第3章 桜色の雲(3)
バースディ当日に戻る。大方準備が終わりルリさんが
「あと1時間です。たくさんゲストが来てくれるといいですね」
信七郎は
「ええ、目標は20人です」
「テーマは決まりましたか」
「迷いましたが、『あと何回スリップしますか』に決めました」
「面白いテーマですね。ありそうで、まだないテーマですよ」
「オレは変わり者と言われてるので、こういうのを考え付くのでしょうね。ルリさんは何回だと思いますか」
「ウーン、難しいですね。気持ちは0回ですけど、自信がないわ。だから1回かしら」
「オレは断然ゼロですね。ここでゼロと言わないと、ゼロになる確率はゼロに近い数字ですよ。消極的な考えは命取りになります。
希望的予測や楽観的な数字を出すのが大事でしょう。ポジティブもネガティブも、思っていることが現実になる確率は高いですよ。ルリさんはそういう経験はありませんか」
「ええ、たくさんあります。ほとんどネガティブなことでした。2回目のスリップがそうです。このままでは飲んでしまう。
何とかしなきゃ、と思って何もしなかったら3日後に飲んでいました。3回目も同じようなことです」
「ポジティブはありませんか」
「一つだけあります。わたしに可愛い赤ちゃんが生まれる。きっと生まれるって、中学生のときから思っていたら、その通りの娘が生まれました。
これですね、わたしは飲酒要求がなくなる。一生起こらない。そうすればアルコールと無縁になる。これで良いのですね」
信七郎は手を打って
「ファンタスティック!その調子です」
ルリさんは笑みを浮かべて喜びながら
「良かった、はやてさんがうちに入ってくれて。みんなが活性化されたみたいです。今日のこの会場が復活できたのも、はやてさんのお陰です。本当にありがとう」
信七郎は若干照れながら
「オレはただ、もっともらしいことを言っただけですよ。『誰かがやろうと思ったときがチャンスだ』なんて言ったかな。
あれは口から出任せですから。ああ言えば慎重派は反論しずらいと思ったのです」
ルリさんは呆れたように
「まあ、わたし信じちゃいました。出任せだったのですか。はやてさんはミーティングの週2回に賛成だったのですか」
「へへへ、あまり興味がありませんでした。ただルリさんが一生懸命やっているのを見て、応援したくなったのです。だから、お膳立てで言ったのですよ」
ルリさんはリスペクトの眼差しで
「はやてさんの説得力はすごいです。誰も歯が立たないし、反対した仲間が賛成に変わってしまうなんて、マジックを見てるようでした」
信七郎は得意そうな顔をしながら
「実はオレ、相手の心が詠めます。賛成に変えるのは、そんなに難しくない。軽い催眠を掛けただけで落とせます」
ルリさんはビックリした声で
「エエー⁉ホントですか。わたしにも掛けてくれませんか」
信七郎は意地悪そうな顔をして
「良いのですか。ルリさんの心の中を詠んでも」
「ア、それは…。大丈夫です。はやてさんに心を詠まれても、やましいことはありません。お願いします」
信七郎はルリさんの返答に心が早鐘を打つ。そんなことはお首にも出さずに
「わかりました。それではオレの目を見てください。目の奥の黒目を凝視して、ご自分の顔が瞳に反射して見えるところまで近づいてください」
「はい、わかりました」
「ドンドン近づいてください。見えましたか」
ルリさんとの距離は50センチである。
「まだ見えません。近づきますね」
20センチとなり
「アッ、見えました!」
そこで信七郎は両手で、ルリさんの肩をホールドするようにつかんだ。
「これからどうすると思いますか」
キョトンとした顔でルリさんは
「催眠術を掛けるのですか」
信七郎はニヤッと笑いながら
「もう、ルリさんはオレの術に掛かっていますよ。現に、両肩をつかまれたでしょう」
「エッ、だってわたしはまだ、催眠術に掛かってないと思うけど」
「オレは催眠術も、読心術もできません。キミを捕まえるために騙したのです」
信七郎はルリさんの肩から手を離した。ルリさんは不思議そうに
「よくわからないけど、何でわたしを騙したのですか」
「答えは簡単、あの体勢からキミを抱きしめるためです。つまり男というものは、そんなことばかり考えているのですよ。
ルリさんは男から人気が高い、数少ないAS の女性です。誰もいないときは気を付けてください。オレにも隙を見せないでね」
彼女は少し怒り顔で
「今のは警告ですか」
信七郎はやりすぎたかなと思いつつ
「いや、そんな大層なことではなく、ただのパフォーマンスですよ」
ルリさんは表情を和らげて
「わかりました。これだけは言っておきますね。わたしははやてさんを信じているから、言う通りにしたのです。でも、色んな顔を持っていますね。わたし、尊敬しそうです」
信七郎は予想もしなかった信じていると、尊敬しそうの言葉に大慌てとなる。
「そ、尊敬なんて、もったいない。軽蔑さえしなければ御の字です。信じてもらえるのはうれしい。……、ところでルリさんは1日に何本、タバコを吸っていますか」
彼女は珍しく、歯切れが悪そうに
「一箱ちょっと」
「ちょっととは何本ですか」
「10本から20本の間」
「急に口数が減りましたね」
元気だった先ほどまでと裏腹に、ルリさんは渋そうに
「……、タバコは止めなければならないのだけど、アルコールと二つ絶つのは難しくて。はやてさんが二つとも止めているのはすごいです。わたしのはとてもできない」
信七郎は優しく
「ネガティブ発想になりましたよ。Noは無論のこと、NeverとMustも使わないようにしましょうね」
ルリさんは素直に
「はい、わかりました。気を付けます」
「思い切って禁煙にチャレンジなんて、考えたことはありませんか」
「わたしは心臓が良くないから、本当は吸わない方がいいのです。でも、断酒した副作用で、止められなくなりました。
無理に止めようとすると、ストレスが溜り飲酒要求が起こるのです。アルコールをまた飲んでしまったら、元も子もありません。だから割り切ることにしました。
タバコは好きなだけ吸おうと。心臓には悪いとわかっていますよ。でも現在はベストではないけど、ベターだと考えています」
信七郎はルリさんの話に矛盾があるのに気付いたが、あえて指摘せずに言葉を選んだ。
「なるほどね。考え方はネガティブでない。オレも現在はこれで良いと思います。いつ変化させるかを常に意識していれば、もっと良い方向に行けますよ」
ルリさんはハッとした顔で
「変化を意識するですか。考えたこともなかった。はやてさんは精神コンサルタントになれますね。勉強になりました」
バースデイミーティングの準備をしていた、たかしさんが彼らのそばに来た。
「ミーティングの段取りは決まりましたか」
信七郎が慌てて
「ええ、何とか決まりました。たかしさん、今日はよろしくお願いします」
たかしさんは笑顔で
「お互い様ですよ、はやてさん」
1年間、たいしたことも話していなかった二人です。感性が合っているか、それとも合わないかはまだわからない。
二人の会話はまだまだ未完成です。チグハグしているところがあり、お互いの気持ちがわかりかねていますね。しかしこれから、進展が始まります。