百年後の君へ捧ぐ
桜子が手洗いに立っている間に、店の勘定は玲二が払ってしまった。
「私が払いたかったのに」
桜子は不満気だ。二人は団地の横を通って駅に向かった。
「今日はありがとうございます。お呼びして迷惑かなぁって思ったんですけれど、玲二さんがいないと駄目だと思って」
「自分の命が奪われた場所に再び立つなんて、すごく勇気が要ったと思うよ」
「怖かったです。でも、本を読んだだけじゃスガの記憶が蘇って来ないんですよ。だから彼女が入っていた監獄に行ったら何かを思い出せるかと」
「ずいぶん思い出したみたいだね」
「はい、玲二さんのお陰です」
「僕は何にもしていないよ」
「ううん、玲二さんのお陰。思い出すのが怖い事もあります。やはり弾圧の末に処刑された女性ですから。でも玲二さんがいれば記憶の扉を開けられるんです」
「そういう手伝いだったらいくらでもさせてよ。そもそも人が過去や前世を知って幸せになる手伝いがしたいから催眠療法士になったんだから」
桜子はこめかみに手袋をはめた手をやり、
「・・・・残しゆく 我が二十とせの玉の緒を 百とせのちの 君にささげむ」
「それもスガの歌?」
「スガの辞世の句です。昔の日本人の平均寿命は五十台じゃないですか。死刑にならなければあと二十年生きられたはずだから、その二十年を百年後の君に捧げるという意味です。百年後の君たちって私たちの事かしら?」
「そうだろうね」
「私たちがスガの遺志を受け継がなければならないでしょうね。反戦とか社会正義とか」
「百とせのちの、か」
玲二は白い息を吐いた。そして
「偶然だね、幸徳秋水も百年後に大逆事件の真相を誰かが言ってくれるだろうと弁護士への手紙に書いているよ」
それは死刑判決の八日前、秋水は弁護士に対し「今回事件に関する感想をとのことでしたが、想うに百年の後、誰か私に代って言ってくれる者があるだろうと考えております」と書き綴った。すでにその時、秋水は死刑判決を覚悟していた。
「死刑前は秋水とスガは夫婦ではなかったけれど、考えることは一緒なんですね。百年後の私たちに思いを託して」
それは玲二と桜子も同じだった。恋人でもないのに一緒に大逆事件を追いかけている。
二人は私鉄に乗り、乗り換えの駅で桜子は降りた。一人になった玲二はスマートフォンのメモ機能を開き、「スガ」と名のついたホルダーをタップする。
「一月六日 転生者よりスガが処刑された東京監獄への同行を依頼された。監獄跡に続く台町坂を上っていると、死刑判決後にこの坂道を上って監獄に帰ったことを思い出したようだ。療法士の他に、居酒屋の店長も転生者を管野スガだと言い当てたと言う。言われたきっかけを転生者に尋ねたが返答はなかった。何某かの破壊活動があったのだろうか」