披瀝
そして、力也はミルを見つける。ミルは、建物にもたれかかるようにして地面にぐったりと座っていた。
「――ッ! ミルッ」
力也はミルに駆け寄る。ミルの左手首は横に切られていて、血が流れ出していた。近くには、血が付いたカッターナイフが転がっている。
幸い、傷は浅かったが、ミルの顔は青ざめている。かなり危険な状態だった。どれだけ、血を流したのだろうか? それに、地面は雪に覆われている。ミルの体温は低下し続けているはずだ。
力也はバッグからタオルを出そうとしたが、そこでバッグがないことに気付く。学校を飛び出してきたため、教室に置いたままだった。
(どうすれば……ッ)
力也は、思考をフル回転させる。
と、そこで力也はミルの横にバッグが転がっていることに気付く。
何かあると信じ、バッグをさぐる。中は、ほとんど教科書で埋まっていた。次に、外のポケットをさぐると――あった。ハンカチだ。消毒することはできないので、そのままそれでミルの左手首をぎゅっと締め付ける。
(ふう……)
緊急事態を脱したことに安心して、力也の口からは自然と溜め息が漏れていた。
だが、これで安心してはいけない。
力也は、ミルに自分が着ている制服のブレザーをかけてあげ、すぐに診療所に運ぶことにする。
そうして、ミルを背中に乗せようとした時だった。
「……りき……や」
ふと、吐息のようにか細い声が力也の耳に流れる。
咄嗟に振り返り、ミルの顔を覗き込む。
応急処置の効果があったわけではないだろうが、ミルの意識は戻っていた。まだ顔は青白いが、薄く開かれた瞼から覗く目は、しっかりと力也を捉えていた。
「ミルッ。今から診療所に運ぶからねッ。安心してッ」
その意識が途切れないよう、力也は必死に呼びかける。
だが、それを聴いたミルは目を見開かせる。
「駄目ッ!」
「えっ……」
ミルのその言葉は、予想だにしないものだった。思わず、力也は動転してしまう。怪我を治療しようとしているのに、「駄目」とは、一体どういうことだろうか? それとも、ただ単に、記憶が混濁しているだけだろうか?
でも、少し目を逸らして申し訳なさそうに呟いたミルの言葉が、その可能性を否定する。
「だって……もう……迷惑かけられないよ」
「――ッ」
力也の胸が深く抉られる。
――迷惑なんだよ
ふと、その言葉が力也の脳裏を去来した。
力也は、それに対して何も言えなくなってしまう。
俯き、唇を噛み締める。
恥じていた。
自分の身勝手な言葉が、少女を傷つけ、責任を感じさせてしまったことを、力也は恥じていた。
自分の不甲斐なさが、嫌になってくる。
――でも、今は迷惑なんて考えている場合ではなかった。
だいたい、怪我をしているのだ。それの治療を迷惑だなんて考える人は、この世界にほとんどいないだろう。まして、看護師を職業としている響歌が、治療することを、「面倒だ」「迷惑だ」なんて思うわけがない。
「迷惑だなんて思わないから――」
「それにね!」
力也の言葉は、ミルから発せられた言葉に遮られてしまう。
「私……やっぱり一人で生きていく」
一瞬、しんと空気が張りつめた。それを合図に、ゆっくりと雪が降り出す。
力也は、何か他の言葉と聴き間違えたかと思った。
だけど、二人の間に漂う沈黙と、小さな雪の粒が力也の頭に乗る衝撃が、それが聴き間違いでなかったことを知らせる。
「な……何言ってんの……」
力也の顔は引きつっていた。今の言葉は、なんとか押し出せたものだ。
ミルは壁に手をつきながら、ふらふらの足取りで立ち上がる。
「私は……ほら、大丈夫。ちょっと貧血になっただけ。傷も力也が手当してくれたし……」
辛そうに顔を歪ませているのにもかかわらず、ミルはなぜか強がっていた。
それが、どうしても力也には理解できなかった。
「関係ないだろッ」
力也の手はいつの間にかミルの両肩を掴み、ミルを壁に押し付けていた。
でも、力也の中にわだかまる怒りはどうにも収まらない。
ミルの目を見据え、力也は言いたいことを全て吐露していた。
「僕は、ミルにもうこれ以上辛い思いをしてほしくない。スラムに戻ってほしくない。絶望してほしくない。不安を抱いてほしくない。後悔してほしくない。……ミルには、笑顔でいてほしい。喜んでほしい。安心してほしい。期待してほしい。怒ってほしい。叱ってほしい。……ずっと、僕の傍にいてほしい。僕の傍で、ミルの全部の感情を見せてほしい」
力也の思考がミルを行かせない方法として選んでいたのは、ミルを説得することではなかった。
力也が選んだこと……。
それはさながら、プロポーズのようだった。
力也の息は上がっていた。細かい間隔で、力也の口から白い息が漏れる。
ミルは、目を見開いていたが、やがて、ふっと笑った。
「……ありがと」
それは、いつかと同じ言葉だった。
でも、いつかとは違う。あの時のミルは、「ありがと」と言った後も笑っていた。でも、今は違う。ミルの顔からはすでに、笑顔は消えていた。
「でもね……もう決めたの」
「僕がひどいことを言ったせい?」
力也は確かめるようにそう問いかける。
――迷惑なんだよ
あの時、力也はそう言ってしまった。もしそれが原因なのだとしたら、謝らなければいけない。……いや、もしそうじゃなかったとしても、謝らなければいけないだろう。
だけど、ミルはかぶりを振り、やさしい口調で言う。
「ううん。違うよ。だって、あの時は何かあったんでしょう? それで、私に当たっちゃっただけだよね? 知ってるよ」
「じゃあ、どうしてッ」
力也の心の中には、わだかまりができていた。力也のせいじゃないとしたら、ミルが一人で生きていくと決めた理由を納得できないのだ。
長い沈黙が流れる。雪が二人の間に降り注いでいた。
通りを抜ける大きな風が吹き、やがてミルは右手で力也の手を丁寧に肩から放し、力也を見据えて首を少し傾ける。
「……私の話、聴いてくれる?」
ミルの問いに、力也は唾を呑み込むことしかできなかった。この時ミルが見せた、さみしそうな笑顔を力也は一生忘れることができないだろう。
そうして、数秒の沈黙の後、ミルは披歴し始める。
「ずっと……いつかは力也の家を出なきゃいけないと思ってた。……だってね、私、穢れてるんだよ?」
「そんなッ。ミルは穢れてなんか――」
「あるのッ。……私は穢れてるの」
「――ッ」
力也は、それ以上何も言うことができなかった。ミルは穢れてなんかいないはずなのに、何も言い返せない。うなじの辺りがちりちりした。なんだろう、この嫌な予感は。
ミルは、右手でハンカチが巻かれた左手首をさする。ハンカチに少し血が滲んでいた。だが、思ったより悪化していないようだった。
「私がスラムで男性と付き合っていたことは知ってるよね?」
力也は、固唾を呑んでから頷く。
確か、病室に来た警官とミルがそのような話をしていた。だが、その話を聴く限りでは、その人たちはミルの別れ話に逆上して、ミルを傷つけ、死んでしまったとのことだった。……そして、力也とミルが出逢ったあの時も、ミルは恋人に傷つけられていた。
力也は無意識の内に握りこぶしに力を入れていたことに気付く。掌から微かな痛みが力也の脳に伝わって来ていた。
「――その人たちはみんな、私が殺したの」
「……えっ」
難しい漢字をタイトルにしてみた。ドヤァ




