母の過去
実は毎日ラファエルはイリスの家へ訪ねてきてくれたのだが、会うことは叶わなかった。母が許さなかったのだ。
イリスが何度ラファエルは悪くない、あれは自分のせいだと言っても、マリエットは考えを改めなかった。
「ラファエルが悪くないことは、私もわかっているわ。彼はあなたのことも十分心配してくれたのだから……けれどだからこそ、もっと上手くやれたのではないかと思ってしまうの」
今ラファエルの顔を見れば相手の言い分も聞かず一方的に責め立ててしまう。
だからしばらくはイリスとも会わせたくない。
「マリエットも今回のことはショックだったんだ。お互い気持ちが落ち着くまで、少し待ってあげよう」
父にもそう言われ、イリスは納得せざるを得なかった。もともと自分の蒔いた種でもある。母の心配する気持ちも理解はできた。それをラファエルのせいだと考えるのは違うと思ったけれど。
とにかくイリスはラファエルにすまないと思いつつ、彼と会うことを我慢した。ラファエルにも母の考えは伝えられたそうだが、彼は会えなくとも構わないと花や果物、イリスの体調を気遣う手紙だけを届けに毎日訪れた。
彼の相手をするのはほぼ父であり、用事でいない場合は執事のパトリスからイリスの容態を聞いて帰って行った。母はわざとラファエルに会わないよう出かけたりしていた。
イリスは申し訳なくて仕方がなかった。
(どうしてお母さまはあんなにラファエルに対して厳しいのかしら……)
確かにイリスのそばにいた者として多少の責任を問うのはわかる。けれどそれにしてはいささか厳しすぎる気がした。
「イリス。体調はどうだい?」
「お父さま」
侯爵は娘の顔を見ると、にっこり笑った。
「部屋にずっと閉じ込められていては、おまえも退屈するだろう。どうだい。私と一緒に散歩でも行かないかい?」
貴族の日課として、公園の散策がある。散策といっても決して徒歩では行かない。散策用の馬車に乗って、並木道を他の貴族や歩いている人間に自分の美しさや家柄の良さを見せるのだ。
「あら、お父さま。歩くの?」
しかし今日は……というよりシェファール侯爵が変わっているのか、彼は馬車を邪魔にならない場所に止めさせ、降り始めた。
「ああ。池の周りをぐるりと歩きながら話でもしようと思ってね」
たしかに馬車に乗っていると、どうも人の目があって落ち着かない。イリスは日傘を差しながら父の隣を歩くことにした。
「マリエットとも昔はこうして歩いたんだよ」
「そうなの?」
少し意外でもあった。
「お母さまのことだから、太陽の光はお肌に良くないって言って断りそうなのに」
「たしかに太陽の光は眩しすぎて苦手だとは言っていたかな。だから曇りの日だけ、マリエットは私の散歩に付き添ってくれるんだ」
父は嬉しそうに母の秘密を教えてくれた。
(お父さま。お母さまのことを話す時、いつも優しい顔をしている)
そして愛おしくてたまらないというように。
「どうした? 私の顔に何かついているかい?」
「いいえ。ただ、お父さまって本当にお母さまのことを愛していらっしゃると思って」
普通娘からこんなことを言われたら照れたり誤魔化したりするのだろうが、侯爵は「そうだな」と当前のように頷いた。
「私ほどマリエットを愛している者は他にいないだろうね」
「まぁ……」
あまりにも真っ直ぐな言葉で、なんだかイリスの方が恥ずかしくなってしまった。
「お母さまは幸せ者ね。お父さまみたいな方に想われて」
「はは。そうかな?」
「そうよ」
母が今もあんなに美しいのはきっと父の愛があるからだ。
「イリスもラファエル君のこと、それくらい愛しているかい?」
「えっ、わたし?」
突然ラファエルのことを聞かれて面食らうと同時に答えにくいとも思ってしまった。同じ女同士である母ならともかく、男である父に対してはハードルが高い話題だ。
しかしこれはチャンスとも言える。侯爵にラファエルとの仲を認めてもらうのだ。
「ええ、わたしもラファエルのことあ、愛しているわ」
「ラファエル君よりも?」
「もちろん」
しっかり肯定する。
「ふむ……それはちょっと問題だなぁ」
「ええっ、どうして?」
父はにっこり微笑む。
「私はイリスの結婚相手には、誰よりもイリスのことを愛してくれる男性を望んでいるんだ。それこそイリス本人よりもね」
つまり先ほどの答えは侯爵の条件に適していないらしい。しかし……
「ずるいわ。お父さまの聞き方じゃ、ああ答えるのが正しいって思ってしまうわ」
「はは。大人はずるいものだよ」
「お父さまったら……」
もう知らない、とイリスはそっぽを向いた。
「そう怒らないで。ラファエル君が誠実で、おまえのことを深く愛しているのは私もよくわかっているつもりだよ」
「……じゃあ、どうして反対するの?」
「反対しているわけじゃないよ。ただ不安なんだ。私もマリエットもね」
「それはわかるけれど……」
今回のことで母はますますラファエルとの結婚を認めない気がした。
「二人ともラファエルに対して厳しすぎるわ……特にお母さまは」
「そうだね。マリエットは私よりも不安があるのかもしれないね」
イリスは足を止めて父の顔を見上げた。
「どうして?」
「知りたいかい?」
こくりとイリスは頷いた。
「わかった。しかし、イリス。約束してくれるかい。これから私が話すことを決して他人に話さないこと。お母さんにも聞いたことを口にしないこと。守れるかい? もし守ることができないというならば、この話はこれでお終いだ」
父の顔は穏やかだったけれど、目は真剣であった。
秘密を知るのは怖い。でもイリスはラファエルと一緒になるためならば恐怖も乗り越えられる気がした。
「ええ、約束します。わたしだけの胸に秘めておくわ、お父さま」
「わかった」
侯爵は並木道を歩きながら、母の過去を教えてくれた。
「実はマリエットにもね、おまえにとってラファエル君のような幼馴染であり、婚約者の男性がいたんだ」
「えっ、そうなの?」
母にもそんな相手がいたとは……イリスは驚いた。
「面白くないことに、二人はとても仲が良くてね。将来はきっと仲睦まじい夫婦になるだろうと言われていた」
けれど父と結ばれたということは、そうはならなかったのだ。
「相手の男性にとって、マリエットは妹にしか見えなかったそうだ」
「……どうして?」
ずっと一緒にいたのに。とても仲が良かったのに。
「きっと距離が近すぎたんだろうね。家族のようには思えても、一人の恋人として愛することはできなかったんだ」
「そんな……」
「二人はいろいろと話し合ったが、喧嘩になってしまって仲は余計に拗れてしまった。それでもマリエットは相手を愛して、歩み寄ろうとしたけれど……彼女の努力も虚しく、相手は去ってしまった。他に好きな女性がいるという告白を受けてね」
その時の母の気持ちを思い、イリスは胸が苦しくなった。ずっと愛してきた人に妹のような存在だと言われ、違う女性が好きだと別れを告げられた。
とても苦しい。辛い過去だ。
「……お母さまがわたしとラファエルのことを不安に思うのは、かつての自分の境遇に重ねていらっしゃるから?」
父は静かに頷いた。
「人はね、長い時間を共に過ごした相手と別れることをとても辛く感じてしまうんだ。悪い相手でも喪失感を覚える。特別に想っていた相手なら、なおのこと……マリエットはイリスが取り返しのつかない傷を心に負ってしまうことが怖いんだろうね」
取り返しのつかない傷……母もそうなのだろうか。
いくら父が深く愛してくれているとしても、過去の別れは棘のように突き刺さったままなのだろうか。
「イリスとラファエル君が昔からとても仲が良いことはわかっている。けれどその仲の良さは兄が妹を気にかけるようなものではないか、幼い頃は好意だと思っても、成長した今なら別のものだと気づいてしまうんじゃないか、私たちはそう考えて、しばらく様子を見守っていたんだよ」
決して意地悪から二人を引き離そうしていたわけではないらしい。
「お母さまの考えはわかったわ。でも……それでも、わたしとラファエルはお母さまたちと違う」
イリスの訴えに、父はわかっているというように優しく目を細めた。
「その通りだ。マリエットたちの過去と、イリスとラファエル君の関係はまた別の物語だ。一緒にしては失礼というものだね」
「そこまでわかっているのなら、どうして……」
「マリエットも本当はわかっているはずさ。ただイリスが倒れてしまって、少し不安になってしまったんだろう」
「やっぱりわたしのせいなのね……」
がっくりと落ち込むイリスに、「大丈夫さ」と侯爵が明るく励ました。
「女性はか弱そうに見えて、ずっと強い。マリエットが失恋から立ち直り、私の愛に応えてくれたようにね」
「ほんとう?」
「本当さ。今のお母さんを見ていたら、わかるだろう?」
イリスは父といる時の母を思い浮かべる。眩いばかりの美しい笑みを浮かべ、二人はいつまでたっても恋人同士のように仲睦まじい。
「……そうね。お母さまも、お父さまものこと深く愛していらっしゃるわ」
娘の言葉に父は誇らしげに頷いて見せたのだった。
イリスと侯爵が帰ると、母が「どこに行っていたの?」と慌てた様子で駆けつけてきた。
「公園に散歩さ」
「まぁ、そうだったの。私、てっきり……」
母はそこまで言って、気まずそうにイリスから視線を逸らした。
「イリス。またラファエルからお見舞いの品が届いているわよ」
わかったわ、とイリスは頷いた。母はまた、ラファエルを家へ上げなかったのだろう。
「お母さま」
「……なぁに?」
「公園の散歩、とても気持ちが良かったの。だから今度、お父さまとも一緒に行ってあげて。きっととても喜ぶでしょうから」
娘の言葉に母は肩透かしを食らったようだった。てっきりラファエルのことについて言うと思ったのだろう。
たしかに以前のイリスなら、いい加減我慢の限界だと、ここで母に強く抗議したかもしれない。けれど父から話を聞いて、もう少しだけ待ってみようと決めたのだ。信じることも、大切なことだと思うから。
『だからあと少しだけ、待ってほしい。あと少しだけ、私たちの心配に付き合っておくれ』
――おまえは私たちの可愛い娘なのだから。
(お父さまと話してみて、よかった)
「だそうだ、マリエット。私と一緒に出かけてくれるかい?」
まるで舞踏会でダンスを誘う時のように手を差し出した侯爵を、母は目を丸くして見つめた。やがて困ったように微笑み、彼の手をとった。
「大げさな人ね。それくらい、いつでもお受けするというのに」
「本当かい? それは嬉しい。イリス。おまえのおかげだな」
父が本当に嬉しそうに言うので、イリスは何だか笑ってしまった。母は娘のそんな顔を見て、「もう恥ずかしいわ」と呟いた。
「でも、そうね。たまには明るい太陽の下を歩くのも悪くないかもしれないわね」
母はそう言って、イリスに微笑んだ。イリスもまた「ええ、そうよ」と頷き返したのだった。




