力也にとって
「ただいま……」
温かい空気が冷たく冷え切った力也を迎えた。だが、返事は返ってこない。響歌は診療所に行っている。昌也は部屋にこもっているのだろう。そして、ミルは……。
力也は、肩についた雪を払い、昌也がいる一階の部屋に行き、ノックする。
「ん、どうぞ」
昌也の声が返ってきたので、力也はドアを開く。
昌也は、力也のほうを見ずにコンピュータ画面を凝視していた。そして、片手で机の上に何か描いている。
「おかえり」
「うん。ただいま……」
「どうした? 何かあったのか?」
力也の声のトーンが低かったのだろうか? それとも、ただの親の勘だろうか? 昌也は、力也の表情も見ずに言い当てる。
「えっと……その……ミル帰ってきた?」
言い当てられたことに少々驚いたが、力也は声をできるだけ明るくして、何もないように装う。
「ミルちゃん? 確か、さっき階段を駆け上がる音が聴こえたから、帰って来てるんじゃないか? ――って」
作業を止め、振り返った昌也は、力也の顔を見て、仰天する。
「なんて顔してんだよ。やつれて、元々よわっちそうな力也の顔が、もっと弱く見えるぞ」
呆れ顔で昌也は冗談を言う。力也をなぐさめようとしてくれているのだろうか。
だが、その冗談も力也にはなぜか、馬鹿にされているように思えた。
「うるさいよ……」
このままでは、父親にまで当たってしまいそうだったので、力也は爪を立ててふとももに軽く突き刺し、正気を保つようにする。
「ミルちゃんとケンカしたのか?」
なぜか、昌也の頬はにやついていた。
どうしてにやついているのか力也には理解できなかったが、とりあえず正直に答える。
「ケンカじゃないよ。……一方的に僕が当たってしまっただけ……」
思い出しただけで自分が馬鹿に思えてきた。
『何もわかってないくせに』
(何もわかってないのは、僕のほうじゃないか。だって、ミルは僕よりひどいことを体験したのだ。僕の気持ちなんて、想像したくなくても、わかってしまったのではないか? それなのに、あんなひどいことを言ってしまって……)
悔やんでも、悔やみきれなかった。ミルに何と謝っていいのかわからない。そもそも、ミルは許してくれるのだろうか?
(はあ……)
力也が心の中で溜め息を吐いた時、場違いなテンションの声が聴こえてくる。
「まっ、ケンカするほど仲がいいっていうから、たまにはいいんじゃない?」
昌也は何もわかっていなかった。力也が今、どれだけ後悔しているのかを。
いっそ、今日あったことを全て話してしまおうかと思ったが、そんなことをすれば、力也がいじめを受けていることを知られてしまう。いじめを告白できるほど、力也は強くなかった。
だが、次の瞬間にはもう、昌也の表情ににやつきは見られず、真剣な表情になっていた。
きゅっと空気が引き締まったのを力也は感じる。
「でも、自分が悪いってわかってるなら、早く謝ったほうがいい。謝らずに後悔しても、後の祭りになるだけだぞ」
その言葉に力也は励まされる。なぜだか、どこかから勇気が湧いてきた。
(そうだ。まず謝らないと。許してもらえるかは、謝った後にわかることだ。許してもらえないかもしれないなんて、ネガティブなことを考えちゃ駄目だ)
なんだかんだ言って、力也を勇気づけてくれる父親。どうして十年間気が付かなかったのだろう。もし、もっと早く気付いていて、自分の悲しみを打ち明ければ、力也はもっと多くの人と仲良くできていただろう。
だが、後悔後に立たず、だ。過去のことをいつまでも引きずっていてはいけない。今は、目の前のことに集中しよう。
「ありがとう」
力也はそう言って、仕事場を後にする。
すぐに走って向かった先は、もちろん二階の自室だ。
ノックしても返事がなかったので、「入るよ」と言って、扉を開ける。
しかし、電気は点かなかった。自動点灯機能が消されているのだ。
暖房も消えている。部屋の中は、とても寒かった。窓の外で降り続いている雪が力也によりいっそう部屋を寒く感じさせる。
そんな中で、ミルはベッドで寝ていた。小さな寝息を立て、力也の枕を抱きしめながら寝ている。服は制服のままだ。しわになってしまうかもしれない。
力也は足音を立てないように静かに近づく。
ミルの頬には、いつもの涙の痕が残っていた。一体、どれだけ泣かせてしまったのだろうか?
(とりあえず、今は寝させてあげよう)
そう思って、力也はミルに布団をかけてあげ、「スイッチオン」と言って、暖房を点ける。
机の上には、バッグが投げ捨てられていた。ぼろぼろのバッグが、寂しそうにしていたのは、気のせいだろうか?
そうして、部屋を出ようとした時――
「力也の馬鹿……んん」
一瞬、びくっとしてしまうが、すぐにそれが寝言だと気付く。
(起きてきたら、しっかり謝ろう)
力也はそう決意して、部屋を後にした。
冷え切った身体を温めるために風呂に入る。そうして、あがってきた時には、時刻は午後六時三十分すぎだった。リビングに入ると、キッチンで昌也が料理をしていた。
「今日は響歌ちゃん、帰ってくるの遅いから、先食べといてだって」
昌也は、ソファーに座って呆然とテレビを見ていた力也に声をかける。
「うん。……わかった」
力也は素っ気なく答える。
普段なら面白いであろうバラエティー番組も今の力也には、あまり面白いものに思えなかった。
「ミルちゃん呼んできて」
「ミル、今寝てるし、無理矢理起こせない」
「そっか、じゃあしょうがないか。今日は二人で食べるか」
「今まで何回もあったけどね」
響歌は看護師という職業上、帰りが遅くなったり夜勤があったりするので、特段、力也と昌也が二人でご飯を食べるということは、珍しいことではなかった。
「そうだけど、その時の力也は全然話してくれなかったから」
「……」
力也は痛いところを突かれ、何も言えなくなる。
これ以上話が深くなったら嫌なので、力也は話を逸らすことにする。
「そういえば、今日の晩ご飯は何?」
「ん? 今日はチャーハン」
今気付いたが、確かにキッチンからはチャーハンのいい匂いがしていた。
「そっか」
「うれしくない?」
力也の素っ気ない態度に不安になったのか、昌也は心配そうな声を出す。
「いや……うれしいけど……」
正直、今は食欲がなかった。いや、正確に言えば、お腹は空いているのに、食べる気がしなかった。
「よしっ、できた」
そう言って、昌也はフライパンを傾けてご飯を皿に盛り、リビングまで運び、テーブルに並べる。
「食べるよ」
「うん」
力也がソファーから立ち上がった時、ニュース番組が始まりを告げる。
『こんばんは。今日もニュースチャンネルのお時間がやってまいりました。――さっそくですが、ニュースです。――県――地区で今日、猫が配管に落ちてしまい、消防隊が救出するという事件が起きました――』
そこで映像は、消防隊が猫を救出した瞬間の映像に変わる。
『消防隊員はまず――――』
――平和だ。
力也は無意識の内にテレビを消してしまっていた。
身体が痙攣したように震えていた。
「どうしたの?」
「……なんでもない」
力也は、震えを堪え、平然とした顔を作り、テーブルに向かう。
力也は昌也の正面に座り、合掌する。
「いただきます」
「ん、いただいちゃって」
スプーンでご飯の山をすくい、口に運ぶ。力也は、それを機械的に何度も繰り返した。
力也は、心ここにあらず、状態だったので、正直、味は全然わからなかった。ただ、昌也がおいしそうに食べているので、おいしいのだろう。
チャーハンを食べ終えると、昌也は仕事があるということで、コーヒーを持って仕事部屋に向かっていった。
力也は、シンクにある食器を全て洗い、乾燥機にかける。そして、ミルの分のチャーハンにラップをかけて、冷蔵庫へ。
「はあ……」
溜め息を吐きながら、力也はソファーに腰掛ける。
今時には珍しいアナログ時計が、かちかちと音を鳴らしていた。
力也には、その音がだんだん大きくなっているように聴こえた。
物音は、たったそれだけだ。雪が窓を叩く音も、いつの間にかなくなっている。
力也は、孤独を感じていた。今まで、わざとネクラを演じてきたので、そんな感情にはならなかった。だから、力也には不思議な感覚だった。
ソファーに座っている自分が、どうしようもなく寂しくなってくる。自然と、両足を引き寄せて、ソファーの上で体育座りしていた。
ふとももと胸の間に顔をうずめる。目を瞑れば、ミルの顔ばかり浮かんでくる。笑っているミル、頬を膨らませているミル、泣いているミル。その全てが、どうしようもなく愛おしかった。
ふいに涙が流れてくる。拭っても、拭っても、その涙が止まることはなかった。
そうして、何時間かした後、力也は眠りに落ちていた。
力也が寝言で、「ミル……」と言っていたことを知る人は誰もいなかった。
力也にとってミルとはつまり……
いなくてはならない存在なんです




