家族
「ミルちゃん。荷物ここで――」
ぱちっと電気が点く。力也は眩しさのあまり目を細めていた。
(あっ)
一瞬の内に二人とも元の場所に戻っていた。そして、何事もなかったかのようにそれぞれ明後日の方向を向く。
「あっ……お邪魔だった?」
おどけたような口調でそう言ったのは、大きめの段ボールを持って扉のところで固まっていた響歌だった。
「じゃ、邪魔ってな、何が?」
「邪魔ってどういうことですか?」
二人の声がほとんど重なる。
「うふふ。なんでもないわよ」
響歌は満面の笑みを見せる。完全に楽しんでいた。
響歌はまだ笑みを消さないまま、持っていた段ボールを力也の部屋の机の上に置く。
「あっ、ありがとうございます」
ミルは立ち上がって、机に置かれた段ボールを開け始める。
電気が点いたのでわかったが、ミルは綺麗な服装をしていた。いや、この場合は清楚と言うべきか……。黒のニットワンピースにビビットカラーの赤いタイツという服装だ。そのタイツは、寒さ対策なのか、細い足を隠すためなのか……。
「ふふふ。どう? かわいいでしょ? 私の服を貸してあげたのよ」
思わず見惚れていると、妖艶な笑みを浮かべた響歌が力也の顔を覗き込んでくる。
「ええ! 母さんの!?」
力也は、思わず素っ頓狂な声をあげてしまう。それもそのはずだ。四十歳の響歌が着るには若すぎる服装だからだ。……といっても、響歌なら似合ってしまうのだろうが。
力也が驚いている間にも、力也の丸机の上に段ボールから出された荷物が置かれていく。学校の制服やスクールバッグ。それに、カバンに入りきらなかった教科書。下着やパジャマやコートなど。でも、そのどれもがくすんでいた。そして、最後に出てきたのは、ぼろぼろのピンクの長財布だった。
(……んん? 財布?)
力也の頭の中で何かが引っ掛かったが、結局、その引っ掛かったものの正体はわからなかった。
「で……ミルは何をしているの?」
力也の隣に座った響歌に問いかける。
「何って、荷解きよ」
さも、同然という風にそう言う。
「あっ……ミルちゃん。衣服は全部洗うから、分けておいて」
「はい。わかりました」
ミルは、響歌に言われた通り、教科書と衣服を左右に分けていく。今時の中学生なら、この量の十倍以上の服を持っているだろう。それほど、ミルが持っていた服は少なかった。しかも、そのどれもがお世辞にも綺麗とは言えないほど汚れてしまっている。
「荷解きって、別にここでしなくても……」
力也は呆れ混じりにそう言う。ミルが寝るところで荷解きをすればいい話だ。こんなところでしてしまえば、ミルの部屋まで運ばなくてはいけなくなるではないか。……これではまるで……。
「ここじゃないとだめよ。だって、ミルちゃんはここで寝るんだから」
(……えっ? 今なんて?)
力也は思わず耳を疑ってしまう。おそらく、今の力也の顔はさぞ間抜けな顔になっていただろう。
「どういうこと?」
響歌から言えば、意味のわからない質問だっただろう。でも、頭の中が意味のわからないことになっている力也からすれば、それが一番自分の頭の中を整理するのに最適な言葉だった。
「どうもこうも、ミルちゃんはこの部屋で、力也と一緒に寝るのよ」
また、当然のように響歌は言う。
(…………一緒に……なるほど。一緒に……ねえ……って)
「えぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!」
力也から出た素っ頓狂な声に響歌もミルもびくっと肩を震わす。
「いや、だって部屋なら他にもあるじゃん! この隣の部屋とか、空いてるでしょう?」
いつの間にか力也は捲し立てるように話していた。それは、力也が今までに出したことのないような速さだった。
「えぇ。だってぇ、隣の部屋は昌也さんの作品がたくさん置いてあるしー」
対照的に響歌はゆっくりと話していた。わざとか?
と、そこで力也は思い出す。
(そういえばあの人、画家みたいなこともしてたっけ?)
あの人とはもちろん、昌也のことだ。昌也はイラストレーターという職業であったが、パソコンでの絵描きに飽きた時は、水彩画を描いていた。仕事に飽きるのはどうかと思ったが、まあ、水彩画で描いても、相当の実力だったので、別にそこは気にしないことにしている。ちなみに、力也は響歌の血を引き継いだのか、絵をまったく描けない。
「じゃあ、母さんのところで――」
と言いかけたが、未だにこの二人は一緒に寝ているので、ミルは寝る場所がない。
他に力也は場所を考えてみたが、どれもだめだった。昌也の仕事場はもちろんだめだし、リビングで寝させるわけにもいかなかった。
響歌はにこにこ微笑んでいた。ミルもうれしそうに笑っている。
「ここしかないのか……」
力也は二人の笑顔に呆れながらそう呟く。
仕方なく! 仕方なくだが、承諾するしかないようだった。
でも、そこで力也は、はたと気付く。それは、とてもとても重要なことだった。
「でも、ベッドは? 一つしかないよ? 床に布団敷くの?」
確かに力也のベッドは、シングルにしては少し大きかった。身体の小さな人なら、二人寝れるだろう。……でも、男女が一緒のベッドで寝るわけにはいかなかった。
力也がそう質問すると、響歌は人差し指を唇に当てて、悩んでいるような表情を見せる。
「お布団高いのよねぇ……」
どうやら、響歌は元々布団を買う気なんてないようだった。その証拠に、ミルにウインクを決めている。
(はあ)
心の中で溜め息を吐きながら、ミルのほうをちらっと見ると、ミルは恥ずかしそうに頬を紅潮させていた。
「襲わないでね」
語尾にハートマークがついていたのは、気のせいだろうか?
「襲わないよッ!」
力也がうわずった声を出すと、二人とも笑いだす。どこが、そんなに面白いのか……。力也にはまったくわからなかった。
(はあ)
力也は再び溜め息を吐く。一体、この二人は何がしたいんだろうか? というか、そもそも、ミルと響歌はこんなに仲良くなっていたのか……。
「まあ、力也に女の子を襲う勇気なんてないと思うから、安心していいよ」
響歌のフォローも力也にはなんだか嫌味ったらしく聴こえた。
(悪かったですね)
唇を尖らしてすねるが、事実なので反論のしようがなかった。というか、だいたいの男はそうだろうに……。
「はい。……安心してますよ」
ミルは力也のほうを見て微笑む。その、「安心してます」の本当の意味を力也が理解するのは、もう少し後のことだ。この時はただ、自分が軽い男と思われていなかったことを本気で安心していただけだ。
「よしっ。じゃあ、『ミルちゃんがうちの家族になりました』祝いに晩ご飯食べに行こっか」
響歌は弾んだ声でそう言う。
その言葉を聴いたミルの目が潤んでいたことを、力也はずっと忘れないだろう。
「近くのお寿司屋さんでいい?」
『お寿司』という単語に、反応してしまう。だって、ミルにとって寿司は――
ミルは、顔をうつむかせていた。きっと、あのことを思い出しているのだろう。
「母さん。……お寿司は……」
力也は、そのことをできるだけ口に出さないようにしながらも、響歌に伝えようとする。
「はっ。……そうだったわよね。……じゃあ、イタリアンにしましょうか」
力也の言わんとしたことがわかったのか、それとも剣呑な雰囲気を悟ったのか、響歌はそのことに気付いたようだった。
「――いえ! お寿司が食べたいです」
顔を上げたミルの表情は、どこか辛そうだった。……我慢しているのだろうか?
それを聴いた力也は思わず立ち上がっていた。
「どうしてッ? だって、お寿司はミルにとって――」
「確かに! 私にとってお寿司は、辛い思い出と同じようなものだよ! でも……でも……」
ああ、違っていた。ミルは我慢をしているのではない。ミルはまた、乗り越えようとしているのだ。学校を克服しようと決意したように、辛い過去を克服しようとしているのだ。
両手をぎゅっと握り締め、必死に自分の過去に勝とうとしている。
その間、力也と響歌は口を出すことができなかった。ただ、ミルの言葉を待つことしかできなかった。
やがて、ミルはゆっくりと口を開く。
「……今なら、わかるの! 私はきっと、今日食べるお寿司の味を忘れないだろうなあって」
ミルのその涙と笑顔が、力也に深く突き刺さって、いつの間にか力也の目からも涙が出ていた。
この時、力也は思う。
もしかしたら僕は、ミルがいる時だけ変われるのかもしれない。ミルの笑顔を見ていたら、元気が出てくるから。ミルの涙を見ていたら守ってあげたいと思うから。ミルの感情をこの世界からなくしたくないから。……だから僕はミルの前では頑張れるのだ。きっとそれは、ミルを助けた時だって同じだ。直感的に僕は、守ってあげたいと思ったのだろう。でもそれは、人として、倒れている人を放っておけないというような感情の他に、もっと別のものがあるような気がした。その感情の正体はわからないけど、きっと……やっぱり勘なのだろう。
「そっか……じゃあ、行こっか」
「うん!」
ミルのその笑顔は、窓から見える空の星より輝いているように思えた。
「そう……そんなことがあったの……」
「そんなことがあったのか」
車で寿司屋に行く途中、力也は、今日あったことを端的に話した。どの道、保護者には、生徒が自殺したことについて連絡が来る。なので、隠しておく必要がなかったのだ。それに、力也が明日学校を休むことも伝えなくてはならなかったからだ。
「だからミルちゃんと抱きしめ合っていたのね」
響歌は助手席に座っているので、力也から顔は見えないが、おそらく響歌は、納得したような顔をしているのだろう。ちなみに、今日あったことを話す際、ミルに励まされたことについては詳しく話さなかった。理由は簡単。恥ずかしいからだ。
(げっ)
そういえば、見られていたんだっけ? と今更ながら力也は思い出す。
「力也、そうなのか?」
昌也は、赤信号で車を止め、後ろを振り向いて食い気味に訊く。
「ま……まあ」
力也は曖昧な返事をしたつもりだったが、どうやら昌也にはそう聴こえなかったらしい。
青信号に変わったところで自分の心を表現しているかのようにアクセルを思いっきり踏み、車を急発進させる。
「そうかそうか! いいことだな!」
急発進のせいで車が一瞬アニメのように上に歪んだ気がしたが、おそらく気のせいだろう。
何がいいことなのか力也にはまったくわからなかったが、ミルがさっきから吐きそうなので、雑な運転はやめてほしかった。そもそも、昌也はペーパードライバーなので、運転はいつも響歌がやっていたのだが、「今日は記念日だから一家の大黒柱が運転する!」という迷惑な発言により、昌也が運転することになった。それにより、三人に多大な迷惑がかかっている。本人は気付いていないようだが……。
「……でさ」
力也は昌也を無視して話を進める。
「明日は、それについての集会があると思う。……だから、明日は学校、休みたいんだ」
車はゆったりと走り始める。どうやら、昌也は運転のセンスを取り戻したらしい。
力也は今まで学校を休んだことがない。そんな力也がこんなことを言うのは、どういうことか、響歌も昌也も悟ってくれたようだった。
「そう。……じゃあ、ちょうどいいわね」
「えっ?」
こんなに快く承諾してくれるとは思わなかったので、力也は驚いていた。それに、「ちょうどいい」とは、どういうことだろうか?
響歌と昌也は頷き合っていた。それを疑問に思っていると、やがて響歌が口を開く。
「実はね。ミルちゃんの服があまりにも少ないから、休日にでも二人に買わせに行こうかなあと思っていたところなのよ」
響歌は後ろの二人を見つめながら微笑む。
「わ、私のことは気にしないでください! 私はあれだけ服があれば大丈夫ですから!」
いつの間にか酔いから復活していたミルは慌てていた。前のめりになって、必死に、「そんなことはやめてください」と訴えている。
(別に遠慮しなくてもいいのに……)
響歌が言っていたように、もうミルは力也の家族だった。遠慮することはない。それに、ミルの持っている服があまりにも少なかったことは力也も思っていたことだ。ミルの服を買いに行くというのなら、喜んでついて行った。
「でもさー……」
響歌はちらちらと力也を見る。
「力也が、あの服は気に入らないって。もっと可愛い服着てほしいって言ってたよ?」
(いつ言ったんだよッ)
まったくのでたらめを響歌はミルに吹き込もうとする。こんなことを言っても、ミルは特に気にしないだろう。
「えっ」
ミルはちらちらと力也を見る。
「そうな……んですか。……じゃ、じゃあ甘えさせていただきます」
(あっ……甘えちゃうんだ。全然いいんだけど……)
「うんうん。それがいいよ、ミルちゃん。ついでに、昌也さんが今日、水族館のチケットを二枚もらったらしいから、水族館も行ってらっしゃい」
響歌はうれしそうに微笑みながらバッグの中から二枚のチケットを取り出し、ミルに渡す。
「わわ! 水族館なんて、六歳の時におじ……ぃ……」
うれしそうだったミルの表情が暗転し、突然ミルは口を押さえる。
異変に気付いた力也がミルの背中をさする。
「大丈夫ッ?」
ミルは突然吐き気に襲われたようだった。力也が背中をさすっていたことが、効果があったのかはわからないが、ミルは徐々に体調を取り戻していった。
「ミルちゃん、どうしたの? また酔っちゃった?」
心配そうな表情で響歌が問いかける。
「ええ。そうみたいです。……すみませんでした。心配かけてしまって」
ミルは力也に「ありがとう」と言い、上体を起こす。
(酔いだったのか。……何か辛いことでも思い出したのかと思った。……よかった)
力也はこの時、そんな風にしか思わなかった。でも、ここで気付くべきだったのだ。ミルが六歳の時は今から九年前。つまり、ミルの祖父母が死んだ年だということに。
「もう! 昌也さん、もっとちゃんと運転してくださいよ!」
響歌は強い口調で昌也を戒める。
「すまない。これでもゆっくり走っているつもりだったんだけど……」
昌也は普段あまり怒らない響歌に怒られて、すっかり意気消沈していた。
「もう!」
そうこうしている内に目的の寿司屋さんに着く。
あれから、ミルが吐き気を催すことはなかった。それどころか、寿司屋を前に、小さい子のようにはしゃいでいた。
寿司を食べている間、ミルはずっと、まるでそれを初めて食べたかのような表情で、おいしそうに食べていた。
寿司を食べ終えた後、ミルは力也に囁いた。
――お寿司、おいしいね。……私、この味を忘れないから。
ここから二人のデートが始まっちゃいます




