訪問
その男が家に来たのは、日曜日――十二月二十三日のことだった。
その日、力也とミルは、部屋で勉強に集中していた。というのも、事件で中、高の両方ともが臨時休校となり、実質上の少し早めの冬休みとなっていた。なので、例年より宿題も少しだけ多くなったのだ。だが、少し早い冬休みを喜ぶ者は学校に誰もいなかった。何せ、この平和な世界で殺人事件が起こったのだ。しかも、それが自分の近くで起きたとなれば、怯えるのも無理はなかった。
しかし、力也はその中に含まれていない。どれだけ周りが怯えていようとも力也の心は穏やかな気持ちで充ち満ちていた。それは、ミルがいる限り、絶対に覆されることはないだろう。
力也は微笑ましい気持ちで数学と格闘するミルの横顔を見つめていた。
「力也―、ここわかんない」
ミルは頬を少し膨らませて不機嫌そうな顔で力也に訊ねる。
「うん? えっと、そこはねえ……」
力也はシャープペンシルで紙に式を書きながらミルに説明してあげるが、説明するごとにミルの眉間の皺が深くなっていた。「んー?」と言いながら必死に理解しようとしているが、やがて諦めたのか、ミルはノートを押しのけて机に突っ伏す。
「うー。もう全然わかんないよー」
ミルの嘆きも力也は苦笑いで答えるしかなかった。
ミルはつい先日までずっと不登校だったのだ。授業の内容がわかるはずもない。それに、ミル自身に勉強に対しての意欲が見られなかった。もう、お手上げだった。
「ねえ」
「うん?」
ミルは顔をうずめたまま返事する。
「ミルはさ、高校行きたいと思ってるの?」
少し、意地悪な質問だったかもしれない。でも、別にミルが馬鹿なのを馬鹿にしようと思ってこんなことを言ったわけではない。ただ、ミルがもし行きたくないと言ったのなら、自分がミルの代わりに頑張らないといけないと思ったから質問したのだ。
だけど、予想外なことに、ミルは顔をぱっと上げて満面の笑みを見せた。
「もちろん。行きたいよ! だって、力也と一緒に高校生活をエンジョイしたいもん」
でも、その言葉を言った後、ミルはすぐにしぼんでしまった。
「うー。なのにー。それなのにー、私馬鹿だから絶対いけないよー。嫌だー。行きたいー」
その言葉に思わず力也は失笑していた。
「まだ諦めるのは早いよ。行きたいんなら、勉強しよ?」
もうすぐ一月だ。公立高校の受験はあと三ヶ月を切っている。だが、肯定的に考えるのなら、まだあと三ヶ月あるのだ。要点だけまとめてやれば、充分に間に合うはずだ。あとは高校に入ってから周りとの遅れを取り戻せばいい。
「でもー」
「ほらっ。やるよ」
ミルがまだ何か言おうとしたので、力也はそれを遮って無理矢理勉強を再開させる。
――その時だった。
家のチャイムが鳴り、来訪者が来たことを告げる。
今、響歌は友達とクリスマスパーティということで昼ご飯を食べに行っており、家にいない。昌也は部屋に引きこもって、修行でもしているかの如く周りの音をシャットアウトしているためチャイムに気付いていないだろう。
「ちょっと出てくるね」
そう言って、力也は部屋を出て一階に下り、玄関を開ける。
力也の目の前にいたのは、ぎらりとした目が特徴の中年の男だった。スーツを着ているが、身体がかなり細いのを見て取れた。
「えっ……」
力也の口からそんな言葉が漏れていた。驚きを通り越して、寒気が力也を襲う。……否、この感情は、後から考えればこれから起こる出来事の予兆だったのかもしれない。
「篠川 研路と申します。突然訪問してすみません」
男――篠川の言葉は、ほとんど力也の耳に入って来ていなかった。
(どうしてここに?)
そんな疑問が、力也の脳の中を巡っている。
篠川は、力也の疑問を悟ったのか、再び口を開く。
「こちらに、和束ミルという方がいらっしゃると伺ったのですが……」
しかし、その言葉が再び力也を困惑させる。
(ミル……? どうしてミル? ……いや――)
そこで力也はある可能性を思いつく。
そもそも、今力也が篠川を見て驚いているのは、何も有名人に会ったからというわけではない。自分たちのほうから篠川を訪ねようとしていたからだ。しかも、それはミルの頭に、「ACC」が埋め込まれていないことに関して、だ。なら、篠川がミルを訪ねてきた理由は、それについてじゃないのか? 正直、いろいろありすぎてそのことについてほとんど気にしていなかった――忘れていたのだが、篠川が来たことによって、再び力也の中にその疑問が浮かんでいた。
だが、今はそのことはとりあえず置いておこう。どちらにせよ、後で話すことになるだろうから……。
「え、ええ。いますよ。連れてきますね」
力也はそう言って、二階に上がり、自室で教科書とにらめっこしていたミルを呼ぶ。
「篠川」という名前を聴いて、ミルは力也と同様に驚いていたが、「たぶん、あのことだと思うよ」と伝えてあげると、納得したような顔を見せた。
「でも、どうして向こうから来てくれたんだろ?」
階段を下りながら、ミルが力也に訊ねる。
「さあ? わかんない。……でも、重大なことなのは確かだから、言わなきゃいけないって気になったんじゃない?」
「そっか。……そうかもね」
一階に下り、ミルのことを篠川に紹介すると、なぜか篠川の目は潤んでいく。
「ああ……雫花……」
ミルの顔を見つめながら涙を溢れさせる篠川は、何やら別の人物の名前を呟く。その声はまるで、数十年ぶりに大切な人に逢ったかのような――再会を喜ぶものだった。だが、肝心のミルは、一体なぜ篠川が泣いているのか理解できていないようだった。……もしかすると、誰かと勘違いしているのかもしれない。――否、さきほど篠川はミルの名前をはっきりと口にした。なら、一体何が起こっているというのだろうか?
「ど、どうなさったんですか?」
力也は突然のことに慌てふためいてしまう。数秒後、篠川はスーツの内ポケットからハンカチを取り出し、涙を拭う。やがて、気持ちが落ち着いたのか、話し始める。
「すみません、突然泣いてしまって……。実は、数年前に亡くなった私の娘――雫花がミルさんにそっくりなんです」
――えっ?
力也とミル、二人とも驚きを隠せないでいた。
確かに、ミルが篠川の娘と似ているというのなら、ミルを訪ねてきたのに、ミルを見て、「雫花」と言った理由が説明できる。……しかし、だとしたら、篠川は今日、娘に似ているミルに会いに来ただけであって、ミルのことについて話しに来たわけではないということか?
……いや……逆に考えてみてはどうだろうか?
ミルが篠川の娘に似ているのが理由で、ミルの頭に、「ACC」が埋まっていないとすれば……。篠川は、数年前に娘は亡くなったと言った。ならば、娘に似ているミルを傷つけることができず、ミルの脳にメスを入れることができなったと考えることができるのではないだろうか?
そう思考した時、力也の口は自然と動いていた。
「あの……もしかして、ミルが篠川さんの娘さんと似ていることって、ミルの頭に、『ACC』が埋まってないことと関係あります?」
ぴんと空気が張り詰めた。篠川は、目を見開いて驚いている。
「し、知ってたのか……」
枯れ枯れの声が篠川から漏れる。
口調が変わっていた。だが、篠川のほうが年上なので、どちらかといえば、こっちのほうがこそばゆくない。
「え、ええ……いろいろありまして……」
『いろいろ』について説明するわけにはいかなかったが、篠川は少なからずミルが何か犯罪を行ったことを悟っただろう。でなければ、自分の頭に、「ACC」が埋まっていないことなんて気付くわけがないのだから。だが、篠川がそれについて追及してくることはなかった。というか、そもそも篠川はさきほどから俯いていて、何も話そうとしない。
「あの……」
恐る恐る力也が声をかけると、篠川は重苦しそうにしながらも顔を上げ、悲痛な面持ちながらも口を開く。
「……この家に今、君たち以外の人はいるか……?」
「……父さんがいますけど?」
力也は一体急に何を言い出したのかと疑問符を浮かべながらも正直に答える。
「そう……か。……なら、場所を変えよう」
おまたせしましたー! 更新です




