第一話 直貴、本物のお嬢さまに誘われる(三)
奏音は直貴の通う大学にほど近いところにある音大の学生で、ピアニスト志望だ。
この春に入学してからこの店の常連になり、楽譜などを求めてよく顔を出す。
ロックバンドでキーボードを弾いている直貴は、その縁で対応することが多い。
奏音に想いを寄せているギタリストの浩太は、それをいつも羨ましいといつもぼやく。
接客と称して話をしたいのだが、ピアノについては直貴ほどの知識がないため、なかなかチャンスに恵まれない。
「やっぱりそうか、奏音ちゃんは直貴が好きなんだな」
「先輩の発表会に誘われただけだし、そうと決まったわけじゃ……」
「いや、奏音ちゃんの目を見ればわかる。あの子は直貴に惚れている」
奏音が自分に?
信じられないという気持ちが先に出てくるが、さっきの態度だとその可能性も十分考えられる。
もしそうならこれ以上に嬉しいことはない。
「でもぼくは、あの子のことをそんな目で見たことないよ」
「ちぇっ、余裕のセリフが恨めしいぜ。相手が直貴じゃなかったら、決闘を申し込んでいるところだ。
もうおれは奏音ちゃんのことは諦めるべきだな。でもいいか。つきあうなら、彼女を泣かせるようなことをするな。頼んだぞ」
実のところ、直貴にとっても奏音は気になる存在だ。 でもそれを浩太に打ち明ける前に、先に相談されてしまった。
そんなわけだから自分が奏音を密かに想っているとは口が裂けても言えない。
コーヒーに誘おうにも、浩太のことを考えると躊躇ってしまう。
恋愛と友情を秤に掛けたら、友情の方に傾むく。
それだけではない。
ひっそりと野に咲く白い花のような奏音には、小柄で童顔の直貴より、少しワイルドだが正義感と腕力のある浩太の方がお似合いだと思っていた。
少なくとも直貴には、奏音を守るだけの力がない。
だからいままでずっと気持ちを抑えてきた。
それがこんな思わぬ形で進展する機会に恵まれるとは。
しかし、友情と恋愛のどちらを取るべきかを真剣に考え直すときがきたようだ。
ふたりともが片思いならいざ知らず、奏音というヒロインがステージに上がってきたからには、無邪気に友情ごっこをしているのは罪深い。
浩太には悪いと思うが、ここは素直に自分の気持ちに従うのが一番だろう。
心の中で浩太に謝罪し、直貴はバイトの準備をするためにスタッフルームに移動する。
☆ ☆ ☆
バイトから帰った直貴は、ノートに挟んだメモを取り出した。
部屋の中にラベンダーの香りが広がる。店で奏音に渡された携帯番号とメールアドレスだ。
ふと、わずかに頬を赤らめた顔が脳裏に浮かんだ。
例のワガママ三人組には絶対にない、ひかえめで物静かなところが古風な印象を与える。
自分を主張せず、一歩下がって相手に合わせようとする。男女平等どころか女性優位を謳う三人組とちがい、今どき珍しいタイプの女性だ。
そんな奏音が、チケット販売のお手伝いとはいえ、直貴を誘うのは勇気が必要だったにちがいない。
そのときの気持ちを想像すると、さらに愛しさが募る。
「奏音ちゃんがぼくのことを? まだ信じられないよ」
机の上に置かれたメモは、きれいな文字が並んでいる。
直貴はおもむろにそれを手にし、机の前のコルクボードに画鋲で止めた。作詞用に浮かんだ言葉を殴り書きし、忘れないように張りつけているものだ。
ノートの切れ端やチラシの裏に書かれた悪筆のメモの中で、きれいな用紙に書かれた達筆がひときわ輝いている。
「本当にデートかな? うーむ、いや、でもやっぱりデートだ、これは」
直貴にとってデートと呼べるようなものは高校以来だ。
大学では大半が男で占められる学科にいるためか、女子との出会いはない。
唯一あったのが、同じ学生寮に住んでいる例の三人組だ。
直貴を執事扱いする彼女たちには、恨みこそあれ恋愛感情はわいてこない。
三人組の横柄さに比べたら、奏音は天使だ。
そんな女子からデートに誘われたかと思うと、嬉しさもひとしおだ。
「コンサートのあとは、遅めの食事にすべきだな。バイト代も入ったばかりだし、ちょっとおしゃれな店に誘ってみようかな。
いや、行きつけのジャスティが気楽かな? ああ、どこかいい店ないかな」
夜も更けてきたというのに、明日のことを考えるだけで、直貴は興奮が鎮まらない。
翌日に遠足を控えた子供のごとく、今夜は少しも眠れそうになかった。
☆ ☆ ☆