彼の記憶 #2
「おい、そっちに行ったぞ!」
森林の中で女が叫ぶ。何かが恐れるように彼女から離れていく。木々など存在しないかのようにそれは素早く移動している。走る、と言うよりは、滑ると言ったほうが正しいほどの滑らかな動き。
逃げるそれは、自分の向かう先にもう一人居ることに全く気付いてはいない。タイミングを見計らい、木の枝から突如舞い降りた。
「捕まえたっ!」
「フシャァァァ!」
飛び出した人物に捕まえられたそれは、おおよそ見た目にそぐわぬ威嚇をし、前足をむやみやたらに、しかし相手の顔に確実に振り下ろす。
「い、痛っ! いたたたた!」
捕まえている人物は、鋭い爪の餌食になりながらも決してそれを離そうとはしない。やがて女が彼に歩み寄ってきて、それの首根っこをつまみ上げる。
「はいはい、猫さん捕獲完了っと。ンケドゥ大丈夫か〜?」
彼女は猫を片手に、あちこちの引っ掻き傷を抱えて悶絶しているンケドゥに声をかける。彼は恨めしそうな顔を彼女に向けた。
「すっごく痛いんだけど」
その顔には幾筋もの赤い線が走り、その端からは赤い滴が少し流れている。それを見て彼女は、思わず吹き出してしまった。
「はっははははっ! おもしれー顔!」
笑われてンケドゥは少しふくれ、顔を背けた。
「まあとりあえず、これで今夜の宿代にはなるだろ」
カナンはそう言って、未だに全身を振って抵抗する猫の後頭部を少し強くデコピンし、意識を飛ばせる。そしてその猫をンケドゥに投げて寄越す。彼は慌てて猫を優しくキャッチした。
よし、行くか! と、カナンは腕を振り上げ伸びをし、この先にある街へと向かった。ンケドゥもその後に続いていく。
「まあ、ジーナちゃーん! どこ行ってたのー心配したのよー?」
恰幅の大きいセレブの女性が、二人が捕まえてきた猫を抱き締める。みぎゃああぁぁぁ! と悲痛な叫びを上げる猫にンケドゥは少々同情した。
「ご依頼のほうは、これでよろしかったですか?」
カナンが慣れない様子でそう尋ねると、女性は満足そうな顔をして袋を取り出し、カナンに手渡した。
毎度ー、とカナンは袋を受け取り、その場を後にした。ンケドゥは猫に哀れみの視線を送った後、カナンの背を追う。
「にっひっひ! まさか、猫捕まえるだけでこんなにもらえるなんてな」
袋の中からは小気味いいジャラジャラという音が聞こえてくる。
「これなら、宿に泊まるついでにいいもん喰えるな。ンケドゥー、何食いたい?」
彼女が振り返って尋ねると、後ろを付いてきていたはずの人物がいない。背に冷えたものを感じ、急いで来た道を引き返す。
マズいって、街中で発作はマズいって!
彼女は焦りを押さえながら、ンケドゥを探した。
「……ごめん、なさい……」
ンケドゥが、落ち着いたころに彼女に発した第一声。案の定、道の端で彼は発作を起こして伏せ込んでいた。
彼はヴァンパイアである。いくらものを食べて栄養を摂取し、人と同化して生活していてもやはり、その生命力は人の生命を原料にしなければ維持できない。小動物やカナンの生命で食いつないではいるが、やはり根本的に量は足りてはいなかった。
ンケドゥはカナンに包み込まれるように抱かれていた。
今はほとんど使われていない建物の密集地。その路地。犯罪者や黒い一面を持つ人がここらに住み着いている。いわゆる裏路地と呼ばれる場所。常人なら滅多に踏み込まないような雰囲気を醸し出している。
彼の餓えは予想以上に激しく、カナンは危うく昏睡状態に陥る所であった。
「……ああ、オレにも悪い所は、あった。……悪ぃな、腹一杯、喰わせてやれなくて……」
意識が朦朧としている中、カナンは答えた。今はギリギリで気を失うのを堪えている。
ンケドゥは泣き出しそうになりながら、首を横に振った。悪いのは自分だと、ヴァンパイアである自分だ、と無言で語る。そんなンケドゥの頭を、彼女は優しく抱きすくめる。
「……宿、探しにいくか」
そう言って、ンケドゥを体から離した時、その背後に五、六人の人が見えた。
「なあ、おねーさん、俺たちもだっこしてくれない?」
ゲラゲラと何が可笑しいのか、男たちは笑っている。カナンの嫌いな人種だ。こういう輩にはまともな精神を持ったやつはいない。相手が誰であろうと容赦はしない。彼女が知りえる彼らの悪業は片手では数えきれない。
この場合は、強盗、暴行。……強姦もか。
カナンは自分が女であることを失念していて、思わず吹いてしまった。その笑いを自分達への嘲笑と捉えたのか、男たちから笑いが消えた。
この程度の輩なら、片腕だけでも十分だろうが生憎、今は吸血の後遺症で全身に力が入らない。ため息後にンケドゥに耳打ちする。
「加減して、死なん程度にボコボコにしてやれ。二度と馬鹿な考えを起こせないくらいに、な」
その言葉は意外と大きく語られ、男たちの怒りに油を注いだ。
「舐めてんじゃねーぞこらぁ!」
男たちは一斉に飛び掛かっていく。ンケドゥはすぐに行動に出た。
一番に飛び出してきた男の顎を蹴り上げ、横から殴りかかってきた男の肩の上を横回りに乗り越え、その後ろの男の頭に足を振り下ろす。乗り越えられた男はバランスを崩し、前のめりに壁に突っこんだ。
一瞬で三人の男が倒れ、残りの三人は後退った。
「どうする、続ける?」
ンケドゥは顔に笑みを浮かべて問いた。彼が大人ならば、男たちは慌ててその場から逃げ出しただろうが、生憎彼は男たちからしてみれば少年である。年下に背を向けるなど、彼らの妙なプライドが許さない。
「な、なめんじゃねぇぇ!」
三人は一斉に飛び掛かってきた。数で優位に立とうとする集団戦法の一つだ。しかしンケドゥはものともせず、疾風の如く三人を叩き伏せる。
手を埃を払うように軽く叩き、カナンに振り返る。
「さあ、行こうよ」
やれやれと言った感じで、カナンは立ち上がり、路地から出る方向に歩き始めた。
宿をとり、二人部屋のベッドでぐったりと寝込むカナン。吸血による血液不足は予想以上に大きく、部屋に着いた途端に意識を保てなくなり、床に顔面から落ちるところだった。危うい所でンケドゥが受け止め、その身体をベッドまで運び、優しく寝かせてあげた。
その後は、日が落ちるまでカナンの顔を眺め続け、日が落ちた後は外に出ていた。カナンが目覚めた時、何かお詫びに渡そうと思い、商店街へと足を運んだ。ポケットに多少のお金を詰め込んで。
商店街は結構な人の流れがあった。視界一杯に人、人、人。カナンと出会う前のンケドゥなら、すぐさま飛び付き、片っ端から生命を頂いていただろう。しかし今なら耐えられる。先程カナンの生命を相当吸収したため、餓えは癒されている。しばらくは大丈夫だった。
一つの小物店に寄ってみた。カランという小気味いい音を立ててドアが開く。
「いらっしゃいませ。生憎本日は閉店です」
綺麗な声が意識を逆撫でする。身震いが、した。
嫌な予感しかしない。ドアが閉まった瞬間から、カウンターの方から冷えたものを感じた。それは今までに感じたことのないような冷たい殺気だった。自分の息が白いんじゃないかとンケドゥは息を吐いてみた。
カウンターのほうで誰かが起き上がる。店主……ではなさそうだ。口の端から赤いものを流しながら微笑む少年だ。外見年齢はンケドゥと変わりなさそうだ。
「……なんだ、同族か」
少年の言葉に敵意は感じなかったが、殺気は未だに消えない。少年はカウンターを乗り越えた。ンケドゥも自然と応戦態勢を取る。
「でも、君からは美味しそうな匂いがするんだよねー。……別に、同族から生命もらっちゃ駄目なんてルール、なかったよね」
その言葉にも敵意は無かった。が、冷えた殺気がさらに鋭さを持った。ナイフのような鋭さの冷気を纏った指に心臓を握られるような感覚。それは、目の前の少年がただ者ではないという警告だった。
次の一瞬で、ンケドゥと少年はガラスを突き破り、表に飛び出していた。ンケドゥの腕に少年の指が突き刺さったまま。突き出された手を腕で防いだのだった。
悲鳴が上がる。人々が何事かと一瞥し少年の正体を見抜くと、蜘蛛の子を散らすように一斉に逃げ出した。その間も少年はンケドゥに攻撃を浴びせる。
馬乗り状態からの殴りに対し、ンケドゥは受け止めることもままならずにただ身体を庇う。しかし彼もただの素人とは違う。一瞬の隙を見出だし、少年の顔の側面に拳を放つ。それは避けられたが、体を少年の下から解放させることができた。
立ち上がり、睨み合うンケドゥと少年。夜独特の冷えた風が二人を撫でる。
「ボクは争う気はない。これだけの騒ぎになるとハンターも来る。この辺にしておこうよ」
穴の開いた腕を擦りながら、ンケドゥはそう促した。しかし少年は笑うだけだった。
「怖いの? 俺たちヴァンパイアがなんでニンゲンなんかに怯えなきゃならないのさ」
少年の笑みは意味深長だった。どこから来るかわからない自信が、その笑みの裏側にありそうだった。指に付着したンケドゥの血を舐めとる。
こいつは、ハンターに勝てるのか? ンケドゥはそう考えた。
その時、規則正しい足音が何人分か聞こえてくる。少年の耳にそれが聞こえると、舌打ちをした。
「これからがいいとこなのに。あいつら面倒くさいから相手にしたくないな。じゃあねぇ」
最後に間延びした別れの句を付け、少年は走り去った。ンケドゥはどうしたものかと一瞬反応が遅れ、気が付くとこちらに向かって走ってくる人影が道を塞ぐように走ってくるのが見えた。
半数が少年の逃げた方向に向かい、残りの人影がンケドゥを取り囲み、一斉に剣を向けた。
「ヴァンパイアの疑いがある。よって拘束させてもらう。抵抗は無意味だと理解せよ」
取り囲んだ人影の一人がそう宣告する。ンケドゥは表面上は平然としていたが、内心は焦りと恐怖に支配されていた。心臓が頭の中で脈打っているような感覚に見舞われ、そんな中でも精一杯冷静に思考する。
そうだ、ニンゲンを装えばいい。ニンゲンのフリをして疑いを晴らすんだ。ニンゲンのフリなら、得意だ!
そう行き着いたンケドゥの思考が、自分の正面に立つ男の一言で再び凍り付く。
「おまえのその腕の傷……。証言の通りだな。ヴァンパイアと思わしき子供の攻撃を受けていた子供。ヴァンパイアの攻撃を受けてなお、立っていられるなんて、少なくともニンゲンには不可能だな」
ニンゲンには不可能。遠回しにンケドゥはニンゲンではないと宣言しているようなもので、実際そうだった。ンケドゥを取り囲む輪が僅かずつ小さくなっていく。
ンケドゥは、男たちが発する匂いに覚えがあった。その生命の匂いはハンター特有の甘露なもの。彼を取り囲む男たちはつまり、ハンターだと言うことだ。
これは不味い。切っ先で皮膚一枚でも切り付けられれば、その傷口は異常な反応を示す。それはヴァンパイアと言っているようなもので、そうなれば次の瞬間には自分は屍となる。苦い表情を浮かべ、眼前に迫る刃の先を目で追う。
「まあまあ、そう殺気立つなって」
不意に聞こえてきた声に、その場にいる全員がそちらを見る。女が一人、剣を杖代わりに立っていた。
「カナン!?」
ンケドゥの呼び掛けに、よお、と軽く返す。剣を支えに、ふらりふらりと歩み寄ってくる。二度三度転倒しそうになり、見兼ねたンケドゥが囲いの脇を通り抜け、その肩を支える。
「おう、悪ぃな。……こいつはオレの弟だ。どうしてもやるってんなら、オレが代わりに相手になるぜ?」
そう彼女が挑発的に言い放つ。ンケドゥを取り囲んでいた者達は、歯牙にも掛けない様子で剣を収める。幾何学模様に並び、歩調を規則正しく揃えて歩きだす。カナン達の脇を通り過ぎる時、先頭の男と彼女は嫌悪感を乗せた視線を交わらせた。
男たちの気配と姿が完全に無くなったのを確認すると、ンケドゥは分かりやすくため息を吐いた。それを見てカナンは拗ねたように口を尖らせた。
「んだよそのため息は。オレがあいつらにやられると思ってたのか? あんなやつら、片手で充分だよ、じゅーぶん!」
いつもの冗談めかした調子で言うものだから、ンケドゥはその言葉が本当なのかどうか計り損ねている。
「……まあ、宿に戻ろうや。元気そうに見えて実はぶっ倒れそうなんだぜー、オレ」
どう見ても元気そうには見えないけど。そんなツッコミをンケドゥは飲み込んだ。とにかく今は、一刻も早くカナンを休ませなければいけない。
彼女を引きずるようにして、宿へと向かった。
「……カナン・ダルダロス。まさか生きているとはな」
薄暗い照明だけが照らす大広間。車座をする十二の人影。その中央には女性が一人横たわっている。
「しかし、まだ我々の目論見を看破しているわけではない。何ら障害にはならんだろう」
「そうだ、奴はまだ気付いていない。それに、見掛けによらず半信半疑で動く奴ではない」
「なら支障はない」
誰が発したかわからないが、会話がなされている。彼ら自身、誰が発した言葉か気にも掛けていないようだ。それは皆の思想が同じだと言えるからだ。
他にも議論を少々重ねていると、中央の女性が突然目を見開き、ゆっくりと起き上がった。
「目が覚めたか、鉄姫。調子はどうだ?」
先程、カナンと一瞬の睨み合いをした男が女性に問い掛ける。
「フフ、いいわよ、ベン。話は聞いてたわ。何ならあの女、私が始末して上げましょうか?」
妖艶の笑みを浮かべ、ねっとりとした視線を男に向ける。しかし、ベンと呼ばれた男は何の感情も込めない表情をするだけだ。
「今はまだいい。それより、やってもらう事がある」
それを聞いた女性の顔が、より妖艶になる。
「ウフフ、何でも聞いて、あ・げ・る♪」
ベンの顔もつられ、醜悪な笑みに歪む。それは、悪魔の微笑みに似ていたかもしれない。
まだまだ続きます。長いです。