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ももとせのちの  作者: 山口 にま
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あなたが秋水先生

 親から借りた予備校費返済の為、桜子はパン屋でアルバイトをすることにした。都電駅前の冴えないパン屋であるが、地元住民から愛され、客足は途絶えなかった。

 スガとしての記憶はいつも霧の向こう側にある。玲二に会ったら瞬時にその霧が晴れて全てを思い出せそうだ。

 桜子は意を決してバイトの終了間際玲二にメールを打った。

「今日は悪天候で客足が伸びず、パンの売れ残りが発生しそうです。おすそ分けを持って行って良いでしょうか?」

勿論玲二と会うための口実である。返信はすぐに来た。

「え、良いの?なんだか悪いな」


 桜子は棚に残った総菜パンやサンドイッチを自腹で購入し、都電に乗る。午後八時過ぎに大塚駅に着いた。明治四十二年三月まで巣鴨平民社があった場所だ。

 当時は秋水には国学者の娘で、英語とフランス語に堪能な千代子という妻がいた。平民社が千駄ヶ谷に引っ越しをする直前、スガと秋水は愛し合うようになったと言われている。結果的にスガが千代子を追い出す形になった。

 

 カウンセリングの予約もしていないのに玲二を訪ねても良いのかと桜子はためらうが、玲二が忙しそうだったら玄関でパンだけ渡して帰るつもりだった。


 桜子を迎える玲二は、既にシャワーを浴びた後なのかシャンプーの匂いがした。それでも来客に備えてTシャツの上にチェックの襟付きシャツを羽織っている。

 玲二の切れ長の目で微笑みかけられた時、桜子は全ての記憶が蘇ったような気がした。もう桜子とスガを隔てていたものは何もない。今桜子はスガそのものだ。桜子は玲二に駆け寄り、その胸に手を当てて言った。

「先生、秋水先生」

スガはまた秋水と会えた。死をも、百十年の時をも二人を分かつことは出来なかったのだ。

 

 桜子は涙に濡れた瞳で玲二を見上げた。若い女が夜に訪ねてきて、玲二を前世での夫だと信じ込んでいる、しかも彼女は親友の元交際相手。禍を連れてくる女そのものである。普通ならばお引き取り願いたいところだ。「僕は兵藤玲二だよ」と桜子を諭し、彼女を現実に戻せば済むことだ。しかし彼はそうはせず、

「あがりなさい」

と幸徳秋水が十歳年下の管野スガに言うように命じたのだった。

 

 玲二には桜子を邪険にできない理由がある。彼女は著名なテロリストの転生者だと名乗っている。スガの転生を客観的に証明出来たら兵藤玲二の名前はスピリチュアルの世界でも心理療法の世界でも永遠に残るだろう。千里眼能力者であった御船千鶴子や高橋貞子らを研究した福来友吉の再来と呼ばれるかも知れない。しかも今夜の桜子は既に催眠状態に入っている。この状態で前世療法を施せばどんな臨床結果が得られるか、催眠療法士として是非確かめたいところだ。


 「これ、おすそ分けです」

玄関に上がった桜子はパンの包みを差し出す。「余りもの」の割には出来立てのように見えた。玲二は桜子をテーブルに着かせ、アイスティーとお持たせのパンを出してやった。

「直接会うのは久しぶりだね」

「そうですね、東京監獄以来。電話やメールでは頻繁にやり取りしていましたが」

「最近どう?」

「管野スガみたいだってまた言われちゃって。サークル活動で知り合った女性に」

桜子は確かめるように玲二を見て、

「玲二さんの声を聞いていると、自分がスガに戻ってしまいます。今もそうです。直接お会いしていると特に」

そして頬を赤らめながら、

「玲二さんがもしかして秋水先生だったんじゃないかなって、あはは」

と告白する。


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