6. 震える泥水
「人間側の戦力が揃うのを待っている……ですか」
夜。燭台の置かれたテーブルの前に座り、ツワードが呟いた。
「はい。魔王は強敵との戦いを望んでます。『個』としてだけではなく、『軍』としても。戦力はいくらでもあるはずなのにすぐ大群で乗り込まないのもそのためです」
ぼくたちはとある村の屋内で話し合いをしていた。旅の六人全員で、それぞれ自由に腰かけたり寝転んだりして身を休ませている。ぼくはツワードの向かいに腰かけていた。
村というのは魔族に襲われていた移民中の人々のものであり、彼らも一度戻ってきていた。
村の人々はそれぞれの家で休んでいる。というわけでぼくらも寝かせてもらうことにしたのだった。
もちろんぼくが魔族であることは伏せてある。包帯を巻いて長い耳を隠しつつ、顔には戦化粧のように泥を塗ってあった。多少不自然ではあるけど、人々の注意はむしろマイスに向いていて、ぼくたちはおまけみたいに見られている雰囲気だった。
「それに関しては私も確信している。これまでの戦争でも、流行り病などで弱った国が攻められることはなかった。宣戦布告も必ずしている。戦場で奇襲を行うことは珍しくないが、それはあくまで戦術的なもの。大きな意味では真っ向からの戦いしかしていない」
壁に背をつけて語るマイスはもうずいぶんと落ち着いて様子だった。ブラムスを前にしたときも昂っていたけど、先ほどの彼はあの時とも少し異なるように見えた。
人間として、騎士としてではなく、非常に個人的な思いで動いていたような――。
もしかしたら大切な人を奪われたのかもしれない。仲間になったとはいえ、迂闊に触れられることではなかった。
「移民が終わるまで戦争が起きる心配はないってことか。『籠の町』とか呼ばれてるところに集まってるんだったよな。あとどれくらいかかるんだ?」
藁のベッドに寝転がったミィチが誰にともなく尋ねる。これにはぼくの隣に腰かけるプリーナが答えた。
「わたしのお父様がおっしゃっていた話だと、どれだけ少なく見積もっても一年以上はかかるということだったわ。大人数での長距離移動、しかも魔族に襲われる危険もあるとなれば並大抵のことではないもの」
「それまでに密かにぼくたちで戦力を固めて魔王を叩く。それが最善だと思います」
「わたしも同じ意見よ」
プリーナが頷くと、皆それぞれに同意してくれる。
戦争、つまり人間と魔族の総力戦では勝てる見込みが少ない。世界中を支配している魔族と一つの大陸の人間――その勢力差は比べものにもならないだろう。
それ以前に、戦争となれば精鋭での戦い以上に多くの命が危険に晒される。それだけは絶対に避けたかった。
「……うん。やっぱりわたしは、あなたたちと共に戦うことにするよ」
ノエリスがいった。
「サーネルが死んだって話については、正直まだ気持ちの整理は付かないけど……魔族から人を助けるのは前からやっていたことだし。あんな胸糞悪いの、見過ごせるわけないからね」
「そうですね……私も、ノエリスと同じ気持ちです」
ツワードたちのまっすぐな視線を受け、ぼくは思わず立ち上がった。
「よ、よろしくお願いしますっ」
握手を交わす。真実を話しておいて本当によかった。あのままお別れなんてことになったら幸先が悪いなんてものじゃないし、何より寂しすぎる。
とても和やかな空気になったところで、ミィチが起き上がった。
「話を戻してもいいか?」
やや不機嫌そうな声だった。ミィチと二人が打ち解けるまでにはもう少し時間がかかりそうだ。
「ど、どうぞ」
「倒さなきゃならないのは魔王だけじゃないよな。例えばさっきのガラードとか。あんな強そうなやつ放置しておいたら危険だろ」
どきりとした。実はガラードがサーネルの仇であることは皆には話してない。ミィチにだけは聞かせたくなかったから。
「先ほどの魔族はおそらく、大陸の一つを支配する魔族のうちの一体ですね」
ツワードが答える。ぼくの知識と見比べても間違いはなさそうな情報だ。
「コンズ、ベルディ、ポーラン、オムン、ヌテラコック、ガラード――この六体がここを除く六つの大陸を支配していると聞きます。それらを打ち果たせば魔族の戦力は確実に削れるでしょう」
なるほど。つまりあと五体か……。
「コンズはぼくが倒しました」
「ベルディは私が屠った」
四体だった。
ツワードが驚きに目を見開いている。あ、この視線気持ちいいかも。
「まあ、まあ! さすがだわ! 二人が揃えば他の魔族も倒せるんじゃないかしら! さっきのガラードだってコテンパンね!」
うーん、照れる。まあぼくは、殺されかけての辛勝だったんだけども。
ともかくその四体も各個撃破できれば、人類の勝利はかなり近いものとなるはずだ。そう考えながら、
「……あれ?」
ぼくは小首をかしげた。
何か引っかかる。いまの話の中に、どうしても抜かしてはいけない点があった気がするのだ。
……そうだ。誰かひとり、忘れている魔族がいるような。
*
目に見えるほど大きな黒カビの塊が舞っている。
「くそっ、くそっ! ガラードのやつめ! 少し強いからって図に乗りやがって!」
カビの胞子の塊のごとき魔族が身を振り乱し怒鳴っていた。カビが煙となって広がるたび、周囲――緑豊かだった山が薄汚れ、変色していく。体中からキノコを生やした配下たちも、一緒になって喚き散らしていた。
その様をおぞましく思いながら、山道を登り近づいていく者がいる。
ひとりでに蠢き活動する泥水――『扉』を通り世界中に散る魔族たちに情報を伝達する連絡役である。
「ウ、ゥゥ……」
目も鼻も耳もなく表情はないが、終始こぼれる震えた声を聞けば彼がどれほど怯えているのかは瞭然だった。
「デ、伝言! 伝言!」
それでも彼は怒り狂うカビに声をかける。それが泥水の役割だからである。
「うるせぇ……俺様はいま気が立ってるんだ!」
そんな事情にもかかわらず、カビたちは怒りの矛先を泥水に向ける。
「そうだ! 失せろ!」
「くだらねえ話なんざ後にしろ!」
「いや……ここはひとつ、こいつで憂さ晴らしと行こうじゃねえか」
「ほう、いいっすね」
「名案だぜ」
ぽつりとこぼされた一言で荒くれ者たちの視線が一点に集まる。
泥水は「ひっ」と声を漏らし、じりじりと後ろへ下がった。
「キョ、拒否! ダメ! ヤメテ!」
「ばーか。てめえに拒否権はねえんだよ」
下卑た笑い。泥水よりはるかに大きな体格の魔族たちが迫り、取り囲む。
そして一閃、獣の爪による攻撃が泥水に襲いかかった。
それは彼が何度も見てきた光景だった。凍り付くほど絶望的で、涙も出ないほど苦しい、この世の何よりもおぞましい瞬間。
――その直前に訪れる、見飽きた光景。
「な、なんだ?」
荒くれ者の一体が呟く。
直後、一体の魔族が爆ぜた。
「……は?」
誰もが理解できない。泥水以外の誰もが、その意味を理解できない。
それは今の破裂に限ったことではない。
「お、おい…………どうして」
「どうして、効いてないんだよ」
爪の攻撃を受けたはずの泥水は、無傷だった。
そして――泥水の周りには闇のごとき黒い瘴気が漏れ、
「ひっ、ひぃあああああっ」
そこから伸びた幾つもの影が、目の前の魔族たちを蹂躙し始めた。
阿鼻叫喚。泥水が幾度となく目にしてきた光景。
静寂は十秒としないうちにやってきた。
木々は吹き飛び地面は抉れ、山の半面はすっかり形を変えている。泥水はぶるりと震えあがり、ぐったりと倒れこんだ。といっても傍目には、ゼリー状の体がわずかに潰れたようにしか見えないのだが。
「ほう、こいつァまた派手にやりやがったなあ! がっはっはっはっは!」
呑気な声が聞こえてくる。豪快な笑い声と共に現れたのは、全身に包帯を巻いた黄色眼の魔族、ガラードだった。ひとしきり笑った後、潰れた泥水を見てまた笑う。
「うはははは! なんだぁお前さん、また泣いとるのかあ? 相も変わらず情けないやつだァ! いい加減自分でもそう思わねェか?」
そういってニヤリと唇のない口の端を上げると、包帯の怪物は泥水の傍らに座り込むのだった。
「――なあ? バンリネル」
バンリネル。ガラードは確かにそう呼んだ。間違いでもなければからかいでもない。正真正銘、今ここで震える泥水の本名だ。
そう。それこそは――コンズやガラードを差し置き、いついかなる時でも魔王との対面を許された『唯一』の魔族、その名である。