コルディエ公爵夫人
「アナベル嬢。私たちはお邪魔なようだから先に帰ろうか」
「ええ、殿下。わたくしも同じことを提案しようと思っていたところですわ」
では帰ろうかと彼は椅子に置いてあったシルクハットを手に取り、アナベルと二人で立ち去ろうとする。ラファエルが「殿下」とイリスから視線を外し、声をかけた。
「お二人で帰られると、あらぬ誤解を招きます。私たちも一緒に出ます」
「ラファエル……せっかく私たちが気を遣ってやったというのに……」
なぁ、というようにイリスを見たので、彼女はとんでもないと首を振った。実際ラファエルと二人きりになるのは……舞踏会の帰りのようになりそうで、そうなったなら心臓がいくつあっても足りないので避けたかった。
「一緒に観劇したんですもの。最後までお供しますわ」
「なるほど。ではイリス嬢の言葉に乗ってあげようか。アナベル嬢もそれでいいかな?」
「ええ。お二人が望むのであるならば」
こうして行きと同じように、四人は揃って小部屋から出たのだった。
「――今日はきみたちのおかげで楽しかった。機会があれば、ぜひまた一緒に観て欲しい」
サミュエルは心からそう述べると、護衛と思われる騎士たちと帰って行った。
「わたくしも楽しかったですわ」
「ええ、わたしも」
アナベルはイリスとラファエルを見て意地悪く微笑む。
「あら。次は二人きりで観たいんじゃないの?」
「そ、そんなことないよ」
「ふふ。貴女はそうでも、ラファエル様は違うのではなくて?」
「否定はしません」
さらりと答えるラファエルにアナベルは肩を竦めた。
「ラファエル様って見かけとは全然違いますのね」
「それはどういう意味だろうか」
「先ほどの言葉といい、イリスさんに対してはまるで、」
とそこでアナベルは言葉を切った。イリスとラファエルの後ろに視線をやっている。イリスも振り返ろうとして「ちょっとよろしいかしら」と声をかけられた。
イリスたちより少しばかり年上だと思われる女性が数人、口元を異国風の扇子で隠しながらこちらを見ている。それと彼女たちの後ろにひっそりと隠れている小柄な少女もいた。
「これはコルディエ公爵夫人。こんな所でお会いするとは奇遇ですね」
ラファエルが代表して答えた。彼の顔をまじまじと彼女たちは見て、やがて顔を見合わせる。
「ね、やっぱり言った通りでしょう」
「まぁ。では先ほどの方は……」
「夫人。ご用件がないのならば、失礼させてもらいますが」
ラファエルが仕事で見せるような冷たい無表情で催促する。怒っているようにも見えて圧を感じるが、夫人は「ありますわ」と全く気にした様子もなく答えた。
「先ほどの殿方、あの方はもしかして王太子殿下でしょうか」
イリスとアナベルは顔を見合わせた。ばれてしまったのだろうか。
「なぜそうお思いに?」
夫人の質問には答えず、ラファエルは理由をたずねた。
「シルクハットと片眼鏡で誤魔化していらっしゃるようでしたけれど、私の目を誤魔化すことはできませんわ」
それに、と夫人の目がスッとラファエルに焦点を当てて細められる。
「氷の騎士様がこんな所へお出でになるなど、今まで滅多にありませんでしたもの。何か特別な事情がおありだったのではないかと思いましたの」
「なるほど。しかし私とて、たまにはオペラを楽しみたいと思う気持ちはありますよ」
ラファエルの答えに夫人は甲高い声で笑った。アリアを歌う女性の声はどんなに高くても全く不快に感じなかったのに、夫人の声は酷く耳に障った。彼女の友人だと思われる女性たちもみなくすくすと笑いを零している。
「心が氷でできているような貴方にオペラの情緒がわかるのかしら?」
夫人の言葉は明らかに棘を持っていた。イリスはぎゅっと心臓を掴まれた心地になったが、ラファエルは微塵も表情を崩さず、胸の内に湧いたであろう感情を一切表に出さなかった。
「オペラの楽しみ方は人それぞれでしょう。歌や音楽に注目する人もいれば、大道具や衣装にこだわりを見出す人もいる。ストーリーを理解できなかったからといって、責められる謂れはありません」
ラファエルの言い方が気に入らなかったのか、夫人は眉をぴくりと動かした。
「その言い方、相変わらず癪に障ること」
「申し訳ありません。夫人の気分をこれ以上害さないよう、失礼いたします」
行こう、とラファエルがイリスとアナベルを連れて立ち去ろうとすると、「お待ちなさい!」と夫人が呼び止めた。その鋭い声にイリスはびくりと肩を震わせた。
「私の質問はまだ終わっておりませんわ。殿下の側近であるならば、無礼な態度は慎むべきではなくて?」
サミュエルの名を持ち出され、逆らうことができなかったのか、ラファエルは渋々と振り返った。しかしイリスとアナベルを背で庇う形で夫人と対峙する。
「あの方は殿下で間違いないのよね?」
「……殿下はお忍びで出向いたのです。そのお心をどうか汲んで下さい」
これ以上余計なことを聞くな、というラファエルの訴えを夫人は笑って答えた。
「ええ。もちろんですとも。だからもう一つだけ。そちらのお嬢様方は殿下とどういうご関係かしら」
「友人です」
「本当? どういった経緯でお知り合いになられたのかしら」
公爵夫人の美しくも鋭い目がイリスとアナベルにスッと向けられる。イリスは授業中うたた寝をしてそれが教師にばれてしまった時のことを思い出した。目線だけで相手を怯えさせるものだ。
「お二人とも王女殿下と茶会を共にして、そこで殿下とも知り合うきっかけになったのです」
「へぇ。ベルティーユ様とねぇ……」
上から下まで値踏みするような視線は非常に居心地が悪い。
「いいわね、若い子は。妹との繋がりを上手に利用できるもの」
「王女殿下のご友人を侮辱すれば、王族への不敬と見なされますよ。発言には気をつけて頂きたい」
「あら。私は別に失礼なことを言ったつもりはないわよ。逆に王女殿下を心配してあげているの」
だって、と夫人は扇子をパチンと閉じ、その先端をイリスとアナベルの方を指差すように向けた。
「どちらも見たことないお顔ですもの。失礼ですけれど、紹介してもらえないかしら」
ラファエルは一瞬躊躇する素振りを見せたけれど、立場的には公爵夫人の方が上である。逆らうことはできなかった。
「こちらはシェファール家のイリス嬢です」
まぁ、とそこで夫人は声を上げた。
「シェファール侯爵の娘ってことは、貴方の婚約者ってことじゃない」
どうやら夫人はラファエルの婚約者についても事前に知っていたようだ。ふうんと先ほどより熱心に観察してくる。
「貴方に婚約者がいると聞いた時は信じられなかったけれど、どうやら本当のようね」
ラファエルは何も答えない。余計なことを話せば根掘り葉掘り聞かれると判断したのだろう。
「それでそちらのお嬢さんは?」
「彼女は……ドラージュ家のアナベル嬢です」
夫人が大きく目を見開いた。
「ドラージュですって? 貴賤結婚した男爵家の娘ということ? そんな娘がサミュエル殿下と一緒に歌劇を観たというの?」
なぜか急に怒った口調で夫人は捲し立て、興奮した様子でアナベルに詰め寄ろうとする。しかしラファエルがそれを許さぬよう立ち塞がったので、夫人は美しい顔に苛立ちを滲ませた。
「どきなさい!」
「コルディエ公爵夫人。どうか落ち着いて下さい」
「私は十分落ち着いているわ!」
いいからどきなさいと夫人は扇子の親骨部分でラファエルの頬を叩いた。
「っ」
「ラファエル!」
彼は顔をしかめて痛みを訴えたけれど、夫人はそんなことどうでもいいとばかりアナベルを睨みつけた。その迫力にさすがのアナベルも顔を強張らせた。
「貴女、一体サミュエル様とどんな関係なの?」
「……どのような関係もございません。殿下とは今日たまたまお会いしたまでです」
「嘘おっしゃい。たまたまお会いできるものですか」
「そんなことは――」
「いいこと。貴女みたいな男爵の娘が殿下の隣を望むなんて許されないことなんですからね」
こちらの言い分を一切聞こうとしない夫人の態度にアナベルもさすがにカチンときたようだ。「お言葉ですが」と気丈にも口を開いた。
「わざわざ忠告されずとも、わたくしもそれくらいは理解しております。自分の立場も弁えず、不相応な夢ばかり見る浮かれた娘だとは思わないで下さい」
それに、とアナベルは夫人を上から下までサッと眺めた。先ほどのお返しと言わんばかりに。
「貴女の今の振る舞いこそ、王太子殿下の隣を渇望しているように見えますわ」
「なっ……」
夫人の頬がカッと赤みを帯びる。唇を震わせ、何かを発しようとしてできず、代わりにサッと扇子を振り上げた。ラファエルの時のように叩くつもりだ。今度は思いきり。イリスは息を呑み、アナベルが反射的に目を瞑った。
――しかし夫人がアナベルを傷つけることはなかった。ラファエルがその前に夫人の腕を掴んだからだ。
「公爵夫人。これ以上は騒ぎになります」
「っ。汚い手で私に触れないで!」
ラファエルはあっさり手を放す。彼は冷たく夫人を見下ろしていた。彼女の振る舞いに軽蔑した色を乗せて。
「以前のような騒ぎになれば、貴女も困るはずだ」
「お前如きが私に意見しないで!」
もはやラファエルが何を言っても夫人は激昂するばかりだ。アナベルの代わりにもう一度引っ叩こうとした彼女の手を、「もうやめて下さい、叔母さま」と小柄な少女が止めた。それまでずっと夫人の後ろで、怯えたように見つめていた少女だ。
「これ以上騒いではお互いによくありません。どうかもう帰りましょう」
「コリンヌ! おまえがそんな調子ではとても妃の座は望めないわよ!」
「わたしはそんなもの、望んでおりません」
「何ですって? おまえまでそんなことを……!」
怒りの矛先を夫人はコリンヌへと向けた。華奢な肩を容赦なく掴み、目を覚ませというように強く揺さぶった。これはとても名誉なことだ、サミュエルの妻になれば必ず幸せになれる、諦めることなど絶対に許さないと語る姿はまるで脅迫しているようにも見えてきて、イリスは胸を押さえた。
「イリスさん? 大丈夫? 顔が真っ青よ」
異変に気づいたアナベル声をかけてきたけれど、イリスは聞こえなかった。
夫人が恐ろしかった。ラファエルやアナベルに対して容赦なく傷つく言葉を投げかけ、暴力を振るおうとした姿、そして自分の姪でもある娘に対して叱りつける姿。
「イリス?」
今まで叱られる経験はあっても、あくまでも静かに、声を荒げずに諭すようなものであった。自分の感情を激しく相手にぶつけて鬱憤を晴らす真似はイリスには考えられないことであったし、そんなことをする人間などいないと思っていた。
――だから夫人の振る舞いは、目の前で人が殺されたくらいイリスの心と身体に衝撃を与えた。
「ちょっ、イリスさん!」
「イリス!」
目の前が暗くなって、身体から力が抜けていく。イリスは気を失ったのだった。