手紙 ~曾祖母の遺言~
それは、箪笥の一番下の引き出しに、隠すように仕舞われた巾着袋の中から、数冊の小さなノートと共に出てきた。
『西寺 きぬ様へ』。
一部が変色した封筒に書かれている宛名は、インクの色もとうに褪せ、書かれてからの年月が相当なものに思える。裏を返すと、曾祖母の名前が書かれてあったため、これが目当ての物だと判った。
「じいちゃん、あったよ。多分、これじゃない?」
「おぅ、あったか。良かった、良かった」
隣の部屋で、古い柳行李の中を見ていた祖父がよっこらしょと立ち上がって、側に来る。
「あぁ、多分これで間違いなか。何べんか、ばあさんがこっそり眺めとったのを、見たことがあるからな。これで、ばあさんも安心して極楽に行けるやろ。なんせ百二歳の大往生や。笑って送ってやりたいからな」
昨日亡くなった曾祖母は、九十歳を過ぎても元気でいたが、百歳を越えた辺りからはさすがに調子を崩し、ここ数ヵ月は、寝たり起きたりを繰り返していた。そして昨日、眠ったまま亡くなっているのを、通いのヘルパーさんが見つけて、我が家に連絡をしてきたのだ。
驚いたことに、曾祖母は自分の葬儀の手配まで全て終わらせて、この世を去っていた。
「ねぇ、こんなもん、出てきたけど」
そう言って納戸を漁っていた妹が持ってきたのは、丸められた一枚の画用紙だった。四つ切りらしき紙の端は変色しており、こちらもずいぶん古そうだ。
「見て」
妹が画用紙を広げる。
そこには海から裸の上半身を出した男性の後ろ姿が描かれており、その左手は誰かに合図を送るかのように、高く上げられていた。そして、その廻りには色とりどりの螺旋が描かれ、少しぼかされた背景は、古い港町のようだ。
裏には絵のタイトルと思われる物が、鉛筆で記してあった。
『螺旋が示す』。これが、この絵のタイトルらしい。
「誰、これ。じいちゃん?」
「いや。多分、別の人やろ。俺が手を上げるんなら、右手ば上げよるけど、こん人は左手ば上げよる」
自分のルーツを知りたいという理由から、高校の三年間を熊本の牛深で過ごした祖父は、未だにあちらの方言が時々出る。
「じゃ、誰?あっ、まさか、ひぃばあちゃんの初恋の人とか?」
きゃー!ロマンチックー!なんて騒ぐ。今年24歳になる妹の奈美は大学を卒業後、塾の英語教師をしているが、中学生達を日々相手しているせいか、少しばかり言動が子供じみている。
「ねぇ、じいちゃん。これ、中を見ても良い?」
「ひぃばあちゃん、いやがるかな?」
手紙とノートの束を手にした私達の質問に、祖父は少し考える素振りを見せたが、直ぐに頷く。
「ばあさんは、それを乙女の秘密じゃ言うてたけど、お前らなら、かまわんだろう。奈美も祐実も、少し古びてるが、一応、乙女やからな」
「じいちゃん、古びてるだけ、よけいー。乙女はいくつになっても乙女なのー」
奈美が反論するが、先月26歳になった祐実からすると、確かに自分達は乙女と呼ぶには少し年を食っている気がする。
「ほいほい。読むんは構わんが、向こうに行ってからにしろ。うっかり忘れてお棺に入れそびれたら、ばあさん、化けて出るかもしれん。これは1つしかない遺言やからな」
大阪の建設会社に勤めていた曾祖母は、55歳の定年までずっと建築パースを描く仕事をしていた。場合によれば自宅でも出来るその仕事は、一人で子供を育てるには都合が良かったらしい。
その後は、自宅で子供相手の絵画教室を開き、それは七十歳まで続けていたと聞いている。私が知っている曾祖母は、時々スケッチ旅行に出掛けるが、基本的に自宅で絵を描いている静かな人というイメージだ。
そんな曾祖母が、葬儀に際して望む事として、【西寺さんの手紙とノートを、必ず棺に入れるように】と書き記していたと、葬儀社の人から知らされた為、祖父と共に、曾祖母の家の中を探しまわっていたのだ。
散らかした部屋の中を片付けながら、押し入れに柳行李をしまっている祖父に質問する。
「じいちゃん、確か養子だったよね」
「あぁ、俺の本当の親父さんは、長崎の原爆で死んでしもうて、出産のために牛深にいたおふくろさんも、そんときは助かったが、俺を生んでしばらくして死んだからな。おふくろさんの従姉妹で、仲の良かったばあさんが引き取って育ててくれたんや。ちょうど、疎開で帰って来てたのも、何かの縁だと言ってな」
「じゃあ、やっぱりこれは、ひぃばあちゃんの忘れられない恋人だと思うなぁ」
だから誰とも結婚しなかったんだよと、ニヤニヤ笑う妹は、なんだか楽しそうだ。
私達は巾着袋と丸め直した絵を持って、葬儀会館へと向かった。急がないと、お通夜の時間が迫っていた。
西寺 きぬ様
一筆申し上げます。
風の便りに、あなた様がお亡くなりになられたと聞き、私は今、申し訳ない気持ちでいっぱいです。
お預かりしていた栄さんの日記は、いつか必ずお返しすると、あれほど手紙でお約束しておりましたのに、結局返せないまま、今日まで来てしまいました。
幼い想いを引き摺ったまま、ずいぶん長い時間、生きてきたものだと、我が事ながら、呆れてしまいます。
来年には私も祖母になる予定だと思うと、自分でも滑稽だとは思いますが、それでも、心挫けそうな時、これが心の支えであったのです。
何度取りだし、眺め、思い出し、抱き締める事で、慰め、励まされてきたか、しれません。
しかも、お恥ずかしい話ですが、馬鹿げた『もしも』を考えた夜は、数えきれない程あるのです。
もしも、栄さんが生きていたら。
もしも、あの日、栄さんが潜水艦に乗らなかったら。
もしも、もしも、もしも……どれ程時間が経とうとも、そう考えない日が来ることは、無いのかもしれないと、思うほどです。
栄さんの訃報が届いたあの日、その報せを握りしめながら、栄は我が家の誉れだ、牛深の誉れだとおっしゃった時、あなた様の指が震えていたのを、私は今も忘れる事が出来ずにいます。
あの後、あなた様が一人、畑仕事をしながら泣いておられた姿は、尚の事です。
大事な息子を亡くしたのに、おおっぴらに悲しむ事さえ出来なかったあの時代を、私は今も憎く思っております。
今この国は平和ですが、アメリカの核の傘に守られての平和ですので、スゴく複雑な気持ちになります。
うだうだとつまらぬ事を書き連ねてしまいましたが、栄さんの日記は、私が必ずあの世まで持って行って、天国に居られるきぬ様にお返ししたいと思います。
それまではお預かりすることを、お許しくださいませ。
かしこ
昭和四十五年 九月 川上 光江
それは、今から五十年以上前の日付だった。
お通夜の後、私達は葬儀場が用意してくれた遺族用の部屋の一室で、持ってきた絵と手紙とノートを並べて、一つずつ開いていた。
祖父と母は、交代で蝋燭の番をすると言って、お棺の置かれた隣の和室にいる。
最初に、曾祖母が書いた手紙を開けた妹は、読んだ後、少し鼻声になっていたが、それでも「確かにこれは乙女の秘密だ」と笑い、私も同感だった。
次に開いた小さなノートは、若い男性が書いた日記だった。おそらく曾祖母の手紙の中に出てきた栄さんのだろう。驚くほど端正な文字が並ぶそれは、高等小学校の二年から始まっていた。
成績優秀者として、地元の有力者が出してくれる奨学金を引き続き受ける事が出来たため、まだ学校を続けられる喜びから始まっており、日々の勉強の事や、造船技師になりたいという夢、大分の学校にいる兄の事などが綴られていた。
「これ、さっきは何となく読んだけど、読みは『さかえ』さんで良いのかな。高等小学校って言ったら、塾の生徒達と同じ位だよね、栄さん。なんでだろう。負けた気がする」
「何に?」
「全部」
その言葉を私も否定できなかった。綴られている文字も内容も、今の子供を基準にすると、あまりにも大人びた物に思えたからだ。
「勉強、楽しそうだね」
「うん。うちの生徒なんか、勉強は義務みたいに思ってるけど、この時代は、したくても出来ない人が大勢いたんだろうね」
そして、一冊目の途中から、しばしば同じ級のMさんなる人物が登場するようになった。
曾祖母の名は川上 光江だから、もしかすると、曾祖母の事かと思い、少しドキドキしながら読み進めていく。
Mさんとの事は、『町の本屋で偶然会えた』とか、『Mさんが書いた絵が貼り出されていだが、たいそう上手で驚いた』等の、本当に細やかな事ばかりだったが、大事そうに綴られていおり、そこにある想いが伝わって来て、微笑ましく思えた。
絵が得意ということから、やはり曾祖母の事だという思いが強まる。
やがて小学校の卒業後の進路として、栄さんは住み込みで郵便局に勤めていた。給料は見習いの間は出ないが、飯だけは三食、食べれると喜び、初めてもらったお給料では、団子を買って家に持っていったと書かれてあった。妹弟が大層喜んだと。
ただ、そこら辺からは、日常の記録的な物が増えてきたので、それらはすっ飛ばして読むことにした。
その後、郵便局長さんの勧めもあり、栄さんは横須賀の海軍工機学校を目指して勉強をはじめる。そこに行けば勉強出来る上に、給金まで貰えるからと。
でも何故か、栄さんはその後、佐世保の海兵団に入団して、足柄と言う船の乗組員となっていた。
そこで何かの試験で優秀な成績を取ったらしく、上官から楠木正成の兜が浮き彫りにされた褒章楯を頂いた事が記されていた。それが欲しくて、寝る間を惜しんで勉強したかいがあった、とある。
「やっぱ、いつの時代も、ご褒美は大事だね」
「だよね」
そしてその後、海軍工機学校に見事合格していた。その時、熊本から十数名受けたが、受かったのは四人だけで、田舎の若者としては大出世だと、近所中からお祝いをしてもらい、嬉しくも、照れ臭かったと書かれてあった。
また後日、新聞に名前が載ったのを見たMさんが、わざわざ家まで来て誉めてくれたと、嬉しげに綴られている。
しかし、ノートを読み進めるうちに、時々不穏な世情が顔を出すのが判った。よくよく考えれば、第二次世界大戦の始まる数年前だ。当然と言えば当然なのだが、微笑ましい恋と青春が、キナ臭さに追いやられていくようで、胸が痛んだ。
そして、横須賀に出発する前日で、そのノートは終わっていた。まだ三分の一以上残っていたのにだ。
その次のノートからは、文体がガラッと変わっていた。驚くほどに堅苦しいものとなっていたのだ。おそらく工機学校の寮に入ったせいだと、直ぐに判った。
【温習】とか【内火E】という、おそらく授業内容だろう単語の合間に、日々の訓練や水泳実習、武技の試験についてなどが、時に楽しげに、時には腹立たし気に綴られていたが、Mさんの文字が出てくることはなかった。代わりに、『田舎の江森君』なる人物がしばしば登場し出した。
前後の文脈から、曾祖母の事だと推測されたが、誰かに見られる可能性が、このような形で出ているのだと思うと、少し悲しくなった。
事実、親族の女性からの葉書を声に出して読まれたと、憤慨している記述があった。
ただ、嬉しいものも見つけた。
【田舎の江森君が和田本町の美術学校の見学の為、上京。明日会う予定】
と、
【江森君は元気そうなので安心した。】
と、いうものだ。
「ねぇ、姉ちゃん。ひぃばあちゃんって、もしかしてお嬢?」
「かもね。あの時代に美術学校を卒業したって言ってたから」
「ふぅん。海兵さんと、絵を描く少女の恋かぁ。なんかロマンチックだねぇ!」
そう言って妹は、数年前に流行ったアニメ映画の主題歌を歌い出した。いや、その歌は、飛行機の設計士の話のだろうがと突っ込みたかったが、そういえば、曾祖母はあの映画が殊の外お気に入りだったことを思い出し、止めた。
もしかしたら、曾祖母には、自分たちの事とあの映画が、どこかしら被って見えたのかも知れないと、思ったからだ。
やがて工機学校を卒業した栄さんは、今度は呉の潜水学校に通い、潜水艦の搭乗員となり、更に忙しい日々を送るようになっていくが、時々思い出したように、田舎の江森君との思い出に触れていた。そして、日記の最後の日付は、昭和十五年の十二月三十一日で終わっていた。
この翌年の十二月、真珠湾攻撃が起き、日本は戦争へと突き進んで行く。おそらく、栄さんも……。
その最後のページには、二枚の便箋が丁寧に折り畳まれ、挟まっていた。
広げると、あまり良くない紙質なのか、ざらりとした手触りで、乱暴に扱うと破れてしまいそうなそれを、そっと開く。
そこには、一行目に曾祖母の名が記されていた。
川上 光江さまへ
前略、ごめん下さい。
これを、前途有望なあなた様にお預けするんは、わたしの我儘だと、重々承知しております。
そんでも、あの子がこの世に生きていた事を、忘れて欲しく無いという愚かな母の願いを、あなた様がお許し下さる事を、心から願うとります。
学の無いわたしが生んだとは、思えんほど賢い子でした。
肥汲みなどの汚い仕事も、嫌がらんでしてくれる優しい子でした。
年中お金が欲しいと嘆くわたしの為に、弟妹が少しでも余分に食べれるようにと、住み込みで働いたり、潜水艦乗りになったあの子は、本当に、情の深い自慢の息子でした。
あの子の乗った潜水艦が行方不明だと、沈没したと思われると連絡が来た日の事は、今も忘れる事が出来んでいます。
わたしは、泣きませんでした。よそから見たら、冷たい母に見えたと思います。でも、他の子のためにも、わたしは皆が見てるとこで泣くわけには、いかんかったのです。
決して悲しく無かったわけでは、無いのです。
もし、平和な時代に生まれていたら、せめて、他所の家の長男に生まれておれば、今も生きておったかもと思うと、私なんぞの次男に生まれたばっかりにと、申し訳なく、悲しくて、悔しくて仕方なかったけど、後ろ指を指されることだけは、してはならんと、こらえておったのです。
わたしは、栄を死なすために生んだ訳では、決してありません。金なんぞ要らんから、生きていて欲しかったと、今も思うとるのです。
今さらと思われるかもしれませんが、そんな母が出来ることは、あの子の想いを、今しばらくで良いから覚えていてもらうことだけだと思った次第でございます。
ご迷惑は重々承知しておりますが、これをお預かりくださる事を、切にお願いしたく思います。
かしこ 栄の七回忌にて 西寺 きぬ
「七回忌って……栄さんのお母さん、ひぃばあちゃんにこれを渡すのに、六年もかかったんだ…」
奈美がティッシュで鼻を抑えながら言う。もっとも私も,ティッシュで両眼を抑えるのに忙しいのだが。
「もしかしたら、読むまでに、何年もかかったのかもよ…」
「うん……私だったら泣いちゃって、読めないと思うもん……」
鼻をぐすぐすといわせながら、奈美が絵を広げる。
「これ、栄さんだね。それで、この町は牛深で、栄さんの視線の先には、きっと、ひぃばあちゃんと栄さんのお母さんが立っているんだ」
タイトルの意味はわからんけど、と言いながら絵に見入る妹の横で、新しいティッシュを引き出しながら、私もウンウンと頷く。
結局、曾祖母の手紙をもう一度読み返した私達は、二人して妄想と想像を爆走させた挙げ句、号泣の嵐へと突入し、翌朝、揃って腫れぼったい瞼をさせて、祖父と母を驚かすことになってしまった。
お葬式の直前、私と妹は、巾着と絵をお棺の中の曾祖母の胸の上にそっと置いた。
「返せるかな」
「返せるよ」
「……会えるかな」
「あたりまえでしょ」
「だよね」
「うん…」
手を繋ぎ、曾祖母の顔を見つめる私達を、包み込むように松任谷 由実の曲が流れてきて、曾祖母の葬儀の始まりを、穏やかに告げていた。
お読みいただき、ありがとうございます。