お迎え
なんだかんだ言って、あっという間に舞踏会の当日になってしまった。メイドや両親たちがイリスの容姿や衣装についていろいろ褒めてくれた気がしたが、本人は正直よく覚えていない。
(どうしよう。緊張通り越して無の境域に達したわ……)
つまり頭の中が真っ白なわけである。流れを一通り教えてもらったはずだが、すべて抜け落ちてしまったかもしれない。
「イリス。王子様がお迎えにあがられたようよ」
娘の初お披露目ということもあって、母のマリエットはあまり目立たぬ――と言ってもイリスからすれば十分目を惹く華やかさであったのだが、本人としては落ち着いた仕上がりを目指したそうである。
「王子様?」
「そうよ。それとも騎士様と言った方が相応しいかしら。わざわざ迎えに来るなんて、抜け目ない人ね」
マリエットの視線の先、階段下、玄関ホールで一人の青年がこちらを見上げていた。イリスの姿をとらえると、少し目を瞠り、やがて細めた。
「イリス」
彼に呼びかけに応じるように、イリスは階段から降りていた。床までつくドレスは動くのに苦労する。転ばないようゆっくり気をつけて降りるべきだったが、イリスははやる気持ちを抑えらなかった。
「ラファエル! 来てくれたの?」
「迎えに来ると言っただろう」
慌てると転ぶぞ、と彼は言った。イリスはうんと答えながらも、彼の姿を上から下までしげしげと眺める。
「ラファエル、とてもすてき」
再会した時の騎士の隊服姿も大変見目麗しかったけれど、今日の彼は一人の貴族であり、イリスのパートナーである。黒い燕尾服に身を包んで、イリスに微笑んでいた。
「そうか?」
「うん。すごく似合っている。かっこいい」
「……イリスも、き」
「きみたち、互いを褒め合うのは結構だが時間に遅れてしまう。早く馬車に乗りなさい」
シェファール侯爵の言葉にラファエルは「まだ褒めていない」と小さく呟いたが、確かに遅れてしまうのはまずいので、急かされるように出発することにした。両親はシェファール家の紋章が入った箱馬車に乗り、イリスはラファエルの家の馬車に乗せられた。
「わたしも一緒に乗ってよかったの?」
「婚約者なんだから当然だろ」
嫌だったか、と問われイリスはぶんぶん首を振る。
「そうじゃなくて、なんだか落ち着かなくて……」
「緊張しているのか」
「もちろん! すごく、怖い……」
知らない人が大勢いるだろうし、ダンスも練習したけど失敗するかもしれないと不安でたまらない。
「俺がそばにいるから」
はっと顔を上げればラファエルがじっとイリスを見ていた。
「だからそんなに心配するな。せっかくの王宮の舞踏会なんだ。思いっきり楽しめばいい」
「……うん」
不思議だ。彼にそう言ってもらえると大丈夫だと思えてくる。
(やっぱりすごい、ラファエル)
「それと、」
「うん?」
「すごく、似合ってる」
「ほんとう? 変じゃない?」
「変じゃない。……きれいだよ」
きれい。
その言葉に嬉しいと思うより、よかった、と安心する。いや、やはり嬉しいかもしれない。なにせ好きな人に褒めてもらえたのだから。
「ありがとう。ラファエルにそう言ってもらえて嬉しい」
「白いドレス、なんだな」
「うん。デビュタントの子は白色って決まってるんですって」
他にもたくさんドレスは作ったが、それは次の時にお披露目することになる。
「なんだか……」
「なぁに?」
いや、とラファエルは口ごもり、ふと何か思い出したようにポケットに手をやった。掌に収まるほどの小さな箱をぱかっと開け、こちらに差し出す。
「これ、よかったらつけてくれないか」
白い手袋をはめた彼の掌には、小さめのイヤリングが乗せられていた。
「……いいの?」
「ああ。ずっと渡そうと思ってたんだ」
イリスは促されるままイヤリングをつけると、ハンドバッグから手鏡を取り出してその姿を映した。
「どうかしら?」
ラファエルが目を細める。
「ああ。いいと思う」
イリスの耳元で、青と紫を溶かし込んだような色をした宝石が揺れるたびにきらきら輝く。
(きれい……)
何よりラファエルに贈られたことが、イリスの心を満たした。
「ありがとう、ラファエル」
「いいえ、どういたしまして」
もう一度手鏡を見て、ふふとイリスは微笑んだ。
「なんだか葡萄の色みたい」
「葡萄?」
「そう。昔あなたの所で育てた葡萄と、わたしの領地の葡萄、どちらが美味しいか食べ比べしたでしょう?」
覚えてる? とたずねると、ラファエルはもちろんというように頷いた。
「あの時はイリスがうちの葡萄の方が絶対美味しいって意地張って大変だった」
「違うわ。わたしが甘いって言ったら、ラファエルがそれは酸っぱいものを食べた後だからそう感じるんだ、公平な判断じゃない、って言うから、絶対そんなことないってわたしが怒って、喧嘩になったのよ」
「でもイリスは自分の家の葡萄ばかり食べてたじゃないか」
「それはラファエルが自分のところばかりぱくぱく食べてるから、そっちの方が好きなのかなって、わたしは遠慮したの!」
どっちも好きよ! と憤慨したように言えば、ラファエルは黙った。イリスも口を噤み、互いの顔をじっと見つめ合ったまま、やがて堪えきれず吹き出した。
「よく覚えているよな、俺たち」
「ほんとね。イヤリングの話から葡萄の話になるなんて思わなかったわ」
「イリスがし始めたんだろ」
そうだった、とイリスは気づき、また笑った。
「でも……懐かしいな。もっと美味しい葡萄作ってやろうって、あの頃思ったんだ」
昔を偲ぶラファエルの姿に、イリスはふと思った。
(ラファエル、やっぱり嫌々騎士になったのかな……)
植物学者になる、という夢を幼い頃イリスはラファエルの口から聞いたことがあった。より美味しい葡萄を栽培するため――伯爵家の経営に貢献するためだったかもしれないし、自然豊かな領地で暮らしていて自ずと興味が湧いたからか、はっきりとした理由はわからないけれど、とにかく十二歳の時には、彼は王立学校へ進むことを希望していた。
けれど父親であるデュラン伯爵から反対され、いろいろ話し合った末、騎士の道を志したのだった。イリスはそれを手紙で知った。本当にいいの? とたずねたけれど、子どもだったイリスにできることは何もなく、ラファエルも自分で決めたことだから後悔はないと返信してきたのでそれ以上深くたずねることは躊躇われた。
(ラファエルはどうして騎士になったんだろう)
距離が離れ、外出も滅多な理由がなければ許されなかったイリスにとって、ラファエルの言葉を直接聞くことができないのは大変もどかしかった。
彼は悩んでいたかもしれないし、苦しんでいたかもしれない。そういう時、イリスは必ずラファエルがそばにいてくれて、一緒にどうしたらいいか考えてくれた。
でもイリスにはできなかった。それが心残りでもあった。だから今も面と向かって聞いていいものか迷ってしまう。
「さっきから黙って、どうしたんだ?」
悶々と一人考えていたイリスをラファエルが怪訝な目を向けてくる。
「えっと、」
「また緊張してきたのか?」
「ううん。ちがうの。ちょっと、考え事していて……」
ラファエルはさらにじっと見てくる。イリスはもう聞いてしまおうかと思った。けれど――
「それって、以前おまえがたずねた氷の騎士、についてか?」
「えっ」
まさかラファエルの方からその話題を出されると思わず、イリスはびっくりする。不意打ちでもあった。謝らなくては、とずっと思っていたが、彼の出迎えに言い出すタイミングを失っていたのだった。
「ラファエル。ごめんね。わたし、あなたに嫌な思いさせてしまって……」
「手紙で謝ってくれたから、別にもう気にしてない」
「でも、直接謝ってこそ誠意というものだわ」
イリスのその言葉が少し意外だったのか、ラファエルは目を瞠った。
「おまえがそんなこと言うなんてな」
「だって……あなたに嫌われたんじゃないかって、すごく不安だったのよ」
ごめんね、ともう一度謝れば、ラファエルは「もういいよ」と言った。
「そんなに怒ったつもりはない。それにイリスは知らなかったんだろう? どうして俺がそんなふうに呼ばれているか」
「うん。教えてくれた子も、よくわかっていないようだったから……わたし、てっきりいい意味で捉えていたの」
「いい意味、か……」
苦笑いする彼に、違うの? とイリスは首をかしげる。
「ね、ラファエル。氷の騎士、って一体どういう意味なの? どうしてそんなふうに呼ばれているの? 誰が最初に呼び始めたの?」
「怒涛の質問だな……」
だって気になるのだ。王宮の誰もが知っているというのに、イリスだけは知らないということが。ラファエルのことなら、誰よりもよく知っていると思っていた自分が知らないということが。
「でも……あなたが知って欲しくないって思うなら……教えたくないなら、聞かないわ」
不承不承、と言った態度で付け加えると、「まったくそうは見えないけどな」とラファエルに言われた。
「別にそんな大げさな理由はない」
「じゃあ教えてくれる?」
「あまり気は進まないが……まぁ、他人の口から聞かされるより、教えておいた方がいいか」
ため息をつき、ラファエルは諦めたようにイリスを見た。
「氷の騎士っていうのはな、実は――」
ガタン、と馬車が揺れて、止まった。
王宮に着いたのだった。
扉が開かれ、先に到着していたイリスの両親が見える。
「ラファエル。後で聞かせて」
「……わかった。そうした方がよさそうだ。ただ、一つだけ」
先に降りたラファエルが手を差し出しながらイリスに告げる。
「王宮で何か聞いても、真に受けるな」
ここは怖い所だ、と彼は呟いた。