情熱的な男
「あの、わたくしも一緒によろしかったのですか」
アナベルが非常に居心地の悪い様子でたずねてくる。そりゃそうだろう。いきなり王子に出会ったかと思えば、観劇も共にすることになったのだから。
しかしサミュエルはあっけらかんとした口調で答える。
「ああ。構わない。むしろ私は叶うならば客席全員にこの位置から観て欲しいと思っているくらいだ」
それくらい素晴らしいとサミュエルは答えた。
「この下の立見席もいい。他の席より安くて、貴族だけでなく庶民にも手が届く値段だ」
「……まさかそこでご覧になったことはないでしょうね」
「もちろんある」
当然と言わんばかりの答えにラファエルは言葉を失っている。
「ラファエル。私は王子だぞ」
「それが何の関係があるのです」
「民の中に混じって同じ一つのものを楽しむ機会など、滅多にない。悲しむ顔、喜ぶ顔、芝居を通じて私たちは同じ感情を分かち合える。私はそれがこの上なく嬉しいんだ」
サミュエルの言葉にラファエルは小さく息を呑み、やがて「わかりました」と諦めたように言った。もしもの時のことを考えればやめて欲しいのが本音であろうが、王子の気持ちを否定したくはなかったのだろう。
「それにしても……本当にいい席ですね」
イリスは前を向いてしみじみと呟いた。
舞台全体が見渡せて、値段が高いのも頷ける。
「でも、どうして舞台の袖近くの席が一番高いのかしら……」
あの場所ではほぼ横から舞台を観賞する羽目になり、決して良席とは言えないと思うのだが……。
「それは観客が舞台に立つ役者と同じになるからさ」
隣に座っていたサミュエルが観てごらんと指差した先に、扇子で口元を隠した貴婦人の姿が目に入る。
「横顔というのは不思議だ。正面から観たらどんなふうに見えるのか、興味が惹き立てられる」
サミュエルの言葉に応えるように、婦人は隣にいる男性の方を見て微笑んだ。その姿は遠目に見ても美しい。気になっていた横顔が振り返ってあんな素敵な笑顔を見せたら、たしかに相手のことをもっと知りたくなってしまうかもしれない。
「観客は舞台を見るようで、舞台近くに座っている者たちにも意識を向けている」
あの位置が王族専用というのは、王の姿を観衆の目に広く憶えさせるためでもあった。
「観られる人間は内心誇らしく、より美しく自分を魅せたいと思う。だからあの席の近くは美しいご婦人方やそんな彼女を見つけたいと思う紳士に人気で高いというわけさ」
イリスは母が劇場を男女の出会いの場だと言ったことを思い出した。
「私も貴女のような女性があの席にいたら、芝居そっちのけで見入ってしまうかもしれないな」
じっと真剣な目で言われ、イリスはどきりとする。
「……殿下」
イリスの左側にいたラファエルがじろりと睨む。途端パッとサミュエルの雰囲気は変わった。
「はは。だから芝居を観ている間も決して気を緩ませてはいけないぞ」
「はぁ……」
イリスはまたいつもの揶揄いかと思った。サミュエルは目を細めてイリスを見ると、もうすぐ始まるぞと前を向いた。
(もう。殿下ったら……)
彼の揶揄いは両親がイリスを子ども扱いする時と似ている。なんとなくモヤモヤした気分になっていると、隣からそっと手を握られた。ラファエルだ。白い手袋をはめた彼の手が、イリスの指の間をゆっくりなぞり、彼の指と絡ませてきた。
「……始まるぞ」
俯くイリスだけに聞こえる声で囁く。
(集中できないよ……)
それでもラファエルはイリスの手を離さなかったし、イリスも振り解くことはしなかった。
暗くなり、幕が上がっていく。
「――いやぁ、素晴らしかったな!」
割れんばかりの拍手を贈りながら、サミュエルが感嘆した声をあげる。彼は前のめりになるようにして、誰よりも集中して観ていた。イリスもまた、途中からは見入ってしまった。
物語は、普段遊び呆けてばかりいる王子がある日夢の中に現れた女性に一目ぼれする所から始まる。女は自分のことを魔女だと告げる。そして王子に素敵な夢を見させてあげたいから現れたのだと。王子は毎晩彼女と夢で会う度、やがて現実でも会いたいと願う。
では会いに来て、と魔女は甘い声で王子に囁いた。
女に誘われるがまま王子は国を飛び出し、旅の途中で出会った仲間たちと次々と襲いかかる危機を潜り抜けていく。そして故国が滅ぼされそうになると知ると、彼は飛んで帰り、今にも王を殺そうとしていた女の背中を後ろから剣で突き刺すのだ。
王子は王の命を、この国の滅びを食い止めた。深い喜びと安堵が王子の胸に湧き起るが――
「女が振り返り、王子はハッと息を呑む。それは夢で何度も恋い焦がれた魔女の姿だったから」
夢で何度も会い、恋い焦がれた女性。どうか現実でも一目会いたいと思っていた相手が今ようやく目の前にいる。故国を滅ぼそうとした敵として。
魔女の正体は王子の国がかつて滅ぼした異国の姫だったのだ。復讐を誓った姫は魂を悪魔に売り、王子を国から引きはがすことに決めた。
真実を知って、王子は深く傷つく。自分を利用した女が憎い。けれどそれ以上に、相手が愛おしく、そんな相手を己の手で殺してしまったことが苦しくてたまらない。
いっそ自分も死んでしまおうか、と剣を取る王子の肩をそっと叩くのがこれまで旅してきた仲間たちである。彼らに励まされ、王子は立派な王になることを誓う所で物語は幕を閉じたのだった。
「私はあの王子の演技がすごく好きなんだ」
たしかに喜怒哀楽がはっきりとしていて、観る者の感情を揺さぶってきた。
同じ王子として思う所があるのか、サミュエルは興奮冷めやらぬ様子で感想を口にする。
「ラファエルはどうだった」
「ええ。初めて観た内容でしたが、素晴らしかったですね」
「ほう。おまえでもそう思ったか」
「ええ。私はあの王子を見ていると、なぜか殿下の顔が思い浮かびました」
「なに、本当か?」
サミュエルは嬉しそうに顔を綻ばせた。劇中の王子は決して賢い人物とはいえず、どちらかといえばお調子者、ちょっと頭の足らない人物として描かれているのだが……嬉しいのだろうか。
「私もあの王子のようにいろんな国を渡り歩いて冒険したいものだ」
「絶対におやめください」
はは、とサミュエルは笑う。そんなことしない、と言わないあたりラファエルの不安を煽る反応であった。
「アナベル嬢とイリス嬢はどうだった?」
「大変素晴らしかったですわ。歌や台詞もですけれど、わたくしは魔女が着ていた衣装が一番印象に残っております」
「なるほど。たしかに衣装や小道具も、見所だろうな。イリス嬢は?」
「ええ、わたしも楽しかったですわ。最後魔女が亡くなってしまったところは残念でしたけれど……」
どうせハッピーエンドなら、魔女も復讐することをやめ、王子と一緒に生きる道を選んで欲しかった。
「そうだな。しかし魔女はすでにこの世にはいない存在だからな……復讐心から解放されたと思えば、彼女にとっては一番の幸せかもしれない。ラファエルはどう思う」
「……なぜ私にたずねるのですか」
「なぜって、そりゃあおまえには婚約者がいる。意見を聞いておきたいじゃないか」
なぁ? と彼はイリスを見て言った。
「わたくしも興味がありますわ」
アナベルも悪戯っぽい目でイリスを見ている。
(みんな面白がっている……)
しかしそう思いつつ、イリスはラファエルがどう答えるか気になった。彼のことだから復讐なんて企てた自業自得だ、と現実的なことを言いそうであったが……
「そもそも夢に出てくる女に恋する王子もどうかと思いますが……」
「惚れてしまっては仕方がない」
「でしたら夢で会う度にどうでもいい話をするのではなく、相手のことを知ろうといろいろ聞くべきだと思います。王子という身分なんですから、然るべき相手とゆくゆくは結婚してもらわなければなりません。その自覚が、どうもあの王子には足りない」
まるでサミュエルに対して言っている気がするのはイリスだけではないだろう。サミュエルも苦笑いして「あの王子は私ではないぞ」と言った。
「おまえが王子だったらどうする。魔女を諦めるか」
「私だったら……」
「愛している女だ。絶対に誰にも渡したくないと思う女だ。周囲が反対しても、一緒にいたいと思う女を、おまえは諦めきれるか?」
サミュエルが鋭く問いかける。ラファエルはいいえと答えていた。
「そうか。しかしどうする。女はすでに死んだ身。魂を悪魔に売って、復讐の目的のためだけに生き永らえていたんだからな」
「では自分の魂と引き換えに、魔女の命を生き返らせればいい」
ほう、とサミュエルの目が面白そうに輝く。
「そうするとおまえも死後地獄へ逝くことになるぞ。それでもいいのか?」
「女も一緒に逝くのです。何も怖いことはありません」
「だが生き返ったところで、女が王子を愛してくれるだろうか。なにせかつて復讐を誓った王の息子だぞ」
「彼女の復讐する心ごと、愛するべきでしょう」
ラファエルの言葉が意外だったのか、サミュエルは目を大きく見開いた。
「おまえの口からそんな答えが聞けるとは思わなかった……」
「愛するということは、そういうことでしょう」
ラファエル以外の三人は思わず顔を見合わせた。やがてサミュエルが今日で一番愉快なことを知ったというように声を立てて笑った。さすがにラファエルもムッとしたようだ。
「私は何かおかしなことを言いましたか」
「いいや、完璧だ」
サミュエルは笑いを収めると、最後にイリスの方を見て言った。
「貴女の婚約者は見かけによらずとても情熱的なようだ」
イリスはなんだか頬が熱くなり、ふいと視線を逸らした。しかし逸らした先でラファエルのじっと見つめる目とぶつかり、さらに顔が赤くなってしまうのだった。