和束 ミル
二〇四〇年十二月十六日
午前十時頃、力也と響歌は診療所横の一室しかない病室の前に来ていた。
「今朝目を醒まされたんですよ」
微笑みながら先生は扉をスライドさせる。
少女は、ベッドから起き上がり、窓の外を見つめていた。でも、その方向には壁しかない。上から少しだけ光が射しこんでいるだけだ。一体、何を見つめているのだろうか。
少女はこちらに気付き、振り向く。すすれた長い黒髪が揺れ、少女の目が力也の目と合う。底が見えないほど漆黒の大きな目が特徴だった。もし、頬がやつれていなければ、充分に美少女と言っていいだろう。
「お名前は、和束 ミルさん。中学三年生」
少女――ミルは、力也と響歌に軽くお辞儀する。
力也と響歌もお辞儀を返す。
「和束さん。こちらの富良 力也さんが、あなたを助けてくれたんですよ」
先生は、二つの丸椅子をベッドの横に並べ、二人に座るように促す。
「そう……なんですか。ありがとうございます」
ミルは、どこか上の空といった感じだった。……いや、気のせいだろうか?
「いえいえ。ただ、一心不乱に動いただけですから」
力也は、年下相手に敬語で話してしまう。これが治れば、立派にネクラじゃないと言えるのだろう。小さなことだが。
「ふふふ。面白い方ですね」
力也が敬語を使ったからだろうか? ミルは、左手の甲で口を押えて笑う。
(ん?)
力也は、その手首の包帯が巻かれていることに気付く。頭に包帯が巻かれているのは当たり前だが、手首も怪我していたのだろうか?
「あの……手首も怪我していたんですか?」
気になったので訊いてみると、先生はなぜか苦笑いする。そして、その質問を聴いた途端、ミルは慌てたように左手を布団の中に隠す。
「……ええ。まあ、深い傷ではなかったんですけど……」
先生がお茶を濁したことに疑問を覚えながらも、あまり気にしないことにする。先生があいまいな返事をしたということは、あまり訊かれたくないことだったのだろう。そんなことを深く訊ける勇気を力也は持っていなかった。
「……」
妙な沈黙を破ったのは、スライドドアをノックする音だった。
「失礼します」
渋い男の声が聴こえ、スライドドアが開けられる。
入ってきたのは、警官の服を着た二人組の男だった。昨日、現場検証をした人たちだ。
警察が入ってきた途端、なぜか美瑠は顔を逸らすように窓のほうを向く
「今日は、被害者が目を醒まされたと聴いたので、事情聴取に参りました」
長身の警官が渋い声でそう言う。
犯人がミルを襲った理由を訊きに来たのだろう。どんな事件でも、動機は重要だ。
力也と響歌が席を立って椅子を譲ろうとすると、「すぐ終わりますから」と言って、長身の警官がそれを制止する。
ミルはまだ、窓のほうを向いて顔を伏せていた。
「和束さん、どうしました?」
ミルの行動に疑問を持った先生が心配そうに訊ねる。
「い……いえ……」
そう言ってミルはこちらに向きなおすが、やはり顔は伏せたままだった。
「……先輩。またあの子ですよ……」
後ろにいた中肉中背の警官が囁くように長身の警官に言ったのを、力也は聴き逃さなかった。
(……また? またって、どういうこと?)
『また』ということは、以前にも同じようなことがあったということだろうか?
「はあ。……またお前か。今度はなんだ? 理集 直樹さんに別れ話でもしたのか?」
長身の警官は呆れ口調でミルに問いかける。おそらく、理集 直樹とは、犯人の名前だろう。
その言葉を聴いた途端、ミルは顔を上げ、警官を睨みつける。
「そうですよ! もう、直樹のわがままについて行けなくなったから、別れたいって言ったら、キレられて殴られたんですよ」
ミルは言い終わった後、昨日の嫌なことを思い出してしまったのか、痛そうに頭の傷の部分を手で押さえる。
「大丈夫?」
先生がミルの身体を支えてあげると、ミルは「はい」と辛そうな顔で頷く。
「以前とほとんど同じ理由じゃないか。まったく……」
長身の警官は呆れ混じりにそう言う。しかし、ミルに対してだけ妙に親しげな話し方だった。
「あの……さっきから、『また』とか、『以前』とか、どういうことですか?」
力也の訊きたかったことを響歌が訊いてくれる。
「あぁ……」
長身の警官は少し逡巡したようだったが、やがて、「言ったほうがいい」と判断したのか、口を開く。
「実はですね。以前にも彼女の周りで人が爆死するという事件が起きたんです。幸い、二回とも彼女は今回のような怪我を負うことはなかったのでよかったのですが、彼女には厳重注意をしていたんです。できるだけ人を刺激しないように、と」
警官が語り終えると、ミルはまた警官を睨みつける。
「仕方ないじゃないですか! 私は悪くないんですから!」
ミルが憤慨すると、警官は苦笑いを見せる。
「はいはい。わかってるよ。でも、今後気を付けるんだぞ」
「わかってますよ……」
ミルは口を尖らせながらそう言う。
今までの会話のメモを手帳に執っていた中肉中背の警官は、書き終えたのか、懐のポケットに手帳をしまう。
「では、事情聴取は終わりです。ご協力ありがとうございました」
警官二人はお辞儀し、病室を出ていく。
事情聴取と言っても、事件の事後処理のための簡単なものだ。正直な話、ただでさえ罪を犯す人間がほぼいなくなったこのご時世で罪を犯す者に対する視線は冷たくなっていた。それは、衰退した警察でも同じことだった。遺族に、どんな犯罪でどうして犯罪を行おうとしたのか、その簡単な理由を伝えられればいいのだ。それが終われば、後は平和な日本を満喫できるのだから、早く終わらせたいのも当然だ。
去り際に、「和束。もうこれ以上勘弁してくれよ」と長身の警官が言ったのに対し、ミルは、「だから私のせいじゃないって――」とまた憤慨していたが、その言葉は閉じたスライドドアに遮られた。
力也は、力也と病室で初めて会った時の彼女と、警官と話す彼女が別人のように思えた。前者のほうを例えるとすると、物静かな女の子。で、後者を例えるとすると、元気な女の子。だ。
おそらく、本当のミルは後者のほうなのだろう。まあ、今日初めて話した力也にわかるはずもないのだが……。
と、そこで、警官と入れ替わるように病室の扉を開けたのは、看護服を着た女性だった。
「先生! 緊急の患者です!」
女性は慌てた様子で叫ぶと、先生は、「わかりました。すぐ行きます」と看護師には相反して冷静に答える。
「すみません。緊急が入ったので私はこれで。和束さんの身体に負担がかかりますから、面会もできるだけ長くならないようにしてください」
手早く答えると、先生は部屋を出ていく。
「私も行ってくるね」
響歌が真剣な眼差しでそう言う。
「えっ?」
確か、今日は非番のはずだった。
「患者さんを目の前にして、何もしないなんて、私にはできないの」
可愛くウインクして席を立つ響歌に呆れた表情を見せながらも、力也は心の中では感心していた。
事故を起こしても場合によっては罪になることがあるため、最近では事故も珍しくなってきていた。なので、おのずと病院に運ばれてくる患者数も減っているのだ。そんな時代の中で――いや、そんな時代だからこそ、だろうか? ――これだけ人助けに一生懸命になれるということはすばらしいことだった。
「いってらっしゃい……」
力也は感慨深い気持ちで閉まったドアに声をかける。
ここで、力也はこの病室に二人しかいなくなったことに気付く。
「えっと……その……」
急に恥ずかしくなってくる。そんな自分に嫌気が射し、心の中で自分を少し罵倒する。
「力也さんのお母さん。かわいらしい方ですね」
ドアのほうを見つめながらミルがやさしい口調でそう言う。今のミルは、物静かな女の子。だった。
「そうですか? 僕からしたらもっと母親っぽく振る舞ってほしいですけど……」
意外とすんなり話した自分に力也は驚く。ミルの声を聴いていると落ち着く。そんなことまで思ってしまう。
「お母さんがいるだけでいいじゃないですか」
少し悲しそうに、ミルはそう言う。
「お母さんいないんですか? ……あっ」
そう言ってしまってから、この子がスラム街にいたことを思い出す。スラムに女の子がいるということは、つまりそういうことだ。
(馬鹿だ……)
自嘲しても、言葉は取り消せない。……でも
「お父さんもいませんよ。二人とも、十年前に亡くなりました」
ミルは微笑んでいた。おそらく、笑顔を崩せば泣いてしまうからだろう。ここで泣き顔を見せてしまえば、力也がもっと後悔してしまうかもしれないから、笑っているのだ。笑って、自分は大丈夫だということをアピールしているのだ。
「その後は、お母さんのほうのおじいちゃんのところに行っていたんですが、おじいちゃんとおばあちゃんも九年前にテロで死んでしまって……。お父さんのほうのおじいちゃんとおばあちゃんはもう死んじゃってたから、孤児になって……それで、行くあてもなく、スラムに来たんです」
ミルはできるだけ明るい顔を見せていたが、それは無理に作っているように見えた。
『日本改変の影響』で、たくさんの子供が親を失った。そのため、当然のように児童養護施設に入所する子供が急増し、どこの施設も空きがなくなる。そうして疎外された子供たちが辿り着くのは、スラムだ。
おまけに、政府は「ACC」製造とそれを融解させる手術に国金のほとんどを使い果たしていた。なので、普通の生活保護給付金はもちろん、スラムにいる未成年者の生活を保護することもできない。犯罪が起きない日本を作った政府が、生活保護法を守らないなど、本末転倒も甚だしかった。ほぼ毎日と言っていいほどそれに対するデモが行われているが、今も改善されていない。
(九年前のテロ……まさか……ね)
どうやら、力也には何かしらの心辺りがあるようだった。しかし、力也がこれ以上それについて気にすることはなかった。
「スラムの生活は本当に辛かったんです。配給される食事はおいしくないし、身体も服も満足に洗えないから日に日に自分が腐っていくようで……」
ミルの顔はくちゃくちゃになり、涙が溢れる。そんな彼女を見ても、力也は動けなかった。彼女の言葉を遮ることができなかった。なぜなら、ミルは苦しみを吐き出そうとしていたからだ。ここで力也が止めれば、彼女はもっと苦しむことになるだろう。力也は、彼女の言葉を全て受け止めなければならない気がしていた。
「スラムの子供は特例で仕事をすることが許されています。……あので、たくさんの仕事をしました。一生懸命働いて、ある日お寿司を食べました。両親がいた時から貧乏だったので、お寿司とか食べたことなかったんです。……とてもおいしかった。……おいしかったはずなのに、覚えていないんです。ずっとこの味を忘れないでいよう。そう誓ったのに、忘れてしまったんです。それがなぜなのか、わかりません」
力也は、吐き気を覚える。でも、それを必死に堪え、言葉に耳を傾ける。ミルの目からはもう、涙は出ていなかった。その代わり、ミルの目は虚空を見つめているように、何もない白い壁を見つめていた。
おそらく、ミルが寿司の味を忘れてしまった理由は、仕事の辛さを忘れるためだ。死ぬ気で働いて食べた食事となれば、自然と仕事の辛さが思い出される。ミルはそれを寿司の味と共に断ち切ったのだろう。
「そういえば、野良犬を食べたこともありました。犬の毛を削いで、そのまま丸焼きにしました。あまりおいしくなかったかなあ……ははは」
ミルは狂い始めていた。その証拠にミルは口だけを裂けたように開けて嗤っていた。
その時、力也は気付く。平和と平等は違うのだと。それは、今の日本でも格差が生まれるように。それは、社会主義社会でも争いが起こるように。
直感的にこの辺りで止めないといけないと思って、力也は椅子を蹴り飛ばさんとした勢いで立ち上がり、ミルの両肩を手で掴んで身体を強く揺さぶる。しかし、ミルはされるがままになるだけで、目はまだ、どこを見ているのかわからない。
「力也さんはいいですよね。何もしなくてもご飯が食べれるんですから。……ははは。羨ましいです。私も家族と一緒に暮らしたいです」
再び、ミルの目から涙が零れ落ちる。でも、ミルはそれに気付いていないようだった。自分が今何を言っているのかも、おそらく彼女にはわからないのだろう。ただ、無意識の内に心から言葉が溢れているのだ。
でも、ミルが自分をわからない代わりに、力也は彼女のことをわかった気がした。
ミルは、物静かな女の子ではなく、元気な女の子でもないのだ。本当のミルは、劣悪な環境下で必死に生きる強い女の子で、他の誰よりもか弱い女の子なのだ。
「ミルさん!」
力也はよりいっそう力を込めて肩を掴み、力いっぱい叫ぶ。
「はっ! ……す、すみません。……私、変なこと言ってませんでした?」
ミルは我に返り、あたふたする。そして、ミルはやっぱり無意識の内に言葉を発していたのだ。
(よかった……)
心から力也はそう思えた。安心して、溜め息を吐いて椅子に座る。
「ごめんなさい。……あなたの過去を聴いてしまいました」
力也は、正直にさっき彼女から聴いたことを、慎重に、言葉を選びながら彼女に言う。
「……はあ。そうですか。……言っちゃいましたか。たまにあるんです。無意識の内に何かをしてしまっていることが。……病んでますよね、私」
目尻に浮かんだ涙を拭うミル。彼女は、無意識の内に涙していたのだ。それがどういうことなのか、力也にはわかった。彼女は、心を……
「そうなんですかね? それを病んでいるって言うんですかね? 学校の友達も口癖のように『病むわー』とか言ってますけど、それと同じなんですかね? 僕に訊かれてもわかりません。……でも、今のミルさんの無意識の告白が、病みによるものなら、こんなに僕の心を揺さぶれるものなんですかね? こんなにも僕に勇気を与えてくれるものなんですかね?」
「勇気? 勇気ってどういうことですか?」
力也の曖昧な言い方にミルは疑問符を浮かべる。
力也が曖昧な言い方をしたのには理由がある。それは、他ならぬ、彼女に今の言葉を言ってほしかったからだ。
そして、今から力也が言おうとしていることは、ミルの現状を知ったからこそ言える言葉だ。
力也は立ち上がり、ミルを見つめて微笑む。
「ミルさん。……一緒に暮らしませんか?」
「……えっ?」
数秒の沈黙の後、ミルが発したのはその言葉だった。
普通、ほとんど初対面の相手にこんなことを言われれば、引くのが当然だろう。でも、力也はどんな反応をされてもかまわなかった。気持ち悪いと罵られてもよかった。それでも、自分の思いを伝えて、彼女を救いたかったから。それは、自己満足なのかもしれない。自分勝手なのかもしれない。迷惑かもしれない。でも、自分の言葉がもしかすると彼女の希望になるかもしれないと思ったから、力也はそれを伝えたのだ。
「両親には、まだ言っていません。一人で勝手に考えたことです。……同情するな、と罵っていただいてもかまいません。……でも、もしも今の言葉に嫌な思いをしなかったのなら、甘えてほしいです」
本当に無責任だと思う。だって、まだ許可ももらっていないのだ。もし、ミルが了解したのにもかかわらず、両親に無理だと言われたら、力也は果たしてどうするだろうか? まったく考えていなかった。
ふと窓の外を見ると、雨が降っていた。数日ぶりの雨だ。この雨は果たして今のミルの心情を表しているのだろうか?
「いえ……とってもうれしいです! 力也さんにも、力也さんの家族にも迷惑をかけてしまうことなので、即答するのは失礼なことなのかもしれませんけれど、でも、私はもうあんな生活はしたくないんです! お願いです! 甘えさせてください」
ミルは真剣な眼差しで力也を見つめる。
「う……うん! 親は絶対に説得してみせるから!」
力也はどぎまぎしながらも、内心では安心していた。自分を頼ってくれたことに対しての安心だ。
その後、響歌が戻ってくるまでの間、たくさんの話をした。語るようなことではない、些細な話だ。二人は自然とため口で話すようになっていた。力也はミルより一つ年上であるけれど、そんなことは気にしない。そんなことどうでもよくなるほど、力也は彼女と話していると楽しい気持ちになれた。彼女の笑顔を見ていると、自然と自分も笑顔になれた。
この気持ちがなんなのか、薄々力也は気付いていた。
「力也さん。……ありがとう。かっこいいよ」
会話がひと段落したところでミルがぽつりと呟いた言葉だ。この言葉が、力也の頭から離れなかった。
行動する勇気がなくて、人の役に立つことをしたことのない、内気な性格の力也が家族以外の人から言われた「ありがとう」。この言葉を力也は永遠に忘れないだろう。そう……ずっと……。
「あのさ、ミルさん。こうやってため口で話してるんだし、名前も呼び捨てにしてよ。なんか不自然だよ」
以前なら、口が裂けてもこんなことは言えなかっただろう。でも、今は変わったのだ。変われることができたのだ。ミルのおかげで……。
「それなら、力也さんも私を呼び捨てにしてよ」
矛盾した力也の言葉にミルは頬を膨らませる。その姿は本当にかわいかった。それと同時に力也は思う。
(強い子なんだな……)
ミルの頬は、栄養失調のせいか、やつれている。腕も病的なほどに細いし、手がこれほど細いのなら、布団に隠れている足も病的に細いだろう。
でも、そんな状況でも、ミルは感情豊かなのだ。普通、人は極限の状態に来たのなら、無表情になるものではないのだろうか? 無表情になって、できるだけ何も感じないようにするのではないだろうか? ……いや、それはもしかしたら、本当の苦しみを知らない力也のような人間が考えることなのかもしれない。本当は、何もなくなり、後は自分の感情に頼るしかなくなるのだ。人間の唯一の自由である、感情に生きる意味を見出すしかなくなるのだ。だから、ミルは感情を表すことができるのだろう。そして、力也はミルのことをわかった気がしていただけだったのだ。本当のミルは、物静かな女の子でも、元気な女の子でも、強くてか弱い女の子でもあるのだ。その『本当の自分』を、ミルは自然の内に使い分けて、生きているだけなのだ。
「……じゃあ……ミル……」
蚊の羽ばたく音と聴き間違えるほど小さな声で力也は呟く。
「なんて言ったのー? 全然聴こえなーい」
悪戯っぽく微笑みながらミルはわざとらしくそう言う。
「あーもう! ミルミルミルミルミルミルミル!」
内心、今すぐこの場から逃げたい気分だった。
「あはは。そんなに連呼しなくても聴こえてるよ」
ミルはお腹を抱えて大爆笑する。力也はなんだか遊ばれている気がした。
「なんだよ。……じゃあミルも僕のことを呼び捨てしてよ」
力也は子供のようにすねていた。
(絶対に笑ってやる)
そんなわけのわからない意地を力也は張っていた。
「力也」
顔を少し傾けて微笑みながらミルはそう言う。
(くっそ。負けだ)
力也の完敗だった。元より、あんな顔を見せられれば、力也に勝ち目はないのだろうが。
「うん? どうしたの、力也? そんな悔しそうな顔して。ねえ、力也、聴いてる?」
ミルは、やたらと「力也」を連呼する。絶対にわざとだった。でも、ミルの笑顔が輝いて見えたのは、なにも照明のせいというわけではないだろう。
窓の外を見る限りでは、雨は止んでいた。もしかすると、さっきの雨はミルを映していたのではなく、力也を映していたのかもしれない。雨が降っていた時、力也はミルのことを全然わかっていなかった。わかった気でいただけなのだ。でも、雨が止んだ今、力也はミルの本当の姿を見ることができている。だから、晴れたのだろう。
それらの会話を途中から扉越しに聴いていた響歌は一体どんな気持ちだったのだろう。それは、力也が知るはずもないし、わかるはずもない。
「力也。こっちはひと段落着いたし、帰るよ」
そう言いながら部屋に入ってきたのは、響歌だった。
「うん。わかった」
力也はそう言い、席を立って二つの丸椅子を元あった場所に戻す。
「じゃあね。また明日来るよ」
「うん。ばいばい。……また明日……ね」
『また明日』と言ったミルの顔が、恥ずかしそうに見えたのは、その言葉を言い慣れていないからだろうか?
「あっ……ちょっと待って」
立ち去ろうとした力也の服の裾をちょこんと掴んで、ミルは力也を制止させる。
「うん? どうしたの?」
足を止めて、力也は首を傾げる。
でも、数秒の間、ミルはその言葉を言うかどうか迷っているように、口をぱくぱくさせていた。
「あの……さ」
「うん」
「……」
また、ミルは沈黙する。一体、どうしたのだろうか? ミルの思い悩んでいるその表情は、なぜか苦しそうにも見えた。
そして、また数秒の後、一つの単語が力也の耳に微かに聴こえてくる。
「財布……」
「財布?」
力也は思わず聴き返してしまう。
「うん。……私が倒れていたところに、財布……落ちてなかった?」
ミルはやっとのことで言葉を出し切れたようだった。でも、内容からするに、特に言いあぐねることではなかった。ミルがあんなに苦しそうな表情をしていたのは、一体なぜだろうか? もし、力也がこの時、ミルの逡巡の理由に気付いていたならば、二人の未来はまったく別のものに変わっていたのかもしれない……。
「財布? ……ああ、確かあったよ。でも、警察の人は、身分を証明するものは入っていなかったけど、爆破した人の傍に落ちていたし、男物の財布だから、犯人のだろうって。……ミルのはなかったかなー?」
力也がそう言うと、ミルは苦笑いを浮かべる。
「う、うん。そっか、ありがとう」
その苦笑いの意味も、今の力也にわかるはずがなかったのだ。だから、未来を変えることなんてできなかった。最初から、未来は決まっているのだ。
「そっか。じゃあね」
ミルの態度を疑問に思ったが、力也はそのことを特に気にしなかった。
「うん。……ばいばい」
家に帰り、お昼ご飯を終えると、力也は「大事な話があります」とかしこまった態度で言い、二人にその場に残ってもらう。
「大事な話って?」
力也の真剣な眼差しに影響されたのか、昌也はパジャマなのに服を正す。
響歌は、なぜか穏やかな目で力也を見ていた。まるで、今から力也が言うことを知っているかのようだった。
「実は……」
力也は、ミルのことを包み隠さず話した。それは、主に彼女の過去についてだ。
どうやら、昨日力也が少女を助けたということは、響歌から聴いていて知っていたのか、昌也の呑み込みは早かった。
「なるほどな。……で、力也はどうしたいんだ?」
試すような口調で昌也は問いかける。
(僕がミルにしてあげたいこと……それは……)
力也は大きく息を吸いこむ。これから自分が言うことは、普通ならありえないことだ。でも、そんな「普通」はどうでもよかった。常識にとらわれて人を助けられないのなら、そんな常識くそくらえだ。
「彼女を――ミルをこの家で一緒に住まわせてほしい。それが、僕のしたいこと――僕の願い」
力也は、ゆっくりと、その言葉を紡いだ。この言葉が両親にどう響くかはわからない。もし、断られたら、その時は――
「じゃあ……もし断られたら、力也はどうするつもりだったんだ?」
昌也はいつになく真剣な眼差しだった。眼鏡の奥の鋭い双眸が力也をねめつける。もしかしたら、生まれてこのかた、力也はこんな父親の目を見たことがないかもしれない。
でも、だからこそ、力也も真剣に応える(、、、)。
「ミルと一緒にスラムで暮らす。もうこれ以上、彼女一人に辛い思いをさせるわけにはいかない」
喉を通らずに発せられたのではないか、と、ありえないのにもかかわらず疑ってしまうほど自然に口から出てきた言葉だった。
「そうか……」
昌也は少しの間真剣な眼差しで自分の前にあるグラスを見つめていた。
そして、顔を上げ、にっと笑う。
「わかった。力也の思いは受け取った」
その言葉を聴いた時、力也は今までに感じたことのないほどの歓喜を感じた。どう表現すればいいのかわからないほどだ。
「ほ、ほんとっ」
力也の声は裏返りかける。
「ああ。……響歌ちゃんもそれでいいよね?」
昌也は隣で耳を傾けていただけだった響歌に同意を求める。
「もちろん。力也が自分で決めたことですもんね」
響歌の弾んだ声の内側のどこかに、自分の子供の成長をうれしく思う感情が隠れている気がした。
「力也……」
突然、昌也が感慨深い声で名前を呼ぶので、思わず力也の身体は引き締まる。
「本当に成長したな。……お前は変わったよ。もう立派になった。お父さんが教えれるのはここまでだ」
昌也は、わざとらしくうんうんと頷きながら、喜びを噛み締める。
「昌也さん、力也に何かを教えていましたっけ?」
とぼけた表情で響歌がそう言う。
「おい!」
あはははは。と力也と響歌が笑う。その後に続いて、昌也も笑う。
――この時は、力也自身も自分は変わったと思っていた。でも、それは、そう思い込んでいただけだったのだ。
次の日、力也はそれを身に染みて感じることとなる。
――人間はそんな簡単に変われない。
それは、さながら神のお告げのようだった。現実を甘く見ていた力也に対しての、天からの罰……。
少し長くなってしまいました!
よろしくお願いします




