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少女たちの会話

 イリスの幼馴染は大変面倒見がよかった。


 とにかく彼女が泣いていれば放っておかず「なんで泣いているんだ。きちんと理由を言え」とぐしゃぐしゃの顔をハンカチで拭かれ(鼻まできちんとかむよう言われ)、外で遊び疲れた、もう歩けないと座り込めば、「だから途中で帰ろうって言っただろ」と文句を言いつつおぶってくれた。


 家庭教師に出された課題がどうしてもわからず、もういいやと匙を投げても、「将来おまえの役に立つからきちんとやれ」と出した先生以上に厳しい態度でイリスの怠慢を咎めた。


 彼の言っていることはいつも概ね正しい。だからこそ彼は大人からも信頼され、イリスのお守を任された。けれど時々、その正論が煩わしく、また彼女の許容範囲を超えた処理を求められ、軽くパニックになってしまった結果、「ラファエルの馬鹿! そんなぽんぽん責めないでよ!」と怒ってしまうことがあった。


 まぁ、たいていイリスが怒りを爆発しても、「感情的になったところで、何も事態は変わらないぞ。俺は別に構わないが、困るのはイリスだろ」といつも正論で返してくるので、結局「そうだね……」とイリスの負けになるのだが。


 理路整然とこちらの言い分を論破する彼にはたぶん一生イリスは勝てないだろう。情けないことに。


 けれど喧嘩しても、イリスが泣き言を言って途方に暮れても、彼は絶対イリスを見捨てなかったし、イリスも彼がいてくれてよかったなぁとその都度思うのだった。


 彼女の両親が貴族らしく子育てを乳母に一任し、食事の時くらいしかまともに接しなかったので、世間のいう家族の温もりを彼にもらった気がする。


 イリス・シェファールにとってラファエル・デュランは幼馴染の友人であると同時に、母のような、父のような、兄のような存在であった。


「そんな彼と、将来は結婚するのかぁ……」


 イリスは明るくなり始めた空を見ながらぼんやりとつぶやいた。


「ちょっとイリスさん。ぼうっとしていないで手を動かしてよ!」

「あ、ごめんなさい」


 朝の清掃活動で同じ場所に割り振られたアナベルが怒ったように言ったので、イリスは慌てて謝る。彼女はクラスでもリーダー的存在――カースト上位者、つまり絶対怒らせてはいけない人間であった。


 アナベルは左手を腰に当て、綺麗な空色の瞳でイリスを睨みつけた。


「もうすぐ社交界へ連れて行ってもらえるからって、浮かれているのではないの?」

「そんな。決してそういうわけでは……いえ、そうかもしれませんわ」


 わたくしの言うことに逆らうの? と片眉を上げられ、イリスはすぐに自分の意見を放棄した。たぶんラファエルがこの場にいたら「相手が上だろうが屈するな。自分の意志を貫け」と言われることだろう。


(そんなこと言われても怖いんだもの……)


 イリスはなるべくなら波風を立てたくない。安全、無事、平穏。自分が折れてそれで事なきを得るのならば喜んで受け入れる。憶病者と言われようが、イリスは構わない。


 けれど俯いて黙り込んだイリスにアナベルはますます苛立ったようだ。


「ふん! いいご身分ですこと! さすがお金持ちのお嬢様は違うのね!」


 アナベルも大貴族ではないけれど、男爵家の娘であり、お金持ちの家に生まれた令嬢である。けれどそれを指摘すれば彼女はさらに怒ってしまう気がする。どうしよう、とイリスが困っていると、「まぁまぁ」という明るい声が間に入ってきた。


「アナベルもそんなに怒らないで。イリスも困ってるでしょう?」

「まぁ、怒ってなんていないわ! わたくしはただ……」

「はいはい。てきぱき終わらせないと掃除終わらないし、連帯責任になっちゃうから。そうしたら明日の食事、減らされるのよ?」


 それは嫌でしょ? と銅色の髪をした少女が微笑めば、アナベルも「うっ」と言葉に詰まる。まだまだ育ち盛りの彼女たちにとって、おかずが一品減らされることは耐え難い罰であった。


「わかったわよ、もう!」


 ぷりぷり怒りながらも、アナベルは掃除を再開し、イリスも非常に気まずい思いをしながらほうきを掃いたのだった。


「……さっきはありがとう、ベアトリス」


 なんとか掃除を終えると、アナベルはさっさと食堂へ行ってしまい、イリスはようやく解放された心地になった。


「いいってことよ。私たち、親友でしょう?」


 にこっと笑うベアトリスは、イリスが修道院の寄宿学校で初めてできた友人であった。人懐っこくて、優しくて、面白くて、明るい彼女がイリスは大好きだった。


「わたし、ベアトリスと会えた幸運に毎日感謝しているわ」

「いやぁね、大げさよ」


 それより朝食食べに行きましょ、と腕に手をかけられ、イリスも「ええ」と微笑んだ。


 朝の食堂は混んでいたけれど、それほどうるさくはない。私語は慎むよう教えられているからだ。


 もちろん話したいことがたくさんある少女たちにとって、おしゃべりを禁ずることは不可能に近かったけれど。今も顔を寄せ合ったり、うるさくならないほどの小さな声で、朝は寒かったわねとか、今日の一限目の授業は何かしらなど、小鳥のさえずりのように囁き合っている。


(なるべくアナベル嬢からは遠い場所に座ろう……)


 今朝のあれは完全に失態であった。これ以上怒りを買わないよう、今日は一日視界に入らないようにしようとイリスは決めた。


「そんなに気にしなくていいわよ。彼女がイライラしてるのなんて、日常茶飯事じゃない」


 気の強いアナベルの性格に逆らえない人間はけっこういるけれど、同時に裏であれこれ言われているのも事実だ。以前アナベルがいない所で思いっきり彼女の陰口を叩いている子たちがいて、彼女たちは普段アナベルとよく話している面々であった。


「もう嫌になっちゃう! また実家の自慢聞かされたのよ」

「金持ちって言っても、あこぎな商売で稼いだお金でしょ?」

「爵位だってお金で買ったみたいなものなのに、あなたたちとは違いますのよみたいな澄ました顔で見下してて、ほんと性格悪いわよね」

「王都の貴族なんかと比べれば、あんたとあたしたちじゃそう変わらないわよって言ってやりたいわ」


 お淑やかな口調なんて知ったことではないと、ずけずけとアナベルの欠点やら気に入らない点をあげつらう少女たち。


 うっかり聞いてしまったイリスは(普段あんなに仲良くしているのに……)と驚き、彼女たちの内面と外面の違い、本音と建前の使い分けに軽く恐怖を抱いたのだった。


「イリスは繊細だからね」

 パンを一口サイズに千切りながらベアトリスが言う。

「繊細……というより、臆病なのかもしれないわ」


 イリスには怖いものがたくさんある。ぶんぶん音を出す虫も刺されるのではないかと思うと怖いし、夏の日に友人と一緒に集まって開催した怪談話もとても怖かったし、その夜眠ろうとしたら暗闇も怖いと気づいて、あまり眠れず寝坊して、つい授業中居眠りして大きな声で怒鳴った数学教師もとっても怖かった。


 人間関係だって、嫌われてしまうのは怖いし、知らぬうちに相手を傷つけてしまうことも怖い。


「わたし……こんなんで大丈夫なのかな」


 思いつめた顔で将来を心配するイリスに、パクパク食べていたベアトリスは「大丈夫なんじゃない?」とのんきな声で返した。


「何かあったら、愛しの婚約者さまが助けてくれるんでしょ?」


 愛しの婚約者さま……。


 あまりピンと来ないフレーズに、一瞬誰のことだろうかと思ってしまった。


「え、それってもしかするとラファエルのこと?」

「もしかしなくても、一人しかいないでしょ」


 鈍いわね、とベアトリスに呆れられる。


「アナベル嬢がさっきあなたに突っかかったのは、たぶん嫉妬していたからよ」

「嫉妬?」

「そう。侯爵家のご令嬢で、もう少しで王都へ帰って、社交界デビュー。そして何よりもうすでに見目麗しい婚約者が決まっているんですもの。彼女じゃなくても、ここにいる大半の子は羨ましいと思うはずよ」


(そうだったんだ……)


 思いもよらなかったことを指摘され、イリスは言葉を失う。


「まぁ、ここって王都から離れているから余計にそういう話に飢えているのよね。運が良くても、田舎のちょっと裕福な人間にもらわれていくか、そうでなければ一生ここで神に身を捧げるか……とにかく王都の華やかな貴族なんて、物語の中にしか存在しないって思いがちだから、身近にあなたみたいな人がいて、同じ年くらいの若い貴族と結婚できるんだって知ったら、もしかすると自分も……って夢見ちゃうのも無理ないのかもね」


 男女共学の王立学校に入学させる家庭もあるが、イリスの両親は彼女が結婚できる年齢になるまで、余計な知識を与えず、かつ間違いが起きないよう、王都から離れた、厳格な修道院の寄宿学校に入学させた。イリスが十二歳の時である。


 そしてもうすぐ十八歳になるので学校もやめ、王都のタウンハウスに戻ることになっている。社交界デビューして、それからラファエルと結婚する予定となっていた。


(貴族と結婚できるってそんなすごいことなんだ……)


 イリスとしては新しい環境で上手くやっていけるかどうか不安でいっぱいで、周りの人間がどう思うかまで頭が回らなかった。


「……わたし、何も知らなかったわ」


 貴族の妻となることが必ずしも幸福なのかはわからないけれど、働いたことも貧しい生活も経験したことのないイリスにとっては、やはり一番適しているのだろうと思った。というかそれしか生きる道がない。


(屋敷を切り盛りするなんて、わたしにできるのかしらって思っていたけれど、精いっぱい頑張ろう……)


「わたし、これからはもっと神さまに感謝して過ごすわ……」

「あ、いや! そんな落ち込まないで!」


 表情を曇らせ、厳かに決意表明するイリスに、ベアトリスが慌てて励ましの言葉をかける。


「イリスなら大丈夫よ。うん。何かあってもラファエル様……そう、ラファエル様のお話をしていたからこんな話になったのよ!」


 本来の話を思い出したとベアトリスの顔が輝く。


「ね、どんな方なの? 幼馴染なんでしょう? 顔は? かっこいい?」


 矢継ぎ早に聞かれ、イリス面食らう。


「ええっと……彼とは幼馴染で、」

「うんうん。かっこいい? やっぱり金髪? 目は青い? それとも緑?」


 やけに容姿に食いついてくる。


「顔立ちは……すごく小さいと思う」

「小さい?」

「うん。なんていうか、わたしの鼻や唇より形が良くて、すごく品よく収まっているというか、」

「いまいちよくわからないけれど……つまり悪くないってことよね?」

「うん。とても素敵だと思う」


 自信をもって頷けば、ベアトリスは「いいわね~」とうっとりとした表情を浮かべた。そしてすぐに「で? 髪と目の色は?」と興奮気味に聞いてくる。


「えっと、髪は黒で、目の色は……青、だった気がする」


 なにせ六年前なので、やや記憶が朧げだ。でも、青だった気がする。たぶん。……いや、絶対。間違いない。「ラファエルの目の色って本当に綺麗な青だね」といつか褒めたら、「くだらないこと言っていないで早く宿題を片付けろ」と顔を赤くして咎められたことがあった。


「髪は黒かぁ。惜しい!」

 髪の色さえ、と悔しがるベアトリスにイリスは不思議がる。


「さっきから何? 金色とか青とか……色に何かあるの?」

「ええ? だって貴公子のイメージって金髪碧眼って感じなんだもの。この前みんなで回し読みした本の王子様も、そうだったでしょう?」

「それは、確かにそうだったけど……」


 ベアトリスの理屈では貴族の息子はみな金髪碧眼ということになるが、そんなことはまずありえない。でもベアトリスにとってはそんなの些細な問題なようで、「それで?」と話を進めてくる。


「やっぱり手紙の中でも、甘い言葉とかしょっちゅう囁いてくれるの? 私の瞳にはあなたしか映っていませんとか!」

「いや、そんなことは――」

「さっきから何の話しているの?」


 ベアトリスがあまりにも興奮した様子で話しているので他の少女たちも興味が湧いたようで、わらわらと集まってくる。


「イリスの婚約者、ラファエル様について教えてもらってたの!」

「え、それってけっこうな頻度で送られてくるイリスの文通相手?」

「やだ、すてき。私たちにも詳しく教えてよ、イリス」

「王都の貴族さまかぁ。わたしなんて村の医者と結婚するのよ。いいなぁ」

「ね、イリス!」


(ひえ~)


 イリスは個人情報だからと言ってその場を乗り切ろうとしたが、一度火のついてしまった少女たちを鎮火させるのは温かな昼下がりの授業で眠らないことより難しい。


「氷の騎士って呼ばれているそうよ」


 どうしようかとイリスが思っていると、冷え冷えとした声が降ってきた。遠くの方で食事をしていたアナベル嬢ではないか。まさか会話に入ってくると思わず、みんな一斉に黙り込んでしまった。


「あの、アナベル嬢。氷の騎士って何かしら?」


 仕方がないのでイリスが恐る恐るたずねると、アナベルはふんっと鼻で笑った。


「貴女、自分の婚約者なのにそんなことも知らないの?」

「ご、ごめんなさい」


 イリスが素直に謝ると、まぁいいわとアナベルは肩にかかっている髪をうっとおしそうに後ろへやった。金色の長く美しい髪は彼女の自慢であり、毎晩高い香油で念入りに手入れしているそうだ。イリスも見かけるたびに綺麗だなぁと思う。


「王都で貴女の婚約者が呼ばれているあだ名よ」

「ラファエルが?」

「そうよ」


 氷の騎士。ラファエルが。


「どうしてそう呼ばれているの?」


 ベアトリスが興味深そうにたずねる。


「そこまでは知らないわよ」


 ええ~ という少女たちの心の中の声が聞こえたわけではないだろうが、アナベルは何よ! と怒ったように言った。


「本当なんだから! お父さまは王宮にもよく出入りしているから、間違いないわよ!」


 本当? という言葉がまたもや少女たちの心に浮かんだが、今度はアナベルも反論できなかった。


 なぜなら「あなたたち! 何ですか! お食事の最中に席を立って! 食べ終わったのならすぐにお部屋へ戻りなさい!」というシスターのお叱りが響いたからであった。少女たちは蜘蛛の子を散らすように解散していった。


(氷の騎士……ラファエルが……)


 イリスも食べ終えた食器を片付けながら、婚約者のあだ名についてずっと考えてしまうのだった。



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