Secret room
ひどく雨が降っている。
僕は視線を手元の書籍から窓の外に移した。
幾重にも重なった厚い雲が時間感覚を奪い、鈍い照明にすら目が眩む。締め切った窓越しでも聞こえるほど激しい雨音が、やかましく文芸部室に響いていた。
炎天下でも大雨でも、文芸部の活動になんら影響はない。読んで書いての繰り返しのおかげで、八月下旬になった今でも僕の肌は白く艶めいている。
空調が効いて快適なこの部屋とは違い、おそらく外は水あめのようにどろりとした湿気が蔓延っていることだろう。それだけで帰宅意欲が奪われてしまう。
「まだ帰らないんですか?」
僕は正面の席から飛んできた声に視線を向ける。雨音にかき消されそうな細い声を出した彼女は、不機嫌そうにノートパソコンの画面を見ていた。
肩口で切りそろえられた髪は静止画のように背景に固定され、息遣いすらも感じられない。
僕も合わせるように再び書籍に目を戻した。
「もう少し残るよ。雨も強いし、帰る気にならない」
「そうですか。待っていてもどうせ止まないんですから、早く帰ればいいのに」
「……そう言う弓削さんは帰らないの?」
「帰りません」
「そっか」
「はい」
彼女は短く言葉を切って、キーボードを叩き始める。
自分からコミュニケーションを取ろうとしてきたくせに、彼女はこちらを向く気配もない。毎度のことなので気にも留めないが、どうやら僕は彼女にあまりよくは思われてないらしい。
弓削麻衣子、二人しかいない文芸部員の片割れ。
次々と辞めていった部員たちに合わせることもなく、沈没間近の文芸部に乗り続けてくれている慈悲深い彼女ではあるけれど、彼女の言葉にはどこかいつも角があった。僕の方が先輩なのに。
雨が窓を叩く音が小さくなる。かたりかたりとキーボードが押し込まれる音が響く。
そもそもこの部室で言葉が飛び交うことはそう多くないから、物静かな環境に僕は焦りも緊張も感じない。
ただ何となく、僕は本をめくる手を止め彼女に言葉を向けた。
「弓削さんは雨って好き?」
彼女の手は止まらない。しかし薄い呼吸の後、彼女はゆっくりと言葉を吐き出した。
「……落ち着くので多少は」
「へ、へえ。なるほど」
「ここまで強いと耳障りですけど」
「耳障り……」
普段なら無視されていてもおかしくない問答だったのに、珍しく彼女から言葉が返ってきたせいで、オウム返しをすることしかできなかった。
再び会話が途切れる。僕は逃げるように本のページをめくった。
わずかばかりの間の後、うっすら視線を上げると、あろうことかこちらを向いていた彼女と目が合ってしまう。
「先輩はどうなんですか?」
「えっ?」
「雨、好きなんですか? 話題を振ってきたからには、それはそれは素敵な話を用意してくださっていることでしょう。楽しみです」
彼女はノートパソコンを閉じた。どうやら本格的に会話をしてくれるようだ。滅多にない大雨の日には、付随してこんな珍しいことも起こるのか。
しかし、なんとなく話題を振ってしまっただけで、彼女が求めるような崇高な話など僕は持ち合わせていなかった。おそらくそれをわかった上で、彼女は言葉を返してきたのだろう。意地が悪いことこの上ない。
僕は大急ぎでエピソードの引き出しを開け始めた。
「僕は……。あんまり好きじゃないかな」
「なぜですか?」
「なぜって……」
わざとらしく期待を帯びさせた彼女の瞳に見つめられ、僕はごくりと唾を飲み込んだ。その期待に応えるべく、必死に脳を回転させる。
――雨。雨音は弓削さんの言葉通り落ち着くし、昔からインドア派だった僕は、雨のせいで不利益を被ったことなどほとんどない。せいぜい傘をさす手間が増えるくらいで、嫌いになるほどでもない。
だったらなぜ僕は、雨が好きじゃないと言ったんだろうか?
傘のようにくるくると回っていた僕の脳は、ようやく幼少期の記憶にたどり着いた。
「弓削さんは、秘密基地って作ったことある?」
「秘密基地……ですか? ないです」
「そっか。女の子だもんね」
「今の時代、女の子だからだとかそういう言葉は吐かないほうが良いですよ」
「厳しいなぁ」
「で? 秘密基地がなんなんですか? 回りくどいのは嫌いです」
彼女は色素の薄い唇を尖らせた。見下したと取られてしまったのだろうか。秘密基地の作成経験くらいでマウントを取る気など微塵もないけれど、彼女に隙を見せたのは失敗だった。
僕は仕切りなおすように息を吸って、あの頃の夏の香りに想いを馳せた。
「昔、秘密基地を作ったことがあったんだよ。山奥の藪の中、放課後に物を持ち寄ったり、本当に仲のいい友達同士にだけ場所を教えたり、大人から隠れて悪いことをしている気がして楽しかったなぁ」
「雨の話はどこに?」
「まあ最後まで聞いてよ」
僕は本を閉じて窓の外を眺める。少し勢いを落としたかと思われた雨は、未だ姿を捉えられるほど強く降り続いていた。
「作ってから二週間くらい経った頃かな。今日みたいな大雨が降ってね。秘密基地には屋根がなくて、僕たちの二週間はあっという間に水に流されちゃったんだ。そこで熱が冷めちゃって、みんなが集まることもなくなったし、秘密基地を作ろうって言い出す子もいなくなった。そんな寂しい思い出があるから、雨はあんまり好きじゃない。楽しかったことも全部流されちゃいそうで」
「散々期待させた割に、ありきたりな思い出話でがっかりです」
「僕は期待してだなんて言ってないよ」
「言葉の裏を読んでこその文芸部でしょう?」
「はいはい。つまんない話をして期待を裏切ってごめんね」
僕は視線を正面の彼女に向ける。彼女は見定めるように僕を見つめていた。うっかり世間話を始めただけで、こんな仕打ちを受けるとは思わなかった。
秘密基地。当時は相当なショックを受けていたはずなのに、今の今まで僕はこの思い出のことをすっかり忘れていた。
後輩の圧に負けて思い出したのはすごく情けないけれど、かつての切ない気持ちが今の自分の状況と重なってしまう。
部室の扉を眺める。以前はもう少し彩りがあった部員簿には、もう僕たちの名前しかない。
「また秘密基地が無くなっちゃいますね」
僕の視線が部員簿に向いた直後、彼女はいつも通り不愛想にそう言った。
僕の心理を汲み取ったであろう彼女の言葉は、抽象的だったけれどあっさり理解できた。僕は苦笑いと頷きだけを彼女に返した。
部活動を継続させるためには最低でも十人の部員が必要だというのが、この学校のルールだ。定員を割ってしまって半年近く経つ文芸部の寿命は、おそらくそう長くはない。
廃部の空気を察して辞めていった部員たちに反し、僕も彼女もそれを理解した上で今ここにいる。流されていく秘密基地を、いつもと変わらぬ顔をしてただただ眺め続けている。
僕は立ち上がり窓のほうに足を進めた。夏の匂いを感じたくて窓の鍵に指をかけたけれど、窓に身体をぶつけ続ける雨の勢いに気圧され手を下ろす。
「弓削さんはどうかわからないけれど、僕はこの部室に居心地の良さを感じていたんだ。みんなで作品を持ち寄ったり、好きな小説の話をしたりさ。だから無くなるのは寂しい。でもこんな状況になってようやく気が付いたよ。僕はこの部室が好きなんじゃなくて、志を同じくして集まった仲間がいる環境が好きなんだって。秘密基地も、きっとそうだったんだろうな」
ぼんやりとそう言って、僕はひとつ息を吐いた。ああそうか。僕はいつかまたここにみんなが集まることを期待していたんだな。
なんとなくしがみついているだけだと思っていたけれど、この気持ちは間違いなく未練なんだ。
雨音が響く。少しの間を置いて、弓削さんから言葉が返ってくる。
「私も、無くなるのは悲しいです。でも……。私は今でもここが居心地のいい場所だと思っていますよ。いつか崩れるとわかっていても」
「意外。珍しいね」
「喧嘩なら買いますが?」
「違う違う。共感が嬉しかっただけだよ」
僕は笑みを浮かべて振り返った。彼女はわざわざこちらに身体を向けて僕の言葉を聞いていたらしい。珍しいことに、少しばかり口角が上がっている気もする。
わずかな変化だったけれど、角しかない彼女が可愛らしく映った。
いつも不機嫌そうな顔でノートパソコンに文字を打ち込み、親の仇のような目で僕を見て、世間話の一つもままならない彼女が、居心地の良さを覚えていただなんて。
背後でけたたましい音を立てる雨が雪に変わってしまっても、今の僕なら多分驚かない。
しかし、あと半年もすれば卒業してしまう僕とは違って、彼女にはまだまだ青春を謳歌する時間がある。
こんなにも珍しいことが続く日だから、僕も珍しく余計な先輩風を吹かせたくなってしまった。
僕は笑顔を浮かべたまま彼女に言葉を向けた。
「でもさ、弓削さんもみんなみたいに、早めに新しい部活を見つけたほうが良いよ。こんなところに来ても、つまらない話しかできない僕がいるだけだから」
いつも通りの自分を下げた軽口だったけれど、その言葉で彼女の顔つきが鋭くなる。
「なんで……そんなことを言うんですか?」
「えっ?」
「まさか、私がなぜ毎日この部室に来ているかがわかっていないんですか?」
彼女は立ち上がり、豪雨にも負けない威圧感を僕に向けた。普段から鋭い目が雷鳴のように光っている。
そんなに怒りを買うような言葉を放っただろうか? 僕はうろたえながら思考を巡らせる。その姿がさらなる油を注いだのか、彼女は大きく息を吸って言葉を続けた。
「そもそもみんなが辞めても私がこの部に残った時点で少しは気付くべきでしょう? 文を書いたり読んだりするくらい、本来家でもできるんです! あろうことかこのタイミングで早めに新しい部活を見つけろだなんて――。先輩も同じ気持ちなんだって思って、嬉しかったのに」
「ちょ、ちょっと待って。すごくまずい事を言ったって事は理解できたから」
「もういいです。先輩の間抜け! 行間くらいちゃんと読めバカ!」
彼女は吐き捨てるようにそう言って、荷物を纏めて教室を飛び出していった。僕の背後では未だ強い雨が戦慄いている。
僕は呆気にとられたまま窓に身体を預けた。じっとりとした空気で上がる体温が思考を温める。
彼女はこの場所に居心地の良さを感じていて、毎日足を運んでくれていて、他の部員が辞めてもこの部に残ってくれた。
理由なんて考えたこともなかったけれど、彼女の言葉からして、彼女は家でも出来ることをわざわざこの部室で行っていたのだ。僕がいるだけのこの部室で。
去り際の彼女の悲痛な顔が脳に浮かぶ。密かに育てていた感情を踏み躙られた様な、そんな顔。
棘だらけで立ち入れない言葉の奥に隠されていた何かを、僕はずっと見落としていたらしい。
仕方ないじゃないか。そもそも僕は彼女に嫌われていると思っていたんだから。
いや、言い訳は本人に伝えればいい。幸い雨脚が弱まる気配はないし、呼び止める口実ならいくらでもある。
崩れかけたこの秘密基地には、このまま水に流すわけにはいかないものが眠っている気がして、僕は彼女の後を追うように急いで教室を飛び出した。