などどこ吹く風、彼女の顔つきはいつも通り落ち着いたものだった。もしかしたら、ただ緊張してるだけなのかもしれないけど。
何も持たずに、さっさと真ん中のスペースに歩き出そうとしたから、俺は慌てて引き留めた。
「台本、忘れてるよ!」
カゲノは煩わしそうにこちらを一瞥して、小声で俺の厚意を跳ねつける。
「問題ありません。ちゃんと覚えています」
し、心配して言ったのに。あまりにそっけない態度に、せめて自分だけでも応援しようという決意が早速折れそうになる。まあそれでも、辞退せずにやってくれるだけありがたいんだけど。
カゲノは観衆に向かって一礼し、始めます、と呟いた。
俺ははらはらしながら彼女を見る。綾瀬川の演技の感想で盛り上がっていたクラスメイトも、ようやく静かになった。綾瀬川も、緊張が解けにこやかではあるが、真剣な目でライバルの姿を見つめている。
カゲノの演技が始まった途端、俺も含めて誰一人として予想していなかったことが起きた。陰気で根暗な闇色の少女は、もうどこにもいなかった。
ふっと我にかえったその時、目の前にカゲノがいた。最初と同じようにうやうやしい一礼をして、ありがとうございました、とぼそりと言った。知らぬ間に握りしめていた手に、じんわりと体温が戻ってきて、急に汗が浮かび上がった。ここは、どこだ。教室? ……戻ってきた? そう感じてようやく、帳カゲノという魔法使いが俺たち全員を、今までどこか別の場所へ連れて行ってしまっていたのだと頭が理解した。
上手いとか、下手とか、そういう次元じゃない。ついさっきまで、彼女はシンデレラその人だった。格が違う。そんな言葉が脳裏に浮かぶ。
魔法が解けたクラスメイトから、呆けたような、まばらな拍手が聞こえた。そしてその拍手は徐々に連鎖し、大きなものになっていた。俺自身も、痛くなるほど両手を打っていたが、その痛みすら苦に感じない。何か目の前に人智を超えるものが降りてきて、それに捧げるかのような心境で無心に拍手を贈っていた。止まない拍手を不思議に思った他のクラスの男子が、ドアの隙間から教室の様子をうかがって目を丸くしている。
かくして、満場一致で帳カゲノはシンデレラとなり、綾瀬川は代わりに継母役を演じることとなった。
空が次第に高くなり、青く突き抜けたように澄み渡ってくる。女心と秋の空、という言葉もあるくらいで天気が変わりやすい季節だが、朝七時の天気予報では十月三日の天気は、今日も変わらず太陽のマークがさんさんと輝いていた。学園祭まであと三日。配役も決まって練習を繰り返し、本番用の衣装や道具も完成して、何もかもが順調に進んでいたかのように思われた。
だが、そういう時ほど何の前触れもなく、事態は突然転がり落ちるものである。
その日は、本番と同じ環境で、最初から最後まで止めずに通して稽古をする手筈になっていた。しかし、授業開始から十分以上過ぎても王子役の二川が現れない。
「一ノ瀬。もう二川抜きでとりあえず始めないか? 王子の出番は後半だし、やってる途中に来るかもしれねえ。これ以上待つと、時間内で最後まで通せなくなっちまう」
「そうだな……そうするしかないか」
重要な役という責任もあるのか、二川がそれまで練習を欠席したり遅れたりしたことはなかった。違和感はあったものの、あまり長く待てないのも事実だ。最悪、王子のシーンだけ抜かすか他の誰かが代理で台本を読むしかない。
衣装を着たまま所在なさげにしているクラスメイトを見渡す。普段とは違う質素な綿のエプロンと地味な三角巾を結んでいるカゲノと目が合い、強く頷かれる。頷き返して、俺は練習開始の合図をしようとした。その時だった。
体育館の大きな扉が、ばんと音を立てて荒々しく開かれ、誰かが中に飛び込んできた。誰もが、それは二川だと想像した。しかし、実際は遅れていた別の男子生徒だった。
「おい、まずいことになったぞ」
息も絶え絶えに彼が口にした言葉に、その場にいた全員が固まった。
二川が骨折した。簡潔に言うと、説明された内容はそういうことだった。
二川は今朝、珍しく寝坊をして練習に遅れそうになった。慌ててアパートの階段を駆け下りたら、足を滑らせた。俺のような運動音痴ならともかく、運動神経が抜群の二川が階段でつまづくなんて、余程焦っていたに違いない。見込み通り、彼は責任感の強い男だったようだ。もっとも、それが最悪の形で出てしまったのだが。
現在、彼は病院に運ばれて手当てと検査を受けている。状態によっては入院もありえるらしい。つまり……三日後の劇には、出られない。
「こんなことなら、万が一のためにダブルキャストにするべきだったな」
「でも……今更それを言ってもしょうがないよ」
普段否定的な発言の少ない綾瀬川も、今ばかりは苦言を呈していた。
「どうしよう。王子は台詞も多いし、今から代役は間に合わないよ。いっそのこと、台本を変える?」
「いいえ」
口元に手を当てて考えていたカゲノが、綾瀬川の提案を即座に却下する。オーディションでの実力を見て以降、皆がカゲノに劇や演技に関する意見を求めるようになっていた。
「後半の場面は、王子がメインで動かしているものが多いです。細部だけでなく、台本そのものを大幅に変えなくてはいけません。それでは、今まで練習した意味がないです」
端役が抜けるぶんにはまだ良かった。俺のやっている「ネズミ」なら、同じ役の人間が複数人いるし台詞も一言二言だ。他の「ネズミ」役の奴が、もう一言余分に覚えて二人分台詞を言えばそれで済む。でも、王子は違う。ほぼすべてのシーンに出てくるシンデレラに次いで台詞が多く、しかも一言一言が長い。そんなもの、自分が演じるわけでもないのにすべて正確に覚えている奴なんかいないだろう。
「……なあ、俺の役、代わりに誰かお願いできないかな?」
この俺以外は。
一気に、皆の視線が集まる。まだ俺の真意が分かっていないのか、ぽかんとしている顔も多い中、カゲノはいち早く俺の言葉の意味を汲んで厳しい目を向けてきた。
「分かっているんですよね。ネズミの時みたいな大根役者ぶりじゃ、通用しないことは」
「本当は、実力にそぐわないことくらい理解してるさ。でも、やれるのが俺しかいないんだから、ここで名乗り出ないのは違うだろ」
カゲノは小さく微笑んだ。見逃してしまいそうなくらいさりげなくて、一瞬だけだったが演技以外で見る彼女の笑顔は、即座に脳に焼き付いた。
「度胸は評価するわ。演技の方は、本番まで責任もって私が見ます。それでいいわね?」
俺が頷くと、男子連中が一気にはやし立てた。あちこちから、安堵の溜息が聞こえる。皆何だかんだで、成功させたいって気持ちは一緒なんだろう。俺もまた、カゲノの演技を目の当たりにして、この劇はすごいものになるかもしれない、なんてらしくもなく期待を抱いていた。
綾瀬川は不安そうにこちらを見ていたが、俺が見ていることに気づくといつも通りにっこりと笑ってみせた。
全員がステージ裏に移動する。誰もいないステージ。練習の開始を告げる楽しげな音楽が、流れ始める。
「ミライ! それじゃ全然だめです。王子はモテモテで優雅な大人の男なんです。私の手を握るだけで、表情がこわばってどうするんですか」
女の子と放課後、二人きりで演技練習。役どころは図らずも、王子と姫。これって結構おいしいシチュエーションのような気がするんだけど、まったく嬉しくないのはなぜだろう。
「そんなこと言ったって、経験ないんだ!」
「現実がどうかなんて関係ないわ。一度劇に入ってしまえば、あなたは一ノ瀬ミライではなく一国の王子なんです。普段の自分は捨ててください」
「頭では、分かってるんだけどさ……」
自分の演技は、ぎこちなくて緊張してる。台詞も言い間違えないように意識しすぎると棒読みになるし、声に感情を込めようとすると今度は顔が固くなる。カゲノに指摘されるまでもなく、自分で分かっている。このままじゃだめだってことくらいは。
もどかしさに髪をぐしゃぐしゃとかきまぜると、カゲノが教壇の上に開いたまま置いてある台本を二、三ページめくった。シンデレラの台詞だけじゃなく王子や端役の台詞にまでメモがしてあるそのページは、ピンクや緑の蛍光色が幾本もの線になってどぎつく目に飛び込んでくる。カゲノはその線の上に人差し指を滑らせた。
「特にここが気になるの。ちょっと感情を込めて読んでみて」
彼女が指差す部分は、王子がガラスの靴に合う娘を探し回って、ようやくシンデレラに巡り合う場面だ。深く息を吸って、緑で塗りつぶされた台詞を読み上げる。
「あなたが……あの時の姫だったのですね! やっと会えた! どんなに私が、あなたに思い焦がれたことか!」
王子の喜びと驚きを自分としては一生懸命表したつもりだが、シンデレラ役兼鬼監督はかぶりを振った。
「棒読みよりましだけど。王子の気持ちがちゃんと想像できてないわ。わが身のことじゃなくて、やっぱりまだ他人事って感じがする」
「どこが悪い?」
「嬉しい場面を嬉しく、悲しい場面を悲しく演じればいいって思ってるでしょ」
ぐうの音も出ない。
カゲノの表情はいつになく真剣で、真っ直ぐな眼差しをそのまま見つめ返すのが少しためらわれるような意志の強さを感じる。
「ミライ。どんな自分を人に見せるか、自分がどう見られてるのか、いつも気にしてるあなただったら分かるはずよ。誤解されて辛くても、平気なふりしてなきゃいけない時ってあるでしょう。逆に、内心どうでもいいって思ってても、いい人のふりして悲しい顔したりしない? それで、そんな自分に気づいて、ああ切ないなあって思ったりしませんか?」
「……カゲノって、普通言わないようなことバッサリ言うよな」
「言わないだけ。小さな子どもでもなければ、皆少なからず本音と建て前を使い分けてます。そうする理由は自分の醜さを隠すためかもしれないし、ストレートに言って相手を傷つけないためかもしれないけど。そういう点では、私たちって舞台の上じゃなくても常にお芝居してるようなものなんじゃないかって思うんです」
「……現実の人間だけじゃなくて、物語の中でも同じってことか」
なんとなく、カゲノの言いたいことが掴めてきたような気がする。何でも思ったことをそのまま表す人間だっているかもしれないけど、少なくとも王子はそうじゃない。彼がどう思っているかだけでなく、どんな風にそれを周りに出すのかまで考えて演じないといけないってことか。
それを人に指摘できるということは、カゲノはいつもそういうことまで考えて演技していることになる。確かに、練習の様子を見ているだけでも彼女の演技は引き込まれるし、目の前で悲しんだり笑ったりしている女の子がカゲノであることを、ふっと忘れて見入ってしまう。オーディションでも思ったことだけど、彼女の演技力や知識は素人の領域を超えている。
「ひとつ、訊いてもいいか。カゲノって、どうして演技嫌いなの。めちゃくちゃ真剣にやってるし、実際すごく上手いのに」
できるだけ、何気なく言ったつもりだったが、カゲノは目を見開いて、顔を伏せ黙り込んでしまった。夕刻の風が音を立てて、教室のカーテンを揺らした。
気まずい沈黙に耐えられなくて、俺が口を開こうとした時、彼女はようやくそれを破った。
「真剣にやってるってだけじゃ……普通の人から見て上手ってだけじゃ、足りないの。それに気づいちゃったからです」
カゲノは薄く微笑んだ。こういう笑顔が、今さっき言った本音を隠すための笑顔なんだろう、と頭の隅で考えていた。
「私の母はね、女優なの。世間には秘密にしてるから、誰とは言えないですけど。少なくとも、そういうことをする必要があるくらいには有名な人。小さい頃は母のようになりたくて、お稽古を頑張ってました。母も、私のことを二世の子役として、自分とともに売り出したかったんでしょうね。昔はよく、オーディションにも行ってたんですよ」
「どれくらいの時の話?」
「さあ……物心ついた時からですから、もう覚えていません」
わずかに開いた窓から吹き込む風が、彼女の長くつややかな髪を弄んでいる。沈みゆく残光を、真っ黒い髪がきらきらと跳ね返していた。
「でも……だめでした。どんなに頑張っても、私は主役に選ばれたことがなかったんです。頑張れば頑張るほど、もともと上手な子との差を痛感して辛くなったの。本気で目指してる人が集まる場では、才能は努力で埋められないんだなって思ってしまった。気が付けば、母が私をオーディションに連れていくことはなくなりました」
カゲノは顔を上げた。その表情は、いつものすました、一見無感動にも見えるものに戻っていた。
「私はね、あなたがうらやましい。誰にも負けない才能があって、人から評価されてるあなたが」
言葉って、目に見えるなら針の形をしているんだろうか。彼女の言葉一つで、突かれるような細い痛みが電流のように胸に走る。
今までなら、俺はまたごまかしただろう。へたくそな笑顔で周りを騙して、自分の気持ちを隠して。でもこの痛みが、普段の比ではないほど強く押し寄せて、作ろうとした端から笑顔を崩していく。今ここで自分を偽れば、彼女が手の届かない遠くへ離れて行ってしまうような気がして怖かった。
「俺は、凡人だ。……凡人なんだよ」
その言葉を口に出した途端、喉が熱く震える。小鼻がつんと痛むのを堪えて、自分の内側から押し寄せる波をぐっと呑み込んだ。
「皆、俺がすごいんだと思ってる。他の人間にはない特別な能力があるんだって、皆が俺を特別扱いして……」
目の前でカゲノが、怪訝な顔をしてこちらを見つめている。でも、今の俺には目の前の光景や自分の立っている固い木の床の感覚すらもあやふやで、脳裏を次々に駆け巡る消えない記憶の波にもみくちゃにされる――それは、担任の値踏みするような視線――クラスメイトの残酷なほど無邪気な笑顔――かかりつけの医者の、モルモットを見るのと同じ目つき――アクセサリーを自慢するように、自分のことを親戚に語る母親――そして、俺が国からの表彰状を破き捨てた時の、父親の底冷えのする眼差し。
「ミライ!」
絹を裂くような、悲鳴じみたカゲノの声で現実に引き戻された。気づけば、俺は頭を抱えてしゃがみ込んでいたらしい。
「大丈夫ですか。気分が悪いの?」
「ごめん。嫌なこと思い出すと、いつもこうなっちゃうんだ。大丈夫だから」
元々血の気をあまり感じない彼女の肌が、更に青く見える。細い眉を八の字に寄せて、大きく見開かれた双眸は焦燥をはらんで揺れている。ああ、厳しい顔ばかりしてるけど、人を心配してこういう顔もするんだって、他人事みたいに安堵していた。
「俺はね、欠けた人間なんだ。“忘れる”っていう、皆が当たり前にできることができないだけなんだよ」
それでも、人は言うんだろう。本人がどう思おうと、常識の範囲を超えた記憶力は紛れもなく“才能”なんだと。でも、人間は忘れるべくして忘れている。そうすることで、辛い記憶の呪縛から多少なりとも解放されてるんだって気づいていない。俺からすれば、“忘れられる”ことの方がはるかに大切な才能のように思える。
「忘れられないとね、いつまでも嫌な記憶や思い出が、突然今起きていることのようによみがえる。普通だったらそれは時間とともに薄れていくんだろうけど、俺の場合は死ぬまで囚われ続けるんだ。皆が思うほど、いいもんじゃない。でもそれなのに、この欠陥をありがたがらないと、傲慢だとか、贅沢だって言われる」
自然に乾いた笑いが漏れた。
「俺の親父は特にそれが顕著でね、ガキの頃正直に気持ちを言ったら、ぶん殴られたことがあった。結局、ちやほやされたって睨まれたって、見られてるのは能力の物珍しさで、俺自身の気持ちはどうでもいいみたいだった。……カゲノには、そんなつもりなかっただろうけどさ。トイレで会った時、俺の下心ちゃんと見抜いて言ってくれたの、案外嬉しかったんだよね」
カゲノに目線を戻して、ぎょっとした。彼女の目に、にわかには信じがたいものが浮かんでいた。この世で最も、男を動揺させる物質が。
「ごめんなさい」
ふっくらとした白い頬の上を、大粒の滴が転がり落ちる。
「あなたを、とても傷つけることを言った」
ズボンのポケットに手を突っ込んでまさぐったけど、生憎裏地の感触しかない。洗濯機の前にそびえたっている服の山に、ハンカチも紛れてしまったままだった。仕方がないから、カッターシャツの袖で彼女の頬を拭う。濡れて肌に貼りついた生地からは、涙の生々しい熱さがじんわりと伝染した。
「気にすんなって。偉そうに言ったって結局、俺はこれがないとどうにもならないんだからさ」
カゲノに出会ったことがあると気づいた時の、自分自身の焦りを思い出す。普通の人間のように忘れることができたなら、どんなにいいかとずっと想像し続けていた。でも、もし実際にそうなったら、俺はどうなるんだろう。記憶力を取って、後に何か残るんだろうか。
さっきまで生ぬるく感じていた袖が、急速に熱を奪い冷たくなっていく。俺はぶるりと身震いした。
秋に入ると、最終下校時刻が三十分早くなる。光陰矢の如し、なんて言うけど、今日ばかりはあともう少しだけ、ゆっくりと時間が過ぎてほしかった。というのも、明日はいよいよ劇の本番なのである。
「ああ、鐘鳴っちまった……」
「まだまだ練習し足りないって顔ですね」
カゲノにくすりと笑われる。この三日間、カゲノは自分の練習だってあるだろうに、本当によく俺に付き合って指導をしてくれた。正直、彼女がいなかったら俺の演技はさんさんたるものになっていただろう。
「私ももう少し一緒にやれればいいんですけど、もう出ないと、見回りが来ちゃいます。帰る前に、念のため多目的室に寄ってもいいですか?」
「いいけど、どうして?」
「道具が足りてるか、最終確認しておきたいんです。当日気づいても、間に合いませんから」
彼女の完璧主義に半ば感心しながら、机の上にぞんざいに置いてあった鞄を肩にかける。カゲノと練習するのもこれきり、練習終わりに一緒に駅まで帰るのも、今日で終い。そう思うと、感傷がこみ上げてくる。もう一度スパルタ特訓を受けたいっていう訳ではないけど。
俺よりも頭一つ分背の低い彼女と、肩を並べて歩く。時間が遅いこともあって、廊下に人通りはほとんどなく、上履きのペタペタという音が二人分、静寂に包まれ薄暗くなった空間にこだましている。
「……あれ」
長い廊下の最奥にある多目的室から、かすかに蛍光灯の光が漏れている。あの部屋は、学祭の前は俺たちの学年の出し物に使う衣装や大道具の物置場と化している。この時間帯、昨日や一昨日も俺とカゲノは部屋の近くを通って帰っていたけど、多分使っていた奴はいなかった、と思う。
本番前日だし、誰か最後の準備でもしてるのかな。
その程度に考えて、多目的室のスライド式ドアを俺は勢いよく開けた。置いてあるものは多いけど、基本的には端に寄せているから扉を開ければ視界は開けていて、部屋全体を楽に見渡せる。だから、奥の方の、何着かドレスがかけてあるスペースの前で、見慣れた後姿がしゃがんでいるのもすぐに気づいた。
「よ、綾瀬川。なにしてんの」
そのあと、綾瀬川がくるりと振り返って、ミライ君、といつも通りの笑顔を向けるところまで、即座に想像した。でも、予想に反して、綾瀬川はぴくりとも動かない。返事もしない。
「綾瀬川ー」
聞こえていないのかと思いもう一度呼んでみたけど、やっぱり反応がなかった。よく見ると、ただしゃがんでるんじゃなくてうずくまっているように見える。もしかして、保健室に連れて行った方がいいだろうか。
足早に綾瀬川の方に近づいた時、彼女が低くうめくような声で言葉を発した。
「来ないで」
一瞬、その声が綾瀬川のものであることを疑った。日頃聞く、高くて甘ったるい女の子らしい声音と、耳に残るドスのきいた声とが結びつかない。困惑して、それ以上進むこともためらわれて、綾瀬川の丸まった背中とその奥の衣装とを、交互に見つめる。そして、俺は痛烈な違和感に襲われた。
彼女の目の前にある、スカイブルーが鮮やかなプリンセスラインのドレスに目が留まる。カゲノが幾度となく、舞台上で身にまとっていたもので、演じていた彼女の姿が、まるで今ここで起きているかのように脳裏に蘇って――――
断言できる。俺の記憶に焼き付いているこのドレスは、こんなに丈が短くも、胸元部分がちぎれてだらりと下がりもしていなかった。
反射的に、俺は綾瀬川の手元を見ていた。茫然とドレスを見つめる彼女の手には、大きな鋏が握られていた。家庭科の授業で使う、裁断ばさみ。ドレスの惨状と、鋏。点と点が繋がるのに、さして時間はかからなかった。
「……本当に……なにしてんだよ?」
理解はできた。でも、認めたくなかった。分かりたくなんてなかった。この状況で、カゲノが、他の皆が成功させようと頑張っている中で、それをぶち壊そうとする奴がいるなんて。皆の前で、ニコニコ笑ってた癖に。文句なんて言ったこともなかった癖に。
もし女性相手でなければ、感情に任せて暴力をふるっていたかもしれない。実際、それをこらえてきつく握りしめた拳が、それでも御しきれずにわなわなと震えていた。
やっと綾瀬川がこちらを振り返った。普段からは想像もつかないほど、冷めた表情。重い空気の中、綾瀬川は口を開いた。普段と変わらぬあどけない口調が、凍てつくように冷たく響く。
「ミライ君、最初からこうするつもりだったんでしょ。頭いいもんね。そういう計算だって、簡単にできちゃうよね?」
「何、言ってるんだ」
「役決めの時に王子様断ってたのは、私がシンデレラなのが嫌だったんでしょ。他の女の子を他薦して、私を他の役に追いやってから自分が王子になる。そういう手筈だったんでしょう。皆みたいに騙されないから」
本気で、綾瀬川が何を言っているのか分からない。どうして今になって、役決めの時の話が出てくるんだ。
「ミライ君が、私に興味ないのは知ってる。ミライ君は特別だもん、それは仕方ない。でも、私の気持ち分かってるのに、こんなやり方ってないよ。どうして……よりによって、選んだのが帳なの? こいつにあって、私に足りないのって何。私はずっと片思いしてきたのに、我慢も努力もいっぱいしたのに、急に全部私が築き上げたもの持っていって、ミライ君の隣に、何でもないような顔でそばにいてさあ!」
金切り声で叫んで、綾瀬川はカゲノを睨み付ける。カゲノはまったく動じず無表情で彼女を見つめ返しているけど、その無言の圧力にもすくまない。
「こんなことしたら、皆裏切ることになるってくらい分かってたけどっ……帳が、私の着れなかった綺麗なドレス着て、ミライ君と踊るの見てるくらいだったら、全部台無しになっちゃえばいいって、思っちゃったんだよ……」
すべて言い終わって、綾瀬川はそれまでの噛みつかんばかりの勢いはどこへやら、風船がしぼむみたいにしくしくと泣きだしてしまった。
それを見て、俺は握りしめていた拳の力が抜けていくのを感じた。順調にいってると思ってたのは、俺ばかりだったのかもしれない。綾瀬川の行為を庇うことはできないし、するつもりもない。でも、内心俺が綾瀬川をいとわしく思っていたことは否定できないし、もとはと言えば俺がカゲノを無理に引き入れたことが原因だろう。表面上は問題がなくても、最初からきっとうまくなんていってなかった。俺はもっと、表面以外のところを見なくちゃいけなかったのに。
誰もその場から動かない中、カゲノは俺の背後からゆっくりと進み出でて、何を思ったか涙でぐしゃぐしゃの綾瀬川の頬を両掌で挟んだ。俺は修羅場を覚悟した。
「その意気です、綾瀬川さん」
「……え?」
思わず間抜けな声が出た。綾瀬川が激昂した以上に、カゲノのこの反応が信じられない。俺の想像が正しければ、彼女は今誰よりも怒っているはずなのに。
俺の理解を置いてけぼりに、カゲノはいつも通り淡々とした口調で語った。
「あなたは以前から、負の感情を露出するのを嫌がる傾向があり、演技にもそれが出ていました。本番で、今のような嫌悪を私に向けられれば、シンデレラの継母としては完璧です」
完全に予想の斜め上を行く言葉に、当の綾瀬川が狐につままれたかのような顔をしている。当然だ。普通に考えて、怒鳴り散らされてもおかしくない。
恐る恐る、切られやぶかれたドレスをしげしげと眺める彼女の横顔を窺った。表情だけ見ると、普段と何ら変わらない。
「カゲノ。……どうにか、なりそう?」
「肩のところは、最悪縫って上に何か羽織れば、どうとでもごまかせます。でも、スカートの方がちょっと」
そう言われて、一緒になってスカートを見る。確かに、上半身と違いスカートは一枚布で出来ているから、もしこのまま繕って繋げたとしても縫い目やつなぎ目は目立ってしまうだろう。
「スカートも、エプロンで隠すか?」
「シンデレラのドレスは、舞踏会用ですよ。エプロンドレスは流石に合いません」
「じゃあ、同じ布で作り直すとか」
「そこまで大きい布の余りがないですし、第一ワンピースタイプですから、やるとしたら一から縫製しなおす必要があります。プロでもない限り、一晩では無理です」
即座に思い付いた案は却下されたため、再び何か策はないかと頭を巡らせる。ああ、本当に、前日になってとんだことをやらかしてくれたもんだ。綾瀬川を一瞥したけど、彼女は暗い表情で俯いている。彼女の協力は期待できそうにない。俺が何とかしないと。
「完璧に直すのが無理なら……もういっそ、そういう演出ってことにするのはどうだろう」
「演出、ですか」
「そう。今の台本だと、魔法使いが無条件でドレスを用意する流れになってるけど、シンデレラがドレスを手作りする展開に変えて、継母が実際に意地悪で完成途中のドレスを切り裂く演出を入れてしまえばいい。それで、魔法使いが出てくるシーンまでに、裏にいる人間が安全ピンとか使って即座に直す。台本が変わるとしても、継母とシンデレラのわずかなやり取りだけ」
俺が最後まで言い終える前に、カゲノは手早く鞄から台本を取り出して該当のページをめくっていた。シーンとシーンの間の時間を計算しているんだろう。
「……もし、最後の舞踏会の場面で多少ドレスの傷が見えたとしても、演出の結果としてある程度ごまかせる……観客の方に寛容になってもらうということですか。学園祭の劇だからこそできることですね」
「そう。駄目かな?」
カゲノは台本をぱんと閉じた。
「時間・技術、ともに可能です。その方法で行きましょう。……綾瀬川さん」
ここで彼女が、何も口を挟んでいなかった綾瀬川に声をかけた。途端、綾瀬川の肩がびくりと跳ねる。カゲノの視線が、どことなく鋭さを帯びた。
「あなたは何か誤解していたようですが、私と一ノ瀬さんの間に特別な感情はありません。仮にそう見えるとしたら、それは劇のためにやっていること。そこを勝手に誤解して、ごく個人的な事情でクラスの皆さんが作った衣装を損壊したことを、私は許していません。でも、言いたいことを言うのはお互い劇が済んでからにしましょう。あなたには責任もって、変更分の台詞を演じてもらいますから」
綾瀬川が、やっとのことで頷いた。やっぱり、カゲノは怒っていたのだ。ただ、それをすぐに出さずに、まずは冷静に対応をした。すべては、芝居を成功させるために。こんなところでまで、彼女は出来のいい役者だ。
ああ、とカゲノは思い出したように付け足した。
「それから、もうひとつ訂正があります。あなたは、一ノ瀬さんを特別だと言いましたね。でも、私に言わせれば違います。彼は、特別ではありません。天才でもありません。ごく一般的な、私たちと同じ人間です。お芝居と現実を見抜けずに混同すると、痛い目にあいますよ」
そう言って、彼女は茶目っ気たっぷりにウィンクをした。彼女には、敵わない。俺は笑いながら、天を仰いだ。
学園祭当日。劇場である体育館には、観客用に所狭しとパイプ椅子が並べられていたけれど、結局それでも足りずに立ち見の客までいる状態だった。舞台裏では、設置されている二つのモニターから観客席の様子と、今まさに進行中である劇の様子が見て取れる。観客席では、無数の黒い頭がもじもじと蠢いている。暗くて一人ひとりの様子までははっきりと分からないけど、きっとこの大量の黒頭の中に、車椅子に乗った二川も混じっているんだろう。
役者の方の調子も、上々だった。カゲノの演技は言わずもがな、綾瀬川も、迷いが吹っ切れたように鬼気迫る継母を演じきった。ドレスをふりではなく本当に切ってしまうという例の演出も、観客には受けが良かったらしい。
今は舞踏会のシーンの直前で、舞台の照明を落とし大道具の入れ替えを行っている間に、女子たちが恐ろしいほどの針裁きでシンデレラのドレスを直していたのを見た。カゲノは多分奥で、舞踏会用の髪型のセットと化粧直しをしているんだろう。
どぎまぎしながら待っていると、美しいスカイブルーを身にまとったカゲノが螺旋階段の奥から姿を見せた。練習の時と違い、薄く化粧を施した彼女は見ているだけで何だか落ち着かなくなってしまう。
「ねえ、俺大丈夫かな」
弱気な発言をした途端、彼女はきっと俺を睨む。
「王子がそんなことでは困ります。あなたは責任もって私が指導しました。しっかりしてください」
カゲノの柔らかい手を取り、舞台そでに控える。王子の衣装の胸飾りが、自分の呼吸とともに揺れる。出番はあと少し。カゲノが、ごく小さな声で話しかけてきた。
「ミライ。私、お芝居はもうこりごりだった。どんなに頑張っても、天賦の才がなければ結局は無駄なんだってそう思ってました。最初の頃、才能あるあなたに嫉妬して冷たく当たった。こんな人は、自分みたいに苦しむことなんてないんだろうって」
彼女は色とりどりのライトで照らされた舞台を見つめていた。どんな思いで、一度夢破れた彼女はここで踊るんだろう。シンデレラを演じるんだろう。
「でも、あなたも実際には、何者でもない自分に苦しんでいた。痛みを忘れられないあなたは傷つくことを恐れて、人と本気で付き合うことを避けていました。それなのに、ミライは私と向き合って、最後まで真剣に苦手な演技の練習をしてくれて。そんなあなたを見て、頑張れることも才能なんじゃないかって思えたの。だから、私は今ここにいることを後悔してないです」
彼女は笑った。微笑みではなく、満面の笑顔。そのあどけなさが残る笑顔に、記憶の中の少女が重なった。
やっと、見つけた。俺も自然と笑みを零していた。
「最後くらい、演じることを楽しんで。お芝居の中だけでいいから、私に本気で恋をして」
格調高いワルツが始まる。合図に彼女の手を強く握り、俺たちは光の中に進み出た。
一世一代の、お芝居が始まる。