夫婦喧嘩
ノスフェラトゥ教団の襲撃を受けた旧フラッツ家マナーハウスの復旧は順調に進み、新子爵としてバーモント家嫡男シリル・バーモンドが着任した。
多くの欠員となった官職をなんとか集めて執政を引くまで寝ずに業務をこなし、各種届を提出するために何度も王都を往復して移動中の馬車でのみ睡眠を取るアイドル並みの忙しさだった。
領地運営のための人員はシリルがバーモント家から自分の側近を同行させてきている、主要ポストは用意する必要が無いのは助かった、トマスの様に出世欲のない人間は少ない、こういう場面でひと悶着あるのが通常だ。
しかし家族内兄弟間での権力争いを嫌って早くから王都の事務次官の役職についていたトマスには権力争いを助長させるような要因が少ない。
さっさと権力を明け渡すとトマスは引継ぎを終えて岩人の里に戻ってきた。
王都の都市計画部門の事務次官に復帰するまで一月はある、それまではカーニャと過ごせる、そのために残務整理も引継ぎも前倒しにして頑張った。
「お帰りなさいませ、トマス様、ご無事でなによりでした」
洞窟住居の扉を開けるとカーニャが出迎えてくれた、顔色がいい、その笑顔は子供の頃に戻ったようだ。
「たぁだいまです、カーニャたん」紙袋のお土産を差し出す。
「これは?」
「王宮でぇ流行のお菓子です、ちょっと固くてしょっぱいのですがどうにも癖になります」
「良く手に入りましね、皆で頂きましょう」
この一か月ほどの間にカーニャは驚くほど回復していた、足取りに不安がない、小走りに動き回る姿が機敏で活発だ。
「!?」ゴミ箱に血の付いた布が捨ててあった、何かを治療した後だ。
「これは!カーニャたん、怪我をしたのですか!?」
お茶の準備をしていた後ろ姿に駆け寄ると、”ああ”と何事もないように振り替えり、テーブルまでカップを運んだ。
「まずはお座りになってください」
「おっ、おお、わ、分かった」
馴れた手つきでお茶を注ぐ、令嬢時代には出来なかった事の一つ、全てメイドたちの仕事であり令嬢が手を出すことは出来なかった、今は好きな時に好きな温度で好きな濃さで淹れることが出来る、自由だ。
自分が少し温めの濃い目が好みだと初めて知った、試すことなど出来なかったから。
岩人のお茶は、お茶の葉を水に付けて発酵させたもので独特の香りがある、お茶としては珍しい乳酸菌発酵を利用したものだ、漬物のような香りが食欲を増進させて胃腸の調子を整える効果がある。
「どうぞ、召し上がれ」
「おおぅ、あぁりがとう」カーニャが淹れてくれた初めてのお茶をトマスはゆっくりと味わう、それは少し酸っぱくて甘い、まるで遠き日の思い出を見る様な味。
彼女の微笑を前にしてお茶を飲める至福をトマスは噛み締める。
ありがとう、エミーたちに感謝だ。
「とても美味しい、僕はきっと今日を忘れない」
「まあ、大袈裟ですわ、もっと覚えて出来るようになります、こうご期待です」
笑いながら二の腕に力こぶを作って見せる、僅かに膨らんでいるだろうか。
「それで・・・・・・」
「ああ、そうでした、その処置の後はエロースさんのものです、私ではありません」
「エロースさん?里の方にしては妙な名前ですね」
「里の方ではありません、先日河原で倒れていたのを見つけまして、ここで治療をいたしました」
「私が背負って運んだんですよ、ここまで」
「えっ、カーニャたん一人で!?ですか!?」
「そうです、見直してもらってよいですよ」
「凄いです、その人の命を救ったのですね」
「ごめんなさい、少し盛りました、里の道に出てからはサイゾウさんに変わってもらいましたから半分ですね」
「どこか痛めてはいませんか?あまり無茶はしないでください」
「大丈夫です、皆さんのおかげです、私が人を助ける立場になれる日がくるなんて、とても誇らしくて頑張った甲斐がありました」
カーニャの表情は明るい。
「行き倒れ?このような山奥でては珍しい、なにか曰くがありそうですね」
「深くはお聞きしませんでしたがトマス様をご存知だったようです、それにエミーさんたちのことも、そしてとても謝っておられました、それはもう見ているのが辛いほどに、余程の事だったと思います」
「さて、益々私には聞き覚えのない名前です、ひょっとするとノスフェラトゥ教団の関係者かなにかですかね、いやでも連中が贖罪など考えられません」
「額に星形の傷跡がある少し擦れた感じがする若い方でした、骨折箇所が多かったのでお引止めしたのですが昨日ここを発っていかれました」
「そうですか、縁があればまた何処かで出会うかもしれませんね」
「人とこういう関わり方が出来るのは嬉しい事なのですね」
「中には悪意を持って近づいてくる者もおります、人を信用しすぎるのもまたいけない事です、まずは良く人となりを観察なさってください」
「視野を広く!ですわね」
大きくトマスは頷いて見せた。
「ところでカーニャたん、今後の事ですが・・・・・・」
カーニャと話しているとトマスは吃音を忘れる、綺麗な発音だ。
「王都にお戻りになるのですね、いつ頃ですか」
「ひと月の内には戻らなければなりません」
「そうですか、あまり時間はないのですね、寂しくなります」
カップを一度戻すと背中を伸ばした。
「カーニャたん!僕と一緒にきてくれないか?」 意を決した一言。
「えっ?私がですか」 驚いたのは本当だ、でも。
「そうだ、私とでは嫌ですか」 自分に自信はない。
「とんでもない、ですが・・・・・・私は反体制派だったフラッツ家の娘です、王様のお膝下にいていい人間ではありません」
「僕は気にしない、僕は君が好きだ、昔からずっと愛している」 初めて言葉にした。
「ああっ、そんな事を言っていただけるなんて幸せで死んでしまいそう・・・・・・」
頬を染めて胸の鼓動を押さえた。
「でも行けません、私が原因でトマス様の将来を駄目にするくらいなら自害した方がましです」
「そんな!出世など私は望んでいない、君と暮らせれば十分だ」
「トマス様は誰よりも秀でた優秀な才能をお持ちです、爵位はなくとも国の要職に就くことが天命、その妨げになるのは耐えられません」
爵位は失っても令嬢のプライドが高い。
「それは違う!私が力を注ぐべき相手は貴方しかいない、国など知った事ではない!」
「何を言うのですか!そんなことは許しません!」
「僕が決めたことだ、文句は言わせない!」
「文句とは何事ですか!トマス様は自分の価値を分かっておられません」
「そのまま返すよ!カーニャたんこそ自分がどれほど大切か分かっていないんだ!!」
「たんは止めてください!もう子供ではないのです!」
「カーニャたんはカーニャたんだから”たん”でいいんだ!!」
「はあぁっ!?」
二人は息はぴったりだ。
「ストーォープッ!!ヤメッヤメッヤメッヤメー!何やってんだい二人とも、夫婦げんかはおよしよ、腹が減るだけだよ」
婆が箒を持って入ってきた。
「夫婦ぅ!?」「喧嘩ぁ!?」
「分かってないのは二人とも同じだよ!このお馬鹿さん共!!」
「ベッ、ベスお婆さん!」
「まったく帰ってきた早々に何やっているやら、頭を冷やしな二人とも」
「うっ、すまん、つい熱くなってしまった」
「私も・・・ごめんなさい」
「身近で大切な人ほど広い視野で見てあげな、相手を一方的に想うだけが愛じゃないよ」
「・・・・・・」トマスとカーニャはお互いを見て肩を竦めた。
「それはそうと今、村長に呼ばれて教会まで行って来たところさ、近々この村で大きなイベントがあるらしいから協力してほしいそうだ、あんたらにも働いてもらうから覚悟しな」
「イベントですか?何のことでしょう」
「そいつはまだ秘密だ、イッシッシ」
「なんだ教えてくれないの」
「秘密だよ、秘密!」
「人生なにが起こるか分からない、今を大切にしな」
世捨て人のように人里離れた山奥に引き籠っていた婆の過去は知れない、何処かのマナーハウスでそれなりの仕事をしていたという真偽は分からない。
その深い皺に刻まれた経験が語る言葉は良き姑のように二人に刺さる。
ムートンの森にまた一つ家族が増えていく。




