二階堂教授の受難
午後八時に二階堂教授は研究室を出た。学生たちはまだ研究室に残って作業を続けている。今年度は防衛省からの研究費補助を受け、予算を気にせず研究が出来るのでありがたい。しかし補助を受けた見返りに提出論文が増え、忙しい事この上なかった。学生たちには頑張って貰わねば。理工学部研究棟は校内の一番奥にあり、更に内部は入り組んでいて、移動だけでも時間と体力を使う。太り気味を気にする五〇代の二階堂にはちょうど良い運動だ。彼は階段を下りて出口に向かった。
その時、白衣の女が二階堂に近づく。女はきつめのパーマがかかった髪を後ろに垂らしていた。ゴム手袋をはめ、目は色付きゴーグルで守り、マスクをしている。更にそれらの上から透明なフェイスガードをかけている。危険を伴う実験時の防御だ。二階堂が階段を降り切ると、女は足早に二階堂の前に回り込んだ。
恭平は桜子に電話をしようと研究室を出たが、電話はつながらなかった。彼は携帯を胸ポケットにしまい自動販売機のある一階に向かった。階段の踊り場で、二階堂教授の前に立ちふさがる白衣姿の女の姿を認めた。
「桜子?」
顔はゴーグルで隠れ、髪形も違うが、恭平はつい恋人の名前を呼びかけた。女は微かに顔を恭平の方へ向けた。そのまま手に持ったプラスティックボトルを二階堂に突き出した。
良からぬことが起こる。恭平はとっさに察知し、
「何やってんだよ、先生から離れろよ」
と怒鳴って階段を駆け下りた。女は二階堂の前から離れず、ボトルを構えたままだ。
「おい、やめろ!」
「おやめなさい!」
白衣の女は恭平の声の他に、ここにはいない大人の女の声を聞いたように思った。しかし革命を止めるわけにはいかない。戦争協力者への報復だ。女はボトルの中身を二階堂教授の顔面目がけてぶちまけた。
「うわー!」
二階堂は顔を覆って叫んだ。
「先生大丈夫ですか!おい、誰か来てくれ!」
恭平は叫んで、女の手首を掴んだ。女は手に持った容器の口を恭平の手に押し付けた。
「いてぇ!」
あまりの痛さに恭平は思わず女の手首を離す。恭平は薬品で焼かれた手を庇いつつ二階堂の元に戻った。複数の警備員や学生が二階堂を取り囲み、
「大丈夫ですか」
「救急車を呼びましたからね」
と口々に彼を励ましていた。
二階堂は返事をせず、目を押さえたまま床に転がってうめいている。薬品の付いた顔や指は既に茶色に変色していた。体にも液体が付き、衣服と皮膚が一体化してドロドロである。恭平たちは朽ちていく二階堂を見ているしかできなかった。




