最凶の敵、最強の敵、ただひたすらに絶望
「もうすぐだ。もうじき、この力が完全に私の物となる……フ、フフフッ……クハハッ」
巨大な椅子にまとわりついている霧が、小刻みに笑いだす。気になって、一匹の中級翼翔族が近付くと、霧の一部が突然巨大な手の形状へと濃縮した。驚いた翼翔族はすぐに振り返り逃走を図るが、あっけなく捕らえられてしまった。
「この力が、もうすぐ……は、ははっははは!」
霧が歓喜の笑い声をあげると、手に握られていた翼翔族が一瞬にして炸裂し、角や尻尾の先などの末端部分のみが辺りに飛び散る。そしてそれらの肉片も、地に落ちる前に灰となり、消滅した。
薄暗い空間は、狂喜に包まれていた。笑い声は、絶えない。
「……フン」
スウィスが握った拳を開けると、白銀に輝く弾丸が地面に落ちた。金槌で殴られても傷すら負わない弾丸が、丸くひしゃげて転がっていた。ルイスはその様子を見て、身体中を恐怖の虫が這い回った。
クソッ、管轄外の強さだぜ。
意味をはき違えた口癖が、脳内に響く。その言葉に次いで、過去の記憶が脳裏に映る。
「……縁起でもねぇ」
独り呟き、銃を乱射する。的確に頭、胸を狙うが、標的が消えた。
「なんっ……!?」
頭の上で乾いた炸裂音。見上げるのと同時に、自分のすぐ横に何かが落ちた。視界には死を連想させる翼をはためかせる化け物。
ルイスは直感した。これは、人間がどうこう出来るレベルじゃない、と。気が付けば、丸太のような尻尾に弾き飛ばされ、宙を待っていた。
カナエは立ち上がると、遥か後方の川に落下したルイスを頭の片隅ですら意識せずに、再びスウィスに向かって飛び込んでいった。打ち出す拳は難なく防がれ、繰り出される拳の横薙ぎは躱すだけで風圧に体勢を崩される。
一瞬遅れた、守るための両腕の間に拳が捻じ込まれる。挟みこんでも威力はあまり相殺されず、衝突した瞬間に腹筋に力を込め、内臓へのダメージを軽減した。そのまま吹き飛びコンクリート塀を打ち砕く。
カナエはゆっくりと起き上がった。塀に衝突したのもそうだが、殴られたダメージがあまりにも高かった。
ふと彼女は近くの塀の破片を手に取り、指先に力を込めてみた。破片は豆腐でできているかのように用意に砕け散った。そこから考え出された結論が、『目の前の怪物は、自分の手には負えない』という事実だった。
「……それでも、やるしかないのよね」
先ほどのルイスのように、独り呟き構えるカナエ。普段の彼女なら、出会った時点ですでに逃げ出していただろう。拳を交わらせた今でも、逃げろと本能が伝えている。それでも彼女は逃げない。理由は自分にもよくわかっていない。
だから、シェリルのためと適当な理由を自分に言い聞かせた。極上の獲物を横取りされないためだ、と。
全力で地面を蹴り、蹴った塀の欠片が地面に落ちる前にスウィスに三発拳を放ち、一発の蹴りをもらう。両手に加え左足も引っ張り上げ防ぐが、衝撃が体を突き抜け、再び塀へ激突した。その衝撃音の後、蹴りだした欠片が地面に落ちる。
土煙が彼女の姿を隠し、一瞬だけスウィスの視界から消える。スウィスは追い討ちをかけるため、大きな翼で跳んだ。距離は数メートルしかなかったので、土煙に彼が吸い込まれるまで本当に一瞬であった。
彼女が倒れているであろう地点を予測し、拳を放とうとするが、予測地点に彼女の気配はなかった。なんの感情も表さないまま、視点を上に持っていく。僅かに薄れた土煙の向こう側に、大きな影が見えた。
「ったああぁぁぁ!!」
気合いの入った言葉と共に、公園に配置されていたドーム状の遊具を、回転力を活かして勢い良く投げつけるカナエ。彼女は塀に衝突したとき、後方に跳ぶように受け身をとり、塀をもう一つ越えた先にあった公園から遊具を引き抜き、回転するように上空へ跳んでいたのだった。
スウィスは完全に意表を突かれ、驚いた様子で遊具の下敷きとなった。地面に着地したときのカナエの顔が、人狼のものになっていた。肩で息をしながら、地面に埋まっていた部分が上を向いた遊具を見据えた。
「……気絶でもしてくれれば、時間稼ぎにはなるけれど」
人狼の顔から少しずつ人の顔へと戻っていく。全力を解放すると、どうしても人の形を保つことはできない。つまり、全身全霊を込めて遊具を投げつけたのだった。腕が悲鳴を上げる。
物音一つしないため、気絶したのかと判断し立ち去ろうとしたその瞬間、爆発でもしたのかというほどの爆音、風圧が発生した。カナエが驚きで一瞬だけひるんだ瞬間、何かが視界を覆い隠し、頭を掴まれ持ち上げられた。
「がっ、あっ!?」
右目はその何かの隙間から、その正体を捉えた。手だ、巨大な手。視線を正面に持っていくと、目を見開き、人間をも殺せるかというほどの殺気を放つスウィスが眼に入った。
「……なかなか……フム、楽しませて……もらったよ。これはその……ほんの礼だ」
ギリギリと締まってくる。頭全体に襲いくる圧迫感に呻き声を上げるカナエ。その手に爪を食い込ませても殴っても、握力は少しも変わらなかった。
やがて圧迫感は痛感に代わっていき、握り潰されるというのがより鮮明に意識できるようになった頃、滲み歪んだスウィスの後ろ側、砕けた塀の欠片の上に、今最も会いたかった者の姿が見えた。
「ンケ……」
その者の名を呼ぶことは、叶わなかった。
熟れ過ぎた林檎を地面に叩き付けるというのが近い、歯切れの悪い湿った粉砕音。次には頭という司令塔を失った体が、力なく地面に倒れ伏せる。頭を失って間もないため、空気中に晒された気管は空気を取り込み続け、動脈は血を送り出し続ける。手足が短い痙攣を断続的に起こしている。
眼球、頭蓋骨、脳髄が堕ちた体に落ちる。スウィスが手を広げると、中に残っていた残骸が湿った音を立てて地面に落ちる。浴びた返り血を、彼は舐め取った。
「フム……なかなか、美味……」
スウィスは挑発するように、後方で殺気を放ち続ける蹴脚族に振り返る。
立ち尽くすンケドゥは、見た光景を否定しようとはしなかった。悲しもうとも思わなかった。ただ単に、目の前の大きな翼翔族を無性に殺したくなっただけだった。拒否も悲しみも、その他諸々の感情も、すべてこの感情の後でいいと、そう考えることすら押し退けた。
殺意、憎悪。そのどちらでもあって、そのどちらよりもさらに高い感情。人はおろか、彼自身、蹴脚族、翼翔族すらこれを表す言葉を持たない。ただひたすらの、心の闇。どこまでも深く、どこまでも暗く。
「……キィィサァァマァァァァァァアアァァァ!!」
心の奥底、底無しの闇のソコから発する、闇に染まる叫び声。泣いているようにも響くその声にも、感情を表さないスウィス。しかし次の瞬間、彼の目は驚嘆で開かれる。
ああ、あと少し。肋骨が無ければなぁ。ンケドゥはそんな感想を漏らし、顔を上げる。スウィスは面白そうに口の端を持ち上げ、ンケドゥを叩き潰そうとする。
ンケドゥが消え、代わりに胸に開いた穴から血が噴出される。
「油断していたとはいえ……これほど、か。フム……」
徐々に塞がっていく穴から視線をンケドゥに合わせる。自分の体に付着した自分の血をすくい、口へ注いだ。舌で転がすように味わい、ゆっくりと飲み込む。
「なるほど。少しは、やるようだな……久々に自らの血を……味わうことになるとは」
スウィスは両手から力を抜き、構えを取った。相手に対し少し右斜めに向いて立つ姿は、ただ単に立っているようにしか見えない。
「ああ、次は殺してやるよ」
ンケドゥは殺意に満ちた目で、スウィスを睨み付けて立っていた。
叢 剣さん、ご協力ありがとうございました!