手紙
「へ?」
あの騎士とはどの騎士のことだろうか。
「イリスが夢中で読んだっていう小説の騎士だよ」
「小説……ああ! ジョルジュ様のことね」
「……ジョルジュっていうのか」
名前を挙げただけなのにラファエルは嫌そうな顔をする。
「そのジョルジュより、俺はかっこいいのか?」
「ラファエル急にどうしたの?」
らしくないことを尋ねる彼にイリスは戸惑う。
「別に。ただイリスは婚約者とは別に好きな相手がいるって知って、複雑になっただけだ」
「えっと……それはもしかして嫉妬してるの?」
二人の間に沈黙が流れる。ややあって、「そうだよ」とラファエルが答えた。自分でもらしくないと思っているのか、気まずい顔である。
イリスはその顔を見て、つい笑ってしまった。
「イリス」
「だってラファエルったら、架空の騎士に嫉妬するんですもの」
「俺だってわかっている。けど嫌なものは嫌だ」
そう言って、彼は先ほどの質問の答えを聞きだそうとする。
「それで、どうなんだ」
「安心して。ラファエルの方がずっとかっこいいって思っているよ」
「本当か?」
「本当だよ」
もともと騎士に惹かれたのも、ラファエルに似ていると思ったからだ。
「結婚したいとか、そういう感情はないんだな?」
「思ってないよ」
ラファエルはまだ納得がいっていないのか、疑わしい眼差しを向けてくる。さすがにイリスも少々呆れてしまう。
「そんなこと言うなら、王女殿下だってラファエルに対して恋しているのかもしれないんだよ?」
「は? 王女殿下が?」
鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして驚く彼に、「だってそうでしょう」とイリスは言った。
「素敵だって思う気持ちは、恋の始まりでもあるんだよ」
「いや、それは絶対あり得ないだろう」
「どうして?」
イリスは自分で口にしておきながら、なんだかモヤモヤしてきた。そうだ。ベルティーユはあんなにラファエルの顔や振る舞いを素敵だと言って、うっとり頬を染めていたじゃないか。憧れが恋慕に変わっても何らおかしくない。
「ラファエル。王女殿下の心を奪うなんてひどい」
「待て待て。なんでそうなる」
いいか、とラファエルがうんざりした調子で弁解する。
「あの人はただ、俺によくわからない呼称をつけて面白がっているだけだ」
「でも素敵ってたくさんお褒めになるじゃない」
「あれは褒めているのか?」
……ベルティーユは褒めているつもりなのだろう。
「それに百歩譲って褒めていたとしてもだ。王女殿下が見ている俺は、俺じゃない。周囲の噂と外見だけで勝手に作り上げた、俺によく似た誰かだ。そんな居もしない相手にきゃあきゃあ騒いでいるのは、正直見ていて痛々しいし、どうかと思う」
ラファエルの言葉は的確であり、辛辣でもあった。
イリスは思わずベルティーユに同情してしまう。彼女が今のラファエルの考えを聞いたらどう思うだろうか……
(いや、案外喜ぶかもしれないな……)
その冷たい考え方も素敵! という感じで。
「じゃあ、好きだって告白されても、ラファエルは断ってくれるよね?」
「当たり前だ。そもそも告白自体あり得ない」
ベルティーユだって、それくらい弁えているはずだ。
小説の読み過ぎだと注意されて、イリスもその通りかもしれないと反省したが、そもそもラファエルが架空の騎士に嫉妬したからこんな流れになったのではないか。
(それに……)
「ベルティーユ様はわたしが知らないラファエルをたくさん知っているように見えたんですもの」
接触することは滅多にないと言っても、王宮ですれ違ったり、少しは話す機会があったはずだ。遠く離れた修道院の寄宿学校で過ごしていたイリスよりずっと。
「わたしの知らないラファエルを、王女殿下や王太子殿下はそばで見ることができたんだと思うと……やっぱり寂しい。もやもやする。わたしも見たかったって悔しくなるの」
「イリス……」
しんみりとした空気になり、我に返ったイリスはなんてねと明るく笑った。
「変なこと言っちゃった。ごめんね、忘れて」
「……イリス。離れていた時間は確かに会えなかったけど、それでも、だからこそ、俺はずっとおまえのことを想っていたよ」
そう言っておもむろに彼はポケットから何かを取りだした。
「なに、それ?」
「おまえが書いてくれた手紙」
えっ、とイリスはラファエルの手に握られた白い紙を見つめる。
「ど、どうして持ってるの」
「いつも持っている。で、辛い時にこっそり読んでた」
「う、うそ!」
「嘘じゃない」
ほら、と彼は手紙をイリスに見せた。
それはもう何年も前だと思われるもので、イリスの字はまだどこか拙く、書いている内容も……
「やだ、恥ずかしい!」
「あ、おい。そんなに強く握りしめるな」
羞恥心からくしゃりと便箋を丸めようとしたイリスをラファエルが慌てて止める。
「ラファエル、お願い。この手紙今すぐ捨てて!」
「そんなことできるはずないだろ」
ひょいとイリスの手から手紙を取り戻すと、彼はまた丁重にポケットへとしまった。
「うう……じゃあ、ラファエルがわたしに送ってくれた手紙と交換して」
「なんだその意味のない交換申し出は」
というか、と彼はよくわからない顔をして言う。
「イリスも俺からの手紙、まだ持ってるんだな」
「当たり前だよ」
イリスはそう言うと、寝台から降り、机の端っこに置いてある鍵付きの箱を手に取った。
「ここにね、きちんと仕舞っているの」
箱に入りきれない手紙も、別の箱に大事に保管されている。見舞いの品と一緒に届けられた手紙も。
「この箱に入っているのはね、わたしが厳選に厳選を重ねた手紙があるの」
「ふーん。それとこれを交換するのか?」
ひらりと手紙を出されて、箱を指差される。自分の恥ずかしい手紙は戻ってくるが、ラファエルからもらった手紙は無くなってしまう……
「……やっぱり、やめる」
これはラファエルがイリスのために送り続けてくれた手紙だ。イリスへの想いがラファエルの言葉でたくさん綴られている。誰にも渡したくない。たとえラファエル本人にでも。
「じゃあ交渉決裂だな」
「うう……そうしてください」
「にしても、厳選されただけでもけっこうな量があるな」
「うん。だって六年分だよ?」
「そうだな。それだけ、イリスとこの手紙で繋がっていたわけだ」
「ラファエル……」
確かにラファエルとは実際に会うことは叶わなかった。けれど、その間お互いを忘れたことはなかった。ずっとずっと会えることを心待ちにしていた。
(ラファエルが手紙を常に持っていたことは恥ずかしいけれど、でも、それだけわたしの存在を意識してくれていたってことなら、いっか……)
「でも、落としたりしないでね」
「なんでだ?」
「恥ずかしいからだよ!」
「恋人への手紙なんだから、別に恥ずかしがる必要はないだろ」
「っ、ラファエルだって自分の手紙が勝手に知らない人に読まれたら恥ずかしいでしょう?」
「別に。俺は何も恥ずかしいことは書いていない」
イリスは幼馴染の顔をまじまじと見つめた。
(あ、あんなこと惜しみなく書いていて……?)
「頬が赤いぞ。また熱が出てきたんじゃないか」
彼はそう言って、イリスの手から箱をひょいと奪い、彼女にはベッドに戻るよう言った。恥ずかしくてそれ以上やり合う気にもなれず、イリスは素直に従った。
「イリス。おまえ植物学に興味でもあるのか?」
「え?」
今度は何だと思っていると、ラファエルが机の上に立てられている分厚い本を指差して問うてくる。
「ああ。それはラファエルに……」
と言いかけたところで彼女は自分の口を塞いだ。しかしラファエルは自分の名前が出たことで気になったのか「俺が?」と続きを促してくる。イリスは渋々と口を開く。
「その、ラファエルの誕生日プレゼントに贈ろうと思っていた本なの」
「誕生日プレゼント?」
直接会うことは許されなかったので、二人は互いの誕生日に、それぞれプレゼントを贈り合っていたのだ。
「けど、イリスがくれたのは……」
そう。結局イリスが贈ったのは、刺繍入りのハンカチや手編みのマフラーや手袋であった。
「どうしてこの本は送らなかったんだ?」
「えっと、それは、」
「そもそも、なんで植物学についての本なんだ?」
ラファエルの最もな質問に、イリスは追い詰められていく。やがて、観念したように言った。
「ラファエルが王立学校に行かなかった代わりに、勉強できるようにと思って」
ラファエルは目を大きく見開き、もう一度まじまじと本を見つめた。
「そのために、こんなに用意してくれたのか?」
どれも分厚く、高価な書籍であった。実は手に入れるのも大変で、イリスはわざわざ実家である侯爵家に頼んで注文してもらい、それを送ってもらって実際に自分の目で読んで吟味したりした。
「なんで……」
「昔、植物学者になりたいって言っていたでしょう? それで王立学校にも行くんだって……でも、デュラン伯爵に反対されて、騎士になる道を選んで……わたし、あなたが本当になりたかった夢を諦めて騎士になったんじゃないかって、そう思っていたの」
「だから、この本で勉強して欲しいと思って?」
「ええ」
「でも今ここにあるってことは……」
それらの本はラファエルの手元に届くことはなかった。
「なんで渡さなかったんだ?」
「渡してしまえば、より進めなかった道を思って、悔しい気持ちになるんじゃないかって……どんな理由であれ、ラファエルが騎士になる道を決めたのなら、それを応援するべきなんじゃないかって……いろいろ考えていたら、何が最善かわからなくなって、結局別の物を贈ったの」
このことも話すつもりはなかった。ラファエルは今サミュエルの護衛として日夜頑張っている。今さら過去の選択をたずねることは余計な質問だと思ったのだ。
「イリス。ありがとな」
俯いていたイリスは恐る恐る顔を上げる。
「……怒ってない?」
「なんで怒るんだよ。嬉しいよ」
そっと表紙を撫でるラファエルは目を細め、口元を緩ませた。
「イリス。俺は別に嫌々騎士の道を志したわけじゃない。そちらの方が確実だと親父に言われたから、決めたんだ」