優しき友、静かな一日、嵐の前の最後のもの
静かな一日。本当に静かな一日だった。翼翔族は、めずらしく姿を見せなかった。
「どうおもうよ?」
赤褐色の髪と髭が特徴的な蹴脚族が尋ねた。尋ねられた本人は難しそうな顔をして空を見上げた。
「やつら、いよいよもって戦争を始める気だな。やれやれ、管轄外な仕事ばっかりだ」
黒いコートをなびかせ、男は屋根から飛び降りる。着地したそこには女子高生がおり、上から人が降ってきたことに驚いた。男は気にする様子もなく立ち上がると、少し足を引きずりながら歩きだした。
「さて、今日一日が明日にどう反映するか……」
いつも通りに授業を受けている。ついこの間、ハンナが死んだ。全身の血が抜かれた死体を警察はもう見慣れており、またか、といった様子で事後処理をしていた。
シェリルもそんな死体は、見慣れたというほどでもないが慣れていた。しかし、親しい人物の死は、重い。
「シェリル……その、さ、お昼ご飯、一緒に食べよ? ね?」
エリスが自分の弁当を手に持ち、開いたシェリルの隣の席に座る。シェリルは聞こえていないかのように、自分の弁当を開く。弁当の中身は、レンの手作りの料理が詰まっていた。
周りが騒がしい中、二人の少女は静かに弁当を食べる。
「……あの、さ」
沈黙に耐えられず、エリスが口を開く。
「あたしなんかじゃ役不足かも知んないけど、私はシェリルの友達だよ? 辛いのはわかるけど、元気出さなきゃ、ね?」
エリスが明るく笑いかけるが、この時シェリルは別のことを考えていた。
もし、エリスや、学校のみんなまで死んでしまったら――
考えるだけで身が震えた。エリスの顔を直視できない。どうしても、ハンナのミイラ顔と重なってしまう。胸が潰れるほどに苦しくなり、呼吸が乱れる。涙も出そうになる。ハンナの時に出なかった感情が、出そうになる。
エリスは、そんな友達の異変に気が付いた。
「シェリ……」
顔を覗き込み絶句した。彼女の顔は、苦しみや悲しみ、憤りなどや、エリスではわからないような感情がすべて入り乱れた表情をしていた。エリス自身も、そんな表情を見て気持ちが沈んだ。
シェリルの、馬鹿。
エリスは立ち上がり、シェリルの腕をつかんで強引に教室を出た。
「エリ、ス?」
泣きそうな声を押さえ、シェリルは友達の顔を覗いた。しかし、エリスの表情をうかがうことはできなかった。ただ、シェリルの見た後ろ姿は、エリスの悲しみを教えてくれている。
しばらく廊下を歩き、階段を登ると、扉が目の前に現われた。普段生徒達は使わない屋上に通じる出入口。エリスは扉を開き、屋上に出た。無言で屋上の真ん中に移動する。
後方で扉が閉まる音がした。シェリルはそれを、顔面に温もりを感じながら聞いた。エリスが、シェリルの頭を抱擁している。
「お馬鹿のシェリル! そんなに辛いなら、吐き出しちゃいなよ。中に溜めたまんまだったら、潰れちゃうよ……」
最後のほうは、霞んで聞こえた。エリスも泣きだしそうになっているのだろう。
暖かかった。エリスの胸は柔らかくシェリルを包み、神経を研ぎ澄ませば、鼓動が聞こえそうだった。そしてシェリルは、記憶の奥底にある母の柔らかさ、暖かさ、優しさを思い出した。
辛かったでしょう、シェリル……。泣いていいのよ――
幻聴かのように、頭のなかに母の声が響いた。それと同時に、溜め込んだものが一気に溢れてくる。
「……う……うああぁぁぁぁ!」
叫んだ。力一杯に叫んだ。それでもまだ叫び足りなかった。涙も溢れたが、目が小さいことが恨めしくなるほどに足りない。自分のすべてが足りなかった。内のすべてを吐き出すには。だから、喉が張り裂けんばかりに何度も叫び、涙を滝のように流した。
何事かと集まった生徒達を押し退け、屋上に入ろうとした男性教師を、女性教師は制する。
今の屋上は、二人だけの空間。誰も踏み入ることは許されない。
「……エリス……ありが、とう……」
叫んだ反動で声がしゃがれる。シェリルは暖かさを求め、今だにエリスにすがる。
「いいっていいって! あたしのシェリルちゃんが苦しんでる時は、あたしも苦しいんだから。それに、溜め込むと余計に辛くなるだけだしね」
エリスの優しい言葉に、シェリルは頷いた。気が付けば、もう午後の授業は始まっている。
……まあ、いっか。
エリスは、子供のように温もりを求めてくるシェリルの頭を撫でながら、小さくつぶやいた。
日も沈んだ中、質素な部屋の中に奇妙な顔触れが揃った。レン、ンケドゥ、そして見知らぬ二人の蹴脚族。カナエ。そして、黒いコートの男と、シェリル。
部屋の中が、少し狭く感じられた。
「……なんで獣人族のお嬢さんが居るのか不思議なんだが。誰か説明してくれんかね?」
男が問い掛ける。反応したのはンケドゥ。
「いや、まあ、わけありだ。それより、あんたこそ誰だい? 名前も聞いてねぇし、素性が知れねぇ」
ンケドゥの質問に、男は笑った。
「じゃあまずは、この縄を解いてくれ」
そう言って、椅子に縛られた自分の体を顎で指す。それに対し、レンが首を横に振った。男は肩を落とし、ため息を吐く。
「……俺はルイス。職業は探偵。調べんのが得意だが、副業で護衛やら異端狩りやらやってる。本当は管轄外なんだがな。ちなみにこの世界の人間じゃない。そっちの嬢ちゃんと同じ世界の人間だ」
最後の言葉に、シェリルが反応する。問い掛けようとしたがしかし、ンケドゥが遮る。
「わかった。んじゃ、ここに集めた理由を簡単に説明する。……近いうち、翼翔族との戦争になる。んで、今こっちの世界にいる対抗戦力は、シェリルを除いた、ここの全員だ」
ンケドゥの言いたいことを、全員が理解した。ンケドゥはこのメンバーで、翼翔族を迎え撃とうと言うのだ。
「……なんで俺まで? 俺は関係ないだろ。管轄外だっつの……」
コートの男、ルイスはつぶやいた。
「使えるものは何でも使うのさ。協力してくんねーなら、今ここで死んでもらうぜ?」
その言葉と同時に、ンケドゥの脇にいたヴァンパイアの一人が、ルイスの後方に回った。鋭い犬歯をむき出しにし、ルイスに見せ付ける。
「……拒否権なし、か」
つまりは了承。ルイスの縄は解かれた。
「とりあえず、死なんでくれよ、みんな。増援が来るまでな」
ンケドゥはそう言うと、解散を合図した。
シェリルがぼうっと窓の外の断層を見ていると、ルイスが隣に立った。
「シェリル、だったか? 俺の相棒の調子はどうだ?」
シェリルは何を聞かれたのか理解できなかった。その表情を読み取ったのか、ルイスは苦笑いをする。
「名前はまだなのか。仕方ないな。まあ、その内解るさ」
ルイスはシェリルの肩を叩き、部屋を立ち去る。シェリルは結局、ルイスの言葉の意味を知ることはできなかった。
星が空一面を覆っている。ハンナが死亡してから、あの家には戻っていない。レンの部屋から見える星空を、シェリルは静かに見上げていた。
そのうち、レンが部屋に戻ってきた。深緑の髪は艶やかに静かに、質量を増している。
「……お風呂空いたよ」
シェリルは小さくうなずき、机の上に置いてあったバスタオルをすくい上げた。そのまま部屋を出る。
レンは閉まりゆくドアを見つめていた。
守るよ、絶対。僕が守るから――