現実
二〇四〇年十二月十九日
午前七時四十五分
「ミル、準備できたー?」
力也は靴を履きながら声をかける。
「待ってー。もう少しでお弁当できるから」
リビングのほうから声が返ってくる。その声はどこか弾んでいるように聴こえた。というのも、ミルは昨日の夜言っていたことを本当に実行しているのだ。
『私がお弁当作ってあげる』
作ったことのない人に言われるこの言葉ほど、怖いものはなかった。でも、響歌が手伝っているので、たぶん大丈夫だろう。
「はい。できたよー」
リビングの扉を開けて、両手に弁当袋を持ちながらミルが走ってくる。ミルが足を動かす度に赤色のチェックのミニスカートが揺れる。病的に細い足はタイツも履いておらず、素足のままだった。上半身は焦げ茶色のブレザーを身に纏っている。ニット帽は被っておらず、包帯も巻いていなかった。どうやら、もう完治したようだった。
力也は、片方の弁当袋を受け取り、バッグに入れる。
「じゃあ、行くよ」
「うん」
ミルがローファーを履いたのを見届けると、力也は玄関を開ける。
凍りつきそうなほど冷たい空気が室内に入ってくる。外は一面真っ白だった。空が曇っているので、当分溶けることはないだろう。
「さぶっ」
呼吸と共に出てきたその言葉は、白く具現化されて空に上がって消えていった。
たくさん着込んでいるのにもかかわらず、力也の身体の表面に冷気が流れ込んできていた。
この寒さをしのぐ方法は、バス停まで歩いて、身体を温めるしかなかった。
「……」
力也は横を歩いているミルを見つめる。ミルは、はあ、と息を吐き出して、白い冷気を出して遊んでいた。毛糸のマフラーはとても暖かそうだ。でも……
「ミル、足寒くないの?」
タイツも履かず、素足でミニスカートは見ているだけで寒そうだった。
「ん? 寒くないよ? スラムにいる時は、雪が積もっている時でも外で寝たことがあったしね。もう慣れたよ」
さも同然という風にミルは話したが、力也は何も言えなくなってしまう。力也もわかっているつもりだったが、改めて思う。
――一体彼女は、どれだけ辛い思いをしてきたんだろう。
「それにね、響歌さんがね、ミニスカートのほうが、力也が喜ぶって言ってたから」
「……」
「……どう?」
「……」
「うれしい?」
「……」
「ねえ、聴いてる?」
ミルは力也を上目使いで見る。
(母さん、また変なことを吹き込みやがってッ。……こんなこと訊かれて、答えられるわけないだろッ)
とりあえず力也は、話の方向を少し逸らすことにする。
「学校のみんなに細い足を見せることになるけど、いいの?」
ミルは今まで、タイツで足を隠していた。それは、やせ細った足を見せたくなかったからだろう。それなのに、力也のためというだけで、足を見せても大丈夫なのだろうか? 本当は、見せたくないんじゃないだろうか?
冷たい風が二人に吹き付ける。
ミルはふっと暗い顔を見せた。
「正直に言うと、本当はいやなの。……というか怖いの」
「怖い?」
「うん。私がいじめられてた理由ってさ、服の汚れもあるけど、手足の細さでもあったから……だから、あまり見せたくないの」
(――――ッ)
どうして気付かなかったのだろう。そんなこと、容易に想像できることだったのに。
しかも、そうと知っていれば、無理にでもタイツを履かせたのに……。いや、まだ家からそんなに離れていない。なら――
「じゃあ――」
「でもねッ、私を助けてくれた力也が喜んでくれることなら、なんでもしたいの! それが、少しでも恩返しになるなら、私は救われるから」
ミルの口から白い息が吐き出される。
『私は救われるから』
その言葉が力也の頭の中でこだましていた。
そんなことを言われてしまえば、何も言い返せなかった。そして、さらなるミルの言葉が力也の心を締め付ける。
「それに、私は学校を克服しにいくんだもん。弱点を隠してたら駄目だと思わない?」
力也は何も言うことができなかった。力也は唇を噛み締める。
ミルの言う通りだと思う。あえて弱点を見せておかなければ、克服したとは言えないだろう。
でも、それをわかっていても、実行するのは難しいことだろう。それなのに、ミルが逃げない理由は、本気で自分を変えたいと思っているから。
(……あれ? どうして僕は今、くやしがっているのだろう? ……ああ、そうだ。ミルが強すぎるせいで、僕を頼らなくてもいいように思ったからだ。……あれ? でも、それはいいことじゃないのか? ……それなのに、どうして僕はこんなにも涙が出そうなんだろう?)
「ほらっ、力也。バス来てるよ。走るよ」
ミルが力也の手を引いて走り出す。力也は懸命に足を動かして、雪に足を取られないようにする。
(いや、違う。くやしがっているのではない。僕は怖がっているんだ。こんなに元気なミルが、もしかしたらまた傷つくかもしれないから……だから、怖がっているんだ。――ああ、まったく、僕は……弱虫だ)
バスに十分ほど揺られれば、高校の前のバス停に着く。ちなみに、ミルが通っている中学の停留所は、このもう一つ向こうのバス停なので、ここまで一緒に登校してきた。だが、もう別れなければならない。
やはり、ミルが心配になってきてしまうが、ここはぐっと堪え、笑顔で別れることにする。
「頑張れ」
「うん。頑張る」
ミルの笑みにどこか安心感を覚えながら、力也はバスを降りた。
傘を持った生徒たちが、校門に入っていく。今日は、正午すぎから大雪の予報なのだ。力也もしっかりとバッグの中に折り畳み傘を入れている。ミルにも持たせたので、大丈夫だ。
昇降口に入り、靴を履きかえ、二階に上がって、教室に入る。
妙な感覚に陥ったのは、その時だった。
うなじの辺りがちりちりとした。力也は、とっさに後ろを振り向く。だが、誰もいなかった。窓の外では雪がはらはらと降り出していた。
疑問に思いながらも、自分の机に向かう。いつも通り、何人かは嘲笑を漏らしていた。……だが、何かがいつもと違っていた。それは言葉では言い表しにくかった。もし、あえて言葉にするのなら……雰囲気……だろうか。
でも、気のせいかもしれなかったので、力也は特に気にしないことにした。
智明の席の横を通る際、力也は智明に声をかける。
「智明、おはよう」
あまり目立たないように、しかし、小さすぎもしない声で力也はそう言う。
だが、どれだけ待っても返事は返ってこなかった。智明の耳を見てみるが、イヤホンをしているわけでもない。
――うなじの辺りがちりちりした。
「智明?」
もう一度声をかけてみる。
沈黙が漂う。周りの生徒たちも、会話を止め、二人を見ているようだった。
だが、やはり返事は返ってこない。
手に冷や汗が滲む。
(なんで無視するんだよッ)
力也は智明の肩に手を置き、強く揺さぶる。
「おい! 智明ッ」
だが、その瞬間、力也の手は智明に捻り上げられる。
そして、智明は力也を睨みつける。
(――ッ)
力也は思わず慄いてしまう。
智明のその目はまるで、「話しかけんな」――そう言っているようだった。
智明は、力也の手を払って、教室から出て行ってしまう。入れ違うように入って来た教員は、戸惑っているようだった。
その時、力也の中の何かがぷつんと切れる。
(ああ……そういうことなのか。……結局、石谷が死んだって、この人たちは何も変わらなかったんだな。……ははは。なんだろうこの気持ちは。……ああ、わかった。これが――)
なぜか、気が遠のいていく――ッ
徐々に、話が展開してきました!




