EP26 新しい日が
たった四畳の決して広くはない和室。そこに二人の人間がいた。
一人は少女。布団も敷いていない畳の上に横たえられている。もう一人は警察である蔭山。その傍らであぐらを組み、様子を見ていた。
ここに移動してから数時間、倒れてしまっていた少女はやっと目を覚ます。
「……ここは」
見慣れない景色に困惑する少女。しかし、次第に平静を取り戻す。意識を失い、知らない場所に移ることにはもう慣れてしまっているからだ。
「気が付いたか」
蔭山は声をかける。また怯えさせてしまわないように柔らかい声色で。
さすがに自分のおかれている状況を把握したのか、少女は蔭山から逃げようとはせず、ただ部屋をぐるりと見渡した。
「ここはどこ」
「俺たちが張り込みに使ってた場所だ」
「張り込み?」
「あぁ。ちょいと前にヤミ金融の取引がこの周辺であってだな、そのときの張り込み調査に使ってたんだ。まぁ、今は解決済だがな」
「ふーん…」
これといって興味があったわけでもなく、素っ気ない返事をする。
「なんだ、なにも言わないのか?」
「何って?」
「いや、なぜ連れて帰ったのか、とか」
「警察なら倒れている人間を介抱するくらいの甲斐性があってあたりまえじゃないですか」
「感謝しないのか?」
「見返りを求めてるんですか?」
「いや、そうじゃない」
「なら、いいじゃないですか、別に」
心底面倒くさそうに話す少女。実際少々体調が芳しくないようだ。
少女は自分からなにも話そうとはせず、起こした身体をもう一度布団の中に埋めた。
無理に話しかけていても仕方ない。どうせしばらくは動く気もないだろう。
蔭山はゆっくりと立ち上がり、台所に向かった。あるのはまな板を置くスペースとカセットコンロだけ。調理をするには十分だがあまりにも粗末であった。
冷蔵庫は無いので、近くのスーパーで買ってきた食材をレジ袋から全て出す。
コンロに火を付け、豚肉を軽く炒めたあと適当な大きさに切った野菜を放り込む。
レンジはあるので、パックご飯を温める。
「…出来た」
香ばしい匂いが部屋中に漂う。それにつられ少女も布団から顔を出す。
「…食欲はあるか?」
蔭山は尋ねる。
「そんなもの……わからない」
気まずそうに返す少女。確かに腹が減っているような素振りは見せない。
だが、蔭山は先の倒れたことを考えると、無理にでも食べさそうと思った。
「いいから食べろ。また倒れられたら大変だ」
「あなたには関係ないじゃないですか」
「いや、関係ある。倒れている人間を介抱するくらいの甲斐性を見せなくちゃならんからな」
呆れてものが言えなくなる少女。この男は危険でないと思ったのか、仕方なしに料理に手を付けようと半身を起こす。
しかし、運ばれてきた料理を見て心底残念そうな顔をみせた。
蔭山が作ったものはなんの彩りもない肉野菜炒め。そしてパックご飯である。
いくら食欲がないと言っても、もう少し上等なものを期待した少女にとっては好意も少ししか伝わらない。
「ん?どうした」
「…いや、なんでもない」
「ほら、箸」
渡されたのは割りばし。少女はそれを二つに割り、料理へと近付ける。
だが、箸を握った少女の手は酷くおぼつかないものだった。それはまるで初めて箸を使うような素振りであったのだ。
「ん?やはり日本人じゃないのか?」
心配そうに聞く蔭山。少し悪いことをしたと思った。箸の扱いに慣れていないと思ったのだ。
少女はそれに首を横に振る。
「いや、違います。その…力がうまく入らなくて…」
確かに箸の持ち方はきちんとしていた。だが、二本の箸がかちかちと音をたてている。手が震えているのだ。
それを見兼ねた蔭山は箸を奪い取った。そしてひとつまみの野菜を箸で挟む。
「ほら、食え」
少し躊躇したが、少女は文句を言わず口を開けた。
「うっ!!――」
だが、口に入れて飲み込んだ早々、少女はそれを吐き出してしまった。
「かっ…は…げほげほっ…」
「すまん、まずかったか?」
「違っ……その……胃が、びっくりしたんだと……思います」
「はあ?あんた、いつから食べてないんだ」
「……忘れました」
「おいおい、忘れるぐらい食べてないわけ……!!」
蔭山は少女の袖を捲る。そして腕についた注射痕を指差す。
「まさかこれか? 点滴の痕じゃないだろうな?」
蔭山が言っているのは点滴だ。点滴ならばものを口にしなくても最低限の栄養の補給が出来る。
「……半分そうです。食事は点滴。でも、注射は点滴だけのじゃないです」
「なんとなく何をされていたか読めてきた」
「だからと言って何もしないでください」
少女は拒むように腕を引きもどす。
「俺はもういいんです。諦めたんです。自分にできることなら……何でもやるって。どうせ一度失った命ですから」
「死にかけていたところを神原に拾われたのか?」
「違います。……違いますけど、教えてあげれることなんてありません」
頑なに拒む少女。なぜ少女がそこまでするのか蔭山にはわからなかった。
「じゃあこれはどうなんだ?」
蔭山は少女に生えた羽を指差す。
「あんた、ただ珍しかったから研究に使われてるんじゃないだろうな? それも人体実験のような……」
「羽は……結果的にばれただけです。あの人たちは、俺が子供を産めるからって目をつけただけです」
「……まぁ、いい。全部は聞かないでおこう」
少女にもそれなりの苦労があり、自分でどうにかしたいのだろう。そう思い蔭山は余計なことを聞くのをやめた。
蔭山には少女が普通ではない、だから奴らに束縛されているのだとわかれば十分であった。
「……で、あんたはどうしたいんだ?」
当面の問題を投げ掛ける。少女にやりたいようにやらせようとしているのは、必要以上に関わるべきではないと思ったからだろう。少女が迷惑だと思うのなら無理に手出しする意味はない。
「お、俺は……」
少女は何か言おうとしたが、すぐに黙り込んでしまった。
だが、彼女の言わんとしていることを蔭山はわかっていた。少女は蔭山の迷惑になりたくはないのだ。だから、口に出したい言葉はひとつ。ここを離れるということ。
しかし、そう簡単には即答の出来ない心情なのだ。それをわかっていて蔭山はなにも言わない。少女の決意を確かめるために。
「……」
数分経っても何も言わない。結局言葉は途切れてしまった。
埒が明かないと踏んだ蔭山は仕方なく、箸を再び構える。もう一度肉をつまみ少女の口の前へと持っていく。
「難しい話は後にするか。飯食ってからでも遅くはないだろう」
堅苦しくし過ぎたと反省した蔭山は、少女にやんわりと言う。
少女の堅くなっていた表情も幾分か和らいだ。やはり少女にはまだはっきりとした決断は出来なかったのだ。もしここを離れたとしても行くあてがない。いくら見ず知らずの男の家とは言え、ありがたかったのが事実であった。
しかし、のばされた箸を改めて見て苦笑いをする少女。一度吐いてしまったため、そうそう食べようという気にはなれなかったのだ。
「あの……水とかだけでいいです」
「なにを言ってるんだ。どのみちあんなよくわからんとこに戻りたくないのなら普通の食事ができなきゃ話にならんだろう。つべこべ言わず食べろ。一度吐いたからってなんだ。食べ物を粗末にしちゃいかんだろう」
蔭山は冗談交じりで言ったのだが、あまりの勢いに少女は気圧されそうになっていた。
生唾をごくりと飲み、覚悟を決めたかのように箸に咥えつく。
「そうだ。よく噛んで食べろよ」
先ほどはあまり噛まずに呑み込んだこともあったため、少女はその忠告を受け入れ、素直にそれを噛みしめた。
その少女の顔には気がつけば涙が浮かんでいた。
「おいおい! どうした? そんなに強く言ったつもりはなかったんだが……」
これはまた言い過ぎたのかとあわてる蔭山。
少女はそれを聞いて大きく首を横に振る。そして笑顔を向けていった。
「いえ……久しぶりの……その、食べ物がおいしくて」
蔭山は呆気にとられた。こんなにきれいに笑うとは思わなかったのだ。少女は自分を諦めたなどと言っていたが、蔭山にはそう思うことができなかった。
「……ダメだ。あんた。自分を捨てるにはまだ早すぎる」
「え?」
「俺が匿ってやる。本当は好きにさせるつもりだったが……気が変わった。あんたにはしばらく身を潜めてもらう」
勝手なことを言っているとは分かっていた。しかし、自分は正しいことをしている、少女を助けているんだという正義感に酔っていた。
少女にとっては喜ばしいことだったが、片手離しには浮かれられない。警察と言う立場の人間には距離を置きたかったからだ。
だが、ここでそれを拒むのも不自然である。少女は暫し考えることをやめた。ここ最近の苦労からの開放が判断を鈍らせた。
「どうだ?」
「……わかりました。ありがとうございます。しばらくお世話になります」
「そうかそうか。よし、子供はそれでいいんだ。大人に頼って生きろ。特に今のご時世女は生きづらいからな」
「はぁ……」
もう蔭山は完全に浮かれていた。偽善やおせっかいの判断がうまく出来ないほどに。
「よし、大丈夫そうじゃないか。だんだん慣れてきたな。あぁ、あせらず食えゆっくりでいいからな」
「そんなに早く食べれませんよ。もっとゆっくりさせてください」
「そうかそうか。そういや――」
しかし少女もまたそうであった。久々に感じる人の温かさに、その身を大きく委ねようとしていた。もはや蔭山に対する疑いの心は無くなっていた。
「あんた、名前はなんて言うんだ?」
「俺の名前は……東雲真人です」