03. 僕と憂鬱な朝
僕の好きな人が、随分とめかしこんで出掛けて行った。見合いのために。
――ああ朝から気分が悪い。
今朝も起こしに来てくれるはずだった彼女は、支度に時間が必要だからとその役目を放棄して、おかげで僕は一人で目を覚ました。
アンのことだから自分から仕事を放棄なんてしないだろうし、実際には取り上げられたようなものなんだろうとは分かってはいるけど、だからといって面白くないことには違いはない。いや、正直に言うと不快だ、当たり前だ。
「……アンは僕のなのに……」
不貞腐れたまま吐き出した声に、自分で落ち込んで項垂れ、テーブルに額を打ち付ける。
今日は一目たりと彼女の姿を見ていない。いや、出掛けていく姿を窓からは見たけど。今頃は相手と対面を果たしているのかと思うと、時間だってすべきことだってあるけど、もちろん何も手につかない。無理やり飲み込んだパンが喉をせり上がってきそうだ。
「坊ちゃん、お暇なんでしたらお部屋に戻られるか外にでもおいでになられたらいかがです」
「……ショーンまで僕を邪魔者扱いする……」
「実際メイドたちが片付ける妨げになっているんです。そのあたり自覚していただけると助かります」
若い従僕の遠慮のない物言いに、僕はぐりぐりと額をテーブルに強く押し付ける。
「だって僕のアンがぁ……」
「アンは物じゃないですし、雇っているのも坊ちゃんじゃないですよ。お忘れですか?」
真っ当な指摘に唸るけど、そんな僕に声をかけてくる者は他にいない。
ショーンとは数年来の付き合いになる。少しだけ年上の彼とは、同年代の使用人が入ったことに興奮した僕が執拗に話し掛け続けたせいで当初から打ち解け、学園の友人より親しみを覚えているほど。
今では使用人とは節度をもった距離感を心掛けてはいるけど、まあ何事にも例外ってあるよね。
「ここにいても仕方ないでしょう。気分でも変えられては?」
「……そうだな。出掛ける」
「はい」
「ついてこい」
「はい?」
移動する気になった僕の椅子を引いてくれたショーンは、立ち上がるなり一言命じて歩き出す僕を慌てて追いかけてくる。
「坊ちゃん、どちらへ」
「馬車を用意しろ。急げば間に合うかもしれない」
「あの、まさか、」
目的地はもちろん、アンの向かった見合い会場だ。
……と、意気込んで屋敷を飛び出してはきたものの、馬車に揺られるうちに頭は幾分冷えるもので、かといって引き返すつもりもない。
屋敷に戻って彼女の帰りを待ったところで、先ほどまでと同じただただ憂鬱な状態になるだけだ。
「坊ちゃん、奥様に叱られますよ。付き添っておられるはずですし」
「うるさい」
見合い会場は、相手の屋敷だと聞いていた。住所を調べるまでもない、母様が選んだ男はやり手と噂の準男爵だったから、御者に名前を告げるだけで事足りる。
さすが有名人。手がけた事業を成功させ一代にして富を築き上げて爵位を受けた男、そりゃあ平民たちの生きる希望そのものにもなるってもんだ。
母様もその手腕を見込んで、娘同然のアンを託すに値すると判断したんだろう。
「……どれほどの男だって言うんだ」
噂によるとなかなかの美丈夫だという話だけど、噂なんて誇張が過ぎるものだ。僕は信じていない。どうせ醜男のおっさんに違いないんだ。可愛いアンと釣り合うはずがない。
「あの屋敷がそうですねえ」という御者の声にハッとして、見えてきたその場で馬車を停めさせる。辺りを警戒しつつショーンと二人、通りに降り立った。
柵伝いに歩いて見上げると、想像していたよりよっぽど立派な屋敷。醜男でも優秀な大人の男であることは確かかもしれないと、早くも挫けそうな気持ちが芽生える。
「奥様がお選びになった方なんですから、変な人なわけないですって」
「この目で確かめないと信じられるかっ」
「じゃあ乗り込むんです?」
「それは……失礼だろ……」
柵にへばりつくようにして敷地内を覗こうとしながらも尻込みすると、背後から息の抜ける音がした。鼻で笑われたような気がする。
分かっている、どうせ僕は甘ったれ坊ちゃんでしかない。好きな人のピンチだなんだと騒ぎ立てたところで、乗り込む度胸もないただのヘタレ小僧だ。
「見合いって庭でやってたりしないかな?」
「さあ、俺貴族じゃないんでわからないですし」
「屋敷内かな、変なことされたりしてないかな」
「どーでしょーねー」
「……ああくそっ」
「口が悪くなってますよ」
正面口にはうちの馬車が停まっているだろうからとそこまで回り込めず、うろうろそわそわと、行ったり来たり。これではまるで、
「不審者ですね」
「…………言うな」
ここまで来て何をやっているんだか。
そんな不審行為をどうにか見咎められずに続けていると、ガチャリ、と金属音がした。
見れば正面口の門が開いている。慌てて物陰に隠れようにも、身を覆えるほどの何かしらはなく、焦りながら周囲を見回す。
「あ。」とショーンの声に振り向くと、うちの家紋が入った馬車。息を飲む。準男爵らしき妙齢の男にエスコートされて乗り込むアンは、微笑んでその手を借りている。他人が見たなら麗しいと評するだろうその様は、……僕の理想に近い。
――アン。
似合いだと思ってしまったことに顔が歪む。
他の誰でもなく自分こそがそうありたいのなら、何を言われようと努力すべきなのに。僕はただ、仕事という名目を振りかざして縛り付けているだけだった。
あまりに熱心に見入ってしまっていたのか、アン……ではなく、そばに立つ母様がこちらを振り返り、
「……っぶね、」
「同罪で叱責されたくないんですけど」
すんでのところで襟首を引っ掴んだショーンの手によって反対を向かされ、ギリギリで顔を背けることに成功する。
朝からアンに付きっきりだった母様とは、幸いにも今日はまだ顔を合わせていないから、僕が何を着ていたかなんて知らないはず。念のため、とりあえず帰ったら急いで違う服に着替えようと決め、背中に視線を感じながら、おかしくない程度に足早に、その場を離れるのだった。