カルテNO.百三十一 緑川桜子(管野スガの転生者)
警察に押収されたパソコンやタブレットなどが玲二の元に戻って来た。そこには桜子の経過観察記録が残っていた。
「第百三十一号 緑川桜子 管野スガの転生者」
十一月二十七日 緑川桜子が管野スガの転生者だと断言することは出来ない。
理由㊀ 管野スガは検事の武富済に強い恨みを抱き、暗殺まで考えた。大逆事件の二年前に起こった赤旗事件で、彼から非常に厳しい取調べを受けたことが原因であるが、拷問や性的暴力があったのかどうかは今でも不明である。当療法士が桜子に取調べの詳細を尋ねても答えなかった。
理由㊁ 大逆事件で逮捕後、スガは獄中で紙に針で穴を開け手紙を書き、その手紙を弁護士に郵送した。内容は幸徳秋水の弁護要請である。そのような手紙をどのような形で監獄外に出したかについてはどの資料に当たっても記録がない。桜子に聞いたところ「その手紙自体覚えていない」と言う返答だった。
当療法士は二年に渡り緑川桜子とカウンセリングを重ねたが、彼女の口から語られる管野スガの記憶は全て公表済みのものであり、スガ本人しか知りえない事実は遂に語られることはなかった。桜子はスガの記憶が蘇った時に言葉遣いが変わるが、解離性同一性障害というほどではない。
十二月十一日 桜子からの訪問を受けた直後、彼女の元交際相手が彼女を追いかけて来た。元交際相手が前世はないと主張すると、桜子は「あなたは私を否定する気か」と反論。療法士が元交際相手と話すために桜子に帰宅を促すと、桜子は療法士に「もう前の私ではないと元交際相手に言っておいて」と依頼しながら退去した。
十二月十八日 緑川桜子より来訪したいとの申し出を受けたが療法士拒否。
「なぜ元交際相手に遠慮する必要があるのか。自分の秋水先生への気持ちはどうなるのか」
と激しく反発する。療法士が
「元交際相手が怒っているのだから、彼の怒りが収まるまで家に来るのは遠慮して欲しい」
と乞うと桜子は渋々了解し、
「療法士が秋水先生であった過去は変わらない」
と言って電話を切った。
四月二十五日 複数のクライアントから緑川桜子について通報があった。桜子が「兵藤玲二のお陰で自分の前世が社会主義者だと知ることが出来た。彼は精神的指導者だ」と触れ回っているらしい。クライアント達は「療法士は特定の政党に肩入れしているのか、桜子と同じ政治思考を持っているのか」と不安を感じている。
元交際相手の柳田恭平と桜子のソーシャルネットワークを見ると、同じ場所の写真が掲載されるなどしており、復縁したと思われる。
桜子が出入りしている政治団体は大学の軍事研究に抗議している。しかも彼らの抗議の対象は柳田恭平の大学にまで及んでいた。
桜子本人に聞いてもはぐらかすであろうし、療法士が秋水であるとの妄想が亢進するだけなので柳田の方に電話をした。柳田は療法士に強い怒りを持っていてすぐに電話は切られたので桜子の問題行動を伝える事が出来なかった。
六月四日 昨夜、緑川桜子が叡知大学理工学部研究棟にて同大教授二階堂毅氏に酸を顔面に浴びせる事件を起こした。二階堂氏は防衛省の補助を受けて軍事衛星の研究をしていた。柳田に電話をしたが着信拒否で話が出来なかった。事件の続報が待たれる。
六月八日 カウンセリングルームの電話や携帯は一日鳴りっぱなしだ。大学院の教授から、
「研究室にマスコミの取材が殺到している。しばらく登校を控えるように」
とのメールを受けた。
以下の記述は、送り返されてきたパソコンに書き加えたカルテだ。
九月十日 警察に押収されたパソコンが実家に送り返されてきた。
緑川桜子が療法士のクライアントだと報道されてから、療法士の個人情報がネットで拡散され、大塚のカウンセリングルーム前に生ごみを放置されるなどの嫌がらせを受けた。マンション前には昼夜を問わず報道陣が詰めかけ、とても住み続けることはできないので大塚から離れた。兵藤カウンセリングルームのサイトは閉鎖した。
「幸徳秋水は天皇暗殺計画に無関係だった。それなのに絞首台に上らされたのはスガによる無理心中だ」これは緑川桜子の主張である。
緑川桜子は獄に下り、当療法士は学問の世界から放逐され、心理職としてのキャリアを永遠に奪われた。その関係は秋水を道連れにしたスガと、スガに引きずられて命を落とした秋水と全く同じである。療法士は桜子の為に図らずもすべてを捨てることになったのだ。
もし将来この手記をお読みになる、神秘世界に憧れる方々がいらっしゃったらお聞きしたい。読者の皆さんは、緑川桜子が管野スガの生まれ変わりだと信じるであろうか。
療法士は信じる、緑川桜子はスガの転生者であることを。そしてスガと秋水の因縁が今世でも続いてしまった事を。
療法士がスガの転生者たる桜子に道連れにされたのは、催眠術を用いて神秘な世界に足を踏み入れ、百十年前の記憶を呼び出した罰なのである。我々今世を生きる人間はその世界に触れてはいけなかったのだ。
療法士が自らを「療法士」と名乗るのは今日で最後である。療法士は二度と前世の記憶を呼び出さない。神秘な世界にも近づかない。




