縁
蒼穹に咲いた黒い花火が見えた、遅れて音が聞こえてくる。
ザ・ノア出航の合図、神の国への旅立ち、あれほど夢見て焦がれたのに。
エロースの足は向かなかった、モノクロームの夢が空しい。
もうハウンドには戻れない事は確かだった、復讐と享楽の酔いは消えて、自分の影が悪魔の形に見えた。
幽霊女が呑ませたエリクサーのせいだ、ダーク・エリクサーに書き換えられた身体を元に戻している、残っていた心が頭をもたげる。
私はいったい何のために何をしていたのか。
幽霊女を悪魔と罵った自分こそが悪魔だったのではないか。
彼の地の景色が違って見えた、そこは厳しく人がいてはいけない神の世界、人は神になってはいけない、なれもしない。
幽霊女の声が離れない ”幸福を探して” 幸福とは・・・・・・自分の幸せとは何だったのか、大地が割れて根底が崩れた。
エロースの信じていた神は死んだ。
優しい雨の中を宛てもなく歩いた、幾つかの山を越えて谷を渡った、歩きながら寝て、寝ながら歩いていた、幾度も躓き転び血を舐めた、傷口は直ぐに塞がる。
切り立った谷の尾根だ、落ちたら死ねるだろうか。
歩くたびに自分が何をしてきたのかを思い出す、悪魔は自分だった。
何故、あんな酷い事を!
「ふああっ・・・ああっ・・・」
泣き声が掠れた、愚かだ、もう取り返しがつかない。
”幸福を探して” 「もう・・・遅すぎたよ」
踏み外したのか、自分から落ちたのか、エロースは尾根から滑落して下を流れる渓谷の流れに落ちた。
冷たいはずの水が暖かい、黄泉への旅立ちにしては優しかった、人生の差し引きにしては甘いものだ、幽霊女、エミーだったか、ごめんな、エリクサー無駄にさせた。
生まれ変われたらどっかで返すよ、まあ無理か。
緩やかな流れに揉まれながら目を閉じた、穏やかな最後だ、でも水死体は汚くなるかな、まあいいや、痛くないし上等だわ・・・・・・さよなら。
深い流れに身を任せてエロースはその意識を閉じた。
里でも洗濯は重労働だ、いっぱいの籠を抱えて川まで降りる、冷たい流れに手を入れて布を洗う、洗って濯ぐ、そして絞る、繰り返す、水の冷たさに感覚が遠くなる。
でも、汚れていた布が綺麗になっていく、その汚れはロイヤルシルクを紡いだ証、その汚れでさえも愛おしい。
カーニャは眩しい光の中にいた、視界が広く明るい、令嬢時代にはこんなにはっきりと世界が見えたことはなかった。
「空がたっかいなー」伸ばした掌の間に目を凝らせば昼間なのに星が見えそうな気がする。
里の生活にもだいぶ慣れてきたと思う、笑って話しかけてくれる人も多い、エミーが言っていた通り岩人は差別の垣根を造らない、上下のない関係がこんなに楽しい、叱られることも多いけれど嫌味がない、素直に謝れるようになった。
そして最後は笑ってくれる。
今はギルもトマスも出かけている、ベス婆は別な穴に居を構えているから小屋には実質一人だ、一日が早い、寂しがっている暇などなかった。
全ての布を絞り終わって籠に詰めると水分を含んだだけ重くなった、胸に抱えるようにして立ち上がった視界に異質な物が映った。
「あれっ?」最初服が落ちていると思った、誰かの忘れものだ。
持って帰ってあげようと近づいて、それが人間であることに気付いて小さく悲鳴を漏らした「しっ、死体!?」恐る恐る近づくとズブ濡れの髪は女の人だ、肩を叩いて声をかけると僅かに唇が開いた 「生きているわ!!」 誰かを呼びにいこうか、その間に野生動物に襲われてしまうかも・・・・・・自分一人で運ぶ!?エミーがギルを背負ったように自分にも出来る?やるしかない!
小屋に戻ればエリクサーがある、きっと助けられる。
自分が誰かを!助ける側に!
洗濯籠を河原に置くとズブ濡れの女の肩に手を回して背中に担いでみる、頬がこけて額に星型の傷がある、中身が空っぽかと思うほどに軽い、出来る、運べる。
あの日、エミーがギルを背負ったように今日はカーニャがその一歩を踏み出した。
威容の山の頂、突き抜ける風に乗ってその頂に飛び上がる、地上が遥か遠くなっていく、翼だ、翼が風を掴んでいる、山腹の洞穴、懐かしさがこみ上げた。
特別な場所だと分かる。
・・・・・・誰の・・・・・・
岩肌の天井だ、暖かいを通り越して暑い。
意識がはっきりとしている、薄明りの室内が明るい。
「ここは・・・地獄じゃないわね」
寝息が聞こえる、窓際の椅子に座ったまま寝ている痩せすぎの女がいた、服が泥まみれだ。
「!」
テーブルの上に空の小瓶がある、エリクサーだと直感した。
「またか・・・・・・」とことん縁がある。
ガチャッ 小屋の扉が開くと婆さんが入ってきた。
「おやっ、気が付いたかい」
「ここは・・・・・・どこ・・・ですか?」
婆さんは洗濯籠を抱えている。
「よっこらしょっと、ここはムートンの森の奥、岩人の里だよ、あんたはそこの渓谷に流れ着いたのさ、カーニャが見つけてここまで背負ってきた、あんた運がいい」
「その子が・・・・・・」自分よりも小さく細い。
「その子一人で私を背負ってきたというの」
「ああ、そうさ、誰かさんに触発されたんじゃろ」
「満足そうな顔で寝ておるわい、ついこの間まで寝たきりじゃったのに、良くここまで戻ったもんじゃ」
「寝たきり?」
「まあ、隠すようなことじゃないけど婆からは言えないねぇ、後で本人に聞いとくれな」
「・・・・・・」 ズキィッ 「クッ!」動こうとして四肢に激痛が走った。
「身体中に骨折がある、信じないかもしれないがエリクサーを飲ませたから治るのは早いと思う、でも今日明日は動かない方がいいね」
「やっぱりそうか、私は何だってこうもエリクサーに付きまとわれる・・・」
「あんたも訳アリだろうけど聞かないよ、話たくなったら言いな、そん時は聞いてやる、それと、その子はもう少し寝かせてあげておくれ」
「そんな簡単に信用していいのかい、私は敵かもしれないんだよ」
「だからって、河原で一人ぶっ倒れている女を放っておく人間はここにはいないさ」
「これはもう死ねそうにないね」
「自殺?余計な事だったかい」
「そういう訳じゃない、死にたい訳じゃない、生きていたくないだけ」
「なんだいそりゃ、頓智問題か何かね、エミーさんと同じような事を言うね」
「エミー!?」
「そう、あの子も複雑な子だからね、自分の事では喜怒哀楽が分からないっていうのさ、そのくせ他人の気持ちには人一倍共感しちまう、だから誰かのためにばかり働こうとする、なんの得にもならない事なのに・・・・・・あの子の剣は無敵なのだろうけど一番危ういのはあの子だよ」
怒りでも高揚でもない、あの氷のような女の意味が分かった、そもそもそんな感情を持っていないのだ。
「エミー・・・・・・ここにいたら会えるかしら?」
「どうかな、あの子は今も突拍子もない事に命をかけようとしとる、不憫な事じゃ、誰かの幸せに共感することでしか幸福を感じられない、自分の望みがないんじゃから、自分の命が軽すぎる」
婆は納得がいかないのだろう、プリプリしながら扉を開けて行ってしまった。
疼痛が全身を覆っている、自分の意識とは関係なく、身体の中に別な司令塔が存在していて勝手に治っていくのを感じる、この身体は自我がある脳だけの物じゃないぞと主張されているようだ。
幽霊女、ダーク・エリクサーのフィルターが外れた今ならきっと違う姿に見えるのだろう。
「くっ」疼痛に耐えて身体を起こすと膝を抱えた。
「自分の望みが見えないくせに、私に幸せを探せって・・・なんだよ、それは」
窓から差し込む午後の光の影が濃くなる、扉の外に昼食を持ってきた婆の足音が近づいていた。




