出逢い
二〇四〇年十二月十五日
「どうして僕がこんなところに……」
目の前の光景を見て、富良 力也は盛大に溜め息を吐く。「力也」という名前があまりにも似合っていないこの少年は今、町のはずれに来ていた。この町のはずれは、職を失った者や働く気がない者などの、社会から疎外された者の溜まり場――一種のスラム街のようになっていた。だから、力也は落胆しているのだ。
それに、ここにある診療所で母親が働いていなければ、力也とこの場所は永遠に縁がなかっただろう。
「弁当忘れるなよな……」
ぼそぼそと母親に文句を言うが、正直、何かしゃべっていなければ恐怖に押しつぶされそうだったのだ。さっきから道端の若者から睨まれているし、後ろから視線を感じるし……。
まあ、|暴力を振るわれる可能性は皆無に等しいのだけれど。
できるだけ早く診療所に行こうと早足で歩く。三つ目の角を左に曲がり、次の突き当りを右へ……。父親に教えてもらった診療所の場所を必死に思い出し、その通りに道を進む。……進んでいるはずが、いつの間にか迷っていた。
「ここどこ……?」
いつの間にか細い路地に入っていた。
(あれも家に忘れちゃったし……)
結局、迷うことしかできないようだった。
「こんなところ進むんだっけ……?」
力也は、とりあえず前に進むことにした。
路地が、建物に囲まれた交差点に差しかかった時だった。
突然、吐き気に襲われ、力也は片手で口を塞ぐ。嗚咽を漏らしながら建物の壁に手をついて呼吸を整える。
まだ、断続的に吐き気がするが、だんだんとこの吐き気の理由がわかる。
(……血の臭い……?)
明らかにそうだった。この、胸をもやもやとする感じ。血の臭い以外にありえなかった。しかも、ここまで臭ってくるということは、尋常ではない量だ。
力也は壁に張り付き、力也が歩いてきた路地と交差している路地を恐る恐る覗き込む。
「うっ……」
再び力也は吐き気を催す。
力也の眼前に広がっていたのは、おびただしい量の血痕と、頭から血を流して倒れている少女、先端に血がついた鉄パイプだった。
力也は、ひどい臭いを堪えながら少女に駆け寄る。手首の脈に人差し指と中指を当てると、まだ鼓動していた。
(生きてるッ)
どうやら、気絶しているだけのようだった。
力也は少女――と言っても力也と同じ十六歳くらいだが――を自分の背中に背負う。
自分に予想外の力があったのか、単に少女が軽かっただけなのかはわからないが、力也は軽々と少女を背負うことができた。
(よしっ)
気合いを入れ、できるだけ早足で診療所に向かう。
路地を出ると、大きな道に出たので、そこで道端にいた人に診療所の場所を訊く。見た目は不良のような人で、最初は力也を睨んで警戒していたが、背中の少女を見るとすぐに診療所の場所を教えてくれた。根はやさしい人なのだ。
数分で診療所に着き、飛びこむように中に入る。
「力也……ッ」
受付にいた力也の母親は、驚いた表情を見せていた。職務中だったので、弁当を届けることを伝えていなかったのだ。なので、自分の息子が診療所に来たことに驚きを隠せないのだろう。……でも、力也がスラムに来た理由を話すのは後だ。それよりも――
「母さんッ……この子、道端で倒れてたんだ。まだ息はあると思う。……助けてッ」
力也は背中の少女の存在をアピールしながら早口にそう伝える。
母親は何が起こっているのかわからず、狼狽していたが、やはり看護師だ。すぐに少女の状況が危険だということを把握し、行動する。
「わ、わかった。先生呼んでくる」
数秒後、白衣を着た四十代くらいの女性が出てきた。
「すぐに手術を始めます。すみませんが、そのまま手術室まで運んでもらえませんか?」
女性は、力也にそう言う。
はっきりとした物言いの女性だった。きっとこの人なら助けてくれる。自然とそう思える人物だった。
だから、力也は希望のこもった声で答える。
「わかりました!」
少女を手術室まで運んだ後、「待合室で待っていてください」と言われたので、待合室の一つの椅子に腰かける。周りには、六十歳くらいのおばあさんと母親のふとももで辛そうに眠る小さな子供がいた。
この人たちはみな、スラムの住人なのだ。どうゆう理由でスラムに住むことになってしまったのかは知らない。だが、九年前の日本改変の影響でたくさんの人が死に、たくさんの人が恐怖から職を失ったのも事実だ。
「どうして力也はスラムにいたの?」
力也の母親――響歌が力也の隣に腰掛け、不思議そうに問いかける。
確かに、力也には絶対に縁のない場所だ。こんなところに好んで来る理由など見当たらないだろう。
「母さんの弁当を届けに来たんだよ」
呆れ混じりにそう言うと、響歌はおどけたような表情を見せる。その表情は、ただでさえ四十歳とは思えない美貌を持っているというのに、それをさらに若く見せていた。
「あれぇ。忘れちゃってたかぁ」
力也は隣の席に置いていた包みを響歌に渡す。
「ありがとう。これからは忘れないようにするね」
響歌はやさしく微笑む。
「うん。そうしてよ……」
正直、複雑な気分だった。スラムには来たくないけど、もし今日、響歌が弁当を忘れていなければ、あの少女を助けることはできなかったのかもしれないのだ。
と、ここで力也は重要なことを思い出す。
「そういえば、あの子が倒れていた場所に鉄パイプが落ちてて、その近くで人が四散していたんだけど……」
力也は、悲惨なあの現場を思い出しながら、そう告げる。すると、響歌は目を見開いていた。
「……つまり、あの子は、その、四散していた人に襲われたってことかな?」
響歌は信じられないことを聴いた時のような顔を見せていた。
それもそのはずだ。なぜなら――
「たぶん。……この時代には珍しい、傷害事件だよ」
力也の声は自然と低くなっていた。視線を落とし、何もない床の一点を見つめる。
力也はただ、怖かった。怖くて怖くてたまらなかったのだ。犯罪のなくなったこの日本で犯罪が起きたことが。
――二〇三一年十一月二十日
この日、新しい法律が発布された。
『犯罪撲滅法』
その名の通り、犯罪を撲滅するために作られた法律だ。もちろん、犯罪を取り締まる法律なら今までにもあった。刑事法が一番有名だろう。しかし、『犯罪撲滅法』は今までの法律の概念を超越していた。いや、それどころか、人間の想像を超えていただろう。
この法律の目的は、完全に日本から犯罪をなくすこと。
犯罪がない世界――それは、人間ならばほとんどの人が望むことだろう。『犯罪』の中には、もちろん「戦争すること」も含まれている。戦争も犯罪もなく、みんなが笑顔で平和に暮らせる世界。人間は長年の間それを望んできた。でも、望んでいながらも、人間はそれを実行することができなかった。いや、実行しようとしたが、うまくいかなかったのだろう。
そんな人間の夢を、この法律は実現した。技術としては難しく、発想としては簡単。そんな方法で……。
この法律は、翌月に施行された。異例の早さだった。
施行と共に国民――いや、日本に住んでいる者全員に義務付けされたのは、一度の手術だった。しなければならないのは、たったそれだけだったのだ。後は、普通に生活すればいい。
唯一義務付けされた手術で行うのは、頭にチップを埋め込むことだ。そのチップは、数日で融解するので、頭に支障が起こることはなかった。だが、問題はそのチップの性能だった。
チップの名前は「ACC」アンチクライムチップと、捻りも何もない名前だったが、そのチップの性能を正確に表しているので否定する必要もなかった。
「ACC」の性能は、脳に融解した「ACC」が、宿主の犯罪行為を感知すると、脳で爆破。宿主を一瞬で死刑にするというもの。つまり、万引きであろうが、殺人であろうが、罪を犯せば等しく死刑になるということだ。
発布以前は、政治家の中で反対意見がほとんどだったという。人権がどうとか、罪を犯した者にも更生のチャンスを与えなければならないとか。ただ、その意見は却下され、ほぼ暴君的に『犯罪撲滅法』が作られた。反対意見者を一瞬で沈黙させた総理の言葉がこれだった。
――罪を犯さなければいいだけのことだろう。
これに反論できるものはいなかった。恐ろしく正しい意見だったからだ。
こうして『犯罪撲滅法』は発布、施行されたが、重要な問題が一つだけあった。
それは、手術にかかる時間の問題だ。当時の日本の人口は約一億四千万人。外科医師を総動員しても、かなりの時間がかかった。それに、日々新しい生命が生まれるものだ。患者数は中々減らなかった。政府も対策を講じようとしたが、結局うまくいかず、全ての人が手術を終えたのは、今から五年前のことだ。つまり、四年かかったことになる。そして、力也を含めたこの町のほとんどの人は、五年前に手術を受けている。ちなみに、今では、新生児に「ACC」を手術する専門の職業ができている。
施行当時は、「ACC」の性能を疑う者が多数だった。何せ、犯罪を感知するなど、馬鹿げているからだ。そのため、手術後にわざと犯罪を行う者が少なからずいた。その者は、もちろん爆死。これによって親や夫を失った者たちがたくさんいた。ショックで自殺する者も現れ、日本の死亡者数は、騒動が治まる一ヶ月の間だけで、過去に類を見ないほどに膨れ上がってしまった。これが「日本改変の影響」だ。
その後すぐに「ACC」は信用され、死亡者数は激減した。――が、信用したからこそ激増したのは、自殺だ。「今まで以上に簡単に死ねる」そんな理由で自殺する人が後を絶たなかった。これは、今でも改善することができていない。
自殺に関連付けるわけではないが、テロまがいの行為も発生した。とある宗教が、無理に平和を造り上げた政府に反発して、都心で自爆テロを起こした。死亡者数は二百人超。今でも行方不明者が数十人ほどいる。
これら二つも、「日本改変の影響」だ。
さまざまなことがあったものの、元々の目的である「犯罪のない世界」造りは成功していると言っても過言ではなかった。実際、今では年に数件しか犯罪が起きていないという。
最近では、アメリカにも「ACC」が渡ったという噂だった。
もしかすると、人間が一番望んだ「平和な世界」ができあがるのは、そう遠くないのかもしれない。
手術を始めて一時間半ほどで、先生が待合室に現れる。
先生の顔には、やさしい笑みが浮かんでいた。その顔を見た力也は、ふっと肩の力を抜く。
「かなり傷は深かったですが、手術は無事終了しました」
温かみのある声だった。その声は、力也の身体にゆっくりと染み込んでいった。
「あ……ありがとうございます」
力也は目から涙が零れそうなのをなんとか堪え、それだけ口にする。
「いえ、お礼を言うのはこちらですよ。あなたがすぐに運んできてくださったから、あの子は助かったんです。……ありがとうございました」
ついに、涙が溢れた。その言葉に胸を突かれ、堪えきれなくなったのだ。
「いえ……そんなこと……ないです」
顔をぐしゃぐしゃにしながらなんとか言葉を紡ぐ。
両手で必死に涙を抑えるが、手の隙間を通ってたくさんの涙粒が床に落ちる。
「ほらほら。男の子なんだからいつまでも泣いてちゃだめよ。たぶん、明日には目を醒ますと思うから、見に来てあげてね」
にこやかに笑いながら先生が力也に言う。
「……はい!」
家に帰ると、丸眼鏡をかけた、父親の昌也が迎えてくれた。頼りなさそうな雰囲気といい、どことなく力也に似ている。まあ、親子だから当たり前なのだが。
「おかえり」
昌也は、イラストレーターの仕事をしていて、家で仕事をしているので、家にいないことはめったになかった。家にいない時は、基本的に、契約している出版社に行っている。
「ただいま」
力也は少しトーンの低めの声で答える。
靴を脱いで、二階の自分の部屋に行くために階段を上ろうとした時、後ろ背に声をかけられる。
「力也、目が赤いけど、泣いた?」
(げっ……)
「泣いてないよっ」
なぜか気まずくなり、力也は階段を駆け上がって自室に飛び込む。
夕日が差し込んできていて目が眩んだが、気にせずベッドに突っ伏す。
「……」
さっきまでのことを思い出すと、また泣いてしまいそうだった。
本当によかった。
力也の心の中はそれでいっぱいだ。
なぜあの少女がこのご時世に鉄パイプで殴られたのかはわからない。
犯人に訊こうにも、もう死んでしまっている。明日、少女に訊くしかなかった。
――あの後、警察を呼んで現場まで連れて行き、少女を見つけた時の状況を説明した。といっても、別に捜査が行われるわけではない。元より、もう事件は終わっているのだ。形だけの現場検証だ。それなのに警察を呼んだ理由は、死亡者を特定するためだ。爆破は脳で行われるため、基本的に上半身の骨や四散するが、下半身の骨は残る可能性が高いのだ。その骨からDNAを検出し、手術の時に採取した全国民のデータベースと照合し、死亡者を特定する。ちなみに、特定できれば、親族にその骨を返すことになっている。
死亡者を特定した後、警察は水で地面の血を流す。これは、そのまま放っておけば、現場を見た人がパニックになるかもしれないからだ。これらのことが、今の警察の数少ない仕事となっている。事件が起きなくなったので、事件を管轄している警察はほとんど機能しなくなったのだ。そのため、今、警察として働いているのは、各地区に十数人となっている。普段は、地方によって定められているものが違うため、「ACC」の対象外となる、条例の取り締まりを仕事としている。
それまで刑事課の警官として働いていた者は、ほとんどの者が警備会社に就職したが、信念からか、辞める者もいた。これも一種の「日本改変の影響」と言っていいだろう。
「何があったんだろ……」
力也は心配そうに呟く。
「……」
気になって気になって仕方がなかった。
「……よしっ」
力也はあることを決め、一階に下りる。とりあえず、赤い目を隠すために顔を洗ってからリビングに行く。昌也がソファーで寝そべってテレビを観ていた。
「ん? どうした?」
力也に気付いた昌也がおっとりとした声で問いかける。
「父さん、今日仕事はしないの?」
少し皮肉っぽく力也は言う。
「今月は年越しってこともあって、仕事が少なかったんだ。もう終わったよ」
昌也は起き上がって、力也に席を譲る。
「そうなんだ。それって、あんまり売れてないってこと?」
力也は、昌也の隣に座って、また皮肉っぽく言う。
「……うん。……いや……別にそういうわけじゃないんだけど……」
どうやら痛いところを突いてしまったらしかった。
「冗談だよ。……それよりさ、暇なんだったら、一緒にゲームしようよ」
力也の言葉に昌也は目を見開く。
普段、力也はあまりゲームをしなかった。昌也になんども誘われたが、その度に、「まだ読み終わっていない本があるから」と断ってきた。別に、ゲームが嫌いなわけではない。ただ、人と何かする、というのが苦手だったのだ。それは、血の繋がりの有無に関わらず、だ。
でも、今は何か別のことに熱中しないと、ずっとあの子のことを考えていそうだったのだ。
「珍しいな。力也から言ってくるなんて。もちろん、パパは大歓迎だぞ」
満面の笑みで昌也はそう言い、席を立ってテレビ近くのゲーム機のスイッチを入れる。
「なんだよ、『パパ』って……」
力也はとても恥ずかしい気持ちになっていた。だから、目を逸らしながらしか言葉を話すこともできない。
「いやあ、だってさあ。なんか初めて力也を息子だって思えた気がして……」
微笑みながら昌也はソファーに座る。
「おい! それは失礼だな!」
思わず力也はツッコんでいた。
ははは。と昌也が爆笑し、それにつられて力也も笑う。
いつの間にか、画面には、「ゲームスタート」の文字が浮かんでいた。
結局、響歌が帰ってきた八時頃までゲームをしていた。その結果は、昌也が大人気なく戦ったため、力也の全敗に終わった。
三人で晩飯を食べ終え、その後テレビを観賞する。今日は心なしか会話が多いように感じた。
九時半頃になると、酔い潰れた昌也はソファーで爆睡していた。
「明日は日曜日だから私は仕事がないけど、力也はあの子のところに行くんでしょう?」
食卓を布巾で拭きながら響歌は力也に訊ねる。
「うん。そうだよ」
力也は、迷わずに答えた自分に少し驚く。なぜなら、よく考えてみれば、診療所に行くということはつまり、スラム街に行くということだ。今までスラムを嫌っていた力也にとってそれは、驚くべきことだったからだ。
「そう。なら、私もついて行くわね」
「うん」
「力也、なんか変わった?」
「へっ?」
響歌の突拍子もない質問に、力也は変な声を出してしまう。
「そ、そんなことないよ」
力也は慌てて否定するが、響歌はにこやかに微笑んでいた。
「ふふふ。本当にそうかなあ?」
「うん。本当。……さっ、お風呂に入ってくる」
響歌の悪戯な笑みにやられそうになった力也は逃亡先として風呂を選択する。
「うん。入ってらっしゃい」
響歌はまだにこやかに笑っていた。
その態度に力也は少しすねながらも、リビングを後にした。
ぼーっとしすぎていたせいか、力也が自室に戻ったのは十一時だった。一時間以上浸かっていたことになる。さすがにのぼせていた。
「ふう」
部屋に入ると共に勝手に点いた電気をわざわざ消し、ベッドに寝転ぶ。
すぐには眠れないと思っていたが、少女を運んだ時の疲労が今更来たのか、力也はすぐに眠りに落ちた。
さっそく更新!
誤字脱字などがありましたら、教えてください! お願いします!




