第二話 直貴、望みを奪われる(一)
翌日、直貴は朝から奏音とのデートに気を取られて、講義もあまり身に入らなかった。
放課後一度部屋に戻って、おしゃれな服に着替えよう。デートのあとは食事をおごるべき? でも誘ってきたのは向こうだし、かといっておごられるのも悪いから、最初は割り勘だな。
講義が終わり、帰宅途中にドラッグストアの前を自転車で走ったときにふと閃く。
もしものときに備えてマウスウォッシュとブレスケアの準備が必要かもしれない。
「え? も、もしものとき? ちょ、ちょっとそれは早すぎるって」
そこからもう一歩先まで考え、我知らず顔が火照る。デートの相手はあの清楚な奏音だ。
直貴は「何を想像してるんだよ」と自分で自分に突っ込みを入れる。狼になりたいとはいえ、この場面でなると、意味が違ってしまうではないか。将来は別にして、今の時点でそんなことを連想することは奏音には失礼だ。
ウキウキとドキドキと微妙なスケベ心が浮かんでは消える。下心を必死で抑え、直貴は約束の時間を気にしつつ寮に戻った。
すれ違う友達におかしな目で見られないように、緩みそうになる口元をひきしめる。何気ない表情を作って自転車を停めていると、いきなり着信音が鳴り響いた。
「奏音ちゃんかな」
清楚な笑顔を思い出しつつ携帯を取り出す。ところがそこに書かれていたのは、薫――今一番かかわりたくない人物の名前――だ。
「あっぶねー、彼女たちからの電話は無視しなきゃ」
うっかり出たら無理難題を押し付けられるのは明らかだ。スルーして部屋に戻ろうとすると、「ナオくんっ」と背後からキツめの口調で呼びかけられた。
「あたしからの電話だってわかってて、無視するつもりだった……なんてことはないよね」
直貴は肩をすぼめ、ゆっくりとふりかえった。スマートフォン片手に薫が玄関付近に立っている。
「な、なんだよ、突然……」
薫の口角は片方だけが上がっている。これはまずい。ここで話を聞くとまたいつものように雑用を言いつけられる。直貴は半身に構えた。
「実はね、女子寮のほうで、食堂に通じる廊下の蛍光灯が切れてしまったの。交換してくれない?」
「それくらい自分たちでできるだろ。難しいわけじゃあるまいし」
できるだけ不機嫌に返事をしたが、
「大家さんからのお願いだから、ね」
拝むように手のひらを合わせ、笑顔でウインクされてしまった。
意外なことに、いつものような上から目線ではない。
いつも世話になっている大家さんからの頼みでは、引き受けないわけにはいかない。還暦を越えた女性にそんな仕事をさせるのは忍びなかった。
「まあ、それくらいならいいか」
約束の時刻まではまだ余裕がある。蛍光灯一本交換するのに、そんなに時間は要らないだろう。直貴は渋々ながらも女子寮に行った。
扉を開けると廊下は真っ暗だ。日の入り時刻は過ぎているが、外灯の明かりも届いていないのは不自然だ。第一、蛍光灯が一本切れたくらいでこんなに暗くなるはずがない。明かりはほかにもあるのだから。
「どうして……」
尋ねようと直貴がふりかえると、薫は「あとはよろしく」と言い残して外に出て、ご丁寧に扉を閉めてしまった。
「ちょっと待てよ! 真っ暗で何も見えないじゃないかっ」
直貴は扉を開けようとしたが、鍵かかけられたのかびくともしない。
「なんだよ、蛍光灯を替えるだけなのに。また悪ふざけ? 今日は忙しいんだから、いつものようにつきあってらんない」