帰りの馬車の中で
「今日は楽しかったか?」
帰りの馬車でラファエルがたずねてくる。疲れてぼんやりとしていたイリスはもちろんと笑みを見せた。
「初めてのことばかりでとても緊張してしまったけれど、ラファエルとも踊れたし、アナベルさんとも会えたし、王太子殿下と王女殿下ともお知り合いになれて……参加してよかったわ」
「……二人とも、変わった方たちだったろう?」
そうね、とちょっと苦笑いする。ベルティーユは特に面喰ってしまった。
「たしかにお二人とも少し変わっていたけれど……でも、優しそうな方だったわ」
それに、と思う。
「ラファエルのこと、大好きなんだなぁっていうのが伝わってきたもの」
「そうか? 俺には面白がっているようにしか思えないんだが……」
「それも否定できないけれど……でもわたし、ラファエルに対してあんなふうに接することができる人、初めて見たわ」
少し寂しかった、と正直に打ち明ければ、ラファエルが目を丸くする。
「寂しかった、って?」
「だから……ラファエルの知らない顔を見るようで……ラファエルのこと揶揄うことできて……」
「イリスは俺のことを揶揄いたいのか?」
そうじゃなくて、とイリスは必死に自分の気持ちを整理して伝えようとする。
「ラファエルのことなら、わたしが一番よく知ってるって思っていたから……そんなことないんだって、まだまだ知らない一面がたくさんあるんだって、当たり前のことだけど、今日改めて気づかされたなって……つまり、そういうこと」
あまり上手く伝えられた自信がなく、イリスは困ったように彼の顔を見つめた。
「ごめんね、変なこと言って。忘れていいよ」
「……いや、忘れないし、なんか嬉しい」
「え?」
向かいに座る彼の顔を見れば、じっとこちらを見ていた。何だか落ち着かず、イリスはサッと下を向いた。イリス、とラファエルが優しく呼びかける。
「要は嫉妬してくれたわけだろう?」
「……うん。嫉妬した」
「知らない俺を見て、寂しかった?」
「……うん」
「俺は自分のものなのに、って思った?」
「そんなことはっ!」
思ってない、と顔を上げれば、何か期待するような激しい眼差しに射止められ、言葉を飲み込んだ。なぜか強い羞恥心に駆られ、カッと頬が熱くなる。
「イリス」
彼は腰を上げ、イリスの隣に席を移す。互いの膝と膝がくっつくほど距離を近づけて、イリスの手をそっと握ってくる。彼女は振り解けなかった。視線を合わせることもできなかった。
「イリス。教えてくれ」
ねだる彼の声は甘く、イリスは思わず小さく首を振った。
「じゃあこっちを見てくれ」
それもできないと首を振った。
「どうして」
「だって……きっと顔が赤いもの」
見られたくないとイリスはか細い声で答えた。ついさっきまで普通の空気だったのに、どうしてこんな流れになったのだろうとイリスは混乱した頭で何度も思う。
(ふ、ふつうにしなくちゃ……)
でもイリスが冷静になるより早く、ラファエルが腰に手を回してきた。ダンスでも密着する機会はたくさんあったけれど、今はひどく特別な感じがして、緊張にも似た状態に襲われる。
「本当だ、頬が赤い」
(耳元で言わないで!)
ラファエルはこんなにも甘い声を出す人間だっただろうか。こんなにも――
「イリス。こっちを見てくれ」
「……」
「イリス」
彼と触れる箇所がどんどん広がり、まるで抱きしめられるようで、イリスはとうとう彼の方を見た。ラファエルの顔はとっても近くにあって、驚いた彼女が身を引こうとすれば、許さないというように彼の方へ引き寄せられる。肩口に鼻の先が当たり、ラファエルの香りがした。
「イリス……」
好きだ、と消えそうな声で、けれど確かに彼は言った。ひどく混乱していたイリスだが、彼の告白に、「わたしも」と答えていた。その声を聞いたラファエルが抱擁をわずかに解いたかと思うと、イリスの頬に手を添えて、目を合わせてくる。
「イリス。好きだ」
小さい頃から、ずっと。
今度ははっきりと口にした彼の言葉にイリスは胸がいっぱいになり、目を潤ませた。ラファエルがちょっと困った顔をする。
「なんで泣くんだよ」
「わからない。でも、たぶん嬉しいから」
「たぶん?」
こつんと額を合わせて、ラファエルが問い返してくる。
「ううん。すごく、嬉しいの」
六年前に二人はたくさん約束した。そのうちまだ果たせていないものはたくさんあるけれど、ラファエルとこうして再会できたこと、そして変わらず互いを好きでいられたことは、イリスにとって、とても大きな、大切な一歩に思えた。
「ラファエル。わたしもあなたのことが大好きだよ」
うん、とラファエルは照れたように頷いた。イリスもつられて恥ずかしくなる。
「……あの、それでそろそろ離してもらえると……」
助かるんだけど、とイリスはラファエルの腕の中から抜け出そうともぞもぞ動いたけれど、ラファエルはよりいっそうきつく抱きしめてきた。
「ラファエル?」
「離したくない……」
「えっ」
それはどういう意味だと思えば、ちゅっと柔らかな感触がイリスの額に落ちてくる。ラファエルの唇であった。その事実にイリスはまたもや頬が熱くなり、とっさに彼の胸を押し返そうとしたが、それを見越したように片手で素早く取り押さえられてしまう。
「ラ、ラファエル……!」
彼はイリスの声を無視して、こめかみや頬に次々と口づけする。彼の吐息を肌で感じ、イリスは怖いような、けれど決して嫌ではない、名状しがたい感情に自身が支配されていく気がした。それはイリスの抵抗を優しく奪い、ラファエルに服従することを良しとするものだ。
「イリス……」
名前を呼ばれているだけなのに、どうしてこんなにも頭の芯が痺れたように感じるのだろう。頬が熱い。でもラファエルの指も唇も同じくらい熱を持っていて、彼を通して熱を分かち合っている気がした。
「イリス。好きだ……」
ラファエルが与えてくれる口づけは両親や友人がするのとは違う。イリスだってそれくらいは理解できた。だからこそ、彼女はだめだと思った。
「だ、だめだよ、ラファエル!」
とっさにイリスはラファエルの額に自身の額を強く突きつけた。ゴツンという音が響き、イリスは涙目になってうめき声をあげた。ラファエルの頭は想像よりずっと硬かったのだ。
「……悪い」
しかし効果はあったようで、ラファエルはすまなそうな顔をした。先ほどまでの熱に浮されたような雰囲気はもうなく、イリスはほっと安堵のため息を零した。そうして気まずくなった空気を変えるようにわざと明るい声で言った。
「もう。だめだよ、ラファエル。そういうのはきちんと結婚してからでしょう?」
いつもきちんと規則を守るラファエルらしくない振る舞いだ。
「……ああ、そうだな」
おまえの言う通りだ、とラファエルは口元を手で覆って、深く息を吐きだした。まるで何かに耐えるようにきつく目を瞑り、「我慢しろ……結婚までの辛抱だ……」と繰り返し呟く。
その姿にちょっと可哀想だと思ったが、しかしここで余計なことを言ってしまえばまた変な空気になってしまいそうで、結局じっと彼が落ち着くのを待った。やがてばつが悪そうな顔をしてイリスの方を見る。
「ほんとに悪い」
「大丈夫よ。そんなに痛くなかったもの」
赤くなっていないでしょう、とおでこに手を当てて笑う。
「ラファエルは痛くなかった?」
彼は「いや……」と目を逸らしながら口ごもった。
「もしかして痛かった?」
それとも突然あんな行動をとってしまい、怒ってしまっただろうか。
「俺はちっとも痛くなかったし、イリスがとった行動は正当防衛だから怒ってもいない」
「正当防衛って……」
「だってそうだろう。おまえは未婚の令嬢で、いくら俺の婚約者だからって……怖かっただろう?」
イリスはラファエルの言葉に目を丸くした。
「そんなことないわ」
「気を遣わなくていい。今まで異性と触れ合わなかったおまえにとって、俺の振る舞いは相当怖かったはずだ」
「たしかに驚きはしたけれど……」
でも、とイリスは思う。
「怖くはなかったわ」
ラファエルが自分を抱きしめたことも。頬に触れたことも。頬やこめかみに口づけしてくれたことも。聞いたこともないような甘い声で名前を呼んでくれたことも。熱に浮かされたような表情で自分を見つめていたことも。
「嫌じゃなかったの」
「……本当?」
「うん。本当」
「俺のこと、嫌いになっていない?」
ラファエルの顔があまりにも自信がなさそうで、そんな彼の顔を今まで見たことのないイリスは思わず笑ってしまった。
「おい。笑うなよ」
「だって。ラファエルったらまるで叱られた犬みたいな顔しているんですもの」
犬という例えにラファエルはムッとする。
「そりゃ焦るだろ。好きな子に嫌われたかもしれないんだから」
好きな子、という言葉にイリスはくすぐったくなる。同じ想いを返したくて、彼女はおずおずとラファエルに近づいて、彼の肩にそっと頭を預けた。
「大丈夫。嫌いになんかなっていないよ」
「なら、よかった……」
静かに安堵の息を漏らすラファエルにイリスはくすくす笑う。
「変なの。わたしがラファエルのこと、嫌いになったりするはずないのに」
「そうか? 子どもの頃は喧嘩したりするとラファエルのこと嫌いって泣きながら言ってたじゃないか」
「そうだっけ?」
「そうだよ。あれ、地味に傷つくんだよなぁ」
沈んだ声にイリスは慌てる。
「ごめんなさい。たぶんラファエルに何言っても勝てなかったから、そう言うしかなかったんだと思うの」
本心じゃないと必死で伝えれば、わかってるとラファエルは笑う。
「イリスはずっと俺のこと好きなんだろ」
「……ラファエルもでしょ」
「そうだよ」
おんなじだ、とラファエルがイリスを優しく引き寄せた。切羽詰まった感じではなく、ただ優しく、包み込むように。イリスの屋敷に到着するまで、二人は黙って互いの温もりを感じていた。




