死に損ないの天使
池袋の路地裏には死に損ないの天使がいてね、彼女と出会っちゃうと片方の耳を噛みちぎられるの。ミーナはそう言って笑った。錆びついた鈴を鳴らしたみたいな笑い声で。
「これがその時に噛みちぎられた耳ってわけ」
ミーナが髪をかきあげて、私に右耳を見せてくれる。ミーナの右耳の耳たぶは確かに人型の歯で噛みちぎられた跡があった。手を伸ばし、ミーナの耳たぶをそっと指でなぞる。耳の表面にうっすらと生えた産毛が私の人差し指の腹をくすぐる。髪から香ってくるアーモンドの甘い香水の匂いが、ヤニと吐瀉物みたいな池袋の空気と混ざって、胃もたれがする。
「どんなだった?」
「何が?」
「死に損ないの天使が」
「半裸だったわ」
「上に何も着てなかったの?」
「ううん、下に何も履いていなかったの。ゴミの掃き溜めから引っ張り出したようなボロボロのスカジャンを羽織っているけど、シャツは着ていないし、ズボンやスカートも履いていない。だけど、そのくせに、タイツは履いていたわ。それも、ピエールマントゥの高級なタイツを」
「寒くないのかな?」
「寒いでしょうね、きっと」
「ミーナ」
「何?」
「愛してる」
「私も。愛してる」
上空をウォルマートの宣伝飛行船が警笛のような音を轟かせながら横切っていく。80階建ての池袋駅の屋上に建てられた東京タワーは不気味なオレンジ光でライトアップされ、先端のアンテナ支柱は夜空に浮かぶ月を串刺しにしていた。ネオンが夜の街を照らす。今にも力尽きて眠ってしまいそうなこの街を、必死に叩き起こそうとしているように。
私たちは手を繋ぐ。ドン・キホーテ前の錆色にくすんだ鳥居を潜って、正気を失った街の人々と肩をぶつけて、吸い込まれるようにこの街の奥へと進んでいく。駅前の陥没した道路には雨水が溜まり、蓮池になっていた。初夏にはそこに花が咲く。淡い桃色に縁取られた花びらの中央は透き通るような純白で、街中の吐瀉物とタバコの吸い殻を糧にしてまっすぐに茎を伸ばしていく。
「この前のお話の続きを聞かせて」
「どの話?」
「夏の星座が自殺して、一人ぼっちの虎が真空管の中で枯れていくお話」
「どうせ最後なんだから、新しい話をしましょう」
「例えば?」
「こんなのはどう? 昔昔あるところに、それはそれは可愛い女の子がいたの」
「どれくらい?」
「月が嫉妬で茹で上がっちゃうくらい」
「すごいね」
「その女の子には幼馴染の男の子がいたの。端正な顔立ちとは言えないし、気弱でいっつもその女の子からからかわれてばっかり。女の子は幼馴染の男の子が好きだったし、男の子も女の子が好きだった。だけど、女の子はあまりにも可愛かったから、潜水艦の機雷になったの。発射台から放たれた女の子が、青い海の底で静かな光を放ったとき、男の子は地上で違う女の子と裸で抱き合っていた。女の子は海の藻屑になりながら、男の子のことを思うの。そして、そのタイミングで流れ星が流れる。流れ星は地球の裏側に落っこちて、履き潰されたスニーカーになる。これでこのお話はお終い。どう? 面白かった?」
「うん、とっても」
「それは良かった」
「ミーナ」
「何?」
「ありがとう」
「どういたしまして」
足元の送水管をまたぐ。池袋の街に張り巡らされたこの送水管は、腐ったバナナジュースを街の外へ排出するために作られたんだと誰かが言っていた。金木犀の香りがするゲームセンター。ふと視線を向けると、UFOキャッチャーのガラスに私たちの姿が映っていた。ミーナの手にはナイフが握りしめられている。これから私とミーナの胸に突き刺さるそのナイフは、知らない誰かの血で真っ赤に染まっていた。冷たい風が吹き抜けて、寒さで身体がぶるりと震える。
「池袋駅の最上階にはどんな人が住んでるか知ってる?」
「知らない」
「そこにはね、この国を治めているアメリカの総理大臣がいるの。浴室には牛乳パックに入れられた核爆弾がすし詰め状態で入れられていて、洗面台の蛇口をひねればどこかの国で知らない誰かが殺される。満月の夜には、世界各国の高官がそこに集まって、東京タワーに串刺しにされた月を地上から見上げて涙を流すの。そこで私は彼らに春を売る。そういう夜に限って、人は誰かの人肌の温もりを必要とするから」
「夏は? 夏は売らないの?」
「夏になったら夏を売るし、冬になったら冬を売るわ。でも、やること自体に違いはない。自尊心を鉋で削って、お金をもらう。それを繰り返しながら、私たちは浅い呼吸のまま、深く深く沈んでいく。何かが失われることはあっても、そこから何かが生まれてくることは決してない」
「ミーナ」
「何?」
「死んでも一緒にいようね」
「もちろん」
私たちは大通りから狭い路地裏へと入っていく。歩くたびに足の裏でガラス片が砕ける音がする。歩道に染み付いた赤い吐瀉物は押し花のように綺麗で、夜の深く濃い影が明滅するビル看板の灯りで幻想的に照らされていた。
空を見上げる。掃き溜めのような池袋の夜空は今この瞬間も、私たちを押しつぶすために落っこち続けている。池袋の運河に架かる小さな石畳の橋を渡る。運河の水は濃く灰色で、表面に浮かんだ油が虹色の波紋を浮かぶ上がらせていた。ミーナの手は震えていた。でも、それが寒さのせいなのか、薬のせいなのかはわからなかった。北極星がコマーシャルの演出のために弾けて消える。夜の街から少しだけ光が失われた。
「別々の場所で生まれた人間同士がこうやって同じ場所で死ぬなんてさ、とても運命的だって思わない?」
ミーナはそう言いながら、私の胸に突き刺したナイフを引き抜いた。誰もいない池袋の路地裏で、私たちは手をつないだまま油と煤で塗れた壁にもたれかかった。二人の白い吐息が混ざり合って藍色の闇の中に溶けていく。ビルとビルの隙間から薄っすらとオーロラが見えた。オーロラはアメリカのお菓子みたいな極彩色をしていて、波打つたびに戦闘機のような低い唸り声を発している。その上を落書きだらけのスペースシャトルが紫色の煙を撒き散らしながら飛んでいく。空気は冷たくて、重たい。
私とミーナは二人で一本のナイフを握りしめていた。刃の側面を真っ赤な血がゆっくりと伝っていく。水に垂らしたインクのように私たちの胸から血が滲み出していく。ミーナは私の右胸を刺した。私はミーナの左胸を刺した。身動ぎするのも億劫になるほど身体が気怠い。二人で握っていたナイフが音を立てて地面に落ちる。死に損ないの天使はいなかったね。私がそう呟くと、ミーナは悲しそうな表情を浮かべて首を横に振った。
「ごめんね。さっき言ったことは嘘なの」
「何が?」
「私の右耳が天使に噛みちぎられたってこと」
「そうなんだ」
「これは天使じゃなくて、あの最上階にいるクソ野郎の一人に噛みちぎられたんだ。それでカッとなっちゃってさ」
「私たち、天国に行けると思う?」
「神様が可哀想かどうかっていう基準で天国行きを決めてくれるならね」
「ミーナ」
「何?」
「呼んでみただけ」
「そっか」
ミーナが力なく微笑み、そして目を閉じた。長いまつげが力なく垂れていて、毛先がホタルのように光っている。私はもう一度ミーナの名前を呼んだ。だけど、口から出た言葉は大気を震わせるだけの力もなくて、私の膝の上に虚しく落っこちた。ミーナの肌から少しずつ色が失われていく。まぶたが重たくなっていく。お尻のあたりに溜まった血溜まりがひんやりして冷たかった。
遠くでかすかな爆発音が聞こえて、それに覆いかぶせるようにドン・キホーテのテーマソングが聞こえてくる。別々の場所で生まれた人間同士がこうやって同じ場所で死ぬなんてさ、とても運命的だって思わない? 私はミーナの言葉を頭の中で繰り返す。運命的だね、すごく。薄れゆく意識の中で私はつぶやく。そして、最後にミーナの綺麗な横顔を見つめた後で、私はゆっくりと、目を閉じた。
目覚めると私は病室のベッドにいて、横には死に損ないの天使が立っていた。
私はぼんやりとした意識のまま天使の方へと顔を向ける。ミーナが言っていたように、死に損ないの天使は裸の上に、ゴミの掃き溜めから引っ張り出してきたようなスカジャンを羽織っていて、身体からは腐敗した卵のような臭いがした。肩まで伸びた金髪は所々が黒ずんでいて、全体に油と汚れがこべりついている。私は天使の目を覗き込む。翡翠色の瞳の表面に映った私は、一瞬自分ではない誰かに見えたような気がした。
「ミーナは?」
「死んだよ」
「ここは天国?」
「残念だけど違うよ。それに、こんな街に住んでる人間が天国に行けるはずがないだろう?」
「ミーナが言ったの」
「何を?」
「別々のところで生まれた人同士が、同じ場所で死ぬなんて運命的だねって」
天使が笑い、欠けた八重歯がのぞく。片方の歯先はギザギザに割れていて、もう片方は少しだけ内側を向いていた。
「あちきが言うのもなんだけどさ」
死に損ないの天使が言った。
「死に損ないってもんは惨めなもんだね」
彼女が身体をかがめ、小さな手で私の右頬をなでる。スカジャンの隙間から天使の痩せた身体が見える。痛々しいほどに浮き出た肋骨を、浅黒い皮膚が覆っている。何しに来たのと尋ねる私に、あんたの耳を噛みちぎりに来たんだと天使が答える。
「痛い?」
「ああ、すごく痛いよ」
「死ねるくらい?」
天使がゆっくりと首を振る。
「耳を噛みちぎったくらいじゃあんたは死なないよ」
私は小さく頷いた。窓から陽の光が薄暗い病室に注ぎ込んでいる。切れかかった照明の周りをてんとう虫が飛んでいて、その羽音がやけに耳に響く。
「あなたはどうして死に損ないの天使って呼ばれてるの?」
「あんたと一緒だよ。死ぬべき時に死ねなくて、こうして生きながらえてるからさ」
「心の底から死にたいと思った時は、きちんと死ねるものだと思ってた」
「そんな単純なものではないさ。生きることと一緒で」
「一つだけお願いを聞いてくれる?」
「何だい?」
「あなたが私の耳を噛みちぎっている間、私の手を握っていて欲しいの。それも、うんと力を込めて」
天使が頷き、私の右手を握る。天使の手は真冬に張った水のように冷たかった。生き物のように私たちの指が絡まりあう。天使が私の耳に口元を近づける。彼女の髪が私の顔に垂れる。その掃き溜めの臭いの中に、ミーナの髪と同じ、アーモンドの甘い香水の匂いがした。
「うんと優しくしてやるよ。まだまだこの世界も捨てたもんじゃないって思えるくらいには」
目を閉じ、呼吸を止める。天使の歯が私の右耳を優しく挟んだ。そして、ゆっくりと天使が歯に力を込めていく。深く息を吐く。背中にじわりと汗が滲み出す。私は天使の手を強く握りしめがら、ミーナのことを想った。
想像の中のミーナは笑っていた。錆びついた鈴を鳴らしたみたいな笑い声で。