子猫
ラングドトンの乱でミトレス・ブラックパールが乗船してニースに乗り込んだ最新鋭蒸気戦艦ブラック・ローズ号、今は王家に接収されて禁軍の戦艦として旗を掲げている。
ジョージ国王は自軍の旧式ガレオン船を浅瀬に自沈させて港を封鎖した、ブラック・ローズ号は戦うことなくその任を終えた、乗組員は全員船から降ろされ責任者は処罰され多くの船員は追放となった。
その末端、奴隷同様に暗い機関室で煤に塗れて蒸気機関に向き合っていた老船員、フェン・ウィック、出自は貧しい農家、若かりし頃に借金の形に売られた水夫は船の上で半生を過ごした、夢に見た陸の生活は皮肉にもラングドトン侯爵の逮捕で叶う事になったが・・・・・・。
ようやく自由を得た、もう人生に残された時間は少ない、何処かの田舎で土を弄りながら暮らしたい夢に間に合う、追放を喜んだ・・・・・・はずだった。
今、目の前にあるのは、グラスに僅かに残った琥珀色の液体、安いラム酒の波を見つめて海を想っていた。
あれほど忌み嫌った海と、狭くて暗い機関室、煤と蒸気、油の匂い、騒がしく泣き続ける機械たち・・・・・・どうしてか懐かしく、恋しくさえある。
「俺はどうしちまったんだ・・・・・・」最後の琥珀を喉に流し込んだが味がしない、酒場に入り込んでくる僅かな潮風だけが鼻腔を埋めている。
病気だと思った、海に取りつかれている。
海と船から離れがたい、焦燥と焦りに似た渇望が常に胸を焦がしている。
ボオォォォーッ 汽笛が聞こえる度にビクリと身体が反応してしまう、堪らずに店を出ると軍港を見下ろす丘にヨロヨロと猫背になりながら向かう。
船酔いならぬ陸酔いだ、眩暈が酷い、雲の上を歩くように自分の足が頼りない、常に揺れる船の上で過ごしてきた身体は揺れることの無い大地の上にいることが不安でたまらない、荒れ狂う嵐の海の方が安心出来るとさえ思った。
高台から軍港を見下ろすと旧式のガレオン船に混じってクルーザー級の船が停泊している、軍船と呼ぶには優美すぎる、ミストレスが発注していたという船か。
「美しい船だ」黒い船体に白い帆のコントラストが鮮やかだ、今まで多くの船、大きいのも小さいのにも乗ってきたが無骨な船ばかり、あんな優美な船には縁が無かった。
蒸気機関と推進装置も付いている、目を凝らすと前後に弩弓も搭載されているようだ。
「大砲じゃないな、軍用じゃないのか」王族か貴族共の娯楽だろう、なんと贅沢なことか、しかし乗ってみたい、自分の手でその心臓に火をいれてレディの鼓動を聞いていたい。
叶わない夢だ、夢?自分の夢は土いじり・・・・・・認めざるを得ない、自分の魂は海へ帰りたいのだ。
ミャウ 消え入りそうな小さな声が草むらから聞こえた。
「!?」ミャー また聞こえた、自分に向かって鳴いている、猫だ。
草むら拙い足取りで現れたのは一匹の黒い子猫、まだベイビーブルー、目が青い、「どうした、親とはぐれたのか?」
指を出すと縋るように寄ってきて匂いを嗅いでいる、長期航海には猫も連れていく、食料を荒らす鼠の駆除になくてはならない船員だ、海の男は猫を虐げることはしない。
懐を探すと齧りかけのパンがあった、小さく千切ってやると警戒することなく膝の上に乗り掌のパンにガウガウ言いながらむしゃぶりつく。
「腹すいとったんだな、おめえの母ちゃんはどこいっちまった?」
まだ産まれて一月か二月だろう、必死に踏ん張る手足は小さくか弱いが生きようとする意志に溢れている。
黒猫は幸運を呼ぶ、有名なのはドイツ、モーゼル地方のワイン、黒猫が乗った樽が一番出来が良くなるという、シュワルツ・カッツと呼ばれる銘醸だ。
このまま放って置けば明日にも死んでしまうだろう、大事に抱えると丘を降りようと踏み出した足が滑った!
「あっ!?」
機関士フェン・ウィックは丘の斜面を滑落して滑り落ちて行った。
短槍を担いだ冒険者の女と小柄だが身なりのいい東洋人の男の組み合わせは目を引いた、ここに二メートルを超える巨人と、ドワーフと見間違う小男まで加われば人だかりが出来ておかしくはない。
ジロジロと余所者を見分する視線を跳ねのけてエルザは軍人協会の門を叩いた、もちろんブラック・コーラル号の船員を探すためだ、それも出来れば蒸気機関の運転が出来るエンジニアを探さなければならない。
期待はしていなかった、まるでやる気のない協会事務員の口から朗報はやはり聞こえなかった。
「やれやれ・・・・・・」溜息をついて協会を後にした。
「申し訳ないエルザ殿」帽子を持ったままマンさんが頭を下げた。
「あんたのせいじゃないさ、もともと難しい人探しなのは分かっている、だからエミーもこっちに人を多く配置したのさ」
「旧ラングドトン船籍の乗組員が多少なりともいると思ったのだが・・・・・・どこも人手不足は深刻のようだ」
「正規兵の退職者は再雇用、民間登用、漁船、どこも引っ張りだこ、活況で羨ましい」
「王様も海軍力の増強に力を入れておられるから余計だ」
通りに人は少ない、水夫街の昼間はどこも開店休業、猟師たちが海から帰ってくるお昼から賑わう事となる。
・・・・・・ミャウ・・・・・・
「!」路地の角から泣き声が聞こえた ミャー もう一度鳴いた、呼んでいる。
いつもなら放っておくところだが、なにか気になって覗いてみると灰色の子猫が四つ足を踏ん張って立っていた、猫というよりどこか犬っぽい。
「おや、まだ赤ちゃんだね、腹でも空いているのかい?」親は見当たらない。
ミャッ ベイビーブルーの目が何かを訴えるようにエルザの瞳を真っすぐに見返してくる ミャーウッ クルリと背を向けるとタタタッと小走りに奥へと進む、直ぐに立ち止まり振り返る ミャーウッ。
「なんだい、付いて来いって言うのかい?」
エルザとマンさんは顔を見合わせ苦笑する、どうせ当てはない、暇つぶしに少しだけ付き合おう、路地に入って子猫の後を追う、付いてきているか確認するように度々振り返る。
「どこへ案内する気だろう」明確な意思を感じて益々興味をそそられた。
子猫はどんどん進んでいく、やがて丘に向かう小道に出ると ミャアアアアッ 誰かを呼ぶように一際大きく鳴き始めた、小さな身体から全力で声を振り絞る。
ミャアアアアッ ミャアアアォッ ミャアアアアォッ
「どうした!?」その必死な訴えに二人は気圧されていた。
ミャウッ ミャアアアゥッ その声にもう一匹の声が重なる。
「おや、もう一匹いるな」「助けてほしいのか」
ミャアアアゥッ 直ぐに近く、藪の向こうは切り立つ崖だ、声はそこからだ。
藪を分けて覗き込むと男が一人倒れていた「!?」どうやら滑落したようだ。
駆け寄り脈を診る、生きている、頭に裂傷があった、滑落の最中にぶつけたのだろう。
「どうする?」「放ってはおけないよ、船まで担いでいっちまおう」
「子猫が知らせてくれた・・・・・・あれっ、あいつどこ行った?」
「いない?」
「姿が見えなくなっちまった、この爺さんの飼い猫だったのかな、随分慕われていたんだな」
あれほど鳴いていた灰色と黒い子猫がいない、まるで男をエルザ達に引き合わせるために現れたようだった。
「まるでケット・シー(妖精猫)だね」
少し酒臭い男を背に担ぎながらエルザは子猫たちの声を思い出しながらブラック・コーラル号へと急いだ。
その背を見送るよりも早く、黒と灰色の子猫は路地から路地へと港へ向かって走っていった。




