世界は動きだす、ただ、望まぬ方向に
シェリルは思い描いていた。もし、世界がこのままヴァンパイア達の『牧場』になってしまったら。それは許せない。そう言葉が浮かび、自分に驚いた。
少し前、レンに会う前だったら、素敵だと考えたかもしれない。いや、考えたろう。変わったかも。シェリルは内心、笑った。
「シェーリール! なーににやにやしてんの?」
いつのまにか正面に座っていた友人が、顔を覗き込んできた。シェリルは微笑んだまま、指で顔を押し返す。ついでに爪を立てたため、エリスは額をさする。
「うーん、なんてゆーか、変わった?」
エリスの意外な一言にシェリルは驚く。
「なんかさ、笑い方に影がないっていうか……とりあえず明るくなったかな、うん」
エリスは言い終わるのと同時に立ち上がり、机を挟んで正面にいるシェリルの手を掴む。
「よーし、今日は門限ギリギリまで放さないわよ〜」
笑顔で言い放つと、シェリルのことなどお構いなしに手を掴んだままカフェを後にする。引きずられる形で歩くシェリルの顔は、以前ほど作られたものではなかった。
人通りの少ない道。塀と塀の間を縫うように張られた道は、車一台が通るのがやっとの幅しかない。
レンは歩いていた。今朝から妙な胸騒ぎがする。
『ちょっと気になることがあるから、調べてくる』と言って、昨日の夜から帰ってこない親友。朝は必ず朝食を食べにくるのにな。レンの心には、時間が経つにつれ不安が積もる。
昨日の夜、あの白骨を見た。同じヴァンパイアの仲間。あれを見た後のンケドゥの失踪。不安がレンを急ぎ足にする。
「ンケドゥ……死んでるなよ」
とうとう、屋根の上に飛び上がる。翼翔族に見つかるかもしれない。そうなれば面倒だ。だが彼は、その危険性を踏まえたうえで跳ぶ。
「あら、どうしたの? そんなに怯えちゃって」
茶色掛かったショートヘアーの髪の下で、笑顔が振りまかれる。その笑顔は、端から見れば天使のよう。しかし、正面の当事者にしてみれば、悪魔の微笑み。
レンにも来てもらったほうがよかったかな。ああ、そういや、レンの作った卵焼き、食べ損ねたな。
「なあ、美人なお姉さん。あんたはいったい何者なんだ?」
満身創痍のンケドゥは尋ねた。彼は立つのもやっとと言うかのように、壁に寄り掛かっている。
女性は、美人と言われたのがうれしかったのか、笑ってみせる。
「そうね……簡単に言ったら、人食い狼さんかしら」
女性は笑いながら近付く。右腕はボディを狙っているのか、小脇に構えている。ンケドゥの頭に、親と友人、そして、無二の親友の顔が流れた。フッと軽く嘲笑い、覚悟を決めて目を閉じる。
気を付けろよ、レン――
女性が腕を打ち出そうとしたまさにその時。なにかの気配を察知し、女性は後ろに跳び退く。
彼女は突如降ってきた“なにか”を見た。それは地面に突き刺さった腕を引きぬき、その深い藍眼で、女性のほうを睨み付けている。
ンケドゥが異変に気付き、目を明けると、深緑の髪が目に入った。
「レン!?」
彼は驚いた後、カカッと独特な笑い声を上げた。
「怒ってんのか? 珍しいな。最近短気になってきたんじゃないか?」
ンケドゥが冷やかすと、レンは振り返らずに立ち上がる。目は女性を睨み付けたまま、口の端が持ち上がる。
「お前だって、そんなにやれるなんてな。らしくないんじゃないか?」
違いねぇ。ンケドゥは笑った後、地面に崩れ落ちた。レンはンケドゥが気を失ったのを確認するために一瞬振り返り、再び女性を睨み付ける。
しばらく、静かな時間が流れる。
「……恐い顔しちゃって。可愛い顔が台無しよ? きみ」
先に沈黙を破ったのは女性だった。笑いかけてはみたが、油断はできない。笑顔は自然とぎこちなくなる。
再び沈黙。睨み合いが続く。そして、動いた。
やはり先に動いたのは女性だった。普通の人間なら肉眼では追えない動き。女性の姿は一瞬消えた。しかし、レンは人間ではない。女性の動きはある程度見えている。
軽い炸裂音。レンの胸を貫こうとしていた女性の腕を、彼は手首を掴んで阻止した。そのまま壁に向かって、力一杯叩きつける。
しかし、女性は壁に着地していた。そのまま、衝撃を緩和するために曲げた膝を伸ばし、レンに飛び掛かる。レンは女性の手を放し、背筋を反らせて地面に手を突き、足で弧を描いて後方に着地する。
「あら、やるじゃない」
そういいながら、指先に付着した血を舐めとる女性。レンの胸元がわずかに裂けていた。
両者の睨み合いは、あっけなく終了した。女性が急に背を向けたのだ。
「やーめた。こんなつまらないことで顔に傷がついたら損だしね」
手をひらひらとさせ、歩き去る女性。レンは構えを解き、ンケドゥの元にしゃがみこみ、背にかかえた。
「私はカナエ。あなたと二度と会わないことを祈るわ、レン君」
そう言い残し、角へと消えていく女性。レンはしばらくその方角を睨んだあと、逆方向へ歩きだした。
建物の屋根、気配を完全に殺して傍観していた翼翔族。レンがいなくなったのを確認した後、翼を広げて飛び去った。
「ただいまー」
日も落ちて、暗くなりかける春先。肌寒い空気と共にドアをくぐるシェリル。
ドアを閉め、靴を脱ぎはじめたところで違和感を感じた。返事が、ない。
「ハンナ、さん?」
留守なのかな? でも、明かりもついてるし、鍵もかかってなかったし。
シェリルは明かりのついている部屋、リビングへと向かう。
――闇は確実に動きだした。あとは、果てまで行くのみ。まだ、始まったばかり。これは今までの終わりであり、これからの始まりである。混濁の闇という、“これから”の――
「ハ……ハンナさ……」
ハンナは、いた。しかし、シェリルの見知った姿では無かった。肌の色は青白く、牛蒡のように細くデコボコな四肢。その顔は、恐怖と驚愕を張りつけたまま、ひからびていた。
「ハンナさ、ん……そんな……」
そして、その後ろには、まるでシェリルが来るのを待っていたかのようにテーブルに座っている怪物。
怪物は、飛び込んできた獲物の悲しみと恐怖を湛えた表情を満喫し、ゆっくりとテーブルから降りる。
「マッてたゾ、ムスめ。おまエの生命、うまいラしいカラな」
ゆっくりと彼女に迫る。シェリルは後ろへと下がる。この時彼女は、昨日みた夢を、何故か思い出していた。