EP38 些細な出来事
榊に逃げ道はなかった。もうすでに蔭山以外の警官隊も駆け付けており、周りを囲っている。だが、怖気づいた表情は一切見せない。むしろ落ち着いていた。
榊は全員をある場所へと導く。この施設のさらに地下だ。廊下は依然として真っ白な壁が続いており、あまりにも不自然な空間だった。
その最深部、榊は一つの部屋を見せる。そこは、廊下と同じように真っ白な壁と床の部屋だった。物といえる物は何一つなく、正面に小さなモニターだけがあった。
「この部屋が隔離実験施設です」
「隔離施設? 何のだ?」
急かすように蔭山が聞く。榊はゆっくりと話し始める。
「佐花美咲……最後の女性を守るための部屋です。外気を一切遮断し、室内の空気も5分おきに洗浄して入れ替え、ウイルス要因である起因を避けるように設計されました」
「……つまり、それは成功していたのか。俺もニュースで聞いたことがある。最後の一人……やけにこいつだけ長いこと耐えているもんだと感心していた。だが、確かそいつも駄目だったと聞いた気がするが」
「ええ、公にはそう伝えました。つまり、私が言いたい事はわかるでしょう? それは嘘だったのですよ」
「なぜそんな嘘をついた?」
「……彼女は生まれてからずっとここで暮らして――いや、生かされていたのです。多くの知識は与えられましたがそれはモニター越し。外の世界とずっと隔離されていたのです」
「……そいつは耐えられなかったのか。そんな生活に」
「いえ私がです。なにも文句を言わず育て上げられる彼女を、私は見ていられませんでした。……だから私は嘘をついたのです」
―――
佐花美咲が生まれて11年。彼女に初経がきた。神原はそれを目処に実験を第二段階へ移す。
その第二段階とは他の人間とある程度普通の生活をさせることだ。これは実験に成功したことへの佐花への報酬みたいなものでもあった。あのような生活を続けさせるのも精神上よくないことは目に見えていたためである。
また、神原には確信があったのだ。これぐらいで異常にかかるわけがないということを。この地下空間は念入りに洗浄されている。先の実験で異常がないならこれくらいも問題はない。
佐花が移されたのは最初にいた隔離施設よりは少し地上に近づいた地下の少々煌びやかな個室。そこには家具はある程度揃っており、ストレスへの配慮をするように設計されていた。
また、世話係兼教育係をつけることで人間として最低限のマナーを備えてもらう。そのとき榊が抜擢されたのだ。
初めてその部屋に移動したとき、佐花は興奮していた。見たことのない景色に心が踊っていのだ。文字どうり部屋じゅうを飛び跳ね、ありとあらゆるものを見たり、触れたり、嗅いだり、挙げ句の果てには舐めたりしていた。さすがにその行為には榊がストップをいれる。
「佐花お嬢様、食べ物以外は口にしてはいけませんよ」
諭すように榊が言う。しかし返答は意外なものであった。
「知ってるよ、それがダメなことくらい。画面で教えてくれたもん。それでも気になるの。毒はないんでしょ? ならいいじゃん」
佐花にはまだマナーの概念がなかった。だから口にしてはいけないイコール毒がある、もしくは単純に栄養にならないくらいの知識しかなかった。
それに気がついた榊はより一層この子にはマナーというものを教える必要があるという使命感を得ていた。
榊は単純なことから一つ一つ教えていく。あんなモニター越しの教育でもしっかり言葉を話すまで成長しているのはあるいみありがたいことではあったが、人との触れ合い無しにここまでまともな人間になれるという事実には少々哀しみを感じていた。
だが、自分の言葉を聞くたびに素直に頷く佐花を見て悪い気はしなかった。その姿そのものは普通の純真な子供に過ぎないからだ。いくら異常な教育環境にあったからといってこちらが怖気づいていてはいけない。
これはただの子育てだ、そう言い聞かせ日々を過ごしていく。
しかし、それにも限界が来た。佐花が喜ぶ表情を見せるたび、榊は心を痛める。あまりにもたわいのない常識を知っただけで彼女は笑顔を見せるのだ。このような縛られた空間でなければこうはならない。全てはこの実験が原因だ。
しかし、彼女自身に直接被害を与えてはいない。倫理的な問題はあるがそれを除けば絶対的な庇護下にあるのだ。むしろ現代においては優遇された扱いだとも言える。
罪悪感はより一層その身を蝕む。榊はついに決断を下した。
彼女を外に出す。それがどんな結果になろうともだ。おそらく外の空気に触れてしまえば子供を生む力はなくなるだろう。だが、このまま利用されるだけの人生を彼女に送らせたくは無い。むしろなんとか外に出し、力を失わせることでここにいる必要をなくしてしまえば神原の気に留めることもなくなり、その身を自由にすることができるはずだ。
榊は神原に提案をした。第三段階、外の世界へ行かせることを。しかし神原はまだ、彼女を外に出すことを反対した。問題がない確証はないからだ。貴重な力をここで簡単に失いたくないのは仕方ないことだろう。
だが榊は引かなかった。もともと自分がこのプロジェクトを取り締まる予定だったという権限を使い、おそらく最初で最後のわがままを通したのだ。データの改ざんを行い、問題はないと主張することで神原をしぶしぶ納得させた。
榊は成功したと内心で喜んだ。急いで佐花に報告する。ここから出られると。
そして一番伝えなくてはならないことのすべてを――。
だが、彼女の反応は予想外のものだった。話を聞くなり表情が一変する。怒りに満ちた表情だ。榊に詰め寄り佐花は言う。
「なに……実験? 私だけ? ずっと?」
「佐花お嬢様……」
「嘘でしょ? ふざけないで! そんなの……おかしいじゃない! じゃあなに? 私は今まであなたたちに良いように利用され続けてたってこと?」
「……確かにそうです。しかし、もうそんな必要はなくなるはずです。出られるのです、ここから。そうすれば――」
「嫌だ! 嫌! 嫌嫌嫌嫌嫌……」
佐花はベッドの上にある枕をそこらじゅうに叩きつける。どこか金属類に引っ掛かったか、中から羽が飛び出し、その惨状を際立てる。
彼女の心境は、まさにその部屋そのものが映し出していた。
それでもなお、榊は佐花を説得する。
「なぜですか? お嬢様は、いろんなことが知りたいと、あれだけ仰っていたではありませんか。出られるのですよ、広い世界へ」
「……わからないの? 私の気持ちが!! ……知りたくない、そんな真実、確かめたくない! 世界は……私の知っている世界はこの部屋だけで十分よ!」
「佐花お嬢様……ぶっ」
佐花は枕を榊に投げつけた。それを始めにいろんなものを投げつける。「出ていって!」と、言葉に出されなくともわかっていた。
榊は静かにその部屋を出る。もうしばらくしてから再び話をしよう、そう思った。
だが、佐花が落ちつくことはなかった。部屋の外からでも響き渡るほどの叫び声は一日中続いた。