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28.幸せな笑顔

 ハーシーはすでに身支度を整えて、護衛士館の玄関に立っていた。

 わたしは無言でそばにいくと、彼も何も言わずに、玄関の扉を開けた。



 今日は風が強かった。木々が揺れて、サワサワと音を立てている。

 髪の毛がなぶられるのを必死で抑えながら、わたしはハーシーのあとをついて歩いた。


 明日になれば……もう、お別れだ。

 冷たいことを言われるし、ろくに会話もなくて、こんなに仲が悪いのに……本当にこれで終わっていいのかな?って、もう一人の自分が囁いてる。


 気持ち悪いって言ってしまったこと、謝らなきゃ……でもまた、あの冷たい瞳で見られたら、心が突き刺さるように痛くなる。


 謝ってもどうせ、ハーシーはわたしを嫌いなまま。だけど、やっぱり人として、ちゃんと酷いことを言ってしまったことは謝らないと……。


 わたしは葛藤の末に、口を開いた。


「あの……!その……さっきは、ごめんなさい」


 ハーシーは、こちらを向かずに「なにが?」と答えた。


「あの、気持ち悪いって言って……」

「誤解されたくなかったんだろう?」


 思いがけず、穏やかな返答がきた。

 でもその着地点は、何だかわたしの想いとは違っている気がする。


「そうですけど……だって、誰とでも寝る女だって、思われたくないんです」


「誰かに言われたのか?」


「いえ、言われてはないですけど……やっぱり夜を共にするのは、恋人になってくれる人か、将来旦那さんになってくれる人じゃないと……」


「でも、ここに残る気はないんだろう?」


 わたしは「はい、もちろんです」と答えた。でもすぐに、後悔の念が襲ってきた。なんだろう……ハーシーの雰囲気が、またピリついてしまったのを、肌で感じた。


 どういう返しをしたら良かったんだろう……でも早く帰りたいのは、本当のことだし。


 素直に謝っても、うまくいかない……もう、どうすればいいのか分からない。誰か助けて……。



 その瞬間、ハーシーは立ち止まって、くるりと振り返った。彼はわたしを、怒っているような目で真っ直ぐに見てきた。


「おれは、あんたが元の世界に帰る方法を知っている。だけど、絶対に教えない」


 面と向かって、そう言われた瞬間……私の中の何かが切れた。

 いままで堰き止めていた感情の波が、一気に押し寄せて、目頭がじんと熱くなった。


 だめだ……泣いてしまう。また嫌われる。

 でも、溢れる涙を抑えられなくて、息もできない。

 わたしは思わず、夜の森へ走り出した。


 分からない。なんで泣いているのか。

 でも、1人になりたい。

 これ以上、辛い気持ちになりたくない。


「待て!!」


 後ろから声がした瞬間、わたしは腕を引っ張られ、体を抱き止められた。


「 離してください……一人にして!!」


 溢れ出した感情は止まらなかった。

 わたし今、パニックになってる……身動きが取れないなか、必死になって彼を引き剥がそうとしている。


「もう無理です……これ以上冷たくするなら、もう関わらないでください……!!」

「ごめん、そんなつもりじゃ……」


 ハーシーの喋り方が、なんだかいつもと違っていた。声が震えて、本当に焦っているみたい。


 それでもわたしは、意地になって彼を押しのけようとした。だけど、彼の力に勝てるはずもない。


 本当は、一人になってクールダウンしたい……そうしたら、気持ちが落ち着くと思うから。そうしたら、ハーシーの言った言葉の意味を、ちゃんと考えられると思うから……。


「離して!!いい加減にしてください!!

 わたしのことが嫌いだから、そんな意地悪言うんでしょ!?じゃあわたしがいなくなれば、せいせいするじゃないですか!!」


「いなくなって欲しくなんかない……!

 どこにも行かないで……ずっとここにいてほしい」


 ハーシーはなぜか、顔をうつむかせて、かすれた声でそう言った。

 分からない……彼の本心が本当に分からないから、離して欲しい。


「じゃあわたしの、帰りたいっていう気持ちは無視なんですか!?

 わたしだって、好きでこの世界に来たんじゃないのに……今すぐ川に飛び込んででも帰ります!!」


 そんなことをしたら、本当に死んでしまうことくらい、自分でわかっている。頭では分かっているのに……心の声が、どこまでも溢れ出してくる。


 その瞬間、わたしは抱き抱えられて、近くの木まで運ばれた。幹を背に押しつけられて、抗おうとしたけど、ぜんぜん振りほどけなかった。


 彼は腰から、短剣を抜いた。それを見て血の気が引くようだった。わたしは声をあげようとしたけど、口を手で覆われてしまった。


 わたし……ここで殺されるの?

 じゃあ何のために……わたしは、この世界に来たんだろう。



 ハーシーの目にも、涙が溜まっていた。絶望しているような、光のない瞳。


 昼の光に照らされた時、澄んだ湖のように、青く浮き立つ瞳。鼻筋が通っていて、端正な顔立ち。


 まるで絵本の世界から抜け出してきたような、金髪碧眼の王子様……。

 だと思っていたのに。ハーシーの瞳はいつも、暗い陰りを落としている。


「元の世界に戻りたいなら……おれを殺していけ」


 ハーシーは、短剣を私の手に握らせた。


 その柄の冷たさに……短剣を握る私の手を包む、彼の手の温かさに、わたしは呆然とした。

 必死に首を横に振ると、彼はふっと冷たく微笑んだ。


「どうした?おれを殺せば、今すぐにでも、ひよは元の世界に帰れるんだ」


 それは、どういう意味……?

 尋ねたいのに、喋れない。


 わたしは必死に、ハーシーに動かされそうな自分の手を止めて抗った。


 力を抜いたら、彼を刺してしまう……なんで、そこまでしてわたしを追いつめるの……?

 どうしてそこまで、わたしに執着するの……?


 わたしは、渾身の力を振り絞って、ハーシーの手から逃れて短剣を投げ捨てた。


 彼は、わたしを逃がすまいと、木に押さえつける。もう、抗うのは疲れてしまった。




 震える手から、彼の葛藤が伝わってくる。

 彼の、鼻をすする音だけで、しばらく沈黙が続いた。


 正直、許せない……言葉でちゃんと伝えずに、力で解決しようとすることに。


 でも今まで、彼の言葉を引き出してくれる人が……心の声を聞いてくれる人が、そばにいなかったのかもしれない。


 


 わたしが元の世界に帰ったら……寂しいの?

 こんなわたしに、一緒にいてほしいの?



 わたしは、未だ力を抜かずに木に押しつけてくる手をそっとなでた。

 腕をつたい、その顔に触れた。


 その瞬間、彼が顔を上げた。

 涙に濡れたその顔は、帰り道が分からず、路頭に迷った子供のような顔をしていた。


 ほっぺを両側からつねったり、びよんと横に伸ばしたりした。それでも真顔の彼に、わたしはふっと吹き出して笑ってしまった。


 こんなにイケメンなのに……生きるのが下手なんだなぁ。

 わたしなんかの言葉に、一挙一動して……もっと笑って、好き放題遊んで、怠ければいいのに。


 そんなに自分を追い詰めてしまうほど……悲しいことがあったの?



 とめどなく、青い瞳から涙が溢れ出している。ハーシーは、ゆっくり、わたしの口を抑える手を離してくれた。


「……綺麗な顔が、台無しですよ」


 ぐしょぐしょに泣いている彼が、堪らなく可愛く見えてきた。


 わたしはその涙を、指先で拭った。そして、その指をぺろっと舐めてみた。

 すごくしょっぱい……あぁ、悲しいんだな。


 その瞬間、後ろ頭をぐいっと引いて、ハーシーはわたしを抱きしめてきた。


「……はやく、振りほどけよ……。

 じゃないと……襲ってしまうぞ」

「……いいですよ」


 ハーシーが「えっ」と言葉を漏らして、わたしの顔を見た。口づけを誘うように、わたしは、彼の顔に近づいていった。


 お互いの唇が触れ合った瞬間、やっとハーシーの手の力が抜けた。わたしは、彼の髪をなでるように触った。


 さらさらで、綺麗な髪……ハーシーも、わたしの髪を優しくなでてくれた。



 夢中で重ね合わせているうちに、ハーシーの吐息が熱くなっていく。耳たぶや、首筋に沿うようになでてくる彼の手に、わたしは声を漏らした。


「今日は……一緒に寝ていい?」


 耳元でささやかれて、わたしはまた、意地を張った。


「……ちゃんと、言葉にして」


 わたしは、真剣な顔でハーシーを見た。彼は、戸惑いながら「なにを?」と聞いてきた。


「まず、ちゃんと謝って」


「……傷つけて、すまない」


「それから?わたしのこと、どう思ってるのか、ちゃんと言ってください」


 彼は、面映ゆい気持ちを飲み込んで、口を開いた。


「……出会った時から、可愛いと思っていた。一緒に過ごすうちに……ひよが、ずっとここにいてくれたらと思うようになった。

 おれは……ひよのことが、好きなんだと思う」


 心にじわっと、彼の言葉が染み込んでいく。

 それは、生まれて初めての、告白の言葉……。


「わたしも……初めて会った日に、ハーシーが笑いかけてくれた顔が、毎日頭から離れませんでした」


 彼は、わたしの目をじっと見つめて話を聞いてくれた。


「だから、冷たくされるたびに悲しくて……」


「なのになんで、おれの傷を庇ってくれたんだ?

 痛い思いをしてまで……おれが、命を救ったからか?」


「……それもあります。でも、ハーシーに痛い思いをして欲しくないっていう気持ちが大きくて……」


「それは、おれも一緒だ。ひよが寝込んでいる時、気が気じゃなかったんだ」


 また、ぎゅうっと抱きしめられた。

 でも力任せじゃなくて……優しいハグで、幸せを感じる。


 わたしは、彼を真っ直ぐ見上げて言った。


「……明日、お別れしたくないです。

 ここにいる間は、ずっとそばにいさせてください」


 そう言うと、ハーシーの顔が綻んだ。

 彼の嬉しそうにはにかむ笑顔が……今、目の前にある。


 それは前に見た、ほかの女の子に見せていた笑顔より……ずっとずっと子供っぽくて、人間らしくて……幸せそうな笑顔だった。


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