01. 僕の好きな人
「坊ちゃん、おはようございます」
朝を告げる、少し低くてやわらかな声。浮上した意識をその優しい響きに撫でられる心地で、僕は上掛けを頭まで引っ張り上げて数分にも満たないまどろみを楽しむ。
「坊ちゃんたら、朝ですよ。起きてください」
「……もうちょっと……」
「もう、毎朝それなんですから」
世話係のアンとの朝の攻防戦は、すでに日課。
飽きもせずにぐずってみせる僕に、アンは呆れたため息を吐きながらも上掛けをめくり、肩を揺すって声をかけ続けてくれる。いい加減叩き起こそうとしてもおかしくはないと思うんだけど、一応主人だからか彼女の性格からか、そういった実力行使はされない。
「ポールが坊ちゃんのお好きなものを用意したと言ってましたよ。このままだと冷めてしまいますけど、よろしいのですね?」
「……起きる」
代わりに、奥の手とばかりに最後に告げる言葉。それは毎日違っていて、子供扱いも甚だしいようなことも多いのがちょっと不満ではあるんだけど、まあでも、それもまた彼女が講じる手法なら。自信ありげなのに否定するのも悪いかなって。
「よろしい」
上体を起こした僕ににっこりと笑うアンの顔は、ひと仕事を終えたかのように満足気。
もう毎朝のことだから、これを見てこそ、一日が始まる気がするんだ。
遅めの朝食を――と言っても少しばかり遅いだけで、まだ全然昼と兼用にするほどでもない――ダイニングルームでとる。家族は当たり前に先に済ませているから、僕一人のテーブルは広いばかりでつまらない。
ちら、とそばに控えてくれているアンを見る。いつものすまし顔。
彼女が一緒に席についてくれたりしてもいいのに……なんて考えたりもするけど、昔にそんな駄々をこねて失敗したことがあるから、今はもう無茶なわがままは言わないようにしている。困り顔も悪くないけど、本気で困らせるのは本望じゃない。
「……今日もアンのお茶は渋いな」
朝食が終われば、待ちに待った食後のティータイム。
お茶を淹れ、この時間に限り指定席となっている隣の席に腰かけたアンは、自分のカップを傾けつつ、僕のにやっと笑いながらの言葉にため息を吐く。
「そうおっしゃるなら、そろそろこの習慣はおやめになりませんか?」
「何を言うんだ。この渋さあってこそ、食事後の口がサッパリするんじゃないか」
「それはようございました」
食事中は話しかけても集中してくださいと一言で切って捨ててくるけど、ティータイムならくつろぐ時間だという認識なのか相手になってくれる。まあそれも、そうするよう僕に命じられて仕方なくってところなのかもしれないけどね。
伯爵家の一人息子が平民出の世話係と親しく言葉を交わすなんて褒められたことじゃないだろうけど、知ったことじゃない。幼い頃に虚弱だったこともあって友達が少ない僕にとっては、仕事だ社交界だと不在がちな両親よりも使用人こそが身近な存在だったんだから。
「それにしても、坊ちゃんは本当に朝が苦手でらっしゃいますね」
スコーンをつまむアンを眺めていると青灰色の瞳がこちらを向いて、小ぶりな唇から出たのはそんな言葉。しみじみと言われて、僕は口を引き結ぶ。
「アンにしてみたら今更だろ、小言ならよしてよ」
彼女が屋敷に来て十年余りになるはずだ。庭師の紹介で入ってきた当初は下働きではあったけど、世話係になってからも十分長い、僕の性格や生活なんて今に始まったことじゃないんだから。
「このままでは坊ちゃんが困るから言ってるんです」
「困らない。まだ父様の手伝いだってする予定は決まってないし、成人だって残念ながらまだ先だしさ」
「それは承知しております」
「学園ではどうにかやってるんだから、家にいる間くらいいいじゃん。そりゃあ、いずれは生活態度を改める必要に迫られるんだろうけど、それだってアンがいれば問題ないし」
言い訳にしか聞こえないことを並べ立てる僕に、隣から、ふう、とため息。
「いつまでも甘えたさんですね」
「……お前にだけだ」
優しく甘い眼差しだった。それでもそれは、手のかかる弟でも見るようなもので、なんだか居た堪れずカップを呷って中身を飲み干し……きれずに噎せる。
慌てるからですよと、背中をさするアンの手のあたたかさにほっとしていると、
「私も坊ちゃんのお世話は嫌いじゃありませんから、まあ、続けられるうちは構いませんけど」
続けられた言葉に、不穏な気配を感じた。
「……あ、アン?」
疑いを持たず過ごしていた毎日に、何の確証もなかったことを知る。
アンが、笑うでもなく、困った様子でもなく、いつもと変わらない顔で口を開く。
「坊ちゃん、私、今度お見合いするんです」
その一言に、視界がブラックアウトする。
「………………は!?」
だから、と話を続けるアンの声は聞こえていたけど、全部耳を素通りしてひとつとして頭には入ってこない。ぐらぐらと、目が回るようだ。
立ち上がった拍子によろけ、支えようと伸ばしてくれた手を振り払って自室に駆け込む。ベッドにダイブし、頭を抱えて唸る。
――僕には、好きな人がいる。