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Peace World  作者: 黒糖パン
4/30

無視とは

 ふと、ミルのことを考える。

(そういえば、ミルって中学に行っているのかな?)

 力也は家の近くの公立高校の紺の制服に身を包み、バスに揺られていた。

 あまり音楽が好きではない力也は、もちろん音楽端末を持っていない。なので、いつもは暇つぶしに頭の中で授業の予習をしているのだが、今日真っ先に頭に浮かんだのは、化学記号でも数学の方程式でもでも英語の単語でもなく、ミルの顔だった。あの、大きな漆黒の瞳がこちらを見つめていた。

(……でも、服も綺麗に洗えない状態だったらしいから、それが嫌で行ってないかも……)

 いつだって、目を閉じればミルの笑顔が見えた。無垢とは言えないが、力也にとっては、とても素敵で綺麗な笑顔が。

(うちに来たら、まず中学に行くように言わないと。服も綺麗になるんだし)

 力也は、特に何も考えずにそう思った。それが、どれだけ残酷で無責任なことなのか知らずに。

 バスは学校近くの停留所に着く。

 バスを降りた力也に冷たい風が吹き付け、力也は身を震わせる。これだけ寒いのだから、せめて空だけは晴れていてほしかったが、空は曇天だった。黒々とした雲が町全体に覆いかぶさって、光を遮っている。

 閉門の十分前に門をくぐり、昇降口で靴を履きかえ、廊下を歩く。学校全体が朝の喧騒に包まれていた。教室の扉を開けると、一瞬、教室内の喧騒が止む。数人のくすくす笑いをあまり気にしないようにしながら力也は自分の席に座る。教室内の喧騒は徐々に戻ってくる。

 これでも、力也はいじめられているわけではなかった。実際、力也自身に害があるわけではなかったし、それに力也にはこのクラスに数人友達がいる。これはネクラなやつに対する嘲笑だ。

 でも、力也がいじめられていないからと言って、このクラスが平和なわけではなかった。

「おはよう」

 丸眼鏡をかけたおとなしそうな女の子が教室に入ってくる。

「……」

 しかし、その挨拶に返事をしようとする人は誰もいなかった。

 そう、いじめられているのは、力也ではない。いじめられているのは、今教室に入って来た女の子――石谷(いしや) (すず)だ。

 今の時代のいじめの方法は、二、三十年前のように暴力をふるったり、悪口を言ったりしない。するのはただ一つ――無視だ。

 暴力をふるえば、暴行罪で爆死する。悪口を言えば、場合によれば名誉棄損罪や侮辱罪で爆死する場合がある。そこで、今の時代のいじめの方法となったのが、無視だった。無視は良い。なぜなら、何の罪も犯さずに人を傷つけることができるからだ。そして、もしもの時は、「聴いていなかった」「聴こえていなかった」で済ますこともできる。

 力也は一度、鈴に話しかけられたことがあった。でも、「今急いでるから」と言って誤魔化した。無視はできなかった。ただ、ここで普通に話せば、今度は力也が標的になるかもしれなかった。力也は、それが怖かった。今の友達にも無視されるようになれば、おそらく力也は……。

 鈴はいつも通り無視されると、俯いて自分の席、力也の席から二つ右隣りの席に座る。

 力也はゆっくりと鈴のほうに目を向ける。鈴は力也を見つめていた。丸眼鏡の奥の目が何かを訴えているようだった。その「何か」は、何かわからない。だから、力也は行かなければいかないと思った。今すぐ彼女の元に行って、「何か」を訊かなければならないと思った。

――でも、力也は動けなかった。足は竦み、膝は震え、身体は強張る。

(僕は関係ないんだ)

 そうやって言い張って、自分を正当化する。力也にはそれしかできなかった。

 そんな力也を嘲るように、一日の学校生活の始まりを告げるチャイムが鳴り響いた。

 昼休み、力也は、八代(やしろ) (とも)(あき)と一緒にご飯を食べていた。智明は、このクラスになった頃、力也のネクラな性格を気にせず、積極的に話しかけてくれた。今では、力也の一番の友達だった。

「力也さ。好きなやつでもできた?」

「ごふっ」

 開口一番に智明はそんなことを言ったので、力也は思わず口に含んでいたものを吐き出しかける。

「はははっ。慌てすぎだろ。……適当に言ったんだけど、図星だったか?」

 智明は腹をかかえて笑っていた。ばしばしと机まで叩いている。おかげで、周りから注目を浴びていた。

 智明は笑いを抑えるように手元のオレンジジュースを少し飲む。

「なんで適当にそんなこと言ったんだよッ」

 自然と力也の声は小さくなっていた。周りに聴かれるわけにはいかなかったからだ。とはいえ、もう周りの人は興味がなさそうに自分たちの世界に入っていたので、声を小さくする必要はなかったのだが。

「いやあ、だってさ、おまえ、なんか暗かったから」

「いつものことだよッ。悪かったなッ」

 力也がすねた口調で即答すると、智明はまた笑う。だが、今回は少し抑えているようだった。どうやら、学んだようだ。

「いつも暗いのは知ってる」

 智明は必死に笑いを収めようとしながらそう言う。

 そういうものの、力也は智明の前では一生懸命話しているつもりだった。……それでも、暗く見えてしまうらしい。

(悪かったな……)

 力也だって暗くしようと思ってしているのではない。これには、立派な理由があるのだ。……そう、立派な理由が……。

 力也は嗚咽を漏らしそうになり、箸を弁当箱に置く。食欲がなくなってしまった。

「……智明。弁当いる?」

 智明は、そうそうにパンを食べ終えて、ジュースを愛おしそうに飲んでいた。おそらく、まだお腹が空いているのだろう。

「えっ? まじで!?」

 智明は目を輝かせる。

「うん」

 力也が頷くと、「やったあ」とわかりやすくうれしがりながら、力也の弁当をむさぼるように食べ始める。

「やっぱり今日、なんかあったんだろ?」

 口に含んでいたものを呑み込むと、智明は心配そうな口調でそう訊ねる。

「別に……」

 そう言いながら力也は鈴のほうを見てしまう。鈴は、一人で弁当を食べていた。まるで避けるかのようにその周りの席で昼食を食べている者はいない。

 力也はもどかしさを呑み込むように、水筒のお茶を飲む。

「そっか。……何かあったんなら、相談しろよ」

 智明は箸で力也を指す。それは「俺を頼れよ」という意味だった。

「うん。……何かあったら、相談するよ……」

 そう言われたものの、力也は複雑な気分だった。

 クラス全員が鈴をいじめているということはもちろん、智明も鈴を無視していた。力也が、「石谷と話したい」と相談しても、智明は取り合ってくれないだろう。智明も、自分がいじめの対象になるのが怖いのだ。

(どうすればいいんだよっ)

 力也は机に頭だけ置いて突っ伏す。どれだけ悩んでも、解決策は見つかりそうになかった。

 結局、力也には何もできないのかもしれない。

「……で、力也の好きなやつって誰だ? このクラスか?」

「いや、違う。…………あっ」

 いろいろ考えていたからだろうか。力也は、その質問に正直に答えてしまう。

「やっぱ、いるんじゃん。誰だよ。教えろよ」

 智明は肘で力也の頭をつんつん突く。

「痛いって!」

 力也は目を潤ませて、頭を抱えながら起き上がる。目を向けた先の智明は、にやにやと笑っていた。

 絶対に教えるわけにはいかなかった。中心部に住んでいる者は、スラムに対しての目が冷たかった。かくいう、力也もその一人だった。そんな人に、「スラムで生活してきた子を好きになった」と言えば、笑われるだろうし、「やめておけ」と言われるだろう。

「あぁ。また今度な」

 だから力也は、永遠に言わないことにした。

自分を侮辱されるのはよくても、ミルを侮辱されることだけは許せなかったからだ。

「そうかよ。……はい、ごちそうさま」

 智明は、すねた表情を一転させ、幸せそうな顔で手を合わせる。

「はやっ」

 力也が弁当を智明にあげてから、五分と経っていない。これには、驚くしかなかった。

「そんなに驚くか? ……そうだ。トランプしようぜ」

 智明はカバンからトランプを取り出す。時間は充分にあった。

「いいけど、二人で?」

「二人でする大富豪が面白いんだよ」

「いや、絶対おもしろくないでしょ」

 力也は批判するが、智明はまったく人の話を聴かず、トランプを二つに分けていく。

 そして、トランプを分け終わると

「よしっ。じゃあ、ばば抜きやるか」

「大富豪じゃなかったのかよッ」

「さあ?」

 力也の鋭い突っ込みも「さあ?」でスルーする始末。一体、何がしたいんだろうか?

「まあ、とりあえずやろうぜ」

 智明は一組のトランプを持ち、ペアになっているものを机の上に置いて行った。

「はあ」

 力也も溜め息を吐きながらペアのカードを机に置いて行った。

 もしかしたら智明は、力也にわだかまっていた気持ちを誤魔化そうと――忘れさせようとしているのかもしれない。わざと楽しい話をし、力也の暗い気持ちを晴らそうとしてくれているのだろう。

 なんだかんだ言いつつ、結局はやさしいやつなのだ。

 そうして、力也はその休み時間、楽しく過ごすことができた。智明のおかげだ。

(ありがとう……)

 最終結果、五勝〇敗で力也の圧勝だった。

(……よわっ)

――でも、やっぱり忘れてはいけなかったんだ。力也はそのことを思い知らされることになる。


 授業が終わり、部活のない生徒は吐き出るように正門から出ていく。力也もその中の一人だった。生徒たちで埋め尽くされたバスに乗り、家の近くの停留所で降りる。ペンが切れていたので、力也はいつもの帰宅ルートを外れて、商店街に向かうことにした。

 ルートを外れると言っても、そう遠いわけではない。いつもは左に曲がるY字路を右に曲がって、五分ほど歩くだけだ。

 そして、その商店街で力也は彼女(、、)を見る。

 力也と同じ学校の制服の彼女は、本屋の店先で俯いて立っていた。そんな彼女を、力也は商店街の入り口付近から見つける。力也は無意識の内に足を止めていた。十メートル先の彼女の横顔がなぜか鮮明に見えていた。彼女が顔を上げる。そして、こちらを向く。丸眼鏡の奥から見える彼女の目は、涙に潤んでいるように見えた。まるで、自分を嘲るが如く……。

(あぁ……駄目だ。……駄目だ……石谷……)

 脳から吐き出されるように出てきた言葉は、喉の奥で詰まる。自然、力也は空気を求めて喘いでいた。喉元を押さえながらも、彼女――鈴に伝わるようにゆっくりと首を振る。

 それを見た鈴は、何かを呟く。それは――

――ありがとう

 鈴は走って店内に入る。そして――商店街に妙に響く女性の悲鳴。

「あぁ……あぁ……」

 やっと発することができたのは、言葉とは言えないものだった。

 重たい足取りで足を進める。身体に鉛が乗せられているようだった。

 悲鳴を聴きつけて集まってきた人たちは店内に入ろうとしない。硬直してしまっていたり、口を押さえて吐き気を我慢していたりしていた。

 店に近づく度、吐き気を誘発する臭いが強くなる。

(行きたくない……見たくないッ)

 心に反して、足は、まるでそれが義務であるかのように動いていく。

 そして、ついに本屋に辿り着く。辿り着いてしまう。

 嫌がる心を無視して、首は勝手に店内を覗き込む。

 大量の血が様々な本にぶちまけられていた。腰を抜かして震えている店員も返り血を浴びている。ガラスの破片が大雑把に赤く塗られた本に突き刺さっている。

「あぁ……」

 力也は、入口からすぐ近くの床に一冊だけ本が落ちていることに気付く。周りの床はびっしりと血に染まっているのにもかかわらず、その本だけは左半分しか赤く染まっていなかった。その理由は、本の近くに無残な形になったカバンが落ちていたことから、容易に想像できた。おそらく、爆破の瞬間、本はカバンの中にあったのだろう。それで、右半分は血を浴びなかったのだ。

「くっそ……」

 その本の右半分には、「平和」の二文字が書かれていた。

 身体の側面につけたまま、強く手を握り締める。でも、結局力也は店内に入ることができなかった。さっきまで動いていた足が竦んでいた。

(僕は関係ない。……僕は悪くないんだ。……そう、僕は何も……)

 力也は唇を噛み締め、足に活を入れて、走ってその場を立ち去る。

 商店街を出る。雪が降っていた。綺麗な白い雪が、ぱらぱらと力也に降る。その雪の重ささえ、力也には鉛のように感じられた。

(なんで、「ありがとう」なんだよッ)

 心の底の自分に対する怒りは、いつの間にか鈴に押し付けられていた。

 鈴は自殺する直前、「ありがとう」と言った。それは、勘違いなんかじゃない。力也には確かに聴こえたのだ。普通なら十メートルも離れた場所にいる人が囁いた言葉なんて聴こえるわけがない。でも、力也は聴いたのだ。涙に埋もれた「ありがとう」を。

「ありがとう」は、感謝する時に使う言葉だ。それを彼女は、感謝どころか、軽蔑するべき相手に言った。それがなぜなのか、力也が考えてもわかるはずがなかった。

 家に帰っても、誰もいなかった。昌也も珍しく外出しているらしい。

 暖房はついていた。今の空調機は、外と室内の温度を計測して、帰ってくる人に不快な気分を与えないように、勝手に稼働して室内温度を適温にしてくれる機能が付いている。なので、玄関と廊下はとても暖かい。それなのに、力也はなぜか寒気がした。おそらくこの寒気は、自分に対してのものなのだろう。

 ふいに、ミルが言った「また明日」が頭の中に蘇る。

「ごめん……」

 靴を脱ぎ捨てて、階段を駆け上がる。

 自室のドアを開くと、勝手に電気が点く。力也は電気を消す気も起きなかった。カバンを投げ捨ててベッドに突っ伏す。

 力也はいつの間にか膝を胸につけて丸まり、すすり泣いていた。

(結局、僕は何もできないんだ。……僕は変わってなんていなかったんだ)

 そうやって力也は自分を罵倒した。そうするしか、この悲しみを誤魔化すことができなかったから。

 明日は、学校で集会になるだろう。そこでいじめが明るみになるかどうかだ。そして、もし明るみになったとして、力也を含め、力也と同じクラスの者たちはどうなるのだろうか? 停学……もしくは、退学になるのだろうか? もしならなかったとしても、力也はもう高校に行く気はなかった。今まで勉強したことが無駄になったってよかった。無理して学校に行き、二つ隣の空席を見れば、力也はそこで吐くだろう。そんな変な自信が力也の中にあった。

 どれくらい経っただろうか。ゆっくりと目を開けるが、薄暗かった。不思議に思って身体を起き上がらせる。電気が消えていた。

(どうして……?)

 昌也か誰かが、力也が寝ていると勘違いして、電気を消したのだろうか?

「力也……」

 ふいに、やわらかくか細い声が力也の耳に流れてくる。

 力也は視線を下にする。するとそこには、ベッドに乗せた両手を枕のようにして眠る人がいた。長い黒髪は、床に垂れている。後頭部の部分は、包帯のようなものが巻かれていた。

「ミル……?」

 力也は小さな声で疑心半疑に呼びかける。

「んん……」

 かわいらしい声を出しながら顔を上げた――というより、顎を両手の上に乗せた――のは、ミルだった。

「もう大丈夫?」

 ミルは上目使いで力也に問いかける。

「う……うん」

 力也はまだ状況を理解できていなかったが、とりあえずそれだけ答える。

(ミル……? ん? どうしてミルがここに?)

 力也のそんな思案など知るはずもなく、ミルは尚も上目使いで続ける。

「そっか。よかった。……でも、電気は消さないともったいないよ」

 ミルは微笑む。ミルが消してくれたのか……。

(えっと……)

 力也はとりあえず、自分の頭を整理することにする。

「ちょっと待って」

「うん?」

 ミルは首を傾げる。その姿が、かわいくて仕方がなかった。自然とこんなことをするのは反則だった。

 でも、力也は自分のテンポにするためにわざと咳払いして、気持ちを整える。

「どうしてミルがここにいるの?」

「どうしてって? 力也が逢いに来てくれなかったから、私から逢いに来たからだよ」

「……」

「ふふふ。赤くなってる」

「なってない」

(くっそ。……完全にペースを掴まれてる。とりあえず、深呼吸)

 力也は、心の中で深呼吸して、気持ちを落ち着ける。

「もう退院したの?」

 必死に話を戻す。

「本当はもうちょっといなきゃだめだったんだけど、響歌さんがいるから大丈夫だろうって、先生が」

 ミルは本当にうれしそうにそう話した。

「そっか……」

 力也は感慨深い気持ちに駆られる。

(これからミルと暮らすことになるのか……。ミルはもうスラムに行かなくて済む。苦しまなくて済む……。これからは、ミルの悲しみは僕が請け負う)

 力也はそう誓った。どんなことがあっても、これからミルに悲しませるわけにはいかなかった。もうこれ以上、彼女に悲しみを背負わせてはいけない。

「で、力也はどうして泣いていたの?」

 ミルは手を伸ばして力也の目尻の涙の残滓を拭う。

「いや、なんでもないんだ……」

 力也は目を合わせていることができず、顔を伏せて答える。

 あのことをミルに言えば、ミルを悲しませることになる。さっき誓ったことだ。悲しませることなんて絶対にできなかった。

 でも――

「私は……私は……」

 ミルの声が涙ぐんでいることに気付いて、力也ははっとして顔を上げる。ミルは立ち上がっていた。そして、涙を必死に我慢した顔でこちらを見ている。

「なんでもない時に泣いたことなんてないよッ」

 ミルの声と共に、涙がぽたぽたと床に落ちる。その叫びはミルの心からの叫びだった。

(あぁ……馬鹿だ。僕)

 力也の身体は勝手に動いていた。ベッドから降りて、ミルを抱きしめる。

「ごめん……本当は悲しいことがあったんだ。これを誰かに聴いてほしい。誰かにぶつけたい。……でも、ミルには言えないんだ。ミルをもう、悲しませたくないから……」

 なんとかそれだけ吐き出すことができた。

 胸が速く鼓動していた。これが、自分のものなのか、ミルのものなのか、力也にはわからなかった。

「私は、力也が一人で悲しんでいることが悲しいな」

 力也の耳元でやさしい声が聴こえる。力也から彼女の顔は見えない。でも、微笑んでいるような気がした。おそらく、こういう時にミルは笑うのだ。

 力也はミルの背中に回した両手を強く握る。

「でも……でもさ……」

 続く言葉が見つからなかった。頭の中を必死に探すが、言葉たちは逃げてしまったかのように見つからない。

(僕は、ミルには勝てないのか……)

「もう! 男の子は女の子の言われたことに文句を言わずに従えばいいの!」

 ミルは両手を力也の肩に置き、力也の目を見据える。

「なんだよ……それ……」

 力也の頬は自然と緩んでいた。ふと、ミルの左手首の包帯が目に映った。

(こっちの傷も結構深かったのかな……?)

「さっ、話して」

 ミルがベッドに座ったので、力也もミルの左横に座る。

 力也は全てを話した。学校でいじめられていた子が自分の目の前で自殺したこと。その子が何かを自分に訴えようとしていたこと。結局自分は弱虫だったこと。もう、学校に行きたくないこと。そして……その子が自殺する前に自分に「ありがとう」と言ったこと。

 全てを聴き終わった後、ミルは中々口を開かなかった。

 もうすっかり部屋は暗闇に包まれている。唯一明るさをもたらしているものは、外で今もしんしんと降り続いている雪だった。今の二人に、明かりはそれだけで充分だった。

「ごめん……」

 力也は沈んだ声で謝る。ミルの身体が震えていたのだ。

「謝らないでッ! 私は耐えなきゃいけないの。そうしないと、生きていけないから……」

 ミルは自分の身体を両手で抱いて、必死に耐えていた。

(くっそ……)

 そんなミルを力也は見ていることしかできなかった。歯がゆかった。でも、今の力也にできることは何もない。ただ、見守るだけだ。

「あの……ね」

 やがて、ミルがゆっくりと話し始める。

 力也はそれに耳を傾けた。ミルの言葉を聴き逃さないように……。

「私も……ね、中学でいじめられてたの。いつもぼろぼろの制服で行っていたから、当たり前かもね。……でね、私も何度も自殺しようとしたの……」

 そう言って、ミルは自分の左手首の包帯を取る。窓から射しこむ雪の光が、ミルの病的に細い左手を映し出す。

 そこには、左手首を横に切るように複数の古傷があった。しかし、まだ新しそうな傷も見受けられた。

――リストカット

 そんな言葉が力也の脳裏をよぎる。

「でもね、無理だった。……どれだけやっても血は噴き出すに流れるだけ。もっと深く抉ったら死ねるのかも。……そう思ったって、私にはそんな勇気はなかった。……死ねなかった……」

 ミルは声を震わしながら、自分の右手で左手を握り、胸に引き寄せる。

 力也の身体は痙攣したように震えていた。力也はそれを悟られないように、必死に堪える。

「……縦に……縦に切ればいいんだって……」

「えっ?」

 一瞬、ミルがなんと言ったのかわからなかった。

「血管と平行になるように、縦に切れば動脈を切ることができるんだって……スラムの誰かが言ってた……」

 ミルの表情は暗くてよく見えなかった。でも、力也にはなんとなくわかった。今、ミルは……。

「でもさ、そんなことしなくてよかったんだね。……そうだよね。今の時代、死ぬのなんて簡単だよね。殺人でも窃盗でも傷害でも犯せばいい。……そうだよね」

 やはり、ミルの表情は暗くて見えない。もしかしたら、雪もミルを照らすのを嫌がっているのかもしれない。

(やめろ……)

 ミルは、冷やかしでそんなことを言っているのではない。鈴の死を笑うためにそんなことを言っているんじゃない。……本気で……本気で言っているんだ。

「でも、そうしなかったってことは、もしかしたら私は、自殺したいんじゃなくて、生きていることを証明したかったのかもね。血が流れれば、私は生きているんだって感じられる……」

「やめろ……ッ」

 嗚咽と共に出てきた言葉は、妙に部屋に響いた。

「やめたい! 私だってやめたい! ……でもね、人が癖で何かをしてしまうように、私も癖で手首を切ってしまう……それだけのことなの」

 いつの間にか雪が止んでいた。雲の隙間から射しこんだ月の光が窓から入ってくる。

 その光はミルを照らす。くちゃくちゃに泣いているミルの顔を。

(駄目だ……やっぱり僕が馬鹿だったんだ。彼女に――ミルにこんな話をしてはいけなかったんだッ)

 吐き気はミルの顔を見た瞬間に消えていた。その代わりに現れたのは、自分への嫌悪感だった。もう二度と悲しませないと誓ったくせに、それをすぐに破った自分に対する嫌悪。

 力也は何も言葉を発することができず、ただただミルが涙を堪えているのを見ていることしかできなかった。

「私は死のうとしながら死にたくなかった。……だから、私に鈴さんの気持ちはわからない……」

 ミルは、何度もしゃっくりのようなものを繰り返した後、深呼吸で呼吸を整えて、一言一句噛み締めるようにゆっくりと話していく。

「でも……ね。鈴さんが力也に『ありがとう』って言った理由はわかる……」

 ミルの目は赤く腫れていた。涙はもうほとんど流れていったようだった。でも、まだしゃっくりは続いている。そんな状態なのに、ミルはしっかりと力也の目を見つめていた。

「どうして……なの?」

 力也はミルの目を見つめ返す。

 そして、数秒の沈黙の後、ミルはその言葉を口にする。

 それは、とてもやさしくて、とても残酷なことだった。それに、ミルがいなければ力也には絶対にわからなかったことだろう。それぐらい些細で大きなことだったのだ。

「力也だけ、鈴さんを無視しなかった」

――たった、それだけだよ。と、ミルは笑いにくい顔で一生懸命笑う。

 力也は自然と首を横に振っていた。

「でも……でもッ」

 必死に否定していた。そのことを認めることができなかった。認めれば、「僕は善人だ」と言っているようなものだったから。

(そう……嘘なんだ。ミルが僕をなぐさめるためについた嘘……)

 自然と出てきたのはその考えだった。そして、頭の中では、それが真実だということになっていた。

「力也には、鈴さんの気持ちが理解できないかもしれない。……でも、無視されることの辛さを私は知ってる。そして、無視されている中で、返事をもらえることがどれだけうれしいことなのかも知ってる。だから……だから、鈴さんは『ありがとう』って言ったんだよ」

 月の光に照らされたミルは、満面の笑みを浮かべていた。

「あぁ……」

 声にならない声が吐き出される。

(そうだったのか……)

 力也は、鈴を助けるヒーローになれなかったのかもしれない。それでも、鈴には力也がヒーローに見えていたのだろう。例え助けてもらえなくても、自分に少しでも元気を与えてくれたのが力也だったから。

 だから彼女は死ぬ直前に「ありがとう」と言ったのだ。それが、ヒーローに感謝を伝えることができる最後のチャンスだったから。

「だからね、力也は頑張って学校行って! 私も頑張ってみるからッ」

 ミルの顔には、一つの決意のようなものが浮かんでいた。それは、自分が逃げたものに立ち向かうための決意だったのだろう。

(どうして……)

 その言葉を聴いた時、力也はそう思ってしまう。ミルにとって学校は、辛い思いをした場所の一つだ。自分のために、「学校に行く」なんてことを言っているのだとしたら、やめてほしかった。

――でも、すぐにそれは間違いだと気付く。

 ミルは、「力也のためだ」と言い訳して、苦難を乗り越えようとしているのだろう。今まで自分が逃げてきたことに立ち向かおうとしているのだ。ここで、断るわけにはいかない。

「うん。……行くよ。……でも、明日はだめなんだ。明日は、集会で彼女の話になると思う。……そうなったら、たぶん耐えれないと思う。……だから……」

 今度はミルから力也を抱きしめる。ミルの心臓が近くで感じられて、力也はなぜか安心できた。

「わかった。じゃあ、私も頑張って明後日から学校行くね」

 元気いっぱいにそう言ったミルの声は、どこか震えているように感じられた。

「……ありがとう」

(僕が負けてはだめだと思う。僕より何十倍も辛い思いをしてきたミルがこれだけ強いのなら、僕はもっと強くいないといけないと思う。……それでも……)


――今は、ミルに守られていたいと思った。


どんどん話が面白くなってきますのでー!

更新更新ー!

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