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ももとせのちの  作者: 山口 にま
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みんな裏切り者

 秋水救済を求める手紙を出した数日後、スガは思いも寄らぬ形で秋水の裏切りを知った。


「ここから先は雑談だから」

取り調べ室でスガは判事から封書を見せられた。それは夫秋水が前妻の千代子に出した手紙だった。

「体の具合は如何でしょうか?御身にはずいぶん苦労を掛けました。力の及ぶ限り御身の幸福をと心がけています。もし大阪で別に面白いことがなければ、私は東京で間借りか、一軒家を借りることは可能です。もしそのようなお考えがおありならば旅費その他の都合もありのままお伝えください。私はもうすぐ東京に帰ります。あなたもこちらに出てきませんか。管野とは事情があって手を切ることにいたしました。彼女は罰金の代わりに百日ほど入獄いたすことに相成り、東京で間借りの準備中です。ついでながら申し添えます。詳細のお返事、くれぐれも待っています。 明治四十三年五月二日 秋水」


 スガは頭が熱くなる。しかし判事がじっとスガの表情の変化を確かめていることに気が付き、スガはあえてつまらなそうな顔をしてその手紙を見た。千代子に宛てた手紙は複数あったが、すべて復縁を願う内容だった。特に許せないのがその日付だ。一番古いものが明治四十三年五月二日である。離婚を前提にスガが秋水の元を離れたのが五月一日である。その翌日に早速元妻によりを戻す手紙を出したのだ。


 そもそもスガが離婚を言い出したのは愛情がなくなったからではない。

 

 明治四十二年からスガと秋水は千駄ヶ谷平民社で同棲をしていた。彼らが創刊した無政府共産思想を宣伝する『自由思想』の発禁、新聞紙法違反による起訴、罰金で、夫婦は餓死をも迫る生活を送っていた。

「暫く社会主義から離れてはどうだろう。君は湯河原にでも引っ込んで日本戦国史の執筆に専念したまえ。勿論湯河原逗留の宿代はこちらで負担する」

秋水の古い友人はそう秋水に促した。湯河原に同行したスガは「普通の奥方」のような生活を送ろうとしたが、やはり革命がある。天皇の赤い血を人民に見せて天皇は神ではなく人間であると教育せねばならぬ。暗殺計画から秋水を遠ざけるために、スガは離婚したい、離婚したことを世間に公表して欲しいと秋水に頼んだ。

 スガが秋水の元を離れたのは、離婚だけが理由ではない。秋水が創刊した『自由思想』の罰金を発行人であるスガが全て被り、その罰金の換刑の為に東京に戻らねばならなかったのだ。


 五月一日、スガだけ帰京した。しかし帰京したスガは秋水恋しさに一日五通も恋文を書いてしまう有様だった。スガの熱意にほだされて秋水も一時帰京してきた。しかし彼はスガとの逢瀬と並行して友人に「千代子と復縁したい」と相談し、よりを戻した後に必要になるであろう生活費を彼から借り、復縁の準備もしていた。スガは愛しているからこそ秋水に離婚を申し立て、彼の為に百日も入獄するのに、秋水が出した答えは、前妻との復縁だった。


 スガは逮捕後、秋水に不利になる供述を避け、獄中からひそかに秘密文書を発信し秋水の救護を要請していたが、秋水の本心が分かってからはもう彼をかばいたてることはしなくなった。判事を通じ、

「秋水と絶縁する」

と宣言したのだった。

 とは言え、スガが秋水に貞操を守っていたかと言えば嘘になる。なぜなら逮捕後の供述書で、スガは秋水の書生であった新村忠雄の事を「情人」と呼んでいたからだ。


 五月一八日に罰金換刑でスガは入獄した。スガが帰京した五月一日からその間に忠雄と関係したのだろう。大逆事件で共に法廷に立った時も、四人の実行犯のうち宮下太吉と古河力作が命乞いの為に「主義を捨てる」と転向を明言したのに対し、スガと忠雄は「自分は無政府主義者だ」と言い続け、スガに至っては「目的を達成できなかったことが重ね重ね残念だ」と歯噛みした。スガ二十九歳、忠雄二十三歳であった。

 絶縁後も、スガは秋水に関して概ね同じ主張をした。

「秋水は最初は天皇暗殺に乗り気だったけれど、次第に熱が冷めて私に対しても延期を勧めた。私は秋水の変心を感じ取り、次第に暗殺計画を秋水に話さなくなった」

 

 対してスガの「情人」となった新村忠雄は

「暴力革命を鼓吹していたのは秋水だ。彼が爆裂弾計画を私たちに勧めて来た。自分が天皇暗殺のような考えを持ったのも秋水を信じていたからだ」

と秋水に不利な供述を続けていた。スガと関係した以上、秋水は忠雄の恋敵である。また判事に迎合することにより、社会主義者ではないのに逮捕された実兄を救い出したいとの意図もあった。


 桜子は判事からその手紙を見せられた時の衝撃を思い出したのか、さすがに険しい顔をした。そして挑発的な目を玲二に向けて、

「私と先生は情死したんです」

「情死?」

「情死というか、無理心中ですよね。秋水先生は暗殺計画とは無関係で、むしろ私には翻意を促していたぐらいなのに、私と一緒に絞首台に送られることになりました」


 かつて記者であったスガは新聞に

「相愛の夫婦は余力をあげて社会の為に働くべきである。その義務を果たした上で、莞爾として相抱いて情死をなす。これが私の理想である」

と書き、上司である主筆から「病的だ」と大目玉を食った。スガ二十四歳の時だ。

 

 暗殺計画発覚前から秋水はスガへの気持ちが冷め、東京監獄収監中は前妻の千代子から面会や差入を受けていたが、秋水と一緒に死ねたのはスガの方だった。


 桜子は秋水が元妻に書いた手紙は覚えているが、自らが書いた針文字は思い出せない。

「こんな秘密文書を書くなんて、本当に秋水先が好きだったんでしょうね」

そしてふと

「燃えがらの灰の下より細々と煙ののぼる浅ましき恋」

と口ずさむ。

「この句ならば覚えています。私が獄中で作ったんですよね。私は無理心中みたいに同じ絞首台で死ぬことになったけれど、先生の気持ちが帰ってくるわけじゃなし、葬儀もお墓も別々。結局一人で死ぬしかなかったんですよ。考えてみたらスガはいつも一人。まるで私みたい」



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