87 最後の策
川へ流れる水を制限する建造物からは、制限しても水が激しく流れている。水が多く溜まっている証拠だ。作戦に必要な水量に達しているかは不明だが、今はこのダムの水量を信じるしかない。
アリーダ達は建造物に付く階段を上がり、貯水池の傍に向かう。
「いいか、奴がダムを破壊したら速やかに水で打ち上げるんだ。ゼラさんとアリエッタは水魔法で、俺とセイリットは精霊談術で、全身全霊で奴を高く打ち上げろ。来るぞ!」
ムーランがダムの建造物に手を振り下ろして破壊した。
壊れた部分から水が勢いよく流れていき、ムーランの巨体が流されかける。
「「〈超水流〉!」」
「頼む微精霊達、力を貸してくれ!」
「世界の危機です。お願いします!」
貯水池から流れる水が一本の槍のようになり、ムーランを空へと押し上げる。二人分の上級魔法に加え、水と風の微精霊の協力により押し出す力が極限まで追加されている。目を丸くしたムーランは手足をジタバタと動かすが、水流の押し出しからは抜け出せない。
「行けええええええええええええ!」
順調にムーランを空高くまで打ち上げられた。
宇宙へと追放するまであと少し。……しかし。
「あ」
水流の槍が揺らぎ、霧散してしまった。
アリエッタとゼラが膝から崩れ落ちる。
「魔力が、足りない」
魔力だけではない。ダムに貯水されていた水も、川の水も干上がりかけている。仮に魔法が発動し続けたとしても水量が足りずに失敗していた。希望を失った者は呆然として動けない。
ゆっくりと、ムーランが落下して来る。
絶望が大地へと戻ろうとしている。
「そんなっ」
「くそっ、ここまでなのか……」
「アリーダ君、他に何か策はないんですか」
そんなものはないと想像しながらも、セイリットはアリーダの知恵に縋ってしまう。
「あるにはあるぜ。賭けになるがな」
一人だけ、未だにアリーダだけは希望を持っていた。
セイリット達は驚愕の表情でアリーダを見つめる。
「セイリット、お前、精隷輪具を持ってるよな」
「え、ええ」
最後の策に必要なのは精隷輪具。セイリットは王国での戦いに協力した報酬で精隷輪具を貰い、精霊研究家の彼女は研究したい一心で今も所持している。
「貸してくれ」
「今更これを使っても勝てませんよ。上級魔法が効かなかったのを見たでしょう。あなたの魔法を強化しても無意味だと思います。……いえ、まさか、あなたはまさか」
「精隷輪具の他の使い方はムーランが見せてくれたぜ」
「やはり、ムーランと同じ化物になるつもりですか」
「えっ!?」
「なっ! 正気か!?」
驚愕する三人にアリーダは「正気さ」と告げる。
本当の最終手段だ。世界を救うにはこれ以外選択肢がない。
渋々といった様子でセイリットが精隷輪具をアリーダに渡す。
「やめてっ、やめてくださいアリーダさん!」
「でもなアリエッタ、もうこれしか勝つ方法がねえんだよ」
「アリーダ君。ムーランが化物に変化したのは偶然が重なった結果だと思います。あなたが精隷輪具を使ったとしても、化物に変化出来るかは分かりませんよ。それに化物になってしまえば理性がなくなる。敵が増えて状況が悪化する可能性があります」
「いや、たぶんだが僅かに意識が残ると思う。ムーランは俺の挑発に乗って追いかけて来ただろ。悪口言われて怒る心は残ってるってことじゃねえか。だったら俺の心も残るはずだぜ」
目的を強く意識することが大切だ。ムーランは人間と魔人を皆殺しにしたいと強く願っていたから、二種族へ攻撃する化物になっている。それならアリーダはムーランだけを殺したいと願えば、仲間へ危害を加えることなく戦える。
「元の姿に戻れないかもしれませんよ」
「へっ、カッコいい化物になれれば嬉しいね」
嘘だ。アリーダだって化物の姿になりたくない。
気色悪い風船になるよりカッコいい姿になれた方がマシなのは確かだが、ならないで済むならなりたくない。記憶や感情が残るかも、元の姿に戻れるかも分からず試すのは、死ぬ覚悟を持つ必要がある。化物になった時点でアリーダ・ヴェルトは死んだも同然なのだ。
「待て。ムーランは帝国の魔人だ。皇子である俺が片付ける。お前が犠牲になる必要はない。その腕輪を寄越せ」
「嫌だね。ゼラさんよ、確かにアンタは帝国の皇子だ。だからこそ犠牲になろうとするなよ。国を引っ張っていく大事な存在だろ。俺はな、もう自分がどうなったっていいんだ。ギルドSランクになる目標は達成したしな」
嘘だ。アリーダにはまだ夢があった。
美味い物を飲み食いして、美女と結婚して、順風満帆な日常を過ごす。欲望塗れな夢がある。大層な役目は皇子に譲り、欲望のままに生きられたらどんなに幸せだろうか。
「……何を言っても譲らない気か」
「おう、諦めな」
ゼラに役目を譲らないのはアリエッタのためだ。
大切な仲間に実の兄を失わせたくないから、譲らない。
「……アリーダさん」
弱々しい声が出た方を見ると、アリエッタが涙を流していた。
「アリエッタ、泣くなよ。言わなかったか? 俺はすぐに泣く奴が大嫌いだってよ。他の二人を見ろ、涙一つ見せやしねえぜ」
「あの、誤解しないでくださいね。私だって悲しいですから」
アリエッタは溢れ出る涙を手で拭う。
「……嫌いに、ならないで」
「ならねえよ」
笑うアリーダがアリエッタの頭に手を乗せる。
「絶対に、帰って来てください。絶対に!」
「ああ、約束する。そんじゃ行ってくるわ。勝手なことして悪かったってイーリス達に謝っといてくれ。何か言いたいことがあるなら帰った後に聞くからよ」
時間はない。あと三十秒もしないで絶望が舞い戻って来る。
化物に変化する方法はよく分かっていないが、とりあえず精霊談術で微精霊に語りかけた。痛みや消滅を覚悟して微精霊は協力してくれる。アリーダは姿の見えない彼等に笑って感謝する。
「ぐうおおおおおおおお!? いっでええええええええええ! こりゃ化物になるのも納得の痛みだぜえええええ! ぬぐおおおおおおおおおおおおおお!」
激痛で意識が遠のいていく。肉体は溶けたかのように熱く、形がどうなっているのか把握出来ない。既に視界はぼやけ、音も拾いづらい状態。そんな状態でもアリーダはムーランを殺したいという願いだけを強く持ち続けた。
*
アリエッタ達の目に映るのは巨大な人型の狼のような化物。
少し前まではアリーダ・ヴェルトという男だったが今や別物。
よく回る口からは唸り声しか出ず、アリエッタ達を見る目には何の感情も込められていない。別物となった彼だが、アリエッタ達に攻撃してはこない。
「アリーダさん?」
彼の瞳は敵を捉えた。空から落ちて来る灰色の化物だ。
化物二体は互いを威嚇するためか雄叫びを上げ、勢いよくぶつかり合う。何度も何度も衝突を繰り返す彼等は上空へと舞い上がる。
彼等の戦闘はまさに人外の領域。アリエッタ達が介入したとしても、蟻が像に体当たりするのと同じこと。全くの無意味。
「お二方、ここは危険です。巻き込まれないよう避難しましょう」
「すみません。私は最後まで見ていきます。アリーダさんの戦いを」
「俺も見させてもらおう。帝国の、世界の未来が決まる瞬間を」
「……私は避難します。他の仲間に状況を伝えなければいけませんしね」
二体の化物は激しく争い合い、やがて空の彼方へ消えた。
勝敗がどうなったのかは分からない。ただ、破壊の音が消えて静かになったことから、どちらかが勝利したのは明白だろう。真相は不明だが、どれだけ時間が過ぎようとアリエッタ達は勝者が狼の化物だと信じている。




