1. 遥かなる星の彼方へ
黒い煙が上がっている。
剣を携えた初老の騎士が膝をつく。眼前には岩に潰された家々と、逃げ惑う人々に取り残された怪我人たちの姿があった。
「勝てるわけが……ない」
恐怖に震える眼差しは力なく泳ぐのみ。既に逃げ道を探すことすら諦めていた。
その背後に岩が落ちる。地響きと共にさらに一つ家が潰れた。
人々は、あるいは絶望に沈み、あるいは理不尽への怒りをあらわにし、止まらない落石を為すすべもなく見せつけられる。
そんな中、一人、呑気にもあくび混じりに声を漏らす者がいた。
「んへ~、肝が冷えたわ~。いきなり襲ってくるんだもんな~」
落石が止まった。
初老の騎士が顔を上げる。逃げ惑っていた人々がほんの一瞬足を止める。
「いひひひっ、でももうダイジョーブ! 準備の整ったウチは強いもんね!」
人々は巨大な影を見ていた。高く築き上げられた石壁――そのさらに高くから町を見下ろす、大きな人型の影を。
それは巨人だった。大きすぎるところ以外はごく普通の、あどけない少女のような顔をした女だ。紫がかった髪をしていて、一本の三つ編みを後ろに垂らしている。
「おーっと! まだ驚くのは早いかんねぇ!」
人々に呆然と見上げられながら、女は興奮した様子で前方を指さす。直後、彼女の体がさらに大きくなり始めた。
「あっ、痛いっ、あ痛たたた! 足っ、足がぁぁぁ! のうぉおおお!」
大きくなる過程でどこかに足を挟んだらしい。けれど膨張は続く。時折悲鳴を上げたりぜぇぜぇと息を切らしたりしながらもその身はみるみるうちに二倍三倍と膨れ上がっていく。
「こんなことで止まれるかってんだい! ウチの本気はこんなもんじゃないんだー!」
そして両腕を上げて叫んだ時、一気にその拳が雲の上まで到達した。
女は再び前方を――否、下方を指さし、得意げに鼻を鳴らした。
「やーいやーい! デカブツに見下ろされる恐怖が分かったか! この鈍亀!」
「ぐ、ぐぅぅ……!」
人々をはさんで巨人の反対、石壁の外から唸り声がする。
そちらにも巨大な影があった。山のように大きな、甲羅全体に毒々しいキノコを生やした亀である。その口には大きな岩をくわえている。彼こそが、町にいくつもの岩を降らした張本人であった。
「ば、馬鹿な……このワシより、さらに……!」
山のごとき大亀は、目を見張りながら大岩をかみ砕いた。
「貴様! これ以上おかしな真似をしてみろ! 貴様の前にこの町をつぶしてくれるぞ!」
怒鳴り声と同時に砕けた岩を放たれる。岩は再び町を襲い、多くの家屋や人々を襲った。
「やめてっ、やめてくださいっ」
「助けてっ」
「フフハハハッ! 聞こえただろう! こやつらを助けたければワシに従うことだ!」
次なる大岩を用意しながら亀は嗤う。巨人はそれを見下ろし、眉をひそめた。
「はい? あんだって?」
亀が止まる。高笑いをやめて、目をぱちくりとした。
「だ、だから、こやつらを」
「えー?」
「こやつらを助けたければ」
「なんて?」
「こやつらを助けたければワシに従えと」
「ちょっとー、声小っちゃいんですけどー」
「お……おのれ貴様ああああ!」
亀が激昂する。それでも巨人はおかまいなしに耳に手を当てていた。
「うわああダメだ聞こえてない!」
「終わりだ! 俺たちここで殺されるんだぁぁぁ!」
人々は再び逃げ惑った。大きくなりすぎたせいらしい、巨人にはもう声が届かないのだ。
亀が暴れだす。石壁が壊れ、町に巨体が乗り込んだ。
けれど、遅い。
「はぁ、もういいや。殺っちゃうね」
「なっ、何っ?」
巨人が手を伸ばす。いとも容易く亀を掴むと、片手で握った。
「はっ、離せっ、離せええええ!」
「実はウチ、魔族って殺せないんだよね~。そういう魔術ないからさぁ。いひひひっ、でも解決策みつけちゃいました。頭使えるんでね!」
「な、何を……何をする気だっ」
「にへへへ。鈍亀くんは知らないと思うけど、空よりずーっと高いところまで飛んでいったものって、二度と落ちてこないんだよ。――つまりですよ?」
「……!」
巨人は亀を持つ手を下げ、反対の手を天に掲げる。
「落ちてこないなら、倒したも同然っしょ!」
思い切り、腕を振った。
「ぬ、ぬおおおおおおおっ」
亀が吹っ飛び、空高くへ打ちあがる。山のごときその姿は瞬く間に小さく萎み、やがて見えなくなった。
静寂が町を包む。人々は固唾を飲んで空を見上げる。
それからしばらく緊張が続き――彼女の言葉の通り亀が落ちてこないと悟ると、
「うおおおおお! 倒したああああああ!」
「私たち助かったのね!」
歓喜の声が次々と上がった。人々は熱狂し、賞賛と感謝の声を惜しみなく巨人へ送った。
その声に反応してか、巨人は「や、やっちまった……」と肩を擦りながら町を見下ろす。
「ありがとう! ありがとう!」
「あんたがいてくれなかったら今ごろ俺たち……!」
照れくさいのか、巨人はぽりぽりと鼻頭をかく。
それから耳に手を当てて、突然真顔になった。
「おや? なんかウチの悪口言ってない? 言ってるよね? マジギレしちゃうぞ? 体はでかいけど心は小っちゃいんだぞ?」
残念ながら、やはり人々の声は届いていなかった。