そこにある現実、事実、すべて闇への渡し綱
火を入れられたストーブは、肌寒い十一月の空気を暖めていく。パキパキッと音を立てて燃えるストーブは、今時珍しい薪ストーブだ。
相変わらず質素な部屋の中に三人はいた。レンは椅子に座り、手紙を滑らかに書いている。ンケドゥは部屋の中を行ったり来たりしている。時々思い出したようにナイフを取り出し、軽く指の上で回したあと、元のポケットへ戻す。
シェリルは一人、窓に張り付き、遠くの空に見える“現象”を見つめていた。
「……あれ、なんなの?」
シェリルは外を見たまま、レンへと問い掛ける。レンは静かに筆を滑らせている。
「……あれは、断層さ。空間のな」
沈黙に耐えかねたンケドゥが口を開く。シェリルは窓の外を見ながら、ンケドゥの言葉に耳を傾ける。
「断層?」
「ああ。俺たちヴァンパイアの住む『魔界』って呼ばれる場所と、この『現世』を直結させる、言わば空間の裂け目だ」
ンケドゥの言葉に、思わず振り返るシェリル。聞いたことはある。魔界という場所のことを。しかしそれは、小学生の時に読んだ絵本で見ただけだ。実際にあるとは思いもしなかった。
「普通なら、自然にできるものじゃないが、今はちょっとした事情で開いてる」
気になる一言。彼は言った後に、しまったという顔をしたが、後の祭り。
「ちょっとした事情って?」
不安げな表情で尋ねるシェリル。ンケドゥは苦虫を噛んだような顔をし、いや、ちょっとな、まあ、などと曖昧に誤魔化す。シェリルがさらに問いただそうと窓から離れたとき、レンが立ち上がった。
「隠し通せるものじゃないし、隠したからってどうにかなるものでもないしね。君には教えておこうか」
レンはおもむろにシェリルに近付き、窓の外の“断層”を眺めた。
「まずは、僕らがなんなのかってところから始めなきゃね。簡単に言うと、僕らはヴァンパイア」
すでに大体の検討を付けていたシェリルは驚きはしなかった。彼女の無反応さに落胆を覚えつつ、レンは続ける。
「そして、そのヴァンパイアの中にも二つの種族がある。僕らみたいに人間に近い姿をしているのが蹴脚族。さっき君を襲ったのは翼翔族。羽を生やした不様な種族さ」
彼は嘲るように微笑む。その笑みに吸い込まれそうになるシェリル。
「で、その二つの種族は今、戦争状態にある。その原因は、簡単に言うと餌の取り合いさ」
レンは軽く言ってみせたが、シェリルはその言葉の真意を理解し、硬直した。
「つまり、あなたたちヴァンパイアの狙いは、この世界の人間なわけね」
「早い話、そういうこと。魔界じゃ食料不足でね、新しい『牧場』が必要だったのさ」
レンはさも当たり前のように話す。シェリルは底知れぬ怒りを感じつつ、話を聞く。
「でも、蹴脚族も翼翔族も、仲良く食料を分け合う気なんかさらさらなくてね。我先にと断層を開こうとしたんだ。だけど、先に開いたのは翼翔族だった」
空間の断層を睨みながら、レンはつぶやくように言った。競争に負けた。ただそれだけの表情だった。
「まあ、僕らも小さな断層は開けたしね。五、六人くらいこっちにこれたけど」
レンは気を取り直すようにそう言うと、突然シェリルを抱え上げた。彼女はきゃっと軽く悲鳴を上げ驚く。
「家まで送るよ。また翼翔族に出会わないとも限らないしね」
彼女は断ろうとはしない。またあんな怪物に会うなど、二度とごめんだからだ。レンは軽く微笑むと、ンケドゥが開け放った窓から飛び出た。その後にンケドゥも続く。
浴槽に張られた湯が少しばかり溢れだす。
首まで浸かりながら、彼女は一息ため息を吐く。今日聞いた話を反芻すると、欝になる。この町の人間が、いや、世界中の人たちが、ヴァンパイアに餌として飼われる。今の自分のように。
視線を正面の壁に向けていると、意識がゆっくりと沈んでいく。シェリルは抵抗せず、沈みゆく意識に身を任せた――
不思議な色の空間。紫にも橙色にも、藍にも紺にも見える。その中を漂う。誰かが自分を抱えているかもしれない。何かに包まれている気がする。
「ココから先に、君の人生がある。幸せかもしれない。辛いかもしれない。でもそれはオレの管轄外だ。その先は自分で切り開くんだぜ」
そうして、放された。
空間を漂い、わずかに後ろが見えた。そこに男の姿があり、手を振っている。
「幸せに、なれ」
そして、光に飲まれた――
気が付くと、ハンナが顔を覗き込んでいた。
「大丈夫シェリルちゃん!?」
血相を変え、まるでシェリルが死にかけたかのように慌てている。彼女には過保護な面もあり、シェリルは少々気を使ってしまうのだった。
「ん……ハンナさん、大丈夫だよ」
微笑みかけてはみても、ハンナは次々と話し掛け、口癖かのように『大丈夫?』と聞いてくる。シェリルは大丈夫と諭し、彼女の気をなんとか鎮め、おやすみなさいと最後に言って自分の部屋へと迎う。
ハンナは最後まで心配そうにしていたが、シェリルが部屋に入ったのを確認し、後味悪そうに自室へと戻っていく。
「あの夢、なんなんだろ」
誰に言うでもなく、空に言葉を投げ掛ける。ベッドに滑り込み布団を被る。頭を巡るのは、風呂場で見たあの夢。夢にしては妙に現実味を帯びており、ついさっき体験したかのようだった。不思議に思いながらも、甘い眠気の誘惑に瞼を閉じた。
「あ……あぁ……」
月の光と街灯に照らされた路上。そこで一人の女性の生命が吹き消された。女性を抱えていた怪物は、それをゴミか何かかのように放り投げた。
口元を腕で乱暴に拭い、女性のものである血液を拭き取った。
「フ、フフ……」
怪物は次の獲物を探そうと、人間の姿に化け、近くの角を適当に曲がった。するとすぐ正面に、茶色掛かったショートヘアーの二十代くらいの女性が歩いていた。
しめたと思い、何気ない顔で女性へと近付く。
「こんばんわ、きれいなお姉さん」
「あらこんばんわ」
何気ない笑顔であいさつし、女性からも笑顔で返された。人間へと化けた怪物は、声を上げられないように食事するために、すれ違いざまに女性の背面に回った。
「うふふ、今日はラッキーね」
女性は静かにつぶやき、振り返った。怪物は別に焦る様子もなく、女性に近付いていく。女性はにっこりと笑い、怪物は体に、特に胸に強い衝撃が走った。怪物の表情が凍り付く。
「二人もヴァンパイアに会えるなんてね」
女性は天使のような可愛らしい笑顔を見せる。怪物にはそれは、悪魔の笑みにしか見えなかった。
視線を落すと、女性のか細い腕が自分の胸に突き刺さっている。その細い腕は、一気に引き抜かれた。
「うふふ、いただきます」
笑顔で、手に握った怪物の心臓を食い千切る。
怪物は痛みに叫ぼうとしたが、声が出ない。代わりに、喉から血が泡を伴って、ゴポゴポと吹き出てきた。女性はいつのまにか怪物の喉を抉っていた。
怪物が苦しみ悶え、女性は食事を終えた。壮絶な表情を張りつかせたまま、怪物は一気に腐食し、骨のみと化した。
「ご馳走様でした。この子は羽が生えてたから、さっきの子の仲間じゃなさそうね」
うれしそうに笑う女性。手を舐め回し、付着した血痕を拭き取り、口の周りはハンカチで拭った。ハンカチをバッグに戻し、歩き去る。
路上は再び静寂に支配された。
「……」
レンとンケドゥは、足元に転がる人骨を見下ろしている。静かな路地裏、体液を抜かれた死体が二つと、人骨が一人分。
「まさか、翼翔族の仕業か?」
ンケドゥは人骨を拾い上げ、まじまじと眺める。残り香からすると、女か。確か、ジュリーだったか。彼は人骨を地面に戻す。
「……いや、違うな」
ンケドゥの一連の動作を観察したあと、口を開いた。
「正面から心臓に一撃。翼翔族相手ならこんなあっさりとやられたりはしないはずさ。だから、別のやつ」
レンは冷静に分析したあと、きびすを返して歩きだす。ンケドゥは合掌し、レンの後を追った。
「また一人、尖兵が殺されました」
立派な造りの椅子の前、ひざまずく者の姿があった。椅子には相変わらず霧がかかっている。
「どうやら、蹴脚族以外の生物にやられたようです」
ひざまずく者の報告を受け、霧は首を捻った(ように見えた)。
「現世の生物が、か? 興味深い。調べさせろ」
はっと了承の声を上げた後、ひざまずく者は消えた。空間の明かりが徐々に暗くなっていき、椅子の姿が闇に飲まれていく。
「たとえそれがなんであろうとも、我の邪魔をするほどのものでもないだろうが」
つぶやきを残し、椅子は完全に見えなくなった。